7月、数年ぶりに新宿西口に来たとき、駅が工事で改札に出るまで迷路のようだった。
そこで9月13日、東口改札のほうに行ってみた。
新しい改札を出ると、そこはかつて駅構内だった旧東口改札と旧西口改札を結んで新たにできた広い自由通路だった。
これまで新宿は地下街を通るか甲州街道まで回らねば東西を行き来できなかったが、だいぶ便利になるだろう。
2020-09-13
今や改札の外になった旧東口改札跡。
旧改札はつい7月に廃止したばかりのようだ。
床のカバー、天井などにかつて東口改札口だった痕跡が残る。
改札出口に向かってわずかに上るスロープも覚えている。
何回か待ち合わせした記憶が懐かしい。
地下街か地上かどちらも懐かしくて迷うが、外に出た。
地上に出るとアルタがある。こんな小さかったっけ?
タカノのほうをみる。
1975年に上京したが、新宿はあまり来なかった。
駒場時代は渋谷だったし、本郷、谷中に来たら上野、池袋だった。
もちろん長い埼玉時代は池袋ばかり。
たまに渋谷に行ったが新宿は紀伊国屋書店以外、自分から行くことはなかった。
東口は2年前、高野フルーツ、中村屋に久しぶりに寄ったが(別ブログ)、その前は1990年代になってしまうのではなかろうか。
とにかく数年に1回くらいしか来ていない。それでもいろいろ思い出はある。
歌舞伎町に向かう道。MOA 2番街というらしい。
工事中の左の角のビルの2階だったか、1991年3月18日の夜、関野裕子さん岡淳一郎さんと食事した。関野さんはご飯を口に入れながら一緒にビールを飲まれた(私ならしゃっくりが出そうだ)。何の集まりだったのだろう? とんかつ定食のような記憶があるから最初はこれで帰るつもりだったのだろうか。
3人とも30代、研究職として将来に不安を感じていた。
手帳を見れば、その後場所を変えて本格的に飲み始め夜中の1時半、終電がなくなりその日は妻がいなかったのでテレクラ赤い糸で朝まで過ごした。
緩やかに下っていくと靖国通りに出る。
正面にコマ劇場跡にできたホテルが見えた。
靖国通りの東を見る。
新宿サンパークというビルが残っていた。
1978年ころ、ここの8階にサ・バーンというジャガイモ料理の店があった。確か高見沢秀茂と町田憲一と一緒ではなかったか? 高見沢の知っている店で、アーリータイムスというバーボンのボトルを注文する様子からさすが慶応ボーイはおしゃれだな、と感心した。
この店はその後一度使わせてもらった気がする。
サンパークのビルでは比較的安く食事ができた記憶がある。
1979年10月「アングル」
靖国通りを渡って西口へのガードをみる。
2020-09-13
いよいよ歌舞伎町に入っていく。
正面、ゴジラが顔をだしているのがコマ劇場の跡地にできた新宿東宝ビル。
2015年ホテルと合わせ開業したらしい。
コマ劇場は1956年開業、1958年には第9回紅白歌合戦が開催された。美空ひばりや北島三郎などのショウだけでなく、ミュージカルやボリショイ劇場バレエ団、宝塚歌劇なども興行された。しかし老朽化もあり2008年12月31日生放送「第41回年忘れにっぽんの歌」を最後に閉館。2011年から解体したという。
東宝ビル(コマ劇場)(写真右)の西に回ってみる。
歌舞伎町はT字路が多い。戦後の街路設計で、正面に店が見え、角を曲がると別の景色が広がるようにしたらしい。
曲がるとHumax Pavilion 新宿がみえた(写真中央)。
以前はジョイパックビル(1971竣工。2009ジョイシネマ全館閉館、2011大改修)といった。
1979年、このビル4階にあったディスコ「ニューヨーク・ニューヨーク」に来た。
当時、研究室のメンバーはみな地方出身、高木さん(長崎)、藤井さん(富山)木内さん(長野)、渋谷(福島)、合田(広島)、高校から大学までまじめに勉強しているうちに年を取り、同棲していたフジキヨ(福井)は別として、誰もディスコに行ったことがなかった。
ジョン・トラボルタ「サタデー・ナイト・フィーバー」が1978年だから皆関心があったのだろう。確か東京生まれ東京育ちの教授秘書、山崎麻美さんに連れてきてもらったのではなかったか? 度肝を抜かれる雰囲気に圧倒されたが、次第に慣れ、へんてこな踊りだっただろうが、いい経験をした。当然ナンパする度胸まではなかった。
2020-09-13
HUMAX・ジョイパックピルの隣はアパホテルになっていた。
2015年9月開業という。インバウンド客がいなくなりひっそりしていた。
ここは昔、1955竣工のグランドビルといい、オデオン座などが入居していた。
1975年、第一東亜会館と改称。2009年全面閉館。解体。
7階にダンスのステレオホールがあった。
昭和の社交場、ダンスホールの老舗、ステレオホールに初めて来たのは2004年5月4日、モエギさんに連れてきてもらった。しかし通うことはなく、たまにダンスホールに行くときは鶯谷の新世紀だった。
この年の9月に競技デビューしたのでホールで遊ぶことはなくなったが、2008年12月21日、佐竹さんに頼まれ、パーティの男性要員としてアルバイトに来て7000円もらった。
これが私の歌舞伎町にきた最後となった。
ステレオホールは翌2009年11月に閉店。
2020-09-13
コマ劇場を背にしたこの広場はシネシティ広場というらしい。
かつて正面には圧倒的存在感のミラノ座ビル(新宿TOKYU MILANO)があった。
ここは1956年、新宿東急文化会館竣工、ミラノ座など入居。1967スケートリンク跡にミラノボウル開業。ミラノボウルは一度来たことあるようなメモの痕跡がある。
しかし、2014年12月すべて閉鎖、
隣のカプセルホテル跡地(グリーンプラザ新宿)を合わせた約4600平米の敷地に、48階建てホテルを含めた複合施設を目指し2019年8月に工事着工、2022年度の竣工の予定。
西武新宿駅に近いが東急というのが面白い。
渋谷の西武パルコのようなものか。
広場の南側は、手前がヒューマックス パビリオン 新宿アネックス。
1958年地球会館竣工、地球座など入居。2011年大改修。
隣(写真おく)が第二東亜会館、1969年開業である。
さて、真ん中の広場。シネシティ広場というらしい。
最初はレインボーガーデンと呼ばれ、中央に噴水があった。噴水には7色のスポットライトが当たり、4種の大きなプランターが飾られていたという。
1973年には名称が「ヤングスポット」という「ナウい」名前に変更され再整備。その際にも噴水は残った。
それよりも当時、早稲田の学生が6大学野球のあとは、ここに集まり、朝まで大騒ぎした。
学生が柱に登り、池に飛び込んだ。明治の学生も来た。慶応は銀座か渋谷だろう。
1979年頃の噴水広場
歌舞伎町るねっさんすBlog by てらたにこういち
https://kabuki-cho.blog.ss-blog.jp/2007-11-27
ところが、池に入るのを危険とし、1998年、当局は池を埋めてしまった。
http://web2.nazca.co.jp/HP37/page036.html
学生も集まらなくなってしまった広場を再生しようと、2007年映画館の中心ということでシネシティ広場として再整備。さらに2016年には中心にあった段差をなくし、完全にフラットにした。
いまは臨時にスケートリンクを作ったりイベント広場になっている。
2020-09-13
うっすらと記憶にある池を思う。
敷石の色が変わっているところが池の中心だろうか。
それにしても、水に飛び込んでもいいではないか。
入る若者も見物人も喜んでいた。
歌舞伎町らしい光景だった。
当時のお役所?あるいは時代?はずいぶんつまらない頭の人ばかりだったか。
噴水の復活を望む。
もう私が歌舞伎町に行くことはないけれど。
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