2023年7月28日金曜日

31年ぶりの仁徳天皇陵と百舌鳥駅

7月4日高速バスで和歌山に来て、午後から高野山に登った。
しかし高野山はもともと予定になかったし、疲れていたこともあり、ほとんど見ずに降りてきた。それでも聖地・高野山に行ったことがあるという事実は残り、いい財産となった。

ケーブルカーで下界の南海電鉄・極楽橋駅に降りて17:04。まだ明るい。

夜行バスで良いのは、安いのに加えて朝早くから見物できるということだが、帰りの便が夜遅いというのが困る。夕方になって見物できる場所はあまりないから、時間を持て余す。

地図で南海電鉄の沿線をみていると仁徳天皇陵がある。
1992年に行ったことがある。もう一度見てみるか。
帰宅時の通勤客とすれ違うように都会に向かう。
18:55 三国ヶ丘駅
仁徳陵の最寄り駅・三国ヶ丘は、二階の南海高野線と地上を走るJR阪和線とが交差する。
2013年に橋上駅化したというから初めての駅に思えるのは当然だが、町の様子にもまったく記憶がなかった。

1992年12月8日~10日、第16回日本神経科学大会が千里ライフサイエンスセンター(豊中市)であった。その最終日、地下鉄御堂筋線が乗り入れている北大阪急行・千里中央から電車に乗った。御堂筋線の終点、中百舌鳥は仁徳天皇陵の近くだが、距離はある。そこから南海に乗り換えて三国ヶ丘に来たたのか、御堂筋線のなんばか天王寺あたりで乗り換えたのか記憶にない。

31年前、駅のそばに小さなスナックのような食堂があり、ふらりと入ってカウンターで明石焼きを食べた記憶がある。しかし今や、そんな店も路地もない。
駅周辺が区画整理でもされてしまったのだろうか?
18:56 南が上。
三国ヶ丘駅から一番近い、仁徳陵の北東の隅から歩き始めた。
国道310号(西高野街道)から住宅街に入ると小さな円墳。
19:00 源右衛門山古墳
仁徳陵の陪塚に指定され宮内庁が管理している。

19:01
すぐに仁徳陵北東の端に到達。
前回来たときと違い、ウォーキングロードが整備されていた。
左:正面まで1000メートル、右:1850メートル

31年前は雨の中、この道を南に歩いたのだが、御陵側は塀で何も見えなかった気がする。
今は塀が格子になり、濠がよく見える。
19:02
濠と森を見ながら南に歩いていく。
夕方のジョギング市民とすれ違う。陸上トラックや皇居(1周5キロ)と同じように左回り(反時計回り)である。
皇居は電車で来てランニングステーションで着替えたりする人もいるだろうが、ここはおそらく周辺の住民ばかりだろう。家からそのまま走って出てこられたのではなかろうか。
19:04
御陵の反対側に、天理教岸ノ里分教会があり、その裏にまた古墳のようなものが見えた。
帰宅後調べると、「塚廻古墳」という普通名詞のような名の円墳。陪塚として国の史跡だが、源右衛門古墳と違い宮内庁の管理ではない。

このあたり百舌鳥古墳群として、古墳の密集地帯である。2019年、東の藤井寺の古市古墳群とともに世界遺産に登録された。
19:08
東濠の南端近くまで来たら、土手(堰)のようなものがあった。
外周2.8キロもあれば、わずかな傾斜でも濠の水が偏ってしまう。
こうした水面の高さを調節するものがあれば、少ない水でも足りる。

19:09
御陵の東南の隅に到達、南の外縁を正面に向かう。
世界遺産になったせいか、昔より整備されている。
19:13
仁徳天皇陵 正面
それまで古墳はいくつか見ていたが、きれいに掃き清められ正面に鳥居がある天皇陵というのは、1992年のここが初めてだった。その後、京都のいくつかの御陵、また応神陵などがある古市古墳群も見たが、仁徳陵が最も記憶に残った。

当時、なぜ来たのか。
たまたま読んだ五木寛之「風の王国」で、登場人物たちの集合場所として深夜の仁徳天皇陵正面広場が描かれていた。そういえば世界最大の墓として小中学校の教科書にもあったのに、今まで見たことがなかったな、と雨の中、ひとりで来たのである。

1992年12月は36歳だった。企業の研究者として将来の展望が描けなかった。
研究者というのは論文を書いて発表しなくてはいけないのだが、企業というのは簡単に成果を外部に発表できない。では代わりに研究所で偉くなって管理者として出世するという道もあるのだが、そういう人は大きなグループのリーダーになっていかなくてはならない。私はずっと、たった一人で細々と実験していた。
循環器部門でうまくいかず、ちょうど前年に中枢神経系部門に配属替えになったものの、なんとなく暗い日々だった。仁徳天皇陵も冷たい雨の中、寂しく見た記憶がある。
19:13
宮内庁書陵部古市監区百舌鳥部事務所。
外から1つ目と2つ目の濠の間にある。
19:14
2つ目の濠。
鳥居はこの内側にあるが、そこには行けないことになっている。
柵は簡単にまたいで越えられるがバチが当たりそう。
19:16
全体の航空写真が案内説明板にあった。
エジプトのピラミッドと違い、上から見ないとここの価値は分からないからね。
それにしても、ここなら世界遺産になってもよい。わが国では全国各地で自治体、住民がおらが名所を登録しようと運動をしているが、世界遺産登録を地域おこしの手段にしてはいけないと思う。

ここは付近に土産物屋も見当たらず、地域おこしにもなっていないようだ。地域おこし運動がなければ、本当に価値あるものだけが登録される。
19:18
仁徳天皇陵は、いつのころからか大山古墳・大仙陵古墳と呼ばれるようになった。ウィキペディアも見出し語も「仁徳天皇陵」ではなく「大仙陵古墳」である。

記紀、延喜式などの記述により、宮内庁はここ百舌鳥耳原に16代仁徳天皇(真ん中の大仙陵古墳)、17代履中天皇(南の上石津ミサンザイ古墳)、18代反正天皇(北の田出井山古墳)の3陵が築造されたとしている。しかし考古学的には、古いほうから上石津ミサンザイ古墳→大仙陵古墳→田出井山古墳、つまり17→16→18とされ、矛盾が生じ、埋葬者の特定ができない事態になっている。

ここの案内説明板には、そんなややこしい説明は一切なく、大仙陵といった別名もない。堂々と仁徳天皇陵としている。それでよいと思う。

かわりに百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)という別名の説明が長々とあった。この巨大陵墓を作るにあたり(試算では一日最大2000人、15年8か月、のべ860万人が従事したという)、工事中に野原から鹿が飛び出してきて真ん中で倒れた。人々が調べると、耳から中を食い荒らしたモズが飛び出してきたので、この地をそう名付けたと。(しかしそれならシカノミミハラかミミノモズハラだろうと突っ込む)
19:38
仁徳天皇陵ですっかり暗くなり、31年前と同じように近くのJR阪和線百舌鳥駅に向かった。
駅の踏切の向こうに小さな飲み屋街をみて、あのとき明石焼きを食べたのは、三国が丘ではなく、この駅だったのではないか、と思った。店に入るのは仁徳天皇陵を見た後のほうが自然だし。

平日、雨の午後、店に客は誰もおらず、カウンターの中には40代くらいのママさんがひとりだけ。「明石焼きって何ですか?」と聞くと、たこ焼きみたいな玉子焼きを出汁で食べるようなものです、と教えてくれた。小説にでもなりそうな状況であったが、何の進展もなかった。
19:39
JR西日本、百舌鳥駅
31年前、ここから電車に乗ったはずだが駅舎の記憶はない。
19:43発天王寺行きの電車は空いていた。 

20:10
天王寺着
この駅は2014年6月以来。
20:10
1981年就職して大阪で研修を受けて以来、来るたびに大阪は東京よりもお洒落な気がする。
20:12
単なる駅前の空中デッキ1つとっても関東とは違う。

21:45発の高速バスは近くの天王寺公園の前から出る。場所を確認に行き、付近を行ったり来たりしたが、何の案内標識もなく分からない。ついに諦めて地下街におり、食事、休憩できるところを探した。

食べたいものより、空いていて落ち着いて時間をつぶせるところを探すと蕎麦屋が目に入った。
客は男ばかり2,3人だけ。
ヘレカツ丼セット 979円
大阪らしいものを食べるべきだが、ヒレカツでなくヘレカツと名前だけ大阪のものを注文。
20:42
混んでもいないのになかなか来なかったが、時間は十分ある。

食後、天王寺公園に戻る。
21:18
若者のグループやカップルが多い。
21:18
公園内のカフェも洒落ている。
天王寺というビッグターミナルのすぐ横にこれだけの公園がある。
もちろん新宿、池袋などにこういう場所はない。
大阪の若者は恵まれていると思った。
21:19
夜遅くなっても芝生に座って気持ちよさそう。
そういえば栗山千亜紀さんはこの近く、教育大付属天王寺高校だったな。
高校時代の放課後、ここで友達とおしゃべりしたのかな。
21:30
天王寺公園からあべのハルカスをみる。

集合時間21:35のバスがきた。
高野山では早く東京に帰りたくて、バスチケットを捨てて新幹線で帰りたいとも思った。しかし、帰って用事があるわけでもなく、もったいないと考えなおして良かった。おかげで31年ぶりに仁徳天皇陵をみた。

仁徳陵は1992年12月10日。その1週間後に3番目の子供が生まれ、半年後には思いがけずアメリカ留学が決まった。その時の仕事で博士号もとり、イオンチャネル創薬という自分の進むべき道も定まった。しかし研究者としては、そのチャンスを十分生かすことができず、忸怩たる反省もある。ただ、広い世の中を見れば、まあまあ、無事平和な31年を送ったと思う。


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2023年7月24日月曜日

トウモロコシ今年も失敗、キウリは豊作

ナスは例年通り、種から育てることと、苗を購入して植えるものの二つの方法で楽しんでいる。
購入苗は7本植えた。
2023₋07₋13
7月24日時点で7株から合計17個収穫している。
昨年は4株で最終的に98本収穫した(7・24時点では27個)。
今年は出遅れているが100本以上は欲しい
2023₋07₋13
7株のうち2株は長ナスだった。
近所のK青果でキウリ苗と一緒に買った。
ふつう、ホームセンターなどではナスなら「千両二号」とか、ミニトマトなら「ピンキー」、キウリなら「夏秋節成り」とか栽培品種名が書いてあるのだが、その八百屋さんは段ボールの切れ端に乱暴な字で「ナス、1本100円」としか書いてなかった。

日が経つと(キウリなどと一緒に)5本350円、さらには3本200円になったので、その都度、3回に分けて買った。全部同じだと思っていたら、実が生ると5本が普通ナス、2本が長ナスだった。おそらく仕入れのときは栽培品種が書いてあったと思う。店主の性格として、万事このようだと、店もあまり発展しないだろう。
2023₋07₋13
サンチュは放置していたら枝分かれしトウが立ち、草丈は1メートルから2メートルにもなった。下の葉は枯れ、太い幹をみればなんとなくダチョウに似ている。
このあと抜根した。

2023₋07₋13
トウモロコシは2018年以来6年目。
2020年からは自家採種した種をまいている。発芽率は良いのだが、苗によって育ちの著しく悪いものが何割か出る。
今年は30センチ間隔で第一次21本(写真)、第二次9本、合計30本植えた。
しかし発育が今一つ。
髭が枯れていたので何本か収穫した。
2023₋07₋14
初期のころの歯抜け状態より改善されているが、市販品とは程遠い姿。
味は悪くないので、来年も種をまくだろう。そのため1本は種採取用に残している。
来年は肥料をケチらずに思い切りやって、草丈をできるだけ大きくすることが肝要かと思われる。

2023₋07₋17
サツマイモ苗を採取した種芋を掘ったら、新しい根が芋になりかけていた。
世間では5月に苗を植えるが、種芋から出発すると2か月近く遅れてしまう。

2023₋07₋20
この日の収穫。
ナス3本。キウ5本。

今年はキウリが良い。肥料は何も与えていない。うどん粉病もない。
7月23日は8本もとれた。前日もとれ、翌日分もすでに見えるので、この8本は近所の2軒に4本ずつ差し上げた。
7月24日現在、5株合計で55本となった。
昨年は4株、7月24日の時点で56本、最終的に95本だった。
今年は7月下旬でも木が若々しいので、もっと多くとれるだろう。


2023年7月16日日曜日

和歌山7 金剛峯寺は高野山全体か一寺院か

高速夜行バスで和歌山にきた。

7月4日、朝着いて、和歌山城のあとは適当に思いついたところを歩き、午後になって南海電鉄極楽橋から山中を歩いて高野山まで登ってきた。


15:05 
高野山 金剛峯寺 の標柱
ここが結界、すなわち下界(と言っても山道だったが)から聖地への入口(不動坂口)で、こちら側には女人堂がある。

高野山は聖地の名前で、こういう山(峰)はない。標高900メートルくらいの平地で、1000メートルくらいの峰々に囲まれた盆地である。空海はよくこんなところを見つけたものだ。犬に導かれたという伝説も、この秘境性ゆえの創作か。

若くして名声を得た最澄の本拠地が都の丑寅比叡山であったのに対し、当時ここは、はるばる離れた人跡未踏のような奥地であった。
空海はここに来る前、高雄山神護寺にいたが、まだそちらのほうが便利である。と考える今の打算的な俗人とは違って、純粋に修行の場を探したのだろうか? そのあたりは知らない(昔読んだような気もするが、忘れた。もう興味もない)。

今まで登ってきた獣道のような山道と違い、高野山の聖域に入ると、都会のように広い舗装道路と塔頭など建物が並ぶ。密林の中に突如現れた、天空の、宗教都市である。

不動坂口からまっすぐ広い道路が伸び、ゆるやかに下っている。歩いてい行くと左に長い塀があり、見れば蓮華定院。
15:08 蓮華定院
表看板に六文銭があしらわれているところが観光寺院化している。真田親子が高野山に蟄居させられ、麓の九度山に降りるまで仮寓していたことを前面に出している。

宿坊として営業していて公式サイトを見れば
エコノミー:襖仕切りの和室 (風呂・トイレ・洗面別)
 素泊まり 9,200円
 朝食付き 10,200円
 二食付き 13,600円
トイレ付きの特別室だと素泊まり、食事付きがそれぞれ
 24,500~31,000
風呂トイレ付の貴賓室だと
 71,500~83,500
いい値段である。
15:11
徳川家霊台という案内板があったが、行かない。
帰宅後調べたら家康、秀忠の霊屋が2棟あるらしい。高野山は戦国末期、寺領17万石、僧兵3万を擁する大勢力であったが、秀吉に降伏、2万石を安堵され庇護を受けていた。だから徳川時代になって幕府から敵視されることを恐れ、忠誠の証として建てたという。

15:12 別格本山南院 浪切不動尊

本尊の木像、浪切不動明王は空海自作とされる。
全国に散らばる弘法大師伝説はたいてい嘘っぽいが、高野山だと本当かもしれないなと思う。しかし唐から帰国の際、嵐にあってこの像に祈ったら波が静まったという話を聞くと、やはり物語におもえる。

ここも宿坊を営業しているようだ。
大正時代まで日帰りは無理だったから、古くから各寺は宿坊を備えた。いまも117のうち51寺が宿坊を持つ。
京都市内で智積院、妙心寺、仁和寺などに泊まったことがあるが、朝食付きでも7000円くらい。高野山は高い。

疲れているせいもあるが、次から次へと寺院が並ぶと、門をくぐって中を拝見しようという気にならない。
15:13
「高野まき 花浅商店」という看板。
もちろんコウヤマキという植物は知っている。しかしこの店は何だろう?
苗か材木でも売っているのだろうか?
15:13
のぞくと枝がバケツに入っていた。
2,3本で550円という値がついている。誰が買うのだろう? 
通りは誰も歩いていない。お坊さんが買いに来るのだろうか?

コウヤマキが自生するのは日本だけとは知らなかった。
空海は修行の妨げになるとして花や果樹の栽培を禁じたため、仏前に備える花の代わりとしてコウヤマキの枝が使われたという。今も全国の真言宗の寺はコウヤマキなのかな? ひょっとしてこの店は奥で全国発送でもしているのだろうか?
15:17
高野山全体の地図があった。
真ん中に金剛峯寺がある。

しかし高野山は「一山境内地」といわれる。つまり高野山全域が金剛峯寺の境内地とされ、周囲の117寺は塔頭寺院である。金剛峯寺の山号が高野山であるのに対し、他の寺院は山号を持たない。高野山の北の入り口、不動坂口に「金剛峯寺」という石柱があったのも、一山境内地だからだ。
しかし、それなら地図の一点に「金剛峯寺」などという寺を書かず、地図の上部に「金剛峯寺境内図」と書くべきではないか?

考えることはひとまずおいて、先を急ぐ。
お昼を食べていなかった。
高野山に来るにあたり、唯一調べたのが昼食だった。西のほうに高野山名物・胡麻豆腐を使った懐石ランチを2000円程度で出す店がある。

右に金剛峯寺が東門を開けていたが素通り。
すすむと高野山のメインストリートが東西に走っている。西に向かうと金剛峯寺の正門前に出て、そこが観光バスもとまれる駐車場のような広場になっている。
大きな寺寺の前を素通りして、金堂や根本大塔のある金剛峯寺壇上伽藍も素通り。
15:27
金山寺味噌をつけた冷やしキュウリが売っていた。

数年前、根来寺で400年以上前の金山寺味噌が発見された。
午前中、JR和歌山線で根来寺のある岩出を通過したとき、この味噌と、そのたまり液から独立した調味料として醤油が生まれた話を思い出した。
ずっと醤油は根来寺だと思っていたのだが、今回帰宅後調べると、
金山寺味噌というのは鎌倉時代、覚心という禅僧が宋にわたり、そこの径山寺(きんざんじ)で舐め味噌の作り方を学んで帰国、ここの金剛峯寺を経て、独立、開山した紀州興国寺(海に近い由良)の周辺で広めたとされる。つまり、たまり醤油は根来寺ではなく、興国寺であった。

ここ、高野山味噌本舗「みずき」では、金山寺味噌は弘法大師伝承とする。
「高野山麓、採れたて新鮮キュウリ 1カップ¥300」とある。
一本丸かじりかと思ったが、小さく切って上に味噌をかけてあるのかもしれない。
店には寄らず先を急いだ。
15:31
目当ての「ごまどうふ・かどはま」に到着。
高野豆腐は信州の凍み豆腐みたいなものだろうから、たいして好きではないが、ごまどうふはうまい。ただ、昼時を過ぎて営業しているかどうか心配だった。
しかし定休日でなく「臨時休業」。

高野山は道路も広く観光客も多いのに、飲食店や土産物店があまりない。
疲れて早く座りたい。
来る途中、ファミマがあって、店の前にテーブルと椅子があったことを思い出す。
コンビニ弁当でもいいや、と思って引き返す。
15:34
山中のファミリーマート
既に、二組が食べ物を買って外のテーブルにつくところだった。
15:34
他の数少ない店も昼と夕方の間は休みのようだ。
しかし多数の観光客は座ってお茶でも飲みたいだろう。どこに入るのだろうか。
素通りしてきた寺院(=宿坊)の境内に飲食、休憩所があるのだろうか?
15:36
壇上伽藍中門
ふつう、道路に面し寺の前にあれば山門だが、道路自体がすでに境内だから中門。
この門の奥に金剛峯寺の中心、金堂、根本大塔がある。真言密教の根本道場で、奥之院とともに高野山の二大聖地とされる。
先ほど横目で見て素通りしたが、今回も素通り。早くどこかで座りたい。

大駐車場のある広場まで来たら、デジタルミユージアムがあり、そこのカフェが開いていた。
15:44
高野山精進カレー、1180円。
胡麻豆腐がついていたから良しとしよう。

若いお坊さんがきてカフェラテだか何か飲み物をテイクアウトしていた。さっきのコンビニも修行のお坊さんがメインの客なのかもしれない。
16:10
デジタルミュージアムはVRゴーグルをつけていろんなものを見るらしい。
もちろん入らない。
カフェのほうを見るとまた若いお坊さんがテイクアウトしていた。修行の妨げになるとして女、葷酒を禁じたのは昔のこと、今の若いお坊さんは私より世の中の流行を知っているのかもしれない。

遅い昼食を食べたら、もう下界に帰りたくなった。
朝、和歌山駅でもらった高野山の観光案内をみると、東のほうに空海入定の地とされる奥之院がある。そこに至る2キロメートルの参道は何百年も経た杉の老木がそびえ、木々のあいだに多数の大名の供養塔、石廟、墓所が並んでいるという。高野山の大きな見どころであるが、疲れているのか、ちっとも見たい気が起きない。もともと高野山は目的地ではなかったので、来たことだけでも奇跡。十分満足。さっさと帰りたい。

デジタルミュージアム、駐車場の前にバス停があり、そのまえに金剛峯寺の正門があった。
16:13 金剛峯寺正門
せっかくなので覗いてみる。
16:13
屋根は檜皮葺き。
16:14
帰りのバスの時刻を見てくるのを忘れたので退出。
16:20
バスの発車までまだ時間があったので再び境内に入る。
大広間の廊下を子供が走っていた。
大衆化して誰でも簡単に登山できるようになると、しつけのできないバカな親まで来てしまう。子供だってこんなところ連れてこられて迷惑だろう。
こういうとき係の者はきつく注意すべきではないか?
16:24
正門の脇に金剛峯寺の説明板があった。
金剛峯寺と言えば、平安時代初期に空海が建てた寺と中学校で習った。社会の先生は三文字のお寺は珍しいと言ったことを覚えている。しかし、ここの金剛峯寺の説明は西暦1131年覚鑁上人から始まる。まあ、空海存命中、高野山にはほとんど建物はなかったそうだが、それにしても空海の文字が一切ない。はて?

それから、金剛峯寺は一山境内地というのに、ここに正門があるのはなぜか?

帰宅後調べると、明治の神仏分離令で、秀吉が高野山(=金剛峯寺)に建てた青巌寺と興山寺が合併し寺号が金剛峯寺と改められた。これ以降、金剛峯寺は高野山全体ではなく、高野山真言宗の管長が住む総本山寺院を意味するようになったらしい。

バスは16:28に出発。
西に向かい、胡麻豆腐角浜の前を通って、町石道に面した高野山西の入口、大門を経て、高野山駅に着いた。300円。
ここからケーブルカーに乗る。
16:43
ケーブルカーの高野山駅の二階待合室は展望が素晴らしい。
16:44
ケーブルカーは16:59発。500円。
17:03
ケーブルカーの終点、極楽橋が近づくと、私が登ってきた京大阪道がみえた。
大変な上りを経験したら下りは簡単だからまた歩けばいいのに、と思うだろう。
しかしあの道は疲れて暗くなったら危険ということが分かった今、もう歩いて降りようとは思わなかった。

17:04ケーブルカーは極楽橋着
17:09南海電車、極楽橋発、17:49橋本着
17:59南海(急行)、橋本発
大阪の中心、天王寺の隣・環状線の新今宮まで48分、18:47に着く。

もう家に帰りたいが、帰路も高速バス。発車は天王寺が21:45、梅田なら22:30。
もう見たいものはない。疲れた。
チケットは捨てて新幹線で帰ろうかな。

(続く)