地域雑誌『谷根千』は、説明するまでもないほど有名だ。
存在は80年代の初期から知っていた。
しかし書店にないため、実際に中身を読んだのは千駄木に越してきてからだった。
正直、その内容の濃さに驚いた。
全94冊の、ネットにあった目次をすべてワードにコピペし、検索用ファイルを作ったほどだ。
さて2017年11月、これが廃刊されて8年、
“はじまりの谷根千: 地域雑誌「谷中根津千駄木 」とローカルメディアのこれから”
と題して、谷中Hagisoを会場に、谷根千創刊1984年ころの初心を振り返り、いろいろ考えようという催しが行われている。
その一環で11月12日 (日)トークイベント があった。
ネットでみると
第一部:14:00 - 16:00
「町の先輩に聞くーどなたの話が聞けるかお楽しみ。」
会場:初四会館(谷中3-10-1 / HAGISO 隣の建物)
予約不要・入場無料
第二部 :18:00 - 20:30
「谷根千とはなんだったのかーローカルメディアのまちづくり」
登壇者:野池幸三、森まゆみ / 司会進行:宮崎晃吉(HAGISO)
会場:HAGISO
予約不要・入場料1000円(雑誌「谷根千」1冊付)
とある。
第二部に森まゆみ氏がでる。
40歳を過ぎたころ、鴎外の坂、谷中スケッチブック、不思議の町根津、一葉の四季などを読んだ。著者、森まゆみ氏に興味を持ち、とくに千駄木に越してからは実物を拝見する機会を狙っていた。
先の7月にも北区主催、田端文士村記念館で彼女が「伯母、近藤富枝を忘れない」と題する講演をされたのだが、用事があっていけなかった。
いつでも行けると思っていると、行けなくなる、
とは分かっているのだが、今回も彼女が登壇する第二部は、1週間ぶりの貴重なダンスの練習があって出られない。
しかし、谷中の古老のお話というのも、何かあるだろうと第一部だけ出ることにした。
会場は岡倉天心記念館のすぐそば。
5分前に着くと、入ってすぐの土間のような小さな部屋の入口に受付があって、何と妹さんの仰木ひろみ氏が座っていらっしゃる。彼女には2016年8月本郷図書館の谷根千懐かし写真展で少しお話ししたが、向うは覚えていらっしゃらないだろう。
そばの階段に座っておしゃべりされていた女性も山崎範子さんだとすぐわかった。谷根千ネットの今月号で「宮澤芳重―根津に住んだ哲学者のこと」を書いていらっしゃる。お顔は存じ上げていたが、実物は初めて。この時点でああ来てよかった、と思った。
そして中を覗いたら、なんと森まゆみさんもいるではないか。古老のお話しを聞きに来ただけなのに、期せずして谷根千を26年出版し続けた3人にお会いすることができた。
狭い部屋は、前に彼女ら3人と町の先輩が座り、森氏がインタビューする形。
客席はパイプ椅子3列だが、20~30脚位か。定刻に始まったとき彼女ら含めても16人、話してくれる方お二人、録音係とか、谷根千工房や企画の関係者、友人を除くと、私のようにポツンとした一般人は3,4人しかいなかったのではないか?
遅れてくる人もいて席はほぼ埋まったが、まことにぜいたくなトークショーだった。
森さんによれば、1984年に創刊したころは、録音も写真も今ほどきちんと取っておらず、お元気なうちにもう一度、記録したいというのもこのトークショーの目的の一つだという。
一人目の町の先輩は、金子誠さん(後でネットで確認した)。
最初誰だか分らなかったが、そのうち佃煮の話になり、「中野屋」のご主人と分かった。日暮里駅北口から夕焼けだんだんへ行く途中、経王寺となりの老舗佃煮店である。大正15年生まれだから91歳。金子さんは西日暮里3丁目の町会長で日暮里富士見坂を守る会の会長(今も?)。
以下、メモ
・父上英雄さんは布佐で旅館「中野や」をやってらした。銚子へ遠槽のボート部員の宿でもあった(東大ボート部の艇に「三四郎」、「旭」のほか「行徳」、「布佐」などがあった)。上京して「エビや」で修業、震災では本所被服廠が満員で隣の安田庭園に行ったので助かったとか。直後、大正12年10月、日暮里にあった佃煮屋を居抜きで買い、創業したという。
・誠さんは昭和12年日暮里第一小学校卒。「床が透けて見えた」老朽化で諏訪台通り東側から西側の修生院の裏の空き地に移転したのは昭和11年。神田製鋲がグランドを接収した。そのあと白山の京北実業まで歩いて通ったが、授業はほとんどなく、成増、立川の飛行機工場で勤労奉仕。スキーで骨折、昭和20年の徴兵検査では1年猶予され命拾い。3月4日の大空襲は、松戸にいた。昭和2年に建て替えた店は無事。
・前の道は今の歩道位の幅しかなく、せんべい屋さんと話ができたほど。戦時中に建物疎開で南側が下がって道が広がった。
・戦後は銀行に就職、昭和43年に店を継ぐ。姉上(T13生まれ) と店に立つ(えっ、今も?)。
・諏訪神社の改築費を出す代わりに、裏を墓地にさせてほしいという業者に騙され乗っ取られそうになるのを町会長として阻止。
・木村武山、片山哲、いずみたく、及川らかんの話が出た。宮沢りえ、中尾彬がウナギの佃煮を褒めたことで一気に有名になったとか。
・富士山は永遠、隠したビルは有限、ビルが建て替えられるときこそ景観を取り返さなくてはならない。(これには頭が下がる)
参加者は、終わると拍手も高く、メモを取るなど意識の高い人が集まったようだ。
森さんは、親の出身、職業から一世代前の昔話を聞きだすなど、質問がうまい。当時は3時間くらい話を聞いたそうだが、今日は1時間で切り上げ。
中休みで中野屋のアサリ佃煮がふるまわれた。
楊枝の刺さった皿が回ってきて、遠慮して1つだけとった。両側の人は分からなかったが、斜め前の人は手のひらに幾つも取っていて、ちょっと後悔した。
ふだん佃煮は漬物ほど食べないのだが、変に甘くなくて旨い。味が濃いからそのまま白飯にまぶすと深川めしになる(山崎範子氏)という。
続いて甘納豆が回ってきて、3粒突き刺した。
次の話し手は、
谷中坂町の松田橿雄さん。S15生まれ。忍岡小、白山の東洋大卒。
松田家は柏湯と善光寺湯のオーナーだった。橿雄さんは7代目。
・柏湯は谷中交番の前、谷中で最も古く1804(文化元)年、今から200年前に創業された。(1787(天明7)年とも)
・松田家は戦後、根津に降りる坂の途中、善光寺湯を買って、柏湯の方は人にやらせた。
・柏湯は上野桜木に隣接しているから宇野浩二、川端康成、武見太郎の名前が出てくる。
・芋を洗うようだった戦後は燃料がなく、復旧した電気で沸かし(3300ボルトの高圧腺から直接引いたという)、その後、薪、重油に変わっていった。
・善光寺湯をついで7年ほど経ち、銭湯経営が苦しくなってきた昭和51年、柏湯があったこともあり廃業、ビルに建て替えるとともに、まだ東京に2,3軒しかなかったリトルマーメイドのフランチャイズ店になる。収益予想を見たとき一桁多いのではないかと思ったほどだが、実際儲かった。
(昭和53(1978)年から谷中真島町に住んだ私は何回かパンを買った。アンデルセンの食器目当てだった。いま谷根千74号(2003年)で確認したら、毎月15日がリトルマーメイドの日で600円以上買うと食器がもらえると書いてあるが、78年はもっと安かったかも。食器は毎月違った。2013年千駄木に越してきて懐かしの赤札堂と合わせて見に行ったが、店はなかった。)
・柏湯のほうは1991年廃業、廃墟となったが劇団第7病棟が借りて「オルゴールの墓」を上演。それがきっかけとなり、松田さんは芸大が近いので芸術関係のものにしたいと、93年ギャラリー、スカイザバスハウスに生まれ変わった。
・松田さんは谷中坂町420世帯、16か寺の町会長であり、街づくりに尽力されている。
・マンション林立の地域開発、急増の観光客、古くからの商店は後継者がおらず、貸すとたいてい観光客相手の土産物屋みたいになる現状について、「少しハードルを高くして、本当に来たい人だけ受け入れたほうがいいのではないか」と仰った。
・建設説明会でも、建てる側は皆出席し、町の人は出ないものだから容積率がどんどん緩和されてしまうとも。
終わって、帰り始める中、松田さんにアンデルセンの食器をまだ持っていることを話すと喜ばれた。
このとき傍で、森さんが残った佃煮と豆を袋に戻していたが、少しだけお皿に残してつまんでいらした。直後に森さん仰木さんとも言葉を交わすことができたのだが、上がってしまって馬鹿な話をしたうえ、アサリもつまめなかった。
しかし嬉しい気持ちで外に出た。
谷中初四町会会館
谷中初音町四丁目は、谷田川跡に沿って道灌山通りの北まで細長く続く町であったが、昭和42年?に町名変更で初音は消えた。旧字体で書いてあるところから見ても、古くからの地域への愛着が感じられる。
岡倉天心公園まで来て振り返ると、森さんたちも荷物をもって反対方向、千駄木方面へ歩いていくのが見えた。
こちらは大宮でダンスの練習がある。
来週競技会なのに、11/5以来全く練習していない。貴重な練習日に遅れるわけにもいかず駅へ急ぐ。
七面坂を上がり、中野屋の前を通ったら、いつものように谷中散策の人たちが佃煮を買っていた。さっきのアサリの味が思い出された。
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