2019年12月30日月曜日

中野の犬屋敷、陸軍中野学校、帝京平成

12月25日、仕事で中野に来た。
この駅は出るといきなりサンモールの入り口。

ここの駅は中野だが、私の実家の駅は信州中野、郵便局は信濃中野である。
長野にいた10代のころから漠然と思っていたのだが、なぜ逆に、すなわち武蔵中野にならなかったか。
信州中野は江戸期天領で陣屋がおかれ、明治3年県庁所在地となり中野町になっている。(下高井郡は1町96村)。一方武蔵中野は1897年(明治30年)になってようやく豊多摩郡中野村が中野町となった。

しかし甲武鉄道の駅が1889(明治22)年に対し、長野電鉄、信州中野駅は1923年(大正12年)開業であった。仕方がないともいえる。
そのまま濡れずにサンモール

2019-12-25
かつてはサンプラザへ行くには駅のすぐ西の広い通りを渡ったのだが、いまはデッキと一体となった歩道橋がある。

2019-12-25
中野サンプラザは1973年竣工。
勤労者福祉施設として建設され、正式名称も全国勤労青少年会館だった。しかしコンサート、ホテル、結婚式場などの複合施設として黒字経営のまま、2004年に売却され「株式会社中野サンプラザ」(中野区も出資)が運営している。

初めて来たのは1977年。
町田憲一氏が長野高専を卒業、建築士の資格を取るため上京、東中野のアパートに入った。彼の部屋に泊まった翌日、二人でサンプラザに来た。彼は二年いたから、中野から西新宿の住友ビルまで歩いて、ビルの横にあった屋外スケートを楽しんだこともある。田舎の人は良く歩いた。
この日はスキマスイッチのコンサートがあるらしい。
グループ名を聞いても分からない。
行列は開演前のグッズ販売が目当てという。

サンプラザの隣は中野区役所。
この地はなんといっても犬屋敷で有名。
綱吉の生類憐みの令で江戸じゅうの野犬を集め、専用の役人や医師を置き「お犬様」を大事に飼育した。今の中央線の向こうまで30万坪の広さ、数百棟の犬小屋に10~30万頭も飼われ、その費用は莫大だったらしい。1695年から綱吉死去の1709まで15年間存在した。
役人は少しはまともであったから、後にはこれ以上増えないように雌犬だけ収容し、オスは近隣の農家に飼育料をつけて預けた。

立て札の下の黒石には、犬屋敷の以前、以後の中野の歴史が簡潔に書いてあった。
すなわち吉宗の時代には桃園を経営せしめ、江戸市民の行楽地とした。明治以降は陸軍用地となり中野電信隊、鉄道隊など様々な部隊、施設が置かれた。
戦後は警察関係など官庁に転用された。この碑は、1968(昭和43)年中野区役所ができたときに置かれたようだ。

区役所入り口に、なぜライオンが?
みると寄贈・東京中野ライオンズクラブ・1968.10.5とあった。
犬だったら面白いのに。

それにしてもライオンズクラブって時計塔とか花壇とか設置してくれるが、ライオンを置くのは珍しい。それも犬屋敷あとに。

と思いながら南に回ると、お犬様のモニュメント。
こんなのが30万頭もいたら怖いし臭いもすごかっただろう。
設置者は中野ライオンズクラブ。

なお、このあたり一帯、中野4丁目の1966年までの旧住所「囲町」は、お囲い御用屋敷といったことによる。やたらとフェンスがあるのは「囲町」というわけではないと思うが。

囲いのある外階段を上がったら市役所の二階に入った。

1968年竣工時はさぞかしハイカラな建物だったと思われるが、
いまや昭和らしい懐かしさがある。

前回来たのは2014年1月、帝京平成大に研修で来た。
そのとき左の黒いビルはなかった。
右下の中野税務署は区役所同様、昭和からありそう。

東京地図出版 1995
この地は陸軍、進駐軍のあと、東の一部が中野区用地などに、西が警察関係となった。
西北に斜めに曲がる道路は陸軍鉄道部隊の線路だったか?

中野区立四季の森公園
警察大学校、警視庁警察学校、官舎などが移転した後、中央に公園ができた。

公園の南には中野セントラルパークサウス。
オフィスビルだが1階2階にレストランがある。
ノースはないがイーストがある。

向こうに見えるのは左が明大、右が帝京平成大学薬学部。

ここの大学はビル一棟しかなくとも公園をキャンパス代わりに使える。

ちなみにセントラルパークはオフィスビルの名前であり、公園名ではない。

早大・中野国際コミュニティプラザの東を歩いていると囲いの向こうに石碑の裏面。
陸軍中野学校について書いてある

何としても表を見たいと思ってぐるっと回り、警察病院の敷地に入る。
2019-12-25 陸軍中野学校跡の碑

右の小さいほうは 
「摂政宮殿下行啓記念 大正十二年五月二十八日」
後の昭和天皇だが、よりによって海軍記念日に陸軍施設に来たようだ。
裏に回ると、
「軍用鳩調査委員会事務所職員一同 昭和六年三月」
とあった。

中野学校は空襲の激しくなった昭和20年4月、群馬富岡に移転したらしい。

ここは諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的として、1938年(昭和13)「防諜研究所」として設立された。翌年、旧電信隊跡地の中野区囲町に移転。1940年には「陸軍中野学校」と改名した。開戦を機にゲリラ戦術教育機関へと変貌する。
入学者の9割は大学や旧制高等専門学校出身で、東京帝大出身者が一番多かった。

陸軍中野学校といえば小野田寛郎少尉。
終戦を欺瞞と考え、1974年までルバング島で「戦闘」を継続していた。しかし彼はここではなく、1944年に設立された静岡二股の中野学校二股分校の出身である。
警察病院

帝京平成大学に清水俊一先生がいることを思い出した。
森泰生氏の主宰するシンシナ会のメンバーである。

いらっしゃるだろうか?
もちろん約束していない。
会えなくても部屋のまえを歩くだけでも良い。
しかし大学ではあるが正面入り口にはアルソックのガードマンが何人もいて、入りにくい。
裏口に行くと学生たちが出てくる。
鍵もかかっていないようなので入ろうとした。
ところが自動ドアは中からは開くが、外から入れなかった。

仕方がないので正面に回り、大勢の学生たちとすれ違いながら関係者のような顔をして入ってみた。
ところが、フロアガイドというか、研究室の案内プレートなどなく、どこに行ったらよいか分からない。
そこであらためて受付に行き、清水先生に面談したい旨を伝える。
名簿に所属名前など書くよう言われ、書いている間に電話してくださった。
教授室にいるそうなので10階に上がってください、と。

10階に上がると外がよく見えた。
南側 電車が見える
この大学は1987年、千葉市原に帝京技術科学大学として開学。
1995年、帝京平成大学に改名
2004年、薬学部開設
2013年、中野キャンパスに薬学部移転。
北側 警察病院と早稲田大

薬学は少子化の時代に新設が相次ぎ、いまや学力が低くても入学できるようになった。彼らにとってはかつてのように明治薬科大、東京薬科大など老舗を目指すよりも、通学便利なところを選ぶ傾向がある。

市原にあったなら相当苦戦しただろうが、警察学校跡地は、起死回生の移転先だったであろう。
東側 四季の森公園

この大学では教員はラボと離れ、すべて10階のオフィスにいらっしゃるようだ。
シンシナ会、石井正和先生、ファルマシア委員会で一緒になった矢ノ下良平先生の表札もある。
清水先生の部屋まで行くと「在室」だが鍵がかかっていた。
守衛室では確かに居るといったのに、おかしいな。
暫く待っても戻られない。
質問に来たのだろうか、3人の女子学生グループがうろうろしていた。

本来の用務、中野共立病院の約束の時間があるので、諦めて帰ろうとするとエレベーター前で鴫原先生にばったりお会いした。
久しぶりのご挨拶の後、事情を話すと
「え? さっき一階にいらっしゃいましたよ」とわざわざ一緒に降りてくれた。
しかし清水先生は1階にもいない。

守衛の方がきて「さきほど清水先生がいらっしゃいました」。
しかし時間がない。
声だけでも聴ければ、と部屋に電話してもらおうとすると、後ろから彼が来た。

「いやあ、電話を受けて10階のエレベーター前でずっと待っていたんですが」
そうか、一瞬早く私が10階につき、上からの景色を撮りながら、そのままオフィスに行ってしまい、お互いフロアの反対側で背中合わせに久しぶりの友人を待っていたのである。

教授室に誘われるも、時間がないことを詫びた。
各講座の実験室は地下と3,4階にあり、教員は10階に集まっているという。

私に負けないくらい、髪が白く少なくなった彼としっかり握手して、守衛室の前で別れた。
遠慮せずに思い切って会ってよかった。
ごくごく短い時間でも。


2019年12月27日金曜日

目黒の予研、港区白金、三光坂をあるく

12月15日、暖かい。
目黒駅の住所は品川区上大崎。

駅東口に出てすぐ、シティコート目黒というURの賃貸しマンションがある。
ここも上大崎二丁目。
ゆったりした敷地に4棟。
2019-12-15
かつてここに海軍大学校があった。
関東大震災で築地の学校が被災、1932年(昭和7年)8月、移転してきた。戦後、映画会社が取得したが1955年になって国立予防衛生研究所が入居した。

1979年か80年の学生時代、セファロスポリンの生合成を研究していたころ、培地中の力価を測定するのに枯草菌Bacillus subtilisの菌株が必要となり、ここへ頂きに来た。相手の先生がどなただったか記録も記憶もない。
古めかしい建物だなあと思ったが、当時は知識も関心もなかった。

予研は1992年、戸山に移転、97年に東村山の国立多摩研究所と統合、そちらを分室とし、国立感染症研究所と改称した。

海軍大学校の建物は予研の移転後も残っていたが、1999年(平成11)取り壊され、UR都市機構のマンションになった(2002年竣工)。
うっすら記憶にある海大=予研の建物の写真が歴史読本別冊戦記シリーズにあったと思って段ボール箱を探したが見つからない。

そうだ、2007年10月、何十年ぶりかでここに来た。
当時白金台にオフィスのあったベンチャー企業リプロセルの淺井康行君に会うため。
既にURのマンションができていて、がっかりした。
あのときも何か記念碑、痕跡などないか探したがあったかどうか記憶なし。
少なくとも今回2019年は見つからなかった。
となりは白金幼稚園
私の子どもたちが出た伊奈町のしろがね小室幼稚園は関係ない。
住所はここから港区白金台になる。

目黒通りは首都高をくぐる。
目黒駅の南から来る目黒通りと合流。
この通りは駅のところで二股になり、駅を過ぎると再び合流する。

東京都庭園美術館正門
高松藩松平家の下屋敷、陸軍火薬庫、後に朝香宮邸となった。
戦後、外務大臣公邸をへて1950年西武鉄道が取得。
1955年白金プリンス迎賓館として開業、1974年まで使用された。
プリンスホテルを建てようとしたが反対運動で断念、1981年東京都に売却された。

その東隣が国立科学博物館付属の自然教育園。
高松藩から戦前の白金御料地まではとなりの庭園美術館と一緒、朝香宮邸ができて分離した。戦後は文部省に移管される。
自然教育園に隣接した区立公園。
遊ぶ親子連れもおしゃれ。

この日、白金に来たのはダンスの練習。
目黒通り沿いにある「白金台いきいきプラザ」。
名前から想像できるように高齢者施設のようだ。
港区白金なのに温泉旅館のような雰囲気

宴会場のような畳の大広間
あらゆる壁、取り付けできるところはすべて手すりがついている。
本当に大浴場まである。
ダンスは地下2階のホール
更衣室にはシャワーもあり、さすが港区である。
パーティー会場の隅で練習させてもらおうと思ったが、ミクシングなどあり、練習にならず。踊っている人も高齢者ばかり。

ホールの外のロビーも年代を感じさせるが、港区らしい丁寧な作り。
休憩でお茶を飲んだら自分の紙コップに名前を書く。
ここも高齢者仕様で、コップが置いてあるのは手すりの上である。

あまり練習にならないので早々に退出、目黒通りに出て白金を散歩することにした。
歩く人々は明らかに、今まで暮らしてきた埼玉よりも、今の千駄木よりも垢抜けしている。

東大医科研のとなり、旧国立公衆衛生院は港区が購入し、ゆかしの杜、郷土博物館となった。別ブログで書く予定。

八芳園は寄らず。
目黒通りは下り坂となる。
日吉坂
能役者日吉喜兵衛が付近に住んでいたというが、全く知らない。

坂下は清正公前で国道1号線、桜田通だが、降りずに左に入る。
白金らしい邸宅街

聖心女学院の表札が。
聖心の私道のような坂を降りていくと右側に広い工事現場があった。
帰宅後地図を見たら東大白金寮とあるではないか。
白金寮はすでに廃止されている。
新しい留学生用の白金台ロッジが医科研に隣接してあり、その場所こそ女子寮があったと思いこんでいたが、こんなところにあったのか。
2017年に日本エスコン(千代田区)が取得した。マンションになるらしい。

坂の突き当り。
東大医科研を出て蜀江坂をくだるほうには大きな門がないから、ここが正門だろうか。
学習院などは自由に入れるのだが、聖心はさすがに入れない。

ふたたび通りに戻る。
豪邸のよこに良い感じの坂道。名はないようだ。

豪邸は表札なし
服部セイコーの創業者・服部金太郎氏の邸宅だったらしい。
1933年に建てられ戦後は進駐軍に接収された。
東京裁判の日本語訳や日本国憲法の草案が検討された歴史的建造物らしい。

服部家の資産管理会社の三光起業が所有してきたが、お家騒動の際にセイコーHDが210億円で買い取り、さらに2014年、シンガポールの大手不動産デベロッパー、シティ・デベロップメンツが305億円でセイコーから買収した。
グーグルで見れば洋館のほかに、北東に和館が2棟ある。
なお右下のタワーマンションは、緑豊かだった竹中工務店の福利厚生施設をつぶしてできたザ・パークハウス白金二丁目タワーである。服部邸や周辺の邸宅から見たら目障りなことだろう。

三光坂のいわれは知らない。

白金テラス三光台はかつて吉田拓郎が住んでいたらしい。
服部邸の塀に沿って南に回ってみる。

旧服部邸の和館前で。大分髪が減っている。

これも旧服部邸の和館前

絵本に出てくるような家。
この先行き止まりにつき、戻って別の道へ
何とか目黒通りに出たい。
この先も行き止まり。

別の道も行き止まり

結局、三光坂まで戻り、東(北?)に下った。

途中、右に専心寺。
道路側がコンクリートっぽいが、建物は木造のようである。
白金氷川神社、重秀寺と接しているようだ。
中は入らず。

坂を下り切ると、恵比寿駅から北里大学の前を通ってきた道にでる。
ここは8月に北里から歩いた。

南北線・白金高輪駅に向かう途中、白金らしからぬ懐かしい景色。
臨済宗大光山重秀寺の参道
寺が地主のアパートのように見える。
寺は広いが入らず。

塀の向こうの墓地は立行寺のようである。
旗本大久保彦左衛門の墓があるらしい。近くの八芳園は薩摩藩の抱え屋敷だったが、江戸初期は大久保彦左衛門の屋敷だった。
明治11年、郡区町村編制法により東京府芝区ができたとき、このあたりはギリギリ入らず白金村だった。
明治22年、東京市発足のとき芝区に編入されている。
しかし品川などよりずっと都心に近く、古くから栄えた。
大名の下屋敷、抱え屋敷も多かったから、それらが明治後実業家の緑多い邸宅などになった。しかし都内一等地で個人の維持は難しく、金になれば、今はタワーマンションに変わっていく。
日本人が買わなくても外国人が買っていく。