2017年11月27日月曜日

柿の剪定と7年の回顧

桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿、柿折らぬ馬鹿

久しぶりの休日なので庭をのんびり眺めていて、カキの木を切ることにした。
桜切るバカ柿折らぬバカというから、少々乱暴に切ってもいいだろう。
枝を払えば、後ろのイチジクや手前のフキ、菜園も今より日が当たる。
ということで迷わず切ったのだが、無残な姿をみて、写真に撮っておけばよかった、と後悔した。
2017-11-26

そこで、今まである柿の写真から在りし日をしのぶ。
2011年7月

2011年この家に初めて来たときは、庭が藪で、柿の木があるとは思わなかった。
2012年8月、自分のものになっても、カイズカイブキと桜に挟まれた小さな木は、カラスウリの蔓に覆われ、気が付かず。
2013年4月に引っ越して、生垣だったカイヅカイブキを抜根し、レッドロビンにした時、ようやくその存在に気が付いた。

実がなるかどうか心配だったが、桜の枝を2年続けて強剪定し、日が当たったせいか、いくつか実をつけた。しかし赤くなる前に、熟して落ちてしまう。
2013-12-10
引っ越してから最初の冬。

2014-4-13
我が家の柿は実を食べるより、新緑を楽しむためにある。
真っ赤なレッドロビンと、黄緑に光る柿の若葉のコントラストは、とても美しい。
桜の大木と違ってまったく費用が掛からないが、桜以上に春を楽しませてくれた。
2014-10-12
2年目の2014年、大量に実がついた。味は甘いが、色づく前に柔らかくなってしまう。10/12から11/21にわたり収穫。
2014-10-12
ことわざの、~柿折らぬ馬鹿、というのは、カキをとるとき、実ごと枝を切るのが良いということらしい。その年実がなった枝は翌年生らないから、透かし剪定を兼ねて折ってしまえというのだ。

柿は大量に生ると翌年は不作らしい。食べるだけ残し、摘花するべきだったか。
2015年は実が一つしかならず。
2016年は一つもならず。前年の剪定が失敗したか。
2017年、ようやく実がたくさんなったが、7月のヒョウでひとつ残らず落下。

昨年お隣さんから渋柿をもらって干し柿を作った。今年は何も音沙汰ないのは、やはりヒョウで全滅したのだろう。

2018年は、どんな日々に若葉を見るか?
実が生ったら、どんな状況で食べられるか?
2016-4-3
柿の葉は桜より早い



千駄木菜園 (庭・植物のみ)目次 (庭と野菜つくり)

千駄木菜園 (総合)目次 (お出かけなど)

生姜収穫したが。大根、白菜、

4か月前の7月、きれいに洗って味噌をつけて食べる直前、気が変わって植えた生姜。
実験だったので7本に分けて、4か所に植えた。
場所がなかったし、ミョウガに似ているから日陰でもいいのではないかと、ほかの作物が育たない暗いところに植えた。
2017-7-21

きょうは久しぶりの家にいる日曜、秋晴れ。
ネットでは収穫の時期だし、葉っぱも枯れかけ光合成も終わりに見えたので、掘ってみた。一番日当たりの悪いところは茎が腐って枯れてしまい、3か所から5本掘りだした。

2017-11-26
一本から芽が、2,3本出たのもあるが、いずれも非常に小さい。
まあ、本来は春に種生姜を植えるところを、夏に根塊から出てきた芽を一本ずつ埋めただけである。その芽を秋まで維持したと考えれば、この程度であろう。それとも日照不足か。

さてどうするか? 食べるにはあまりに小さい。来年の種生姜にしよう。
ネットを見ると、土つきのまま新聞紙などにくるんで室内保管とある。大量にある場合は土の中に、もみ殻など保温性のあるものと一緒に保管とある。
低温にさらすと傷み、発芽しなくなるそうだ。

しかし自然に越冬できないものだろうか。野生の生姜は露地で枯れ、翌春その場所で発芽したはずである。品種改良?で弱くなったのだろうか?

2017-11-26 大根
今年は発芽しても何者か(ヨトウムシ?)に食われ、株数がへり発育も遅れたが、何とか例年並みに育ってきた。しかし農家の畑や、種袋に書いてある成長目安と比べるとだいぶ遅い。

白菜
どうも今年も葉が巻きそうもない。

キャベツ。
これは小さくてよい。
秋に大きくなってしまうと春に葉がまく前にトウがたってしまう。


2017年11月23日木曜日

松代4 皆神山と松代地震

松代の思い出

(1)小学校の遠足
覚えているのは
・文武学校。当時は観光スポットでなく、松代小学校がそのまま使っていたから中には入れず、道路から眺めた。ちょうど掃除の時間で、同い年くらいの児童が竹ぼうきで落ち葉を掃いていた。下駄箱に西日が当たっていた。
・象山神社。
・海津城。崩れそうな石垣のほかには何も残っていなかった。石垣のすぐ際まで田んぼで、掘も櫓もなく、小学生が持つ城の勇壮なイメージはなかった。
3か所とも午後から夕方の記憶で、それ以外何も覚えていない。ということは、松代が目的地ではなく、県庁の社会科見学のあと、川中島古戦場経由、松代に立ち寄っただけかもしれない。

(2)自動車学校のドライブ
高3の冬、受験モードに入り登校日がめっきり減ったとき、通学定期を買わなかった。長野電鉄の信州中野から長野までの電車賃は高い。そこで須坂の自動車教習所に入学し、無料送迎バスを利用しようと考えた。高校生割引も聞いたから教習所費用は6万6千円だった。大学入試前は座学受講を中心にして、一番後ろで暗記科目の内職をしていた。入試後から本格的に実技に入ったのだが、入学式前に入寮手続きとか健康診断とか、たびたび上京せねばならず、春休み中に免許がとれなかった。
夏休みに路上運転を再開、すぐに仕上げとなった。当時、この自動車学校は、最後に2コマ使って遠距離ドライブする。しばしば当たって親しくなった教官は、目的地を松代に指定した。こちらも春以来無免許で練習を十分して慣れているし、教官もあまり教える気がなく、ただのドライブ。最初は東京の話をしていたのだが、私が農家の長男にもかかわらず進学したことで、長野に戻らないことを予言し、いろいろ心配してくれた。
松代は道が狭いため、神経を使う。そこで海津城ちかくの駐車場に止め、百姓はどうするのか親は何と言っているのか、勉強できると皆東京へ行ってしまう、など色々言われた。(今思うとご自分の子息のことだったのだろうか)
話が長引き、どこにも寄らず真っ暗な道をまっすぐ教習所に戻った。

(3)1995年5月、家族で訪問。子どもたちは9,6,3歳。
実家から近いのに、松代観光は初めてだった。両親と一緒に信州中野からドライブ。真田宝物館、真田邸、海津城は定番だが、当時は観光客のいなかった松代大本営の工事跡、気象庁地震観測所、松井須磨子生家もいった。

(4)それまでの帰省は、菅平越え須坂に降りるか、草津から志賀高原に降りるか、どちらかであったが、上信越自動車道(1996年11月開通、片道1車線区間多し)ができてからは松代の横を通ることになった。帰省するたびに皆神山が目に入り、子供たちはプリン山といって喜んだ。

(5)そうそう、我々にとって松代と言えば、松代群発地震。
1965年から5年半続いた。震源地は皆神山付近。
総地震数は71万回。このうち、有感地震は6万3千回
 震度5: 9回、
 震度4: 48回、
 震度3: 413回、
 震度2: 4596回、
 震度1: 5万6253回
を数えた。世界的にも珍しいという。
大きな地震は65年66年に集中。私が小学校3年4年の時。座布団が頭巾になっていて、揺れるたびに机の下に隠れた。あるとき窓際の金魚の水槽からざぶんざぶんと水がこぼれ、ずり落ちそうになったとき、先生が飛び出して水槽を床に下した。先生はやっぱり偉いなと思った記憶がある。

2017年11月18日は、この(4),(5)の皆神山を訪ねた。

長野ICから出る直前の松代SAから。
プリンの形が今一つ。
Wikipediaから拝借
高速道路から見るとこんな感じ。

googleマップは長野では立体ビューができない。

車で頂上に上がろうと裏(南側)に回る。
近づくとプリンの形は見えない。

まだ麓なのに道が狭く、すれ違いもできない。
息子は嫌がり、登頂は断念する。


1995年の海津城。
この時すでに城門などが復元され、すっかり観光地になっていた。
2017年はもっと整備されているのだろう。


千駄木菜園 総目次

松代3 松代駅と草川信、海沼実

松代駅に寄った。
経営が苦しい長野電鉄は、木島線(2002年)に続き、松代を通る屋代線(2012年)も廃止した。しかし廃止5年後の駅舎はよく保存されている。
嬉しい。
確か、単式1面、島式1面の3線のホームがあったが、そこは今、無料駐車場になっていた。

点字ブロックが残るホーム
駐車場の向こうは松代城(川中島合戦のころは海津城といった)

案内板もそのまま

バスの待合所として今も使われているようだ。

外に出ると汽車ポッポの歌碑。
作曲した草川 信(くさかわ しん、1893- 1948)は松代出身。
彼の名前を知らぬとも、彼の作曲した
 ゆりかごの唄(北原白秋)
 夕焼小焼(中村雨紅)
 兵隊さんの汽車(富原薫・戦後GHQの指令で歌詞を『汽車ポッポ』に変更)
 緑のそよ風(清水かつら)
 どこかで春が(百田宗治)
は皆知っているだろう。

松代の凄さは、この小さな田舎町から童謡唱歌の作者が何人も出ていることである。
海沼實(かいぬま みのる、1909 - 1971)が作曲したのは、
 あの子はたあれ S14、細川雄太郎
 お猿のかごや S13、山上武夫
 からすの赤ちゃん S16、海沼實
 里の秋 S20、斎藤信夫
 みかんの花咲く丘 S21、加藤省吾
が有名である。
音羽ゆりかご会を作ったこともあって、歌碑が文京区の護国寺にある。

作詞のほうは山上武夫(1917-1987)がいる。最初は草川を訪ねたが、そこで偶然会った海沼とコンビを組む。お猿のかごや、見てござる、ほしがりません勝つまでは、生まれた兄弟11人、など

坂口淳(1908- 1974)は小鹿のバンビを書き、歌碑が真田公園にあるそうだ。

北信濃は中山晋平(中野)、高野辰之(旧豊田村)もいて童謡唱歌の故郷と言ってもよい。

松代で他に有名なのは松井須磨子とか、硫黄島の壊滅的状況で徹底抗戦を指揮した栗林忠道とか。22年前に来たときは、松井の生家とすぐ隣の墓を訪ねた。栗林は草川と同じく長野高校の先輩でもある。
町が非常に小さいから文化の高さが際立つ。

しかし戦後の有名人は誰もいない。
明治以降、衰退する一方、眠ってしまった小さな城下町らしい。

今後も、変に観光開発されないことを望むが、しかし今官民一体となり観光客誘致に励んでいる。彼らは観光客が増えれば増えるほど魅力がなくなることが分かっていない。



2017年11月20日月曜日

松代2・象山神社と恩田重信生家

象山地下壕を出て、川沿いに北へ向かう。
松代は緩やかな北向き斜面で川はすべて北の千曲川に向かう。
象山の中腹にたつ淡島神社

2,3分下ると山寺常山邸。幕末の兵学者、教育者。
佐久間象山、鎌原桐山(儒者・象山の師匠)とともに松代三山と呼ばれた。

このあたり代官町。武家屋敷が多い。
ようやく観光客が出てきた。
川には鯉がいる。

そのまま少し下ると象山神社。
ぞうざんと入れても変換されず、しょうざんと入れると象山となる。
えっ、と思って聞くとしょうざんと思っている人が多い。
でも長野県人はゾウザンである。

「信濃の国」の5番

旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず

みんな、「ゾウザン、サークマ先生も~」と歌う。

佐久間象山は幕末維新の活動家に大きな影響を与えた思想家である。
有史以来、一番全国的に有名になった信州人ではなかろうか。
その造山神社(ええい、変換が面倒だ!)に行った。
乗馬像がある。
まだ新しい。NHK真田丸に合わせて作ったのだろうか(建造年を確認せず)

ここに寄ったのは、50年前小学校の遠足で初めて松代にきたときの記憶が3つしかなく(海津城、文武学校、象山神社)、その1つだからである。

うしろは大本営工事が行われた象山。
佐久間修理はこれを号とした。

50年前の遠足で覚えているのは、先生があの山が象山だと教えてくれたこと。
それだけ。
私も含めておそらく小学生全員、佐久間象山については、信濃の国に歌われていること以外、何も知らなかった。

松代は武家屋敷が多く残っている。
萩は知らぬが、角館などより多いのではなかろうか。
ここは象山神社のすぐ東に隣接する恩田邸。
塀はつながっているが門が二つ、中の建物はいずれも国登録有形文化財。南側(手前)は現在も住んでいらっしゃる。この二軒はどういう関係だろう?

北側は門が閉ざされていて、立札がある。
恩田重信、明治薬科大創設者である。
茅ぶきのような母屋の屋根がみえた。

駐車場に戻る途中、また武家屋敷。
井上操生家。
司法省法学校を出て司法省、東大教授を辞めて判事となる。
こちらは関西大学創設者。

法律と言えば、象山神社にあった碑文を書いたのは、松代藩出身の横田秀雄・大審院長。その長男は横田正俊  第4代最高裁判所長官。親子で東大教授とか総理大臣はいるが、親子で司法のトップになったのは珍しい。
観光地図を見ると恩田邸も井上邸も出ていないところが松代の凄さである。
載っているのは、矢沢家、横田家(この家は大審院長や鉄道大臣、『富岡日記』の和田英など多くの俊才を出したことでも有名)、白井家、樋口家、前島家など。
寄ってみたかったが、時間がないので割愛。

松代の地図は今時珍しく南が北である。
駅正面、あるいは城から市街を見ると南に広がっているからか。


2017年11月19日日曜日

松代1・大本営予定地跡

11月18日 日帰りで信州中野に行った。
毎年お盆に帰っているのだが、今年は原因不明の発熱と歩行困難により帰省できなかった。それで3か月遅れで母親の顔を見に行ったのである。

息子にレンタカーを運転してもらい、妻と一緒に朝5:15、千駄木出発。
途中、長野ICで降りて松代に立ち寄る。
松代は1995年5月、家族で行って以来22年ぶりだが、高速道路で帰省するときは必ず皆神山をみていた。
8:50、観光駐車場はまだガラガラ。軽トラ1台だけ。

最初に行ったのは松代大本営地下壕(象山地下壕)の工事跡。
息子を誘うに当たり、いろいろ松代の魅力を話したとき唯一興味を示した場所。
彼は防衛省にいる。

途中までの道はすっかり忘れていたが、案内板に従ってたどり着くと記憶がよみがえった。以前と変わったところは、ヘルメットが用意されたこと、おじさん一人の案内小屋ができたこと。公開は9:00からだが、ちょうどその時間になっていた。

2017‐11‐18
1995年5月。長女と次女と。
壕が試験的に公開されたことを知り、訪問。
しかしすでに「不戦の誓い」はある。

1995年はヘルメットがなかった。
公開部分も入り口付近だけ。

2017
今は入り口付近の斜面は板が敷かれ歩きやすくなった。

延々と続く。
ところどころ補強されている。
我々のほかには誰もいない。
22年前に来たときは動員された朝鮮人労働者が残したとされるハングル文字の落書きなど探そうとした記憶がある。今回はそういう案内も何もなかったので、むしろ全体の大きさを感じることができ、当時の作業の大変さが想像できた。
松代は海岸から遠いという点と、地盤が強いという点で選ばれた。
象山は小さい山だが薄皮まんじゅうのように岩盤の塊のうえに土の皮がついている感じ。
資材、燃料、食糧あらゆるものが不足するなか、昼夜兼行で働かされた人々の苦難はいかばかりであったか。
公開部分の限界の遠くに、山の反対側の入り口が見えた。

象山地下壕は大本営つまり陸軍、海軍の中枢が入る予定だった。戦後一部を信州大学が宇宙線観測所として利用している。22年前、森さんに話したら父上の勤務先だそうで、「前もって言ってくれたら見学できたのに」といわれたっけ。

22年前と比べて変わったところはまだある。
一番目立ったのは朝鮮人犠牲者追悼碑。

働き盛りの男は根こそぎ軍隊にとられ、極端な労働力不足の状態で、昭和19年10月、急きょ突貫工事が命ぜられた。満州から部隊が呼び寄せられたり、地元勤労奉仕隊のほかに多数の朝鮮人労働者が過酷な労働に従事させられた。
ダイナマイトとつるはしで掘り進める作業は危険であり、また劣悪な食事、居住環境で健康を害すこともあり、亡くなった人もいたのであろう。
人数については、実際知っている人は口をつぐむし、明らかにしようとする人は誰も証拠がないから大げさな数字を出す。

朝鮮人の待遇や、動員までの経緯(強制連行か、賃金を払う労務者か)に関しては、いろいろな説がある。しかしハングルの目立つ記念碑は、今となると従軍慰安婦少女像を連想させてしまい、政治的なにおいがして良くなかったのではないか。

ガイドさんもいるらしいが、左か右、どちら側に立っている人かで、説明が異なるであろう。この理由で新しくできていた記念館も入らず。

平和の大切さ、戦争の愚かさ悲惨さは、堅い岩盤と縦横に走る長いトンネルを見るだけで十分伝わる。

22年ぶりに書棚から本を取り出した。
『信州・昭和史の空白』(信濃毎日新聞社、1993)

松代は象山(イ地区、大本営)、舞鶴山(ロ地区、両陛下御座所)、皆神山(ハ地区、備蓄庫)で工事が進められた。9か月で総延長10kmに及んだ。国家の中枢を移すのに、松代だけでは足りず、北の須坂や長野市のほうにも地下壕が掘られた。
ここまでして戦争を続けようとするのは狂気である。おかしいと思った民衆もいただろうが、反対もできず黙って従った。

ここから少し離れた舞鶴山地下壕は、手前にコンクリート製の建物が作られ、戦後は気象庁地震観測所となった。22年前きたとき、皇后御座所が地震関連の資料室になっていて、江戸時代の善光寺地震(1847)の研究資料(被害地図など)が展示されていた。現在は非公開というのでいかなかった。



2017年11月13日月曜日

谷根千トークショー:中野屋と柏湯

地域雑誌『谷根千』は、説明するまでもないほど有名だ。
存在は80年代の初期から知っていた。
しかし書店にないため、実際に中身を読んだのは千駄木に越してきてからだった。
正直、その内容の濃さに驚いた。
全94冊の、ネットにあった目次をすべてワードにコピペし、検索用ファイルを作ったほどだ。

さて2017年11月、これが廃刊されて8年、

“はじまりの谷根千: 地域雑誌「谷中根津千駄木 」とローカルメディアのこれから”

と題して、谷中Hagisoを会場に、谷根千創刊1984年ころの初心を振り返り、いろいろ考えようという催しが行われている。
その一環で11月12日 (日)トークイベント があった。

ネットでみると
第一部:14:00 - 16:00
 「町の先輩に聞くーどなたの話が聞けるかお楽しみ。」
 会場:初四会館(谷中3-10-1 / HAGISO 隣の建物)
 予約不要・入場無料
第二部 :18:00 - 20:30
 「谷根千とはなんだったのかーローカルメディアのまちづくり」
 登壇者:野池幸三、森まゆみ / 司会進行:宮崎晃吉(HAGISO)
 会場:HAGISO
 予約不要・入場料1000円(雑誌「谷根千」1冊付)
とある。

第二部に森まゆみ氏がでる。
40歳を過ぎたころ、鴎外の坂、谷中スケッチブック、不思議の町根津、一葉の四季などを読んだ。著者、森まゆみ氏に興味を持ち、とくに千駄木に越してからは実物を拝見する機会を狙っていた。
先の7月にも北区主催、田端文士村記念館で彼女が「伯母、近藤富枝を忘れない」と題する講演をされたのだが、用事があっていけなかった。

いつでも行けると思っていると、行けなくなる、
とは分かっているのだが、今回も彼女が登壇する第二部は、1週間ぶりの貴重なダンスの練習があって出られない。

しかし、谷中の古老のお話というのも、何かあるだろうと第一部だけ出ることにした。
会場は岡倉天心記念館のすぐそば。
5分前に着くと、入ってすぐの土間のような小さな部屋の入口に受付があって、何と妹さんの仰木ひろみ氏が座っていらっしゃる。彼女には2016年8月本郷図書館の谷根千懐かし写真展で少しお話ししたが、向うは覚えていらっしゃらないだろう。

そばの階段に座っておしゃべりされていた女性も山崎範子さんだとすぐわかった。谷根千ネットの今月号で「宮澤芳重―根津に住んだ哲学者のこと」を書いていらっしゃる。お顔は存じ上げていたが、実物は初めて。この時点でああ来てよかった、と思った。

そして中を覗いたら、なんと森まゆみさんもいるではないか。古老のお話しを聞きに来ただけなのに、期せずして谷根千を26年出版し続けた3人にお会いすることができた。

狭い部屋は、前に彼女ら3人と町の先輩が座り、森氏がインタビューする形。
客席はパイプ椅子3列だが、20~30脚位か。定刻に始まったとき彼女ら含めても16人、話してくれる方お二人、録音係とか、谷根千工房や企画の関係者、友人を除くと、私のようにポツンとした一般人は3,4人しかいなかったのではないか? 
遅れてくる人もいて席はほぼ埋まったが、まことにぜいたくなトークショーだった。

森さんによれば、1984年に創刊したころは、録音も写真も今ほどきちんと取っておらず、お元気なうちにもう一度、記録したいというのもこのトークショーの目的の一つだという。

一人目の町の先輩は、金子誠さん(後でネットで確認した)。
最初誰だか分らなかったが、そのうち佃煮の話になり、「中野屋」のご主人と分かった。日暮里駅北口から夕焼けだんだんへ行く途中、経王寺となりの老舗佃煮店である。大正15年生まれだから91歳。金子さんは西日暮里3丁目の町会長で日暮里富士見坂を守る会の会長(今も?)。

以下、メモ
・父上英雄さんは布佐で旅館「中野や」をやってらした。銚子へ遠槽のボート部員の宿でもあった(東大ボート部の艇に「三四郎」、「旭」のほか「行徳」、「布佐」などがあった)。上京して「エビや」で修業、震災では本所被服廠が満員で隣の安田庭園に行ったので助かったとか。直後、大正12年10月、日暮里にあった佃煮屋を居抜きで買い、創業したという。
・誠さんは昭和12年日暮里第一小学校卒。「床が透けて見えた」老朽化で諏訪台通り東側から西側の修生院の裏の空き地に移転したのは昭和11年。神田製鋲がグランドを接収した。そのあと白山の京北実業まで歩いて通ったが、授業はほとんどなく、成増、立川の飛行機工場で勤労奉仕。スキーで骨折、昭和20年の徴兵検査では1年猶予され命拾い。3月4日の大空襲は、松戸にいた。昭和2年に建て替えた店は無事。
・前の道は今の歩道位の幅しかなく、せんべい屋さんと話ができたほど。戦時中に建物疎開で南側が下がって道が広がった。
・戦後は銀行に就職、昭和43年に店を継ぐ。姉上(T13生まれ) と店に立つ(えっ、今も?)。
・諏訪神社の改築費を出す代わりに、裏を墓地にさせてほしいという業者に騙され乗っ取られそうになるのを町会長として阻止。
・木村武山、片山哲、いずみたく、及川らかんの話が出た。宮沢りえ、中尾彬がウナギの佃煮を褒めたことで一気に有名になったとか。
・富士山は永遠、隠したビルは有限、ビルが建て替えられるときこそ景観を取り返さなくてはならない。(これには頭が下がる)

参加者は、終わると拍手も高く、メモを取るなど意識の高い人が集まったようだ。
森さんは、親の出身、職業から一世代前の昔話を聞きだすなど、質問がうまい。当時は3時間くらい話を聞いたそうだが、今日は1時間で切り上げ。

中休みで中野屋のアサリ佃煮がふるまわれた。
楊枝の刺さった皿が回ってきて、遠慮して1つだけとった。両側の人は分からなかったが、斜め前の人は手のひらに幾つも取っていて、ちょっと後悔した。
ふだん佃煮は漬物ほど食べないのだが、変に甘くなくて旨い。味が濃いからそのまま白飯にまぶすと深川めしになる(山崎範子氏)という。
続いて甘納豆が回ってきて、3粒突き刺した。

次の話し手は、
谷中坂町の松田橿雄さん。S15生まれ。忍岡小、白山の東洋大卒。
松田家は柏湯と善光寺湯のオーナーだった。橿雄さんは7代目。

・柏湯は谷中交番の前、谷中で最も古く1804(文化元)年、今から200年前に創業された。(1787(天明7)年とも)
・松田家は戦後、根津に降りる坂の途中、善光寺湯を買って、柏湯の方は人にやらせた。
・柏湯は上野桜木に隣接しているから宇野浩二、川端康成、武見太郎の名前が出てくる。
・芋を洗うようだった戦後は燃料がなく、復旧した電気で沸かし(3300ボルトの高圧腺から直接引いたという)、その後、薪、重油に変わっていった。

・善光寺湯をついで7年ほど経ち、銭湯経営が苦しくなってきた昭和51年、柏湯があったこともあり廃業、ビルに建て替えるとともに、まだ東京に2,3軒しかなかったリトルマーメイドのフランチャイズ店になる。収益予想を見たとき一桁多いのではないかと思ったほどだが、実際儲かった。

(昭和53(1978)年から谷中真島町に住んだ私は何回かパンを買った。アンデルセンの食器目当てだった。いま谷根千74号(2003年)で確認したら、毎月15日がリトルマーメイドの日で600円以上買うと食器がもらえると書いてあるが、78年はもっと安かったかも。食器は毎月違った。2013年千駄木に越してきて懐かしの赤札堂と合わせて見に行ったが、店はなかった。)

・柏湯のほうは1991年廃業、廃墟となったが劇団第7病棟が借りて「オルゴールの墓」を上演。それがきっかけとなり、松田さんは芸大が近いので芸術関係のものにしたいと、93年ギャラリー、スカイザバスハウスに生まれ変わった。

・松田さんは谷中坂町420世帯、16か寺の町会長であり、街づくりに尽力されている。
・マンション林立の地域開発、急増の観光客、古くからの商店は後継者がおらず、貸すとたいてい観光客相手の土産物屋みたいになる現状について、「少しハードルを高くして、本当に来たい人だけ受け入れたほうがいいのではないか」と仰った。
・建設説明会でも、建てる側は皆出席し、町の人は出ないものだから容積率がどんどん緩和されてしまうとも。

終わって、帰り始める中、松田さんにアンデルセンの食器をまだ持っていることを話すと喜ばれた。
このとき傍で、森さんが残った佃煮と豆を袋に戻していたが、少しだけお皿に残してつまんでいらした。直後に森さん仰木さんとも言葉を交わすことができたのだが、上がってしまって馬鹿な話をしたうえ、アサリもつまめなかった。
しかし嬉しい気持ちで外に出た。
谷中初四町会会館
谷中初音町四丁目は、谷田川跡に沿って道灌山通りの北まで細長く続く町であったが、昭和42年?に町名変更で初音は消えた。旧字体で書いてあるところから見ても、古くからの地域への愛着が感じられる。

岡倉天心公園まで来て振り返ると、森さんたちも荷物をもって反対方向、千駄木方面へ歩いていくのが見えた。

こちらは大宮でダンスの練習がある。
来週競技会なのに、11/5以来全く練習していない。貴重な練習日に遅れるわけにもいかず駅へ急ぐ。
七面坂を上がり、中野屋の前を通ったら、いつものように谷中散策の人たちが佃煮を買っていた。さっきのアサリの味が思い出された。


千駄木菜園 総目次

2017年11月12日日曜日

東大7 観光地化と銀杏・メトロの今

11/11 土曜とはいえ、非常に観光客が目立った。
年配の人はもちろん、子ども連れ、若者も多い。
絵を描いている人もいる。
安田講堂から三四郎池あたりはイベントでもあるかのように人が集まって写真を撮り、浜尾像の碑文をどう読むか大声で話している。

近年、たとえば谷中あたりを見てもリックを背負って散策する人が増えているが、本郷キャンパスの増加は急激である。
確かに谷中や上野公園よりずっと快適だし、古い建築や歴史的記念碑、図書館、博物館、学食レストランもあるし、都会とは思えない池も緑もあって、しかも無料である。
老若男女、どんな背景の人でも楽しめる。少し前まで大学など観光スポットとは思われなかったのだが、テレビや本で紹介でもされたのか、この大きな穴場にみんな気づいたようだ。

この日は高校生の団体もいた。付き添いの先生もきている。聞くと酒田東という。案内しているのは東大の学生の様だ。少子化がすすみ、東大も積極的に優秀な学生を取ろうとしている。多様性を増やすため女子と地方を狙っているのだろう。
総合図書館から工学部1号館を望む。
上の写真の1本東側の通り

さて、医学図書館で調べ物をしているうちに午後1時半を過ぎてしまった。
中央食堂が工事中で休みだったので銀杏に行こうと地下に降りた。写真の左側は生協(家電、家具)だったのだが、引っ越して閉鎖されたのか、土曜で閉店したのか、汚くて雑然としているため不明。

ソフトクリームの看板が出ているところから銀杏に入ろうとしたら、銀杏とメトロが一緒になっていた。
かつては和風の銀杏と喫茶店のメトロと全く違う店だったのに。

食券を買おうとすると、中国人の団体がいた。
留学生ではなく、ふつうの訪日観光客だった。言葉もわからないようで、まとめて買うこともせず、一人一人、自分の番が来てから考え、身振りでやりとりしている。自分の注文なのに写真を撮っているものもいる。
私はいらいらしているのだが、そのすぐ後、私の前にいる2人の日本人学生(男女、一人ずつ)はじっと黙って待っている。ここは助けるか、はやくしろ、とプレッシャーをかけるか、どちらかだと思うのだが、大人しいというかお行儀がいいというか。

350円のカレーをもって右側、昔のメトロ側に行った。
驚いたのは、席が図書館の勉強机のように衝立で二人ずつになっている所が多いことだ。窓際はすべて一人用に窓を向いている。

食券売り場でじっと待っている学生と、相席を嫌い窓に向かう学生。
昔とは変わってきたのかな。
1979年、ゆったりした赤いソファーで、私はフジキヨ君と毎日、ほぼ同じ場所、窓を背にして、カレーとハンバーガー1つ、食後にソフトクリームという決まったメニューを飽きるまで数か月続けた。
タバコの煙こそなかったが午後ずっとたむろしている者ばかりの、ちょっと退廃的雰囲気だったメトロが、こんな味気ない無機質な場所に変わってしまうとは・・・。

下膳口に行く途中、銀杏側を見ると座敷はかろうじて残っていた。しかし小さくなったような気がするし、縄を編んだような居酒屋風の椅子がすべて(メトロ側と一緒の)プラスチックになってしまい、まったく和風ではなくなった。
帰り際、写真を取ろうと思ったらまた観光らしきカップルがメニューをのぞいていた。
銀杏などはアルコールも出て、夜などは居酒屋的な雰囲気があったのだが、これではミニチュア中央食堂である。