2022年10月31日月曜日

芋ほり、割れるのはなぜか?

 

2022‐09‐11
サツマイモが繁茂して大変なことになっている。
早く片付けて冬野菜を育てたい。

サツマイモの収穫は苗を植えてから130日(4か月と10日)くらいという。
しかし千駄木菜園では、埋めた芋から自分で苗を取っているため、少しずつ芽が伸びてくるから、植え付けも長期間にわたり、時期がはっきりしない。
そして、市販苗の人と比べ植え付けが2か月くらい遅いから、世間が芋ほりしていても、まだ130日には達していない。

しかし、早いこと畑を空けて、冬野菜のホウレンソウとか春菊とか種まきしたい。
少々小さくてもいいや、と半分だけ掘ることにした。

1.デッキ前3.5m x 1.1m 
条間35センチ、株間30センチで3列植えたもの。

(1)シルクスイーツ 13株 
   6/7~6/29植え付け
(2)紅あずま 12株
   6/7~6/23植え付け
(3)紅あずま 11株 (枝豆の間)
   7/1~7/7 植え付け

2.柿の木下 2.0m x 1.0m  
 条間30センチ、株間25センチ、3列

(4)紅あずま? 24株
   6/26~6/29  植え付け

6月7日植え付け分なら10月17日収穫だが、7月7日なら11月17日となる。

昨年同様、調整さんで子供たちに都合を聞いたら、次女夫婦だけ来た。
11時集合、訓示(掘り方説明)。
2区画で、(1)~(4)なので、かごを4つ用意し、4人で掘ったら、すぐ終わった。
2022-10-30 11:35
みな家に入った後、例年通り、ひとり整理。

苗を合計111本植えて60本分掘ったのに、思ったより少なかった・・・・
原因は?

条間株間は多分教科書より狭いだろう。
しかし、どうせ弦が数メートルも四方に広がっていくから、植え付け間隔よりも周辺を含めた区画全体の面積のほうが重要だと思った。
ただ、今4つのかごを見ると、間隔、面積以外の第3の要素が多そうだ。

今年で3回目のサツマイモだが、収量を測ったことがなかった。
何キロとれたかな~と体重計を持ってきたのに、軽すぎて測れず。
がっかりしながら台所から2キロ用の秤を出す。

収量は
(1)シルクスイーツ 13株 
   6/7~6/29植え付け、2.0 kg
(2)紅あずま 12株
   6/7~6/23植え付け、5.2 kg
(3)紅あずま 11株 (枝豆の間)
   7/1~7/7 植え付け、1.4 kg
(4)紅あずま? 24株(柿の木下)
   6/26~6/29  植え付け、2.4 kg
合計  11.0 kg
長野の弟は、苗12本でリンゴ箱3つとったという。そんなことある?

(3)はそのレーンにすでに存在した枝豆の間に植えたから、初期の成長が遅れたか?
(4)は日照不足か?

(2)のレーンから取れた最大芋
940グラム。
たった1つで(3)の苗11本分、(4)の苗24本分の半分近い。
しかし、大きく縦に割れている。

割れの原因は、内部の急な成長に外部の成長が追いつかないからだろうが、
・高温・乾燥のあとの多雨。
・収穫時期が遅い。
・その他、センチュウなど
と言われる。

これらが原因なら実割れがもっと多くてもよさそうだが、これ一つというのは「大きくなる」というのが一番の原因という気がする。

割れ目がすでに紫なことから、外皮の再生は思ったより早い。

割れ芋より問題なのは虫による食害。
食っているところを見たことはないが(当たり前)、コガネムシの幼虫だろう。

2022‐10‐30
宮重大根は順調だが白菜が遅れている。

芋の半分を片付けてスペースができた。
2022‐10‐31 9:47
芋ほり翌日、早くも冬野菜の種まき準備。
あす、三太郎大根とカブの種をまく予定。
しかし柿の木の下、日照が足りないか?
ビニールで保温してみようかな。

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追記
2回目は11月13日、息子夫婦がきた。
残っていた半分を掘って、11.3キログラム。
前回のを合わせると2022年は22.3キログラムとれた。


千駄木菜園(庭と野菜と植物)目次

2022年10月24日月曜日

柿の収穫。東京は柑橘類が一番良い。

この家を(ちなみに土地ではなく、家だけ)買ったとき、庭は森のようだった。

文京区保護樹木の桜のほかに、ザクロ2本、モミジ、棕櫚、それから名も知らぬ植木のなれの果て。いずれも手入れをされず、カラスウリの弦が樹木全体を覆い、原生林のようだった。

ザクロはとげがあり、剪定すると(花は枝の先につくから)実がならない。
モミジは塀を圧迫して倒しそう。
棕櫚はどんどんでかくなる。
数年のうちにいずれも伐採し、とうとう桜もこの春切ってもらった。
ハナミズキ、山茶花、キンモクセイは日陰になるため、無残なほど小さくされ、それもこの冬に伐採する予定。

11年前の2011年夏、売り主のおばあさんが「雑草の砂利道や、草木を気に入ってくれて、この人なら桜の木を残してくれそうだったから」と大きな家を破格の値段で私に売ってくれたのに、当時の木はほとんどなくなってしまった。桜は手に負えるものでは無かったが、私の唯一の金の使い道として10年維持してきたから許してもらおう。

2022‐10‐23
そして、たった一本だけ残ったのが比較的小さかった柿。
ある年、甘い実がなったから残したのだが、サクラの陰になっていたからか、ほとんど実をつけなかった。それが、サクラを切った今年、いっぱい実をつけた。

実は甘いのだが、色がつかない。
暖かいからだろうか?
赤くなるのを待っているといつの間にか熟して落ちてしまう。
今年も下のほうの実を触ったら少し柔らかかったので収穫した。

1つ食べた後、12個収穫。
手が届かなかったから枝ごと切った。

木には4つ残っているから、今年は17個なった。
10年間で2番目の豊作。
ほんとは柿の木も切って野菜スペースを広げたかったのだが、もう少し残そう。

・・・

以前からあった木を切って、私が植えたのはすべて実のなる木。
2022‐10‐23
入口のザクロの場所には夏ミカン。
2017年に植え、2021年初めて実を2つ付け、今年は32個を数えた。

棕櫚があった場所は温州ミカン。
2016年植え、2020年初めて6個、2021年64個、今年も50個以上はいくだろう。
味もまあまあ。
木も小さいから取るのが楽。
東京は冬も暖かく、ひょっとして柑橘類に適しているのではなかろうか。

3本目の柑橘類はデコポン(写真中央)
退職間際に伊那町で苗を買い、桜の切り株のわきに仮植えした。
サツマイモの弦に飲み込まれている。早く芋ほりを終えて救出しなくては。

他に、イチジクが3本。
そのうち2本はまだ場所が決まらず、切り株の片づけを待っている。

2022‐10‐23
途中から幹を切られた紅葉のハナミズキ(手前)と、柿。
食べて捨てた種から出た桃(右、葉だけ見える)は実がならず。
2022‐10‐23
山茶花(左上)とキンモクセイ(右上)の根元だけ見える。
10年前はこれらの木の枝がベランダまで張り、ここから地面が見えなかった。

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2022年10月21日金曜日

白菜の苗作りは難しい。大根のネットは外す


世間の白菜はとっくに立派な苗が定植され、育っているが、我が家は種から始めているから遅い。
ホームセンターで苗を買えば育ちもいいし、失敗もない。
しかし、1鉢100円として、20本買えば2000円になる。交通費も800円かかる。鍋の季節になって白菜そのものでも安売りなら100円、200円で買えるのだから、苗から出発するのも馬鹿らしい。

白菜の種まきは千駄木にきて4年目の2016年からだから、今年でもう7年目。
過去6回とも問題になったのは冬になっても葉が巻かないこと。

最初の年はすべての株が葉を広げたまま、緑のバラの花のようだった。桜の巨木の陰になり日当たりが悪いから必死に光合成をしようと葉を広げているのかと思った。
しかし、日当たり良いところに植えても、だいたい半分近くは葉が巻かなかった。要するに寒くなって成長遅くなる前にある程度大きくなっていなければ駄目なようだ。

そこで種まきを早くした。
しかし、どうもうまくいかない。
今年も8月10日ポットに種まき、14日に発芽したが、ハダニにやられ全滅。
9月12日まき直し、27日にベージュ色の幼虫に食害されていたが、マラソン噴霧で持ち直す。
しかしその後も生育は芳しくない。
ポットよりも地植えのほうが発育するかと思い、小さいまま定植に踏み切った。

2022‐10‐15 15:24
40センチx40センチ間隔で大きいものから20株植えた。
今年初めて試みたのは黒マルチ。
保温することによって発育を促す。

2022‐10‐16
防虫ネットを張るのに隣の大根のネットを転用した。

大根は8月21日に種まいた。
しかし根切り虫にやられ欠損部は9月11日にもまいている。
9月になって青虫、ヨトウムシが発生し、マラソン無効であったためネットをめくり捕殺した。
大根のネットを外した理由は、捕殺するにネットが邪魔だし、内部から発生するからネットは意味がないからだ。葉っぱも大きくなってきたので外部から少々害虫が来ても耐えられるだろう。虫にも葉っぱを分けてあげようという精神である。

2022‐10‐18 5:43 
大根はネットを外したので、害虫探しが楽になった。
この日、ヨトウムシを駆除しようと早起きして夜明け前に大根の畝をチェックした。
ライトに照らされヒキガエルが動いた。
彼らがいっぱい虫を食べてくれればいいんだが、たぶん2匹しか生息していないから追いつかない。

・・・・

我が家の畑は土地がないから、何かを植えようとすると玉突きでいろんなものを移動しなくてはならない。
白菜の定植場所を作るために、まず空心菜を移動した。
2022‐10‐15
続いて、玉ねぎ、サニーレタスを育苗中のプランターは、つい先日収穫して空いたばかりの落花生の場所に移動。

2022‐10‐15
また、山芋は移動せず、掘り出した。
網戸の網を下に敷いていたこともあり、収穫は楽だった。
というか、この春にむかごから発芽したものだから、そもそも小さい。廃棄するか来年の種芋にするか、思案中。

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2022年10月19日水曜日

柿のタンニンはなぜ渋いか?

お隣の伊藤さんから渋柿をいただいた。

渋柿は干し柿にしないと食べられない。
逆に言うと甘柿はカビが付きやすいから干し柿にできない、とずっと思っていた。

すなわち甘柿は、渋柿の防腐成分のタンニンがないことに加え、微生物の栄養となる糖分が多いからカビやすく干し柿にならないと思っていた。

ところが、干し柿に渋柿を使う理由は単に糖分が甘柿より高いからだという。
甘さが渋みにマスクされているため、干し柿にすると渋みが消えて渋柿のほうが甘くなるらしい。
甘柿は渋柿から品種改良したと思われるが、渋みとともに甘みも減ってしまったのだろう。

とにかく干し柿を作る。
千駄木に来てから、3,4回目かな。
2022-10-13 22:03
皮むきはテレビを見ながら夜なべ仕事。
皮を鍋に入れたのは夜なべだからではない。

ネットなどでは紐をつけたあと熱湯をくぐらせ殺菌すると書いてあるが、以前そうしてもカビが生えたので、そのままつるした。
カビは手で触ったところよりも紐などに接触しているところから生えてくる。
2022‐10‐14 8:34

吊るす前に柔らかい部分があったので、食べてみようと口にしたら渋かった。
渋いとは何だろう?
甘み、塩味などは舌で感じる。つまり砂糖は舌に乗せれば甘いが、下唇の内側、歯茎のあたりに乗せても甘くない。ところが、渋みというのは口の中全体で感じる。辛味が熱と同じように(hot)口腔内全体で感じるのと似ている。

渋みを感じさせる成分はタンニンという。皮をなめして革をつくるtan(なめす、日焼けする)と成分、物質を示す接尾語inから来ている。皮のたんぱく成分と結合し変性させる。
まだ化学構造が不明な時代に命名されたもので、構造が明らかになるとフラボノイドなどのポリフェノールが重合したものと分かった。
https://www.chem-station.com/blog/2021/09/ninja.html

柿のタンニン
https://cosmetic-ingredients.org/deodrant-agents/persimmon-tannin/

タンニンの構造式は上記のようにネットのあちこちに書いてあるが、この構造で、なぜ渋いかは書いてない。
自分なりにちょっと想像してみる。

柿のタンニンは上の図でn=30程度、分子量は平均 11 kDaの高分子である。
フェノール性水酸基が多いことで水溶性であるが、容易に難溶性となり、そのため構造決定が遅れた。しかしこの簡単に難溶性となる性質ゆえ、時期がきたり操作したりすることで渋みが消えることになる。

さて本題、なぜ渋いか?
高分子であることから甘み、旨味成分のように味覚受容体に結合して刺激が脳に行くことはない。このことは味覚受容体のない口腔全体が渋みを感じることからもわかる。
ただし、高分子であっても難溶性ならば拡散しないから、粘液を通過して、粘膜、細胞表面に到達することはない(合成樹脂など)。
また水溶性高分子で細胞表面に到達しても、高分子自体が水に溶けたまま粘膜に作用しなければ刺激はない(でんぷんなど多糖類、水溶性たんぱく質など)

ところが、カキタンニンはフラボノイドを多数持つ。
フラボノイドのベンゼン環は細胞表面たんぱく質疎水性部分と結合するし、多くのフェノールは高分子に水溶性を持たせると同時に生体たんぱく質のカルボニル、アミン部分と水素結合するだろう。

すなわち、水溶性でありながら我々の口腔内表面のたんぱく質と結合する。低分子物質ならこのようなものは無数にあるが、高分子では珍しい。その結果、たんぱく質は変性し、その下まで来ている感覚神経が刺激される。すなわち渋味とは味ではなくて、触覚みたいな皮膚感覚に近い。

つまり、高分子、水溶性、たんぱく質に結合・変性という3つの性質をもつものはそれほど多くない。このことは、渋味を持つものが(苦みと比べ)それほど多くないことと一致する。

タンニンの皮なめし、清酒透明化なども、たんぱく質と結合することによる。止瀉作用も腸管表面のたんぱく質に結合した刺激により腸が収斂するのだろう。

さて、干し柿。
皮をむいた10月13日からずっと曇り、雨が続いた。
10月18日、ふと見ると、日が当たらなかったせいかカビが生えてしまった。
捨てるのももったいないから食べたら非常に甘かった。
タンニンの不溶化は、干し柿にしなくとも、4,5日吊るすだけで十分なようだ。

今回の反省:
干すときは何日か晴れの日が予測される時期を選び、それまで冷蔵庫に入れたほうが良い。

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2022年10月18日火曜日

落花生7回目の収穫と栽培品種


2022‐10‐11 7:48
落花生をとった。庭が緑のじゅうたんというよりジャングルのようになっていて、歩くこともできなかった。大根、白菜の場所は確保してあるが、イチゴ、玉ねぎ、レタス、春菊、ホウレンソウなどの場所をつくりたかった。

落花生の収穫の目安は、一般的には種まきしてから130日前後(4か月と10日)という。しかし寒い時期にまいても成長しないから、種まき時期は基準にならない。そこで開花(畑全体の4~5割ほどの株に花が一つでも咲けば、開花)を基準とし、開花してから約75~95日後(3か月)を目安とする。

当然栽培品種によっても異なり、開花期から90日を基準とし(中性)、それより短ければ早生、長ければ晩生(おくて)、その中間を中生(なかて)という。収穫までの日数が70〜75日と早生よりもさらに短いものは、極早生(ごくわせ)という。
(早生、晩生といっても、基準の90日からプラマイ10日程度の違い)

・おおまさり:晩性、ほふく、大粒
・千葉半立:かなり晩性、半立性、中粒
・中生豊(なかてゆたか):中性、立性、やや大粒
・郷の香(さとのか):極早生、立性、中粒
・Qなっつ:早生、立性、やや大粒
・黒落花生:中生、立性、中粒

立性というのは、茎が直立するもの、ほふくははっていくもの。

我が家の落花生は2016年から7回目の栽培。
品種は何だろう?
最初はホームセンターで買った、たった1鉢から出発し、秋に収穫した豆を翌年春にまいてきた。
ある年に長野から持ってきた豆もまいたから、今の落花生がホームセンターのものか信州の実家のものか不明。

ほふく性だから、おおまさりか千葉半立か。

種をまいたのは4/11、発芽4/23、定植5/3だが、開花期の確認、記録を怠った。
種まき発芽を基準にすれば計算上8月末という収穫期をとっくに過ぎているが、今まで10月に掘ってきた。品種によっても違うだろう、と言い訳しながら、教科書を信用せずに自分の経験でここまで延ばしてきた。しかし延ばしすぎると莢が切れて地中に残ってしまう。

品種、天候によらない見極め方としては、葉や茎の部分が黄色くなり下葉が枯れてきたころ、さやが大きく太り、表面に網目模様が見えたころというが、葉や茎は黄色くなっていない。

でも端を掘って2つ3つみたら目安の一つ、網目模様があったので掘り返す。
8:19
根粒は、大豆の場合、根に散在するが、落花生はびっしりと連続的にできるようだ。

落花生は手で引っこ抜くと莢が切れて地中に残るかもしれないため、スコップで掘るのが良い。しかし、茎が隣の株と絡まりながら広がっているため、株の下までスコップが入りにくい。
そこで手で引っこ抜き、あとで切れた莢を探すことにした。
8:27
カマキリがいた。肉食だから益虫だろう。
こどものころ、稲刈りの田んぼによくいたな~。

8:51
莢を株につけたまま1週間干す。
そして土を落としてから莢をとる。

0.9m x 2.2m のスペースに3列、22株を植えていた。(株間30cm x 30cm)
どうも茎、葉の繁茂した割に、豆が少ないようだ。
初期にトウモロコシを間に植えたのがまずかったか?
毎年自家採種している種だから劣化したか?
いや、ほふく性の落花生は株間40~50センチあけろと書いてあるのに、30センチというのが敗因か。

16:11

天気が悪い日が続くので、畑に一週間もおかずに莢を取った。
2022‐10‐16
やはり思ったより少ない。

収穫量について、過去のものを調べてみた。
写真が5年間分残っていた。
今年は少ない、というのは気のせいだった。
以下、写真を見れば毎年大して取れていなかった。
2021
2020
2019
2018
2017 
この年は2年目、初めて自家採種の種を植えた年。13株植えている

残っている写真では2018年が一番多いようだが、今まで収量を数字で残していなかった。
今年から測っておこう。
2022‐10‐18
重量は680グラム。
重さは乾燥程度で変動するので、体積を測った。2.3リットル。
来年からはこれを基準に豊作を期待する。


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2022年10月11日火曜日

イチジクは年に2回実が付く

 

2022‐09‐22
昨年の秋、道灌山通りの路上に「ご自由にお持ちください」と出ていたイチジクの鉢2つ。
庭に植えておいたら、春、その古く曲がった枝に実がなった。夏果である。

一本は日陰だったため元気がなく、実も落ちてしまったが、もう一本は新しく枝がすくすく高くのび、そこにも実がなった。
秋果である。
2022‐09‐22
新しい枝についた秋果

イチジクは世界中で長い歴史を持つ。日本では江戸時代から庭木として栽培されていたようだが、経済栽培は大正時代かららしい。挿し木で増えることもあり、栽培品種も多い。
品種によっては、秋果のみ、夏果のみのものもある。
 
・夏と秋の2回収穫できるもの(ドーフィン・ホワイトゼノアなど多数)
・夏にのみ収穫できる(キング・ビオレドーフィンなど)
・秋にのみ収穫できる(蓬莱柿・シュガーなど)

この拾ってきたイチジクはどれだか分からぬが、夏秋2回実が付くから、日本で最も多い(愛知県など、国内の8割を占める)ドーフィン種であろうか?

私が一番最初に(2017年春から)育て、サクラの日陰でまともな実がなる前に2020年カミキリムシにやられて枯れてしまったのもドーフィンであった。
これは広島県の種苗業者・桝井光次郎がアメリカから苗木を持ち帰り、日本で育苗したもので、「桝井ドーフィン」ともいう。

さて、我が家の拾ってきたイチジクの夏果は柔らかく熟していたので、収穫した。
2022‐09‐24
食べてみると、ほんのり甘いがまずい。

調べると、夏果は秋果より大きいが、そのぶん水分が多く、甘さも薄いらしい。
一般栽培では、夏秋2回なる種であっても夏果は摘果してしまい、小ぶりだが収量も多く糖度の高い秋果のみを収穫するらしい。(夏秋兼用種)

2022‐09‐28
生食がイマイチなので干すことにした。
水分が減れば甘さが増すかもしれない。
2022‐09‐29
また、パンに練りこむなら甘さは少なくとも良い。
私の最も好きなパンは、チーズと乾燥イチジクの入ったパンである。

いま我が家にはイチジクが3本ある。
カミキリムシで1本が枯れた後、路上の2本を拾ってきたが、葉っぱだけでイチジクと断定できなかったため、また、実がなる保証がなかったため、退職前の伊奈町のコメリでちゃんとした苗を1本買ったのである。
買った苗は「日本種」という。
日本種というのはおかしな品種名だが、江戸時代から栽培されている蓬莱柿(ほうらいし)のようだ。 福岡県など西日本で主に栽培される歴史の長い品種で、最も古くから栽培されてきたことから「在来種」「日本いちじく」「日本種」ともよばれる。国内で2割を生産するから、桝井ドーフィンとこれで、イチジクのほとんどを占める。完熟すると果実の尻の部分が星形に割れるというが、拾ってきてドーフィンと断定した株の実も尻が割れていた。

ただ蓬莱柿は秋果専用種である。買ってきた「日本種」のラベルには、夏果(7月、90‐100g)、秋果(8‐11月、50‐100g)とある。はて?
2022‐09‐22
我が家の4本目のイチジク。

さて、4本目のイチジク「日本種」は植えるところがなく、端っこに仮植えしておいたら庭中覆ったサツマイモの中に埋もれてしまった。
よく見ると葉っぱが5つでなく3つに割れている。切れ込みも浅い。
明治以降のドーフィンなど輸入品種は5つに割れ、在来種は3つに割れるらしい。

日本種すなわち蓬莱柿は日本原産なのか、江戸時代に中国あるいは南蛮から輸入されたのか、はっきり分かっていない。日本原産のイチジクなんてあるのかと思ったら、イヌビワ(Ficus erecta)というクワ科イチジク属の落葉小高木が日本在来植物らしく、ここから品種改良されたものかもしれない。ちなみに野生のイヌビワは病気に強いが、接ぎ木用台木には使えず、イチジクとの種間雑種をつくって台木にしているという。


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2022年10月9日日曜日

65歳からの職探し8 居酒屋はたいへん

タイトルの年齢から老いが進んで66歳になってしまった。

退職後5か月、週2回程度の菜園アドバイザー(一回3時間)だけだったのは、仕事がなかったこともあるが、原稿書きをしようと思ったから。
薬学会から退職記念総説を薬学雑誌に書いてくれと頼まれた。A4で30枚程度というから、かなり書ける。進学振り分けで薬学部を選んだ大学3年生のころから、大学の研究室時代、企業、大学まで、テーマは化学(薬物代謝)から生物(生理、薬理)、スクリーニング、シミレーションまで、東大、シンシナチ大、京都などでの研究活動、ユニークな人々のことを書けば、今までの退官、退職された有名教授より面白い記事を書く自信はあった。

しかしなかなか筆は進まず、下書きとなるはずのブログ「私と薬学」シリーズも31歳で止まったまま。昔のことを書くことに興味がなくなってしまい、これでは薬学会に迷惑をかける。
退職記念総説をかく教授は限られているから大変名誉なことでもあるし、自分の人生の記念にもなる。もったいない気もしたが、8月のお盆明けに謝って辞退させてもらった。締め切りから2か月も過ぎていた。

さて、心配事がなくなると、とたんに心に暇ができた。
ダンスのレッスン、練習は週3,4回あるが、どれも夕方だから、ほぼ毎日家にいる。見たくもないテレビやネット記事で暇をつぶし、食事を待つだけの生活になった。

とにかくこの夏、事件が欲しいテレビのニュースバラエティは、番組枠の時間を埋めるため、コロナや天気(熱中症)を必要以上に大げさに報じた。利権が絡んでいるのか、責任感を回避したいのか、「専門家」「コメンテーター」は事を大げさにしていく。さらに視聴者の健康を第一に思いやっている感を出すため、コメントが自粛、規制に偏っていく。すべてサイエンスよりも当たり障りのない建前、優等生的発言を優先している。もちろん真面目な表情、声色は必須である。
これらを見たくもないのに見てしまい、国民を誘導する政府、マスコミに腹を立て、この国の行く末を心配した。危機感をあおって税金を無駄遣いしていく。報道番組は善良な市民を洗脳してしまうことで、ドタバタバラエティより害だと思う。
このままイライラしながら年を取っていくのはマズイ、と思った。
・・・・

そこでパートのアルバイトをすることにした。
ネット画面の端にも、メールにも求人情報は毎日来るが、通信販売の商品ピッキングとか弁当製造が多い。電車に乗って通うほどやりたい仕事ではない。

近所を歩いていて、谷中さくらホテル(住所は千駄木)、それから不忍通りを渡った田端生協でもパート従業員を募集していた。どうしようかな。

またムジナ坂を下りた不忍通りの居酒屋でも、募集の張り紙があった。ここは歩いて4分、一番近い。一度ランチで入ったことがあるが、魚料理を売りにしている。

一生のうち、生活費、健康の心配もなく、時間だけある状態などめったにない。未知の仕事にチャレンジすることにした。

66歳でもいいかと恐る恐る電話すると履歴書をもってきてくれという。
学歴、職歴など関係ないのだが、空欄にするわけにもいかず、ごく簡単に書いた。
店が空いている午後、面接。
こういうところは学生アルバイトがメインだから、私の経歴は異色である。
「なぜ、アルバイトする気になったのですか?」
「飲食店での仕事は経験ありますか?」
「日本酒は飲みますか?」
ここは全国の銘酒、焼酎にこだわりがあるらしい。
店主は笑顔を見せないが、面接は緊張しなかった。不採用でも構わないから気楽である。

後日、採用の電話をもらい、仕事用の靴をもって初出勤。
着替え(作務衣)、タイムカード、先輩へのあいさつ、手洗い、は春先のベーカリーのときと同じ。
日本酒はこのメニューにない銘柄が大量にある

初日はアルバイトの女性が二人。30歳くらいのRさんと、大学4年生のCさん。
私の経歴はすでに聞いていたようで、「全然違う職種にチャレンジするのはすごいです」と好意的に受けいれられた。

ここでは店主は大将と呼ぶようであり、厨房は大将と30歳くらいのIさんのお二人。
我々アルバイトは、ホール中心で
 1 オーダーお伺い
 2 厨房からチーンとベルが鳴ったら料理を運ぶ
 3 カウンターでドリンク調製
が最優先で、ほかに手が空けば洗い物など雑用も担当する。もちろん、日によってはテーブルが二回転することもあるので、帰った席の片づけ、箸、取り皿などのリセットも必須である。

ベテランのRさんにいろいろ教わった。
まずテーブル番号を覚える。8卓、40席。

注文はスマホのアプリでするが、入力でテーブルを間違えたら一大事。
アプリは便利で、注文を聞きながら品目にタッチすると、テーブルごとに蓄積、記録されていくと同時に、ドリンクは準備カウンターのプリンターに、料理は厨房のプリンターに品目、数量、テーブル番号が書かれた小さな紙片が出力される。
この小さな紙があれば、複数人から日本酒を注文されたとき明鏡止水だったか楯野川だったか分かるし、出来上がった料理も、お盆に料理名とテーブル番号が書いてある紙片が乗っていれば間違えない。

しかしスマホの文字が小さくて、タッチしようと思っても暗いと読めない。また品目も日本酒、焼酎、刺身、揚げ物、煮物、珍味、などと分類はされていても、どこに何があるかすぐ分からないので当面は紙にメモしてすぐ後で入力することにした。

それにしても、お客さんはこちらの書き留めるスピードなどお構いなしにどんどん注文を言ってきて間に合わない。メニューを見ながら決める人はいいが、6つ、7つ決めてからまとめて言われると、何度も聞きなおさねばならない。
ドリンクもみんな一緒なら楽だけど、それぞれ梅サワー、生レモンサワー、ビール、ウーロンハイ、などバラバラだと作るほうも大変。日本酒も冷酒だと楽だが、熱燗もある。
店員の立場に立つと、今まで先方の苦労も考えずに食事をしていたことがよく分かる。

さて、実際にやってみて最初に分かったのはお盆に乗せて運ぶことの難しさ。
飲み物などは水面が揺れ、こぼれないように静かに動こうとするとますます揺れる。お盆をテーブルに置くときも、よたよたして、お客さんも不安な顔をした。
ビールのジョッキなどは手で持って行っていいよ、と言われ一安心。

客層はターミナル駅の居酒屋と違い、住宅地の家族連れが多く、みな紳士的である。自然と耳に入る断片的な単語から、医師、研究者も結構来店していることが分かる。近所の駒込病院か日本医大か、学生のような若手医師のグループが多い。ノートパソコンを見ながら「このシーケンスは~」と言っている二人連れもいた。
そして料理をもっていくと「ありがとうございます」という人が多い(特に若い人)。

週に1,2日入ることにしたのだが、上達、慣れのスピードが、「そろそろこれくらいはできるだろう」と期待されるレベルに追いつかない。
熱燗をセットして他のことをしていて熱くなりすぎたり、グレープフルーツサワーをつくるとき焼酎をいれたあと炭酸水のかわりにグレープフルーツジュースを入れてしまったり。

このくらいはまだかわいいほうで、問題はドリンクの作り方がすべて頭に入っていないこと。客がスタッフにドリンクの注文している声が聞こえたら、もう一人は紙片が出力される前に作り始めなくてはいけない。チームプレーでやらないとさばききれない。

ベテランアルバイトのKさんには「もう何回も言いましたよね?」と呆れられる。しかし彼はすぐそのあと、世間話などして私が委縮しないように気を配ってくれる。

物のありかが分からないことも困る。
全国の銘酒はいくつかの冷蔵庫にびっしりしまわれていて、言われた銘柄を探すのも一苦労。(黒龍は九頭竜と大吟醸の二種類あるし、八海山はおちょこが違ったりする)。
また、下げた食器はすぐに洗わなければ流しがいっぱいになるし、食洗器にかけ終わった食器はすぐしまわないと次の洗浄ができないのに、終わった食器を置く場所が分からないからうろうろしている。

注文をうけるときも「おすすめのお酒は?」と聞かれて、すぐ大将のところにいくと「辛口なのか甘口なのか、そのくらい聞いてきてください」と言われる。焼酎のおすすめを聞かれたら、芋なのか麦なのか。また銘柄を指定されたも、水割りなのかソーダ割なのかロックなのか聞いて来ないと二度行くことになる。

これはダメだな、退職老人には無理だな、と思った。
10月4日、大将に「このままだと皆の迷惑になってしまいます。戦力にならないので辞めさせてください」とメールしたら、「どうやったら戦力になるか考えてください」。「もうシフトが決まっているので今辞められたら困ります。今月だけやってそのあと進退を決めたらどうですか」と返された。

このメールをもらって初めての出勤、10月7日は、いつもより早く出るように言われた。
恐る恐る行くと、まだ客が来る前に、大将が仕事の段取りをいろいろ教えてくださった。彼はいつも厨房の中で調理しているのに、私の仕事ぶりを実によく見ていらしたようで、その観察眼に驚いた。そしてアドバイスも理にかなって適切である。

「今まで学生に教えるときも教科書通りにやるのでなく、学生が満足するようにいろいろ工夫したのではないですか? この店でもお客さんが期待していたより満足するよう、工夫、気配りしてください」と言われた。

この店は大将だけでなく、アルバイトスタッフも優秀である。
気配りができて、てきぱき動く。
でも時給は安い。1200円だが、私のようにいつまで続くか分からない見習い期間は都内最低賃金の1050円。

製薬企業、大学と、41年間の職業人生はなんと楽だったことだろう。
気が利かなくても、ぼんやりしていても、成果に見合わない給料をもらえた。
私より高給だった(偉くなった)人は、もっと私より現場力がないから、居酒屋は決して務まらないだろう。
定年退職して、いろんな職業の大変さが分かった。


別ブログ

2022年10月5日水曜日

高砂、大光明寺から中川を渡り青砥橋まで歩く

前回のブログ

20221004 京成線の車窓、青砥駅と高砂駅のホーム


2022年10月1日、退職後のアルバイトは通い始めて半年、すっかり慣れた。市民農園での菜園アドバイザーは楽しいが、けっこう疲れるから、いつもはまっすぐ帰る。

しかしこの日、13時から16時までの仕事が終わって、京成高砂から隣の青砥まで一駅歩いてみることにした。

葛飾区は昨年、さだまさしの出た中川中学と木根川橋を自転車で見にきたことがあったが、区の西南の端っこを短時間かすめただけだった。
高砂も青砥も京成では数少ない特急停車駅であり、葛飾の中心(といってもどこか分からぬが)を歩くの初めてである。
2022‐10‐01 16:21
高砂駅の手前で、ヨーカ堂の東の踏切をわたる。
この日気づいたが、大量のケーブルが道路の上空を横断していた。
ふつうは地下を掘ると思うのだが・・・。

夕日を背に、車両基地と私の伸びた影をとる。
柴又線(上の高架)、北総線、京成本線のほかに車庫への引き込み線が走る。
ここはすぐ警報機が鳴って落ち着いて写真も撮れない。

16:23
遮断機は上がったばかりなのに再び下りた。
右のABCさんの洋服は199円からある。二つの意味で掘り出し物がありそうだが先を急ぐ。

イトーヨーカ堂に入って通り抜けた。
ここだけ別世界のようにおしゃれである。以前ここで弁当を買おうとしたが、いくつも並ぶレジが混んでいて買う気が失せ、コンビニに行った。
16:25
高砂駅北口がたいそう狭かったから(前のブログ)、南口を見に来たら、こちらは道路の先がいきなり駅の入り口だった。本当に京成の駅はどこも駅前広場がない。

「駅の高架化を早期に実現しましょう」と垂れ幕があるが、駅(改札など)はすでに高架なのだから、開かずの踏切解消のため「線路の高架化」であろう。

まぶしい夕日に向かって住宅街を行くとお祭りをやっていた。
16:29 村社 高砂天祖神社

村社というのは旧曲金(まがりかね)村のこと。明治の地租改正のとき農村地帯であった曲金村は名前のなかった小字に、謡曲から取った明石や高砂など8つの地名をつけたという。それが1932年の葛飾区成立のとき、金が曲がっては縁起が悪いと、京成の駅名にもなっていた高砂が昇格、これが1960年代の住居表示でも残った。

実に静かなお祭りであったが、社殿の前に人がいて、いくと舞台で女性が踊りを舞っていた。
社殿の後ろに火の見櫓と京成の線路がある。

神社では立ち止まらずに先を急いだ。私の散歩は速い。
川の手前の道路際にお寺があった。
16:32
この半年、電車からいつも見ていた大光明寺。
二階建ての門が独特。
その門の前に看板が見えた。寺の縁起(由来、沿革)でも書いてあるかと道路を渡る。

16:33
門の前の看板に近づいたら寺の沿革などを記した案内板ではなく、「大光明寺設立協力者芳名」がびっしり記された金属板だった。こういうものは門の内側に設置すればいいと思うが。

しかし、よく考えると「設立協力者」というのは変である。
帰宅後調べたら、ここは江戸時代から続く極楽寺で、廃寺となり、平成となって、庫裏や門などそのままに「大光明寺」が設立されたらしい。
ここの葬儀場はいまだに「極楽寺会館」という。
要するに、外から見れば、最近になって名前が変わった寺ということになる。

寺をあとに、中川に向かう。
中川と並行して堤防下に単線の線路が走っている。
総武線の新小岩と常磐線金町を結んでいる。
新金貨物線といい、最大で1日数往復するらしい。
地元葛飾区では1950年代から旅客を乗せてほしいと要望しているらしいが、実現すれば短いわりに常磐、京成、総武の3線がつながり、便利になるだろう。
16:36
左から中川、新金線、大光明寺。
大光明寺(極楽寺)が高床式になっているのは洪水を心配してのことだろう。

16:37
中川にかかる高砂橋から上流を見る。
線路橋のむこうに、立派な慈恵医大葛飾医療センターが見えた。

慈恵医大は都営浅草線の大門から乗れば青砥まで乗り換えなしで来る。
ここは戦前から東京慈恵医大附属中川堤診療所があり、戦後は付属青砥病院と改称、2012年に新病棟が完成、今の名前になった。
16:40
高砂橋から下流方面をみる。
つい、スカイツリーがみえると画面に入れてしまうが、位置情報として貴重。

ここで新中川(左、東)が中川(右)と分かれる。
蛇行する中川はしばしば水害をもたらし、戦前の1939年に中川開削・改修を目的として東京府中川改修事務所が設置された。しかし戦争激化のため1945年4月に計画は中止。
しかし1947年、カスリーン台風によって東京東部が再度浸水、1949年に中川改修事務所は再開され、中川放水路の開削が本格化。1963年に完成。
1965年3月、荒川放水路と同様、一級河川に指定され河川名を「新中川」に改称された。

16:42
高砂橋は斜張橋である。
(斜張橋という言葉を作ったのはお隣の90歳、伊藤先生)

中川の上流(写真左側)は、足立―葛飾の境、八潮・草加・越谷―三郷・吉川の境を流れ、武蔵野線吉川駅の北、吉川橋の上で元荒川と合流している。中川はさらに北上、古利根川と合流、幸手権現堂堤、加須を通り羽生まで行くらしい。なお、元荒川は熊谷南部で荒川から分かれている。

下流(右)は、新中川と別れた後、旧中川と呼ばれ、蛇行しながら南下、さだまさしの通った中川中学のわきで荒川放水路で分断されるもなおも続き、総武線平井と亀戸の間をとおり、江東区、東大島駅の南で再び荒川放水路に合流する。
16:43
文京区の地形的魅力は坂道とすれば、葛飾区は川であろう。
アイデア次第で名所ができそうな気がする。

中川とは荒川(隅田川)と江戸川の中間という意味だろうが、それは地図を見て初めて分かること。地元の人は他と区別するため、例えば「東の大川」などと呼んでいたのだろう。埼玉の上流の人に至っては、地図を見てさえ「中川」に意味がない。しかし名前はないと不便だからお上がつけた名前でも定着する。

さて、橋を西に渡り切ったが、車道を直進せず旧中川に沿って歩く。
河川改修工事をやっていて、フェンスが高く川が見えない。
そこで、フェンスの内側の手すりによじ登って写真を撮る。
16:45
遠くから見て船に思えたのは工事の足場だった。

遠くの橋は「あおとばし」と読めた。
はて、漢字はどう描くのだろう?
京成電鉄の駅は青砥だが、周辺の地名は青戸である。

戸は、渡し場・船着場・埠頭つまり湊(水門、みなと)のことであり、江戸、水戸、奥戸、松戸、登戸、坂戸も同じである。
一方、青戸7丁目の葛西城址のあたりに鎌倉時代、青砥藤綱の屋敷があったとされ、京成の駅名はここからとったという。しかし、青砥は青戸からとったかもしれず、また逆に砥はすり減るという意味で縁起が悪いとされ、書くのに便利な戸になったとも考えられ、そうなると湊・水門説も怪しい。
16:51
「青砥」橋の上から蛇行する旧中川をみる。
スカイツリーがあるとつい地図を頭に浮かべてしまう。

よく考えたら、この橋は初めてではなかった。
15年前の2007年9月30日、葛飾区の体育館エイトホールでダンスの競技会があり、JDSFラテンD級で92組中10位、スタンダードは88組中2位の準優勝だった。
この日、朝は青砥駅からタクシーに乗ったが、帰りは青砥橋を歩いて渡った。
しかし雨の日で、景色を見る余裕もなく、全く覚えていない。

16:52
青砥橋から高砂橋をみる。
橋の北詰の道路標識は、右:柴又、直進:高円寺、亀有、とある。
高円寺? そんな寺は葛飾で聞いたことがない。 
そうか、この広い道路はぐるっと西に回る環七通りであった。

17:00
青砥駅到着。
高砂同様、駅前広場はない。
やはり駅最上階のホームの高さはビルの5階6階に相当する。

線路高架下は駅ビルのユアエルム青戸になっている。
1989年開業だから2007年はこの景色だったということか。

17:02
南口にも来たが何もない。
タクシー乗り場すらない。
2007年はどこで乗ったのだろう?

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これでブログは1001本。
1000本目は記念となるものを書こうと思っていたが、いつの間にか通過してしまった・・・