2020年11月24日火曜日

ミカンと篩管、ヒキガエル

 温州ミカンが黄色くなってきた。

今年も花はいっぱいついたが(別ブログ:ミカンと文化勲章)なぜか小さいまますべて落ちた。
最後6個だけ残るも、これらも落果しそうだった。
本来は葉っぱ20枚につき、1つ残して摘果するべきなのだが、葉っぱ数枚の枝に3個、2個と集中して残った。摘果したら1,2個になってしまう。それさえ落果したらゼロになるのでそのまま見ていたら、この日を迎えた。
2020-11-21
わずかに残ったミカンは普通より大きくなったが、この養分はどう考えても遠くの葉っぱからきている。どこを通ってきたか?
水分、土壌成分は導管を通り、いっぽう葉っぱでの光合成産物は篩管を通るといわれる。
導管については下から上がって蒸散していくから流れは一方通行で分かりやすい。
しかし篩管はどうだろう? 葉っぱから下に流れてきたら液はどこに行くか?

このミカンの養分は遠くの枝から下がって、枝分かれの地点で登ってきたのである。
一つの管で上り、下り両方向はできない。途中で導管に乗り換えるとも思えない。

考えられるのは一つ。流れはなく、物質は濃いほうから薄いほうへ拡散するだけ。
これなら上りも下りも行ける。
しかし拡散だけでここまで来るか?

管の断面積とショ糖の拡散定数が分かればフィックの法則から何か計算できるかもしれないが、遠くの葉っぱからミカンの実まで何時間、何日かかるか、求めようという元気はない。

2020-11-17
大根(右上)を抜こうと思ったらヒキガエル。
あまり動かない。
畑の真ん中に冬眠されたら困るのでそっと手のひらで包み、柿の木の後ろにもっていった。
手の中で少し暴れようとしたがすぐ静かになった。

2020-11-21
2本目の大根 7月に種まいて1.2キログラム
左に11月7日にまいた芽が2つみえる。こちらは3月収穫用。

スナップエンドウ
この夏、最後枯れたときに付いていた小さな豆。
不良種子で期待していなかったが11月6日にまき発芽率は17粒中10芽

サツマイモのあとは春菊(左)ホウレンソウ(右)
11月7日にまいた。

2020-11-21
ホウレンソウは西洋種。
早くまいたのは根が細くなって枯れてしまったが、これらは育つかどうか。

白菜、ここから挽回して育ってほしい。

花はあまり興味がない。
菊は叔父からもらったから育てている。

11月22日、ミカンを一つ取って味見した。
すっぱかったが、市販のものでもこの程度のものはある。
残りは1週間に1つずつ味見していく。
初めてのミカン。来年も楽しみ。

・・・・・・・
(PCでみると宣伝があまり入りません)
(千駄木菜園・目次あり)

2020年11月23日月曜日

日比谷図書館と公会堂、市政会館

11月9日、銀座から日比谷公園に来た。
2020-11-09
南のほうに三角形の日比谷図書館がある。
2代目の建物として1957年竣工。

以前広尾(港区南麻布)の都立中央図書館のブログで書いたが、ここはただの図書館でなく、2009年まで都立図書館だった。

1908(明41)年、東京市立日比谷図書館として開館。
当時、市では15区全部に図書館を作る計画で、翌1909年には深川図書館、1910年に本郷図書館も開館(1962に千駄木、観潮楼あとに移転してきた)した。

1914年(大3)には、ここの日比谷図書館が市内19館を管理し一体的に運営する体制となる。

1943年、戦時中に東京府と東京市が廃止され東京都ができ、27館あったすべての公立図書館は都立図書館に移行、このとき日比谷が中央図書館に指定された。1945年5月の空襲で20万冊とともに焼失。

1950、日比谷を除く23区の都立図書館はそれぞれの区へ移管され、都立は日比谷、立川、青梅の3館だけのこる。(八王子、武蔵野などは市立、町立)

このころから都立図書館と区立、市立図書館との役割分担や協力関係の模索が始まり、老朽化、手狭な日比谷の代わりとなる新図書館が構想された。

1973、都立中央図書館が、有栖川宮記念公園内の都立教育研究所移転の跡地で開館、日比谷図書館から多くの蔵書を移動した。

1987、都立八王子・立川・青梅が合併、都立多摩図書館となり、この時点で都立は日比谷・中央・多摩の3館。(1976都立江東図書館ができるも1986区立に移管)

2009、日比谷が千代田区に移管され、都立はいまの中央と多摩(立川から西国分寺に移転)の2館になった。
入ると1階は千代田区の常設歴史館になっており、
だから正式名は千代田区立日比谷図書文化館という。
縄文時代から江戸、明治まで、千代田区こそが東京というのが良く分かる。
各区が発行している分厚い区史も、千代田区が圧倒的に面白い。資料の価値は自分の知識、興味によって決まり、資料数、展示数によるものではない。だから資料の古さ、数よりもそこにこめられたエピソードに価値があり、歴史は無形の財産とである。

千代田区イコール江戸
いろいろ自治体が運営する無料の資料館としては面白いほうだ。
文京ふるさと歴史館のほうが展示は多いが、あちらは100円。
港区(旧国立衛生院)は300円。
千代田区は九段の昭和館(国立)もある。

蔵書の多くが中央図書館に移り、空いたスペースは歴史館のほか、1階に喫茶、地階に食堂がある。パスタなど安いが営業時間が短い。
1階の別の展示室では荒俣宏のガラクタ漫画展をやっていた。

地形ジオラマに千駄木を探す。

4階には江戸時代~昭和戦前期に発行された約20,000冊の古書がある特別研究室があるらしい。
2階、3階は普通の図書館。

2020-11-09
閲覧室は日比谷公園の緑を見下ろし、おしゃれな空間。
やはりここは近所の区立図書館と違う。

図書館は公園の南の端にあり、隣に日比谷公会堂

2020-11-09
公会堂正面玄関は公園側、北に面している。
閉鎖されているのか、落ち葉がたまっていた。
長期休館中らしい。
渋谷公会堂、浅草公会堂、日比谷公会堂、杉並公会堂、いい響きだ。
他の区はシビックホール、文化センターなんて名前になってしまった。

横の階段が入り口だろうか?
催し物で入ったことがないので分からない。
かつては都内随一のコンサートホールだったが、東京文化会館、NHKホールなどできて地位は低下した。政治演説会なども開かれ、1960年浅沼稲次郎の暗殺事件はここである。

1929年、安田善次郎の寄付で市政会館と同じ建物として竣工。
設計は佐藤功一(1925年の安田講堂は内田祥三)
公園南側の国会通り側に回ると、市政会館の正面玄関。
1920年12月に東京市長に就任した後藤新平は東京市政調査会を設立、それに賛同した安田が寄付して建てたから、公会堂よりこちらが本質。
東京市政調査会はのち後藤・安田記念東京都市研究所となり、現在も管理している。
中に入ると、いろんな事務所が入居している。
地方公共団体から私立の法律、税理事務所までさまざま。

2020-11-09
天井は低く、エントランスの大ホールのようなものはない。

通りの向こうは日本プレスセンタービル。
ちょうど図書館の向かいになる。
日比谷図書館も三角ではなく、初代のアールヌーボー様式で再建してほしかった。

千代田区というのは公園を見ても、図書館、公会堂を見ても自治体という気がしない。
江戸東京のそのもの。国家直轄地でもいいくらい。


別ブログ

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2020年11月21日土曜日

日比谷公園の松本楼は松本さんではない


11月9日、日比谷公園に来た

2020-11-09 13:34
公園入口に日比谷御門跡(別ブログ)

大名小路と外桜田との間の濠が池になっている。
日比谷公園は霞が関方面から有楽町駅へ帰るときに2,3度通り抜けたくらい。
思い出は何もない。

旧日比谷公園事務所
明治43年(1910)に建てられた東京都指定有形文化財
公園に合わせて作ったバンガロー風。
1964年公園資料館になったが、いまはフェリーチェガーデンという結婚式場になっている。

日比谷サロー(茶楼)。旧公園事務所の隣。
1949年創業のガーデンレストランはclosed。
コロナかと思ったら月曜定休

2020-11-09 13:45
広場(第一花壇)にロボット草刈り機が動いていた。
カメラを向けていたら、あたかも私に気付いたかのようにトコトコとこちらにやってきた。
なんとなくかわいい。
そのうちペットはすべてロボットになるのではなかろうか。
AI搭載なら9割がたの人はロボットを選ぶのではないか?

草地広場
フェンスに囲まれ遊具がある。ここは昔から子供たちの遊び場だったようだ。
戦前はちいさな動物園や浅いプールがあったらしい。

噴水広場
噴水の向こう、出口の脇に日比谷花壇がみえる。
日比谷花壇は、葛飾の造園業者・芳梅園が1950年に日比谷公園に出店したのが始まり。近年は造園から花束小売店、ギフトまで幅広く展開している。


13:55 日比谷野外音楽堂。
有名な野音。一度くらい入ってみたいものだ。

公園の面積は16.2ヘクタール。かつては「日比谷公園何個分」と、広さの尺度とされたらしいが、いまは東京ドーム何個分か。ちなみに東京ドームは敷地が4.7haでグラウンドが1.3haである。

日比谷公園は東大農学部教授の本多静六が設計した。
明治神宮、小諸懐古園(別ブログ)は知っていたが、子供のころよく行った須坂臥龍公園も彼の設計とは知らなかった。

しかし大建築と違って、日比谷公園のような平地を公園にするだけなら、設計は東京市の職員でも誰でもよかった気もする。通路をどこにするか、噴水の場所をどこにするか、誰が考えても同じ。植える木も東京にある木なら何でもいいだろう。と今の人は思う。

しかし広い一等地で初めての洋風公園、力が入った。西洋公園など見たこともない人が多かったに違いない。おそらくわが国最初の林学博士、ドイツ留学で西洋の公園にも詳しい権威者に頼めば文句は出ないということか。

松本楼
この日は昼に銀座でクレープを食べただけだったので何か食べなくてはならない。
日比谷図書館など回ってきたら(別ブログ)午後もいい時間。
外からみたらおしゃれなテラス席が空いていた。

松本楼は工学部2号館の店に入ったことがある。
2011年5月27日、千駄木の家を見つける2か月前、CBI学会シンポジウム(イオンチャネル)。終わって食事しようと思った京都の森さんが帰ってしまった。このまま埼玉まで帰るのは寂しいので4年生になった息子と入学したばかりの次女(学園祭の準備で来ていた)の携帯を呼び出した。
軽い気持ちで呼んだものの、成長した彼らとそれまで食事したことがなかった。妻がおらずどんな話をすればいいのか、父親らしく振舞えるかどうか、少し緊張してぎこちなかったかもしれない。教室のような部屋を改装した松本楼で食べたのはハヤシライスだったか、オムライスかカレーだったか。当然味も記憶にない。
あれから9年。
私はまさかの千駄木引っ越しと転職、子供たちは結婚して出て行った。
2020-11-09 14:57
9年ぶりに何を食べようか迷ったら、カレーとハヤシライスのハーフnハーフがあった。
1300円。少ししょっぱかった。老舗の味だろうか。
たまたまか、顎が疲れるほど牛肉がごろごろ入っていた。

この日は少し寒くて店員が親切にひざ掛けをお貸ししましょうかと言ったが遠慮した。
かばんを置いた隣の椅子に雀が飛んできた。
家の菜園では種まきしたところで土遊びする邪魔者だがここだと可愛い。

大木の立つ森から店のほうに目を向けたら庇のたれに
HIBIYA MATSUMOTORO SINCE 1903
と書いてある。
1904年2月、日露戦争の開戦劈頭のちょうちん行列、翌年ポーツマス講和条約反対の暴動などはできたばかりの日比谷公園が舞台だった。松本楼はそれらを見たということか。
すると松本楼は最初から公園にあった?

ここにあった日比谷練兵場が1888年青山に移転した後、1893年東京市が軍から払い下げを受けた。当初から公園になることが決まっていたが、着工は1902年、1903年6月に開園した。

明治45年最新番地入東京市全図(1912)
現在もある帝国劇場の左に警視庁が見える。
ちなみに住居表示では日比谷公園はあるが「日比谷」はない


松本楼というからには松本何某が創業したかと思っていたが、開園時に銀座で食堂を経営していた小坂梅吉が落札、日比谷松本楼として開店したのが始り。
漱石や高村光太郎、孫文にも愛されたハイカラな店。

1973年に始まった9月25日の10円カレーは、昭和天皇の病状が悪化した1988年をのぞきずっと続いていたが、今年コロナで32年ぶりに中止されたという。

結局松本の由来は分からない。

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2020年11月19日木曜日

日比谷見付。外桜田と大名小路はどちらが内か?

11月9日、日比谷公園に来た。

有楽町駅が近い北東の入り口に石垣がある。
初めて見たわけではないが、初めて考えた。
はて、これはどこからどこに入る門だったのだろう?
四谷や市ヶ谷、牛込などは外と内がはっきりわかるが、ここは何か?

江戸城の門はたいてい濠に面し、外から渡った内側にある。
すなわちここも外に濠があったはずだが、今は晴海通りの向こう、第一生命ビル、帝劇ビルの前、北に離れて馬場先濠があるだけだ。
公園側にパネルがあるが知りたい説明はない。
帰宅して日比谷御門をみる。
濠で分けられた中央の大きなのが大名小路
右が大手前、上が西の丸下
左上が外桜田にあたる。

つまり日比谷見付は外桜田と大名小路の間にあった。すなわち内と外ではなく、外堀の内側の2つの曲輪をつなげるものだった。双方とも大名の上屋敷が並ぶ。外様も譜代も混じりあまり意味がない門である。


江戸情報地図

ここで江戸城築城の縄張りを考えてみる。
城は同心円の輪郭式、並列の連郭式、本丸を端に寄せた梯郭式などがあるが、江戸城、姫路城などはカタツムリのような渦郭式といわれる。
輪郭式などは本丸の防御を深くすると他の曲輪との連携がとりにくいが、渦郭式なら、本丸に直接向かう堀を深くしても、一方向は他の曲輪につながっている。攻める方は周囲を回りながら本丸に行くというイメージである。
https://social-studies33.com/2018/03/26/江戸城の内堀と外堀/

ではどのように回っているか?
本丸・二の丸→三の丸のあと、どこへ行くか?
三の丸のすぐ東に大手前があり、そこから大名小路、西ノ丸下、西ノ丸と回れるが、堀を見れば違う。
本丸と西ノ丸はそれぞれきれいに濠に囲まれ独立した城に見える。
西ノ丸下は日比谷入り江として海だったところを本丸西ノ丸の前を広げるため埋め立てた。
だから本丸三の丸→(西ノ丸下)→西ノ丸と回るが、これらは一体とみるべきで、そのあと吹上→北の丸とまわり、大手前→大名小路→外桜田→番町→駿河台→町人地(神田、日本橋、銀座)→墨田川、海、と蝸牛ができる。

外桜田の東部分
この順番は外桜田と大名小路の間の日比谷見付が大名小路側にあることからもわかる。

日比谷見附のすぐ東南のほうに山下御門があるが、これは場外から外桜田に入るから門は堀の西側にあった。(上の江戸切絵図)

実際江戸城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を深い内堀に囲まれた本城とした。

明治11年実測東京全図
日比谷見付の外は陸軍練兵場となった。
ここが日比谷公園になる。


あらためて日比谷公園を見ると東の石垣の西に心字池がある。

すなわちここは大名小路側から濠をへて外桜田を眺めていることになる。

つまり日比谷から見て一見皇居に近い西側すなわち霞が関、桜田門側が外になる。

なるほど、池ではなく濠に見えてきた。

日比谷門のすぐ脇に、伊達政宗終焉の地とある。
彼の時代はここに仙台藩の上屋敷があったらしい。
しかし幕末、嘉永年間では、日比谷公園のあたりは松平肥前守(鍋島)、松平大善太夫(毛利)の上屋敷であり、伊達藩上屋敷は芝、浜御殿(現浜離宮)の前にあった。

正宗といえば、家康に、自分なら江戸城を北東から攻めると言ったとか。本郷台地を押さえ南端(駿河台)にカルバリン砲を据えれば本丸はすぐそばだ。それが関係したか伊達家によって駿河台掘削、神田川の川筋替えが行われ、江戸城が拡大した。
すなわちそれ以前の築城時は日本橋川を唯一の守りとする薄い大手前が一番外側だったわけで、あまりきれいな蝸牛の形ではない。

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2020年11月17日火曜日

歌舞伎座の無料見学部分

銀座にクレープを食べに来て少し歩いた。
和光、三越のある4丁目交差点から晴海通りを東へ。
歌舞伎座があった。
2020-11-09
何回も前を通っているが入ったことはない。
今日は何も用がないのでちょっと覗いてみた。

入ってすぐに小さな売店。
みんな食べる緑赤黒の袋、天乃屋の歌舞伎揚げは見つからなかった。

地下に行くエスカレーターがあった。
せっかくの散歩、探検だから下りてみる。

広いお土産売り場にいろんなグッズ。

入場料は3000円から8000円。
一度くらい見なくちゃいけないと思うが、今日はその気にならない。
コロナ禍のせいか4階席で気軽にみれる一幕見席(1000~1500円?)のチケットはなかった。

5階に歌舞伎座ギャラリーというのがある。
入場600円。資料館のようなものかな?
コロナで休館
同じ5階に屋上庭園があり、無料開放されているみたいなのでエレベーターであがってみた。
歌舞伎座タワーは29階建て。
2013年竣工。7階以上が賃貸しオフィスになっている。
庭園はちょうど歌舞伎座の瓦屋根の上になる。

庭園から外階段で4階に降りられる。

降りてみたが誰もいなくてよく分からない。
裏口のようなドアがあってカギがかかっていなかった。

中に入ると回廊になっていて歌舞伎役者のパネルが並ぶ

よく見れば亡くなった人だけ順に飾ってある。
中村勘三郎は最後から2枚目。
2012年私より1年上で57歳で亡くなった。
ちょうど転職と千駄木への引っ越しを前に忙しかったころだ。

パネルには知っている人と知らない人。
しかし、みんな名前が変わるから、名前と顔が一致していない。
変わるだけでなく、似たような名跡を襲名していくから、ますます覚えられない。

面白いのは顔がそっくりな人が多いこと。
知らないはずの人がいま半沢直樹などテレビで出ていたりする。

世の中、親子で似ているといっても普通、子供の顔と親の顔で比較する。
しかしここでは死ぬ前の最盛期のころの顔が出ているからほぼ同じ年齢で比較できる。
遺伝子というのはこれほど忠実に再現するものか、と感心するほど似ている。
家系図を作り、そこに母親も併せて顔写真を貼り付けていったら面白いだろう。

週刊現代https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52285?page=4 から


歌舞伎座の建物模型が展示されている。

初代は明治22年。
それまで歌舞伎の劇場は新富座・中村座・市村座・千歳座といった地名、個人名などの名前であったのが、福地源一郎らは普通名詞のような大それた名前で銀座木挽町に開設した。
シャンデリアもある最新設備、最大の劇場で、人気俳優の演じる新しい脚本で歌舞伎の殿堂となった。

第二期の建物は明治44年から。外観は洋風から和風に戻す。
大正2年には松竹に買収された。
大正10年火災で焼失。ん? 関東大震災は大正12年。火災は漏電だった。

第三期は震災後の大正13年に竣工。空襲で焼失。

戦後しばらくは廃墟のままであり、新宿移転の話も出たが(歌舞伎町の名前だけ残る)昭和25年、現地で再建された。
左が1950年竣工の第四期歌舞伎座

老朽化と一等地の高度利用のため、2010年閉場、2013年第五期歌舞伎座(タワー)が竣工した。今松竹は新橋演舞場、京都南座も経営している。

もう一度正面に回ってぱちり。

エレベーターで1階に降りると晴海通りの歌舞伎座正面ではなく、西側の通りだった。
南側が劇場という構造を考えたらあたりまえであるが。

こんど一度くらい歌舞伎を見てみようかな、という気分になる建物見学だった。

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