2018年1月28日日曜日

3日違いに生まれた従兄のこと

1956年7月22日にいとこの彼は生まれた。
母の妹の長男。
その三日後に私が母の長男として生まれ、柳沢の祖父母はこの夏、健康な二人の初孫に恵まれた。

叔母の嫁ぎ先は実家と同じ柳沢だったから、母の実家に行けば、必ず近くの彼の家に行ったり彼が祖父母の家に来たりして、いつも布団を二つ並べて寝た。
まるで双子のようだったらしい。

平坦で畑と田んぼしかなかった岩船と比べ、柳沢は高社山の西側斜面にあり、大きな木々と坂道と石垣、池の多い部落で、すぐ近くに夜間瀬川と千曲川の合流点があり、子供にとって天国のような場所だった。

小学生時代は休みがあると長期滞在した。
母の実家も、彼の家も叔父叔母は優しく、2人して小遣いをもらっては、狭くて急な石段を、苔むした石段に両手をつきながら登って右にあった駄菓子屋?よろずや?でいろんなものを買った。チューブに入った練チョコとか、ベビーラーメン、ストローに入った薄荷、(あのピンクの甘い)でんぷ、味付けイカ、風船ガム、虫取り網とか・・・パラソルチョコは、取っ手のところに円盤がついていて吹くと回る。たとえば表に鳥、裏に鳥かごが描いてあって、吹くと鳥が中に入るものとか。
ラーメンにチューブのチョコを入れたとき、彼に、もったいないと怒られた。

夜間瀬川には木の橋がかかっていて、二人でぶらさがって懸垂の練習をした。
たまに通る自動車は、横板をガタガタ音をさせながら過ぎ、板の端に置いていた釣り道具が振動ではねて川に落ちてしまった。河原では珍しい石を探し、ところどころにある水たまりで小魚をつかまえた。塩辛トンボとアゲハが飛び、巨大な蛇が日向ぼっこしていた。

近くを長野電鉄木島線が通っていて(2002年廃線)、忍者のようにレールに耳をつけて電車の音を聞こうとした。

柳沢のお宮は岩船より大きく、大きなケヤキが鬱蒼と何本もあった。
お宮からの坂道は下に向かって走ると止まらなくて、二人で止まれないほど速く走る競争をした。

祖父母の家は北の部屋の裏にも池があって、涼しい風が入った。ユキノシタが生え、モミジの葉が浮かんでいた。昼寝のとき蝉がうるさかった。
かつて蚕を飼っていた二階は物置になっていて、母親たちが書いた絵や作文を二人で見た。

冬は寒かった。
信州中野の北から飯山、信越国境にかけては、一里一尺と言い、4キロ北へ行くと雪が30センチ増える。岩船と柳沢は6.7㎞離れている。
彼の家に泊まった朝、出された生玉子を割ったら凍っていた。
スキーもよくした。
急斜面も緩斜面もいたるところにあり、二人して滑っては登り、登ってはすべる。

私の弟は4歳下、彼の弟は10歳も下。
彼と私は、明らかに実の兄弟よりも近かった。

彼は定期購読してもらっていたのか家にマンガが一杯あって、少年画報だったか冒険王だったか少年マガジンだったか。
ゼロ戦のテレビアニメを二人で見たな。今調べたら、『大空のちかい』『紫電改のタカ』『ゼロ戦レッド』『あかつき戦闘隊』などはアニメ化されていないので、『0戦はやと』である。砂浜で長靴に水が入るのを見て、敵艦の煙突に爆弾を落とす作戦を考えた場面が、彼と共に思い出される。主題歌は記憶の彼方から出そうで出てこない。

茶の間でよく彼と相撲を取った。力いっぱい投げて、投げられた。
「ツトムは岩船でもこんなことをするのか」とあきれた祖母に言われた。
岩船の祖父母は怖くて、とてもそんなことはできなかった。彼が私の家に泊まりに来ることはなかった。

中学になると、お互い自分の学校の友達と遊ぶようになり、長期滞在はなくなった。
彼は勉強だけでなく、スキーも得意だった。牧の入りスキー場で行われた中野市の大会で優勝したのではなかったか。一人で志賀高原に行くこともあり、柳沢から電車で中野駅まできてバスに乗り換えるとき、叔母から私の母宛に預かった手作り「やしょうま」を私が駅で受け取ったこともあった。彼が板や靴を新しいものに買い替えると、お下がりをもらった。小学校の時は大して差はなかったと思うのだが、スポーツはかなわなくなった。

当時、北信の普通科高校は、長野、須坂、飯山にあった。
彼は成績は良かったのだが、中学サッカー部の仲間と一緒にいく、と飯山北高校に進んだ。
冬の雪に苦しむ柳沢の人々は、就職も進学も
「上(カミ)のほうに行かなくちゃだめだ」
という。それに逆らって下(シモ)の飯山に行った彼は、よほど中学、サッカー部が楽しかったのだろう。
もう一つの理由は、高校になって久しぶりに彼の家で並んで寝たときに分かった。
アルバムには、ガールフレンドと一緒の写真が一杯あった。卒業式のあと中学の校門や並木のところで学生服とセーラー服の二人は、ポスターのように遠くを指さすポーズなんかとっちゃって。彼女は飯山北ではなくて女子高のほうの飯山南高校だったかもしれない。

高校3年になると二人の関心(心配)ごとは、異性の問題(私は誰もいないことが問題)と大学入試だった。
長野高校と違い、飯山北は旧制中学の後身とはいえ、進学実績はいまひとつ。
夏休みに泊まりに行くと(母の実家に行くのだが、結局彼の家に行ってしまう)、彼は英語のノートを見せてくれた。飯山北から信州大学に進んだサッカー部の先輩に心酔していた彼は、見開き左ページに旺文社「英文標準問題精講」の全文をきれいに書き、色鉛筆で線を引いて、右ページに訳や注意事項を書いていく。
私はおなじ「英標」を使っていたが、横着で、先に訳文を読んでから英文を見るだけ。ノートなんて書かない。きわめて不真面目な、怠け者の勉強方法だったが、私のほうがすぐれていると思った。
彼のやり方ではなかなか進まないから飽きてしまうだろう。つまらない受験勉強はいかに飽きないようにするかが重要だ、と彼と議論した。

私は現役で合格し、彼は浪人が決まった。
二人とも東京に出るまえの3月、また彼の家に泊まりに行った。
このときは飯山北高の友人たちも来て、一緒に夜通し話しこんだ。彼らは一人異分子の私でも気持ち良く受け入れてくれた。青春とか親友とか、彼の周囲にそういったものを感じた夜だった。彼は中学に続いて幸せな高校時代を過ごしたことが明らかだった。

この滞在中、私は彼の家から、中野高校を卒業する畑さんに電話をかけた。彼女は秋の文化祭で知り合い、やはり東京に進学することになっていた。家が洋品店だったから電話番号はすぐわかり、東京での住所を聞いた。
その夜、柳沢で火事があり、二人していったらまだ消防団が来ておらず、初めてホースをもった。水浸しの斜面で滑ってころび、合格祝いに中野で一番オシャレな春日(カスガ)洋品店で買ってもらった服が泥だらけになった。

翌月、私は駒場寮に入り、いっぽう早稲田にあこがれる彼は早稲田予備校に決め、京王線代田橋のアパートに入った。二人とも落ち着いた5月ころ、彼のアパートを訪ねた。改札を出るといきなりごちゃごちゃした路地。そこを抜け、甲州街道を渡って、車の入らないような細い道の住宅街を行くと、アパートがあった。
部屋にはセミヌードのポスター。
ぎざぎざのあるスプーンがあった。グレープフルーツを食べるためのものというが、未開封でまだ使われていなかった。リンゴ・桃・ブドウ、果樹園農家に育った私も彼も、グレープフルーツを食べたことがなかった。
その日の夕食は近くの肉屋でとんかつを買ってきてご飯を炊いた。
1975年である。

久しぶりに二人並んだ寝物語で驚いたのは、私が高校通学時に、電車でかわいいなぁと憧れていた須坂東高校の壇原さんが、彼と付き合っていたというのだ。湯田中から南へ須坂まで通う彼女と、柳沢から北へ飯山まで通う彼にまったく接点はない。いったどうやって仲良くなったのだろう? 聞いたはずだが、今思い出せない。

彼が駒場寮に来た時もあった。
冬だった。なぜか私の友人と一緒に麻雀がはじまり、すでに予備校仲間と始めて面白くなっていた彼は、受験直前というのに徹マンした。

1976年、彼は再び早稲田に落ち、明治に行った。
田畑はあったが、父上が土建会社をおこしていたこともあり、建築科だった。
あるとき電話がかかってきて勉強教えてくれ、という。代田橋のアパートに行くと線形代数だった。定期試験の前に大学で初めて出てきた行列式の意味や使い方が分からないという。

私も1年前に苦しんだ。大学の先生は「分からないほうが悪い」という教え方だったから、独学して適当なところで自分を納得させていた。
そのとき苦労して私なりに理解していたことを教えたら、非常に感謝された。

翌年彼は生田の大学キャンパス近くに引っ越した。
狛江のアパートにも一度行ったが、代田橋のときと違ってまったく部屋の記憶がない。
お互い、長野を離れ、別々の世界を進み始めていた。
彼は卒業後、長谷川工務店に就職、社会勉強した後、柳沢に帰り、父親の会社に入った。

その後、私が帰省したとき、柳沢で泊まったのは1回くらいだろうか。
車が運転できるようになって、わずか10分くらいだから泊まる必然性がない。
大人になるということはつまらないものだ。

そのうち二人とも家庭を持って、家族中心に動くようになってからは数十年も経つのに2,3度しか会っていない。彼からは毎年家族旅行の年賀状が来た。私は書かないからメールで近況を送るのだが、田舎の人らしくメールに返事が来ることはなかった。

父上の後を継いだ高社建設はオリンピックのあと景気が悪くなった。それでも、二人の子供を東京の大学に出した。都会からお嫁に来た奥さんも苦労しただろう。叔母が畑をやっていたから、慣れない野良仕事も手伝っていたようだ。

一昨年暮れ、つまり13カ月前に久しぶりに会った。
柳沢は岩船よりはるかに多い雪の中だった。
彼は元気だった。

どうして死んだのだろう。

第一報は、1月26日金曜の夜。岩船の母から妻が受けた。
死因も、通夜、告別式の日程も、詳しい様子は分からず、「その日は雪下ろしをしていたのに」とだけ聞いた。
翌土曜、岩船に電話しても、何も情報入らず。
脳梗塞で少しぼけた母からの誤報ではないか、とちらりと思う。

その間、あまり悲しい感情は湧いてこず、私は仕事をし、日曜、ダンスの競技会に出た。
終わったらすぐ行けるよう礼服を持って行くことも考えたが、持たずに行ったのは薄情な人間なのだろうか。
競技会場にいるとき、岩船の弟から告別式は月曜13時という連絡がきた。
やっぱり本当だったか。

急いで家に帰った。
しかし冷静に考えれば、今晩行くのは弟夫婦の迷惑になる。
記録的大寒波の中、食事や布団の用意、母が不自由になってから弟の嫁さんに負担はかけられない。
明日の朝一番の新幹線に乗れば、岩船に10時前につくだろう。焼き場へ行く前の顔を見ることはあきらめた。

迷った末、明日行くと決まったらすっかり落ち着いて、妻に彼の話をしてあげた。
そうしたら突然涙がわっとあふれそうになって、慌ててごまかして、話すのを止めた。

あす、彼の母や、柳沢の叔父叔母たちと会う。
私が知らないこと、忘れている彼とのエピソード、一緒だった昔のころをもっと話してくれるだろう。
でもそうしたら書けなくなるかもしれないから今書いた。





第77 長井長義、静岡での講演録

薬物工業学に就いて:理学博士長井長義君述
薬学雑誌1897年度10月号別冊

時代劇を観ていて,ホントはどんな言葉をしゃべっていたのかな,なんて思うことがある.明治の頃はどうだったか? 
幸いなことに薬誌には講演録がいくつか載っている.
これが本当に話された言葉かどうか?
講演録は、繰り返しが多かったり,余計な接続語なども書いてあるから,比較的忠実に話し言葉を文章にしてあると思われる.テープレコーダーのない時代は有能な速記者が多くいた。言文不一致の時代の話し言葉をある程度推測できる.

紹介するのは,長井会頭が明治30年8月,静岡で行ったもの.
薬物展覧会出席のため,平山常議員,西崎,永井,大島各学士とともに熊本に行く途中立ち寄った.当時は,長井会頭らが出張すると聞けば,各地の関係者が歓迎の宴席を設け,講演を依頼した.

「満堂の諸君,不肖長義はじめ今回,日本薬学会を代表して一同九州に参る途次,昨日ご当地に到着いたしまして以来,ご当地の学芸に関係ある文武の貴顕紳士医師薬業家その他有志諸君より望外の御待遇に与り,且つ今日は我が薬学の発達を計るがため,公会演説を設けられましたるに付き,この大暑の砌(みぎり),またご多用にも拘わらず,如此(かくのごと)き御大勢ご出席下さりまして,我が薬学の発達にご賛同下されたるご好意に対し,失礼でございますが此の席より御礼申し上げます」.

こう始まった講演は,日清戦争の大勝利を引用し,維新以後30年で日本が東洋の強国になったのは,西洋諸国の文物を輸入したことによって成し遂げたからだと説く.
しかし,小銃や軍艦,大砲を買うために,我が同胞の農,商,工で儲けた金を外国に出さねばならなかったと彼は述べた.

「旧きを廃するとともに新規なことを輸入するには,それに連帯して輸入するものが年々多くなってくる(略).
そこで何を日本で輸出するかと云ふのに,そのうち金額の主座を占めておりますものは、申すまでもなく,当県で製せらるる処のもの,すなわち茶または絹,これが主座を占めまして (略),私は静岡を通過するごとに茶業の発達を喜ぶのです」.

「薬業家も御当県下の茶業者諸君の如く,薬草を培養し,あるいは薬品を製造して新国産を興さねばならぬ.ところが日本はドウ云ふ訳でございましたか,大学薬学科の内には薬品を工業的に製造する方法を教授する道がございませぬ.大学の内には工業化学の部門がございまして,これには化学に関するところの工芸を教えております.それでもって薬品製造のことを教えておることと思っておりましたが,これは丸で別なのである」.

意外と現代語に近い.
博士はこのとき会頭に就任して10年目,52歳であった.肖像画を思い浮かべれば,肉声が聞こえてくるようである.

北海道の安い魚油魚臘を輸出して,代わりに高価なろうそくを輸入している現状を嘆き,今後は天産物に学理を応用し人工を加えたものを輸出しなければならないと話を継ぐ.
明治28年の医薬品輸入高は460万円だった.

「この考えを薬物の工業にも応用されましたならば,現に460万円のうちの大部分は日本に残ることになり,後にはまたわが国から外国に輸出するようになりますれば,彼方の金を此方に取ることができる訳合いになるのでございます.」
と,薬物工業学なるものが国家の利益になる学問であると訴える.

当時,大学の薬学は、
「ただ医薬に使ひまする処の薬物の良否を鑑別し,あるいは調剤する技術あるいは飲食物の分析を教ふると云ふことのみに」留まっており,学生少なく,就職先もあまりなかったが,
「繰り返して申せば,薬学も工業化学と同様に,直接営利的の効力のある学科でございますから,子弟に学問を修めさせるに当たり,その方へ御奨励になっても決してご心配ないことでございまする」.

1897年は19世紀末,エールリヒのサルバルサンやバイエル社のサルファ剤が登場する前である.つまり,医薬品とは新規有機化合物ではなく,海草からとるヨード剤など無機化合物,コールタールからとる石炭酸,あるいはキニーネなど植物抽出物が多かった.
この種の医薬品の国産化はまもなく可能となり,長井博士の期待通りにはなった.

しかし第二次大戦後から,世界はサルファ剤など新規有機化合物の医薬品を作り始める.
日本は再び引き離されたが,皮肉なことに,日本の薬学における有機合成化学は大発展した.特許は物質でなく製法であったから外国医薬品の新合成法を探すためだ.

そして今日では,国産の優れた医薬品も増えてきた.
今長井博士が存命なら,どのような講演をされるだろう.
お褒めになるだろうか,ご苦言を呈されるだろうか.

2018年1月27日土曜日

大寒の、雪の下から巨大根

大寒は1月22日。
二十四節気の一つだから、1月下旬という期間ではなく、冬至と同じように瞬間(太陽黄経が300度)をいう。
その大寒を過ぎたころが一番寒いのだが、本当にそうなった(今後もっと寒くなるかもしれないけど)。東京都心の最高、最低気温は

22 大雪 5.3  -0.5
23 晴れ 10.0  -0.7
24 晴れ 7.3  -1.8
25 晴れ 4.0  -4.0
26 晴れ 5.1  -3.1
27 晴れ 7.3  -1.8

25日のマイナス4.0度は、48年ぶりという。(この日府中はマイナス8.4度だった)

ちなみに観測地点は、平成26年12月、大手町から北の丸公園へ移転した。移転前に同時測定して気温に有意差があったため過去データを補正するという。(最低気温は北の丸公園のほうが年平均で 1.4度低いらしい)
千駄木は山手線内側だがビルはあまりないので、北の丸でとるデータに近いと思う。

参考までにさいたま市のデータ。熊谷ではなく浦和である。
22  4.3 -0.7
23  5.8 -5.9
24  5.8 -8.6
25  2.5 -6.3
26  3.2 -9.8
27  6.0  -4.3

随分違うものだ。
確かに2013年、指扇から千駄木に来たとき、朝があったかいと思ったもの。

しかし本当に寒い。
さすがに水道は凍っていなかったが、バケツの氷は日中に融けきらず、日に日に厚みを増す。
雪も融けない。
そんな朝、大根を取った。
葉っぱを除いて 1210 g
ようやく八百屋さんなみのものが取れた。
昨年(2017)は900g、2016年は800gが最大だったから、千駄木菜園を始めて最高の記録。
しかしこれは特別で、他はもっと小さい。今年が豊作というわけではない。


野沢菜は日当たりが悪く、大きくならなかったが、ここは雪が早く融けた。
葉っぱが凍みた感じ。

白菜は大丈夫か?
結球しているものさえ凍みないように先端をしばるのに、我が家の白菜は開いたままで雪に埋まった。何日もこのままで葉の細胞は壊死しているのではなかろうか?
もし全滅していたら、ヒョウにあった大豆以来である。

2018年1月25日木曜日

ニューシャトルと大雪、伊奈町の記憶

ニューシャトルの高架に電車は見えない(1/23)

1月22日の大雪の後遺症も解消しつつある中、
さいたま大宮から出るニューシャトルだけは、混乱が続いた。
22日当日は、首都圏がすべてマヒしたから夕方の大混乱は仕方ないとして、
23日は、すっかりいい天気のもと、午前中停電で全面運休、午後は復旧するも、本数減らして徐行、夕方大宮駅は入場規制。
24日は、朝、まだ入場規制で大宮駅は大混雑。終日ダイヤ乱れる。
25日は、入場規制を避けるべく早めに出ると、7:30ころ通常運転。しかしその後凍結の影響で遅延、解消は10:10。
1月25日、志久駅19:39
ダイヤは正常になり、すなわち38分が行ったばかり。
この写真を撮るために一本見送った。

さて、23日以来、Yahoo路線情報のつぶやきにはニューシャトルに関して多くの人が情報、感想を寄せていたが、「天候不順に強い最強路線がつぶれた」という類のものが多かった。

確かにニューシャトルは今まで運休がほとんどなかったが、それは
川越線、武蔵野線などで見られる、線路の冠水や踏切事故がなく、荒川を渡らないため強風徐行もなく、宇都宮、高崎線などによくある湘南との乗り入れによる遅延の連鎖がなかったからである。

しかしこのニューシャトルこそ、雪に最も弱い路線なのだ。
今つぶやく人は若い人が多かったり、新しく越してきた人が多いから知らないだろうが、
ゴムタイヤで走り、丸山駅、大宮駅などでは坂になっているから、スリップしやすく、雪が積もったらもうお手上げ。融けるまで待つしかない。

私は身をもって知っている。
28年前の1990年2月2日、ニューシャトルは完全運休した。
89年に引っ越して3年目、初めての大雪でニューシャトルの弱さを知った。
当時Ca拮抗薬と神経細胞について論文を書いていて、出勤はあきらめ伊奈町図書館に出かけた。真っ青な空、屋根からぽたぽた落ちる雪解け水。
結局終日、週刊誌や文芸春秋、今はないマルコポーロなどの雑誌を読んだりして仕事はしなかったが。

当時の伊奈町を知る資料を持っている。
町民に配られたパンフレット。裏が地図。
伊奈町1992

これを持っている人はあまりいないだろう。
航空写真を見れば佐藤栄学園(自動車大学校、栄北高)はなく、日本薬科大学はKDDの研修所で鉄塔が立っている。
まだ伊奈学園、県民活動センターの周りは田んぼで、ニューシャトルは1時間に2本だけ(現在は6本)。
本数が少ないのに空いていて、毎朝出勤は座って大宮まで出ていた。
混雑する高崎線や宇都宮線より地価も安く、
「北足立郡」に家を買って正解と思ったものだ。

さて、今回の大雪、ニューシャトルは頑張った。
「徐行のため遅れが出ています」と言いながら、氷でごつごつした路面で、振動でねじが緩むのではないかと心配になるほど速度を上げ(定時運行を目指した)、ときおり氷塊が跳ねて当たるのか、避けられずに乗り上げるのか、底にガツンという衝撃が来る。
JRの「異音の影響で点検します」どころでなく、床が壊れるかと思うほどである。
28年前と違って大寒波の影響で氷塊の融けるのが遅い。
数日にわたる遅延は仕方がない。

ついでに書くと、ニューシャトルは雪に加え、犬にも弱い。
大宮以外フリーパスに近い各駅の改札を犬が通過して、ひとたび走行路に降りてしまえば、周りは壁の延々続く高架。脇に逃げることもできず、電車の動きは犬次第、そろそろ付いていくしかない。
昔住んでいたころ
「ただいま犬が電車の下に潜り込んでしまい、出てこないので走行できません・・・」
という車内放送を聞いたとき、急いでいるにもかかわらず楽しかった。
ユリカモメや日暮里舎人ライナーも似たような構造だが、雪の量、野良犬の少なさでニューシャトルより心配はない。

その後1996年に指扇に引っ越したが、2013年に転職すると、17年ぶりにニューシャトルで通うことになった。かつて7年過ごし、子ども二人がここで生まれ、KDDの森でカブトムシを探し、親子田植え体験、床下浸水、102軒の中山住宅自治会長、など思い出も多い伊奈町。
引っ越した時は二度と来る用事はないと思っていたが、不思議な縁を感じる。

一本見送って寒さで震えながら待っていたら曇りガラスのようなニューシャトルが来た。
泥水が跳ねた汚れかと思ったら、水蒸気がガラス面に凝結、結晶化したものだった。
恐るべき寒波。もちろん何十年のっていて初めて見た。


2018年1月23日火曜日

大雪の翌朝 2018年1月

1月22日、月曜、本当に天気予報通り雪が降った。
雨の予報は西の天気を見れば予測がつくが、都心でも大雪になるとはっきり予報して当てるのはお見事。
激しくなり積もり始めたので早めに仕事をやめる。
高校生から深夜に帰るサラリーマンまで同時に駅に殺到したから大宮駅は人だらけ。バスが来ないのか西口バス乗り場はそごうにいくデッキの上まで列ができていた。

京浜東北線はいつもより混んでいたものの逆方向なので無事帰宅。
こたつでテレビを見る。
渋谷や新宿など入場規制、タクシー、バス乗り場に長い行列。大変。
雪が降ると部屋が寒い気がする。

翌朝23日はいい天気。
庭に出てみた。
白菜も大根もまったく見えない。
積雪20㎝位だろうか。
問題は雪かき。

7時前に玄関を出てみるとまだやられていない。
私としては雪かきなどしなくて、自然に融けるのを待てばいいと思っている。
よたよた歩いたり、滑るのも楽しいではないか。
落ち葉掃きもそうだけど、道はそういうものだと思えば、大したことはない。

しかし他の家はやったようである。
こうなると、やらざるを得ない。
放っておけば自然と融けるのに、と思いながら始める。
お隣さんは我が宅地の地主さんでもあり、また80代後半の高齢ご夫婦なので、そちらも合わせて雪かきした。

私のやったところ。写っているのは3分の一くらい。

振り向くと我が家の向こうに駒込病院に朝日が当たっている。
今年の夏以来すっかり身近になった。

家の南に回ると、向かいの方々が既に雪かきしてくださっていた。
私のやったところと比べて随分きれいなので、もう一度やり直す。

大雪は楽しいのだが、家、特に雨どいが心配である。
重い雪が積もり、さらに屋根の雪が滑って直撃すると壊れるのではないか。
2014年の大雪では、雨どいが曲がってしまった。

雪かき何とか終了。
職場に向かう。
千駄木小学校

キツネ坂、ここは怖い。

途中まで降りて振り返る。

やっと不忍通りが見えてきたが、まだ油断は禁物

不忍通りを渡り、キツネ坂を振り返る。

道灌山通り

車が少ないので、横断した。
いい天気。

大宮まで来たらまさかのニューシャトル運休。
昨日なら分かるけど、なんで今日?
聞くと停電だという。
入場規制で行列がニューシャトル改札からJR改札近くまで来て、そこで折り返し、またニューシャトル入口まで続いていた。

 高崎線で上尾まで来てバスで行こうと思ったらここでも行列。
バス停から駅のデッキの階段までつながっている。

昨日の帰宅難民と同じことを、翌朝自分が経験するとは思わなかった。
もともと本数が少ない路線、乗れるわけがない。
職場まで50分歩いた。




2018年1月22日月曜日

信州中野、扇状地と千曲川

2017-12-29

この年末、中野の駅からすっかり市街化された道を実家まで歩いた。
かつて、ここが我が家の果樹園だった証拠は、鉄塔である。

この鉄塔がリンゴ畑の端に建ったのは、私が小学生のころだったと思う。
ある日、畑に行ったら、ものすごく深い穴が掘られていて、側壁に地層がみえた。田舎では土木工事などなかったから、生まれて初めて見た穴だった。
大きな石の層、砂利の層、土の層、といろいろ見えたことを覚えている。
ごろごろした石は赤錆の色で、その層は、あたかも、ここが川の底だったかのようだった。

信州中野は夜間瀬川の扇状地にできた町である。
扇状地というのは山から平地に出た川が、川筋を定めず、放射状にまんべんなく大量の土砂を押し出すことで成立する。私が深い穴で見た多くの石は、はるばる志賀高原のほうから運ばれてきたのだろう。

そのころ小学校の社会で、ふるさと中野の5万分の1の地図を配られ、等高線を赤鉛筆でなぞり、畑と水田の場所を塗り分けさせられた。

等高線はその扇のかなめを中心に弧を重ねる。その結果、地下水も等高線に沿って湧き出て、各部落もその弧の上に並ぶ。
私の生まれた岩船もその中の一つだ。
集落の下のほうはその湧水を利用した水田、上のほうは水がないから畑になる。
 
               1966(昭和41年)
地形図・地勢図図歴 - 地図・空中写真閲覧サービス - 国土地理院
mapps.gsi.go.jp/history.html

ちょっと等高線が分かりにくいので
押鐘宏貴氏の論文の図(2014)を拝借する。

中野は勝沼ほどではないが、扇状地として地理の教科書で取り上げられる。
農地の利用が扇状地の性質(湧水の分布)によって区分されていることから、勝沼より教材として優れていると思うが、西部丘陵で扇の端が遮られているから、一般小学生には勝沼のほうが分かりやすい。

小学校の時は何も思わなかったのだが、今、千曲川の川筋がおかしいことに気が付く。
なんであんなに窮屈な山の中を縫うように流れているのかということだ。
グーグル航空写真を見ても、5万分の1の地図をみても、広々とした中野平を流れればいいではないか。

扇状地というのは土砂をためる。では扇状地ができる前、土砂がなかったら、中野平はどうだったか? 
ずっと標高が低く、千曲の水を呼び込めただろう。
等高線を見ても明らかなように、千曲川はかつて中野平を流れていたと考えるのが自然である。

それを裏付ける資料が、実家にあった区画整理の封筒の中から出てきた。
コピー1枚だから出典は分からない。

『往時の遠洞湖跡』
「應永十三年八月(西暦1406年)夜間瀬川大洪水以前の図」

応永13年とあるが、描かれたのは最近だろう。部落名はほとんど今と同じだし、現在の千曲川の形、山の位置など正確すぎるからだ。おそらく古今の地図を参考に再構成したものと思われる。
古地図では大河が中野平を流れ、(小布施の松川や夜間瀬川をはじめ)大小の川が湖に流れ込んでいる。今の中野西部丘陵は二本の千曲川に挟まれた島になっている。

もとの資料は分からないが、もし1402年に、この図の通りだったら面白い。
文献に残る時代以降に、200年か300年かそこらで扇状地が形成され、それが大河の流れを変えるとは、すごいことではないか?

ところで、今この古地図を見ていて思ったのだが、
千曲川は、中野の遠洞湖だけでなく、更級郡、埴科郡から続く善光寺平に広大な湖を作っていたのではないか? 
古代は道がないから、陸上より水上交通が盛んであった。そして琵琶湖や諏訪湖と同じように、その周辺に豪族が発生したと思われる。埴科古墳群や、中野西部丘陵の双子塚は、この湖があったから出来たと考えられないだろうか。

また岩船、西条は、室町時代の古銭が大量に発掘された場所であり、古くから奥信濃の中心であったと思われている。その理由が、この場所が大きな湖のほとりにあることで、善光寺平南部との交流の玄関口であったから、とは考えられないだろうか。



2018年1月21日日曜日

信州中野、岩船の区画整理

年末、信州中野に帰省した。
長野電鉄で須坂、小布施とすぎると高社山が大きくなってくる。
その麓の中野も見えてくる。
2017-12-29

いつもは駅からまっすぐ実家に行くのだが、今回はちょっと遠回りした。
アパートが目立ち景色が良くない。
今では信じられないが、平成元年までここは我が家のブドウ畑だった。
鉄塔があるから間違いない。

鉄塔に汗をかいたシャツをかけたり、その下で休憩したりした。
畑の名前はオヤシキといった。
子どものころ聞いた祖父の話では、昔、岩船新左エ門高広(漢字不明)という人の屋敷があったからというが、いつの時代か聞かなかった。

(今思い出したのだが、このブログで岩船の地名は関東甲信越ではやった岩船地蔵からきているのではないかと書いたが、人名→部落名、あるいは地蔵→人名→部落名となったのかもしれない)

近くにもう一つ我が家の畑があって、こちらはニシジョザカイといった。
岩船と西条との境にあったからだ。西条部落の人はイワフネザカイといったのだろうか。
こちらは今公園になっている。

信州中野の駅は、ほかの町と同じように中心街の端にできた。
駅の正面は中野市の中心、商店街だが、駅裏は岩船、西条部落の畑であり、昭和30年代までは桑畑、その後はリンゴ、そして桃、ブドウが栽培されていた。

平成元年、駅に西(南?)口をつくり、その畑地帯を区画整理することになった。
農業後継者がいなくなり畑が余り始めたこと、あぜ道が多く車が入らないこと、改札口さえできれば駅前の一等地に変貌することから、話は進んだ。父は岩船地区のまとめ役となった。
区画整理前
既に車社会となり、子どものころとは変わっているが、
昔のままのところもあって懐かしい。
我が家は建て替え前の、大きな青いトタン屋根(トタンの下は藁ぶき)の家。
子どものころから通った二か所の畑もはっきりわかる。

父と一緒のリンゴの消毒は、ホース持ちで泥だらけになりながら、ぼんやりするとホースが作物に引っ掛かり、怒られて嫌だった。
祖母と一緒の草取りはのんびり信濃の国など歌ったりして楽しかった。
畑で眠ってしまったこともある。

駅のそばまで行くと大きなクルミの木があり、ホームから畑側に色んなものが捨てられていた。草むらの中に大人の週刊誌をみつけ、雨や泥で貼りついたページを興味深くめくったり、落ちているコカコーラの瓶を拾ったりした。この瓶は酒屋に持っていくと10円もらえた。当時コーラは瓶つきで40円だった。

中学のころ、ひとりマラソンの練習をしたコースも航空写真の中に見える。
畑の間を自転車のメーターで距離を測り、一周10分くらいだったか。
三日坊主で2,3回走ってやめてしまった。

高3の冬休み、自動車学校に通っているとき、こっそり運転の練習もした。
道が細くて畑から伸びる枝が車にバチバチあたった。

・・・・

当初父親が持ってきた図面では、新しい駅西口からまっすぐ大通りを伸ばし、岩船部落を分断、我が家の屋敷地をかすめ取り、田んぼに抜けていく案だったから私は(都会に出てしまったにもかかわらず)大反対したが、父親はまとめることを優先し、取り合わなかった。

幸い、集落部分は手を付けず、駅側の畑の部分だけにとどまることになり、安堵した。
しかし広い道や公園を作ることで土地は減る。二か所あった畑は一か所になり、一部を売って、残ったところにアパートを建てると、我が家の畑は家庭菜園のように小さくなった。
区画整理後。この航空写真には早くも我が家のアパートが見える。

2017-12-29
新しくできた公園の隣に建っている。一棟、5世帯。

グーグルで見たら地図上の目印になっていて、センスのないアパートの名前が恥ずかしいやら可笑しいやら。

老いた父は、田んぼのほうの畑だけでも持て余し、また弟は農業やらないのだから、もっとアパートを建てればよかったのだが、そんなに入居者はいないだろう、と建てなかった。しかしここは駅から5分もかからないから、その後、どんどんアパートは増える。
業者に建てるよう勧誘され、迷うたびに、さすがにもう遅いだろう、と決断せず、結局これ一棟で終わった。弟によれば、今、地域で一番古いので一番安くしているという。

父はエノキダケなども始めるのは早かったのだが(私が小学校5年のとき)、後から始めた他の家が栽培を大規模化するのに、そんなに流行は長続きするはずがない、と投資せず、チャンスを逃したことを思い出す。

新しくできた公園は、かつてのニシジョザカイの畑があったところで、その端に看板が立っている。

「・・・小林一美氏所有の埋納銭容器は大正十五年、この岩船南公園付近の畑から出土しました・・・」

えっ? 大正15年とある。
私は幼いころ庭で大きな壺を見た記憶がある。ちょうどその日、畑仕事をしていた祖父が偶然鍬が当たって見つけ、掘り起こして持ってきたものとばかり思っていたのだが、父が生まれる前ではないか。人間の記憶というのはいい加減なものだ。

父は名が残るようなことは何もしなかったが、祖父が壷を見つけたおかげで、こんな形で名が出た。

アルバムに区画整理前の写真があった。
 1985(昭和60)年8月、
オヤシキのブドウ畑で両親、妻、弟。
奥に鉄塔がみえる
1988(昭和63)年8月、区画整理前。
手前の道は新しくできた道で、子どものころなかった。
左に行くとオヤシキの畑。
アスパラガス畑の縁に沿って草ぼうぼうの中を右に入って行くとニシジョザカイの畑。
今はみんなアパートになった。


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2018年1月20日土曜日

第45 明治時代、中毒の統計

明治19年の中毒、半年報
薬学雑誌1887年度202頁(5月号)

内務省衛生局発表,昨年7月より12月にいたる中毒患者の統計は下記の如し.

1.河豚23人(治7,死16).治というのは危篤になったが命をとりとめたという意味.
2.菌96人(治71,死25).当時キノコはこの字を使っている.真菌(かび)と山に生えるキノコに同じ字をあてるのは英語fungusと同じ.
3.樒(治2,死3)はシキミと読む。
我々が習ったシキミ酸経路のシキミはこの成分。毒性物質はアニサチンなど。類縁トウシキミが香辛料になるので誤ったか。この実は植物としては唯一劇物に指定されている.
4.蘇鉄(治5,死1)は,種子にでんぷんを多く含むため飢饉の時など食用にすることがあったが,サイカシンからホルムアルデヒドが生ずるらしい.別に神経毒の存在も言われる.
5.蔓陀羅華(治5)はチョウセンアサガオ。
アトロピンなどムスカリン受容体拮抗物質を含む。華岡青洲の通仙散にも入っていた.
6.銀杏(死1)はメチルピリドキシンがVB6に拮抗し大量摂取すると痙攣を起こす.
幼児なら体調次第で数粒から危ないという.ギンナンは食品栄養標準成分表が2000年に改訂されるまでVB6の豊富な食品として載っていたが,誤ってメチルピリドキシンを測っていたらしい.
7.木本黄精葉鈎吻(死1)はドクウツギのこと.
赤い実は甘いので子供がよく誤って食べた.

また俗称ヲバシラゴなる海草(治1,死1)に加えて,
海老(治2),蟹(死6),雑魚(死1).同誌9月号にも川エビ(シラサ)を食べた11人に中毒,1人死亡とあるが,普段よく食べるエビやカニに毒性物質があったとは思えない。
おそらく細菌性食中毒であろう。

続く炭酸(死5),酸化銅(治5),昇汞(死2),阿片(死2) ,石炭酸(治3) ,青酸(死1),駆鼠散(治3)は良いとして,蔓兒比涅(治1,死5),亜爾固保兒(死3),斯篤利幾尼涅(死1),重格魯謨酸加里(死1)も読めれば分かる.

しかし今わからないものもある。
白砒石(死1)は外用薬,
莫青(治4,死1),
榮實(死1)は説明なく、ということは当時常識だったようだが私には分からない.

以上、半年の合計189人(治109,死80).

当時明治19年の薬誌は毎月中毒の記事あり.
4月号の雑報欄には,
 朱と緑青で着色した餅を食べて治5,
 疥癬の妙薬といわれた山萬年青で治1,
 樒で死1.
6月号は
 きのこ治3,
 梅の種で死1,
 「蛇のダイバチ」と呼ばれる根塊を山芋と間違えて治1
....

貧しく自給自足であった時代,色んな物を食べた。
報じられたものは極一部であろう。
保健所も病院もなく、大部分は村の噂で終わったであろう。

第44 ジャガイモで作った象牙

『馬鈴薯製象牙』
薬学雑誌 第13号 (1883年)677頁

明治16年と言えば、まだ江戸時代を引きずっている。
タイトルを見て、袴姿の男がジャガイモを大量に茹で、粘土のようにこねている場面を想像した。
長屋の畳の上で、長くて太い棒を作り、それを湾曲させ途中で折れないようにそーっと乾かしたあと、先を尖らして磨く。内職として骨董品屋に売るのだろうか。しかし当時いくら本物の象を知らない人ばかりでもすぐ偽物とばれるだろう。

記事は、タイトル『馬鈴薯製象牙』のあと著者名もなく、いきなり本文に入る。
薬学雑誌は1年半前の明治14年11月に創刊されたばかりで、雑誌、論文の形式がまだ定まっていない。

「その製造たるや、先づ馬鈴薯の皮を剥き、その疣目(芽)を去り、注意して海綿状の部分および着色したる部分を削除す」と料理の本のよう。
要するに希硫酸で煮るのだが、濃度や時間は発明者の秘密であって(論文なのに)、
「各人自ら試験することあらば或いは秘訳を会得することあらん」。
「最も注意すべきは馬鈴薯の種類および生育の度」と詳しく教えてくれない。

煮ていてだんだん固くなってきたら温水、冷水の順で洗い、ゆっくりと乾燥させる。
「体面は多いに平滑で、展転しやすく、日光にさらすも破裂することなし。帯青白色、堅硬にして耐久の性あり、その性弾力を有するが故に能く玉突きの球に充つべし」。
著者はこれを擬象牙と呼んでいる。
つまり象牙は形ではなく、材質のことだったのである。

プラスチックのない時代は、珊瑚、鼈甲とともに象牙の需要は非常に高く、ビリヤードの球だけでなく、日本では三味線、箏のバチや爪、ピアノ鍵盤、もちろん細工が容易であるから工芸品などに引っ張りだこだった。しかし圧倒的に使われたのは印鑑である(朱肉がなじみやすい)。

最初の可塑性樹脂セルロイド(1856年)をはじめプラスチックは、もともと人工象牙を目指していたほどだ。それでも手触りなどなかなか本物に近い素材は作れなかった。

だからワシントン条約で1989年から象牙の輸入が止まったとき、業者は困った。
今、人工象牙は牛乳カゼイン蛋白などに酸化チタンを混ぜて作られている。しかし明治の誰か、この薬誌の「論文」を読んでジャガイモを茹でた人はいないだろうか。

2018年1月18日木曜日

第43 リンからヒ素ができた??

燐を砒素に変化せると云ふは誤謬なり
薬学雑誌1900年度1116頁(明治33年)

“元素”物語といった本には、リンが1669年、その同族ヒ素が1250年に発見されたと書いてある.錬金術のおかげか意外と古い.

しかしこれは恐らく、この“元素”を含む単体が最初に得られた年代であろう。
そのカタマリの存在を知った人であっても、元素の概念はなく、彼らの化学水準は分子どころか、純物質、混合物の区別さえ危うかったと思われる。
つまり、今当たり前となっている「元素とは化学反応では変化しないもの。原子。」という概念などまったく存在しなかった。

では、いつ頃、元素は変化しないものと考えられるようになったのだろう。
この記事を読む限り、意外と最近までそれは常識ではなかったようである。

1900年、F.Fitticaは、リンを硝酸アンモニアと加熱したら一部で亜ヒ酸As2O3ができたことを堂々と発表した。さらに、

2P + 5NH4NO3 = (PN2O)2O3 + 10H2O + 3N2 
 であるから
 (PN2O)2O3 ≡ As2O3

つまり、ヒ素AsはPN2Oだとした。
ヒ素は元素でないと言っているのだ。
しかしC.Winklerは、すぐに(1900年)同操作でヒ素の生成は確かに認めるものの、

2P + 5NH4NO3 = 2H3PO4 + 7H2O + 10N

という反応式を出し、ヒ素の出る余地はないという。
リンを他の方法で酸化しても同じ濃度(2%)でヒ素(!)を得ることから、ヒ素は、リン酸カルシウムからリンを製するときに用いる硫酸に含まれていた不純物だと反論した。
(ドイツ化学会誌 Berichte der Deutschen Chemischen Gesellschaft, 1891)
薬学雑誌の記事はこれを紹介したものである。

メンデレーエフの周期律表は、明治維新の翌年1869年に発表されているが、まじめに論文上で議論になっているところを見ると、30年たっても元素が変化すると考える科学者がいたのだ。
見えないものを見る化学というものは、考えてみれば魔法のようであり、昔はいろんな説が出たのも当然か。

リン化合物へ同族体のヒ素が不純物として混入していたといえば50年前の森永粉ミルク事件がある。これは純度の低い工業用Na2HPO4を食品製造に使ったことによる悲劇である。昔はしばしば話題になったが最近は忘れられている。

「赤い鳥」と「金の星」

今住んでいるところのすぐ近く、かつての駒込動坂町359に金の星ハウスがあり、その隣364番地に『赤い鳥』で活躍した北原白秋、成田為三がいたことを書いた。

2018-1-17
道の右側、手前が364、その奥が359番

赤い鳥は、童話と童謡の児童雑誌である。
大正時代、それまで文部省が主導する唱歌や童話に対し不満を持っていた鈴木三重吉が、子供の純真な心を育むための話・詩を創作し世に広めると宣言して創刊。一流の作家が賛同し寄稿した。

「蜘蛛の糸」「杜子春」(芥川龍之介)「一房の葡萄」(有島武郎)「ごん狐」(新美南吉)などは『赤い鳥』で発表されたものである。
また発表された西條八十や北原白秋の詩に、後の号で成田らが曲をつけ、楽譜掲載すると大きな反響を呼び、児童文学運動が音楽運動にまで発展した。(当初は唱歌の道徳的な詩に反発した文学運動であった)。

これに刺激を受けたのが、斎藤佐次郎(1893・明26-1983・昭58)。
多くの文化人の賛同を得て、『赤い鳥』創刊の翌1919年、キンノツノ社から『金の船』を創刊した。赤い鳥はその後、童謡の掲載が少なくなり、むしろ中山晋平らのいた『金の船』が童謡普及運動をけん引した。

1922年、独立した金の船社は、社名も誌名も『金の星』に変更した。
震災後の1925年、動坂359に近代的アパート・金の星ハウスを建て、会社もそこに移転した。昭和5年に根津の曙ハウスに移転したらしい。金の星社は現在も台東区で児童書の出版をしている(社長・斎藤健司)。


『赤い鳥』 『金の星』
創刊 1918(T7) 1919(T8)年『金の船』
発行所 北豊島郡高田村大字巣鴨字代地3559(現目白3丁目、三重吉の自宅) 根津で創刊、滝野川移転
1925に駒込動坂町359
1929年2月から1931年1月まで休刊 1922『金の星』に社名、書名変更
主催者 鈴木三重吉 斎藤佐次郎
寄稿者 芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声、菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風、成田為三、草川信、山田耕筰 野口雨情(初代編集長)、島崎藤村・有島生馬・若山牧水・中山晋平・本居長世・沖野岩三郎・岡本歸一・寺内萬治郎
廃刊 1936(S11) 1929(S4)
童謡 カナリヤ、カラタチの花、雨、赤い鳥小鳥、この道 十五夜お月さん、七つの子、青い眼の人形、証城寺の狸囃子


goo地図(昭和38年) 当時は緑がいっぱいあった。

中段左寄り、敷地に斜めに大きな建物が立っている場所が、動坂359番地、その下、家2軒あるのが364番地である。下に一部移っているのは千駄木小学校。
金の星ハウスは1945.4.13の大空襲で焼けたから、この建物は違う。
戦前は芸術家たちの住むモダンなアパートだったようだ。(谷根千22号)

ついでに言うと我が家の場所は、敷地西端に小さな家があり他は庭になっている。

google

金の星ハウスの跡は、昭和38年の航空写真で分かる通り戦後大きな建物があったが、現在はエステート千駄木、メゾネット千駄木と二棟になっている。

別ブログ
20180117 細井医院と吉丸一昌、金の星ハウス


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2018年1月17日水曜日

細井医院と吉丸一昌、金の星ハウス

根津裏門坂から団子坂上をへて駒込動坂上まで、江戸時代から尾根道があった。
現在、団子坂上から南は明治時代と同じように藪下通りというが、団子坂から北は保健所通りというつまらない名前になっている。

我が家の近くを通る保健所通りの写真を示す。蛇行が古さを物語る。
2018-1-17

引っ越す前、リフォーム中の2012年秋、写真、道の右側、ごみ置き場あたりにポリスボックスがあった。
民主党政権の財務大臣を務められた家である。

このあたり、旧町名で言うと、ちょうど私が立っているあたりまで千駄木林町で、ここから先は駒込動坂町といった。明治以来有名人が多く住んだところであるが、我が家のそばだけ書いてみる。

357
その元財務大臣の家の向こう(隣)、本郷区駒込動坂町357番地は、
吉丸一昌邸。1873(明6)臼杵に生まれ、五高を経て帝大国文科、府立3中(両国)で国語教師、芥川龍之介も教えているようだ。1909年東京音楽学校教授。小学校の音楽教科書の編集委員となる。
彼の作詞で最も有名なものは『早春賦』(春は名のみの風の寒さや~ 作曲は中田章)である。
大きな屋敷だったらしい。もちろん今は違う標札。隣は洋画家の長原孝太郎の家だったというが(谷根千20号)、356か358か分からない。
1916年、44歳のとき心臓発作、向かいの細井医師が駆け付けたが急逝。


359
357番地の真向かい、上の写真、手前の植木のあるところ、359番地には金の星ハウスがあった。大正時代、初代編集長に野口雨情を迎え、新しい童話、童謡を発表した「金の星」の発行者、斉藤佐治郎が建て、一時、会社もここにあった。

361
一軒おいて、361番地はファーブル昆虫館。丸い屋根が特徴的、繭の形をイメージしているらしい。ファーブル昆虫記を翻訳された奥本大三郎氏の家だったが、彼は別にも家があって、2005年ここを昆虫館にされた。

362
その隣、動坂町362番地は細井医院。
鴎外森林太郎家のかかりつけ医であったから、 於菟、茉莉など見てもらっていたことが活字になっている。もちろん宮本百合子の中条家も世話になった。

2011年、私が家を見に来ていたとき、細井医院は看板に白いペンキが塗られ、廃業された後だった。おばあさんともう一人初老の男性が住んでいたようであるが、顔を合わすことがなかった。
しかし引っ越した年の2013年10月28日、偶然おばあさんが玄関から出たところに出くわし、あいさつした後、思い切って聞いてみた。鴎外森家のことである。

そうですか、主人の祖父のころでしょうかね? 
私は和歌山から嫁に来たので何も知りません。
孫の一人は医者になりましたが・・・・医者はなるもんじゃありません。
人様の命まで心配しなくちゃなりません。
昔は主人とよく重い鞄をもって上野まで行きました。
仲間の人が迎えに来て、蓆を敷いて寝ている人の診察に行くのですが、お金はもらえないし、ずっと貧乏でした。主人は動坂の下から養子に入ったのですが、そのお父さんは「申し訳ないことをした」とずっと言っていました。
今は娘の知り合いが一緒に住んでいてくれていますが、この人もお金に縁のない人で・・・

石の塀を褒めると
「転んだらぶつけて顔に怪我してしまい、この塀にも困ったものです」

彼女をお見かけしたのはこれが最初で最後であった。
2014-10-27 旧細井医院
写真のように3年前は看板、表札、庭に緑もあった。


Goo地図、明治40年

362の細井医院と363番地の間、未舗装の私道を入って二軒目が我が家である。
この入口には大きな銀杏の木があったのだが、2015年3月21日に切られた。大きな切り株がごみ置き場の目印のようになっている。
2018-01-16 右が旧細井医院
2012-08-06

さて、359番地に戻る。
尾張屋版江戸切絵図(国会図書館)

 
 
364
359番地と25番地の間(いまの表示だと千駄木5-46と5-49の間)、左に入る細い道がある。この道も江戸時代からある。(酒井安芸守の屋敷前から「植木屋多し」と書いてあるほうに入る道)
その入った先、359番のとなりが動坂町364番地。
ここには北原白秋(1885ー1942)がいた。明治42年から大正7年までここに8年間住む(文京区HP)とあるが、途中、牛込、小岩の方にもいたようである。動坂の反対側92番地の佐藤春夫、また動坂を降りたところ(田端)にいた室生犀星らと行き来した。

右が364、その向こうが保健所通りの359番

この364番地には成田為三(1893秋田 - 1945)もいた。
鈴木三重吉が訪ね、西条八十が書いた詩に作曲を依頼したと「谷根千」19号(1989)にある。
成田は、浜辺の歌、赤い鳥小鳥、かなりやなどを作曲。北原白秋とともに、すぐ隣の「金の星」ではなく、「赤い鳥」で活動したのは面白い。

金の星の動坂町359番地から現在私のいる365番地まで一区画なので、今の住居表示では千駄木5丁目46番になった。(363番だけは千駄木5丁目45番)
車社会になる前、畑のあぜ道のようなときに家が建て込み、今や救急車も入れない。建て替えの時にセットバックはするが、このあたり借地などが多く、なかなか建て替えは進まない。

368
ついでにいうとお嬢様の中条百合子が昭和7年2月、宮本顕治と結婚、新居を構えたのは我が家の前の前、動坂368番地である。しかし共産党への弾圧が激しいころで検挙、釈放が繰り返される中、10月四谷区東信濃町の借家に転居した。

市電が本郷通りを駒込富士前まで伸びたのが1917(大正6)年6月
同じく不忍通りを上野から動坂下まで来たのがこの年7月。

当時は豪邸もあったが貸家も多く、引っ越しが簡単だった。
電車のない時代は、芸術家や作家は歩いていける範囲に集まった。
その一つが田端、動坂だったり本郷、谷中、根津、千駄木だったりした。


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