2020年9月28日月曜日

白菜、人参、ほうれん草が育たない

2020-09-16
白菜が育たない。
8月29日にまいて発芽率は100%近いのだが、何者かに食べられてしまい、何回か追加でまいている。だから大きさバラバラ。

2020-09-27
さらに11日たったが、まだこんな状態。

7月19日にまいた大根はだいぶ成長してきた。

2020-09-16
このくらいになると少々食べられても平気

2020-09-16
しかし8月29日に第二次としてまいたものは発芽すると根もとで食われ、朝見るとぽきんと折れている。9月に入ってそのたびに追加でまいている。

一番悲惨なのはホウレンソウ
2020-09-16
根元を食われて切られるだけでなく、根元が細くなりしおれてくる。

2020-09-16
みれば中身がなくなった種の殻が残っている。
きれいに食われたにしろ、発芽はしたということか?

この日、9月16日、虫害を避けるため鉢にまいて1mmネットで覆った。
2020-09-27
しかし、根元が細り、しおれてきた。
虫害でなく病気?

2020-09-27
人参は7/14にまいたがほとんど壊滅したから、8/28に追加でまく。
何とか育っているが、少ないので9月27日、別の場所に第3次としてまいた。

2020-09-27
ネコは来なくなったが、整地したところはスズメが5,6匹一斉にきて羽ばたきして地面にすり鉢のように穴をあける。だからネットを貼った。

日本の昔はスズメがよく来て悪さしたものだった。
舌切り雀はそうだろうし、安寿が死んで厨子王がようやく巡り合った生き別れの母は、盲目になって雀を追う唄を歌っていたのではなかったか。

我が家に来るスズメは地中の虫を探しているのだろうか。


2020年9月27日日曜日

イチジクがカミキリムシに食われ枯れた

サクラと柿の向こうにあるため気が付かなかった。

2020-09-18
見れば幹がぼこぼこに食われている。
大量の木くずはカミキリムシっぽい。
2020-09-18
多分もう駄目だろう。
虫の繁殖を抑えるため切ろうとしたが、のこぎりを入れると傷がまだ新鮮な緑。
切らないで、と言われているようで思いとどまった。
2020-09-27
しかし今朝見たら、もう根元がぼろぼろ。
少しのこぎりで切るとと簡単に折れた。

2020-09-27
折れた株の真ん中に大きな白い幼虫が見えた。
信州にいるときは風呂焚きの薪などに見つけると食べたものだが(美味)、50年もたつと気持ち悪くて、もう殺すこともできなくなっている。つかみたくもないから箸で取り出すと頭がのこぎりで切られていた。

ふとみるとカミキリムシがササっと動いた。
信州ではリンゴの古木でよくみた。幼虫の食感と一緒の記憶。
あれは白い点のゴマダラカミキリであった。

しかし、これは黄色い斑点。
外来種(中国)のキボシカミキリのようだ。


思えば2017年3月17日、上尾のセキチュウで買った苗を植えた。

2018-12-19
バックは桜
順調に育ち、2年目の2018年秋、初めて生り、台風で一部落果するも12月19日、3個イチジクをとった。
2018-12-19
長く木に生らせすぎて水分がなくまずかったが・・

しかし翌2019年は、ほんの少しだけ外に延びていた枝の先を誰かのいたずらで切られ生らず。
そして今年は致命的なカミキリムシ。

2020-09-27
コゴミが枯れてしまうほど猛暑だった。
今年の大雨、猛暑がカミキリムシに関係したかどうか。


 千駄木菜園 総目次

2020年9月25日金曜日

城官寺の寺名、なぜ多紀家、多い榎本家、

たまたま「医心方」について自分のブログ(2018年)を参照したら、他の関係ない話と一緒にまとまりなく長かったので、2つに分割することにした。
2018年11月11日、上中里の平塚神社から城官寺までを訪ねたブログである。

JR上中里駅から西に上がる切通しのような蝉坂を挟んで、平塚神社の反対に平塚山城官寺がある。

地名に過ぎない平塚山とはまたずいぶん素直な山号である。寺名も変わっている。
意味がありそうだ。
2018-11-11 16:19
実はこの日が2回目の訪問
よく自転車で滝野川体育館に来るからね。

慶長年間つまり江戸時代のはじめ、盲目の山川貞久(通称城官)は、鍼の道を究め、将軍家光付きの侍医となった。家光が病に倒れたとき平塚明神に病気平癒を祈願する。
(彼は平塚郷の出身)
回復したことから山川城官は、平塚神社と付属の安楽寺(神仏習合)を修復した。
家光がそれを知って、平塚明神へ社領として50石、城官への恩賞として知行200石を与え、安楽寺を城官寺安楽院とするよう命じたという。

彼の墓もある。

当山開基 山川検校城官一族墓
検校(けんぎょう)とは、琵琶奏者とか鍼灸者など盲目の職業集団の最高位の役名。


ところで、この目立たない上中里の、目立たない城官寺に多紀家の墓所がある。
多紀家というのは丹波康頼につながる医家であり、丹波本家が衰退した後、徳川幕府始まりからずっと幕府の奥医師を務めた家柄である。
一方、京都で朝廷の侍医だった半井家は和気清麿につながる。

丹波、和気は代々朝廷の典薬頭をつとめた。
なお、丹波康頼(912-995)が著した『医心方』全30巻は、室町時代に正親町天皇から典薬頭半井家に下賜された。江戸時代になって丹波―多紀家で失われた『医心方』を多紀家は取り戻そうとするが、なかなか入手できず、幕末になって幕府が仲介してようやく筆写できた。この半井本を1982年に文化庁が買い上げ、国宝となった。
なお、東大薬学の教授・丹波敬三、その孫の丹波哲郎、は丹波家につながる。

しかし、なんでここ城官寺にある?
多紀家なら増上寺とか、寛永寺でも、あるいはもっと近くにいくらでも寺はあるだろうに。


塀や策で囲まれていなくて、ゆったりと、代々の法眼の墓石がゆったり並んでいる。

これ以上文字が崩れないように、アクリル板で覆われているのもあり。

16:28
控えめな墓石群
普通は、たいそうな石にごてごてした戒名、大げさな石塔に、石の柵で囲む。
品のある多紀家墓所だ。
墓が派手になるのは明治以降なのか。

城官寺で書くべきことはもう一つ。
墓に榎本姓が「異常に」多いこと。
この日、田端から西ヶ原まで散策し、ブログ何本分かになるほど、いろんなものを見たが、これに一番びっくりした。
古い立派なものも新しいものも、2つに一つくらい榎本家ではないか。
(嘘だと思う人は行ってみればいい)
文言はどれも同じだから、その家のものでなければ、墓を区別できない。
ロッキード事件の榎本敏夫氏の墓もここらしい。

いつの間にか寺の門が閉まっていた。
脇の駐車場から出て、暗くなる中、無量寺によって帰宅した。




2020年9月22日火曜日

秋に入谷朝顔市を思い出す

彼岸をすぎ、枯れそうになっていた朝顔が今年初めて咲いた。
すぐそばの街灯で夜も明るいことから季節を間違えたのか。

2020-09-22
朝顔なぞ小学生の全員が育てられるという簡単なものだが、我が家では難しい。
葉っぱばかりジャングルのように繁るが、その割に花が少ないのである。
邪魔なので妻に文句を言ったら、いつしか種は鉢にまくようになり、彼女は黙って習慣のように水をやっていた。
これなら小学生と同じはずだがそれでも思ったようには咲かなかった。

この日、季節外れで咲いた朝顔は、きけば4年前入谷で買った朝顔の種だという。
そうだ朝顔市にいったなぁ。
グーグルフォトに写真が残っていた。
ブログを始める前の2016年。

千駄木に引っ越して4回目の夏。
7/8(金)7:45 自転車で出発。
通勤通学の人々とすれ違いながら団子坂を降りて三崎坂をのぼり、言問通りに出て、デニーズで朝食。
2016-07-08 8:12
ゆったりと目玉焼き、ベーコン、ウィンナ、トーストで596円。
隣は常連のようなお年寄り夫婦。ジップロックに入れたふりかけのようなものを取り出し、朝定食のご飯にかけていた。
写真の窓から見えるのは、通りの向かいの高級マンション。
その場所は明治31年下谷から東京薬学校が移転してきて、長く東京薬科大女子部があった。1976年同大が八王子に移転した後、日本医大が建物ごと取得し、日本医大看護専門学校となった。私が谷中に住んでいた1978-80年、上野から帰るときはいつもその建物のそばを通った。しかし99年12月に取り壊され、2002年3月、ルネ上野桜木が竣工した。
反対運動もあったというが、今や不忍通り沿いのマンション乱立から見ると、まだ大人しい景色と言わざるを得ない。

店を出ると早くも夏の太陽が照り付けていた。
遮るもののないコンクリートの寛永寺坂で線路を越え、下って根岸のごちゃごちゃした歩道をしばらく走ると葦簀の露店が並んでいる。
9:04
その谷中にいた40年近く昔、木造アパートの一室でさだまさし(グレープ)を一人歌っていたころ、好きな人とほおずき市や朝顔市を歩くことに憧れた。

しかし40年経って初めて来た朝顔市は、歩道にどの店もびっしり同じ朝顔を売っているだけで、あっという間に見終わって、とくに何の感動もなかった。伝統の重要さは理解するが、半分くらいは他の草花や植木なども売っていればいいのに。

入谷鬼子母神(真源寺)は樹木もあまりない町中の小さい寺で、狭い境内は人ばかりで見るものもなかった。

9:04

ウィークデーの埃っぽい言問い通りを車がびゅんびゅん通る向こう側の歩道(正確には車道の歩道側レーン)は食べ物関係の屋台が準備中。昨夜のにおいが残っていた。夕方歩行者天国になれば、少しは若いころ想像したようなロマンチックなものになるのだろうか。
9:11
値段はどれも2000円。
三日目の最終日だから値下げしたい業者もいるだろうが、組合の協定で変わらず。

妻は、キキョウの形をしていて珍しいと一鉢買い、さらに例外的に1000円というのを見つけてまた買った。

2016年当時、家には朝顔がはびこっていた。前年、忘れたころ咲いて種がこぼれてあちこち芽を出し雑草状態になっていた。それなのに何で買うのか、と言いたかったが、ぐっと飲みこんだ。私は入谷の「朝」を見に行ったのだが、彼女は鉢の朝顔を買いに行ったらしい。

2016-07-08 11:21

今年はコロナで中止となったが、入谷朝顔市は毎年、曜日に関係なく、七夕が中日となる7月6,7,8日である。60軒の朝顔業者、100あまりの露店が並び、2万鉢の朝顔が販売されるという(台東区公式サイト)。

80円の野菜の苗を買っている身からすると、2000円は高い。しかし人々は朝顔祭り(夜)に行って、露店を食べ歩きながら(夜は咲いてなくても)鉢を買うことが楽しいのだろう。

今度は浅草ほおづき市(7月9,10日)に行かなくちゃいけないな。

1978年から80年ころの7月は、朝顔市、ほおづき市のあと、教室旅行で式根島や新島に行き、年によっては学校の屋上で隅田川花火を見て、夏休みに入った。

しかし私は遊ぶ女友たちもおらず、西日は入るも風の入らぬ谷中の暑いアパートで一人ギターを抱え歌っていた。
「ほおずき」1975

いくつかの水たまりを残して
梅雨が駆け抜けてしまえば
しめった風の背中越しにきみの好きな夏が来ます
あの日きみにせがまれてでかけた小さなお祭り
綿菓子の味 アセチレンの光
きみは赤いほおずきを買った 

今読めば悲しい歌なのだが、当時は詩の意味も考えず、次々ページをめくり片っ端から歌っていた。

2020年9月18日金曜日

花園神社とゴールデン街、思い出横丁

9月13日歌舞伎町の噴水広場、コマ劇場の跡に行き、ブログを2つ書いた。
その続き。

区役所通りを東に越えると、四季の路という遊歩道がある。
都電の跡。
初めて歩いたのがいつか記憶にないが、1996年ころ清藤さんと歩いている。


1995年頃からしばらく、私の人生では珍しくよく映画を見た。
全部新宿だが、コマ劇場周辺ではなく靖国通り周辺が多かったか。

・たった4日間の思い出を死ぬまで秘めた不倫 The Bridges of Madison County,  
・竜巻で牛が水平に飛び、気象学者がミニロボットを放出する Twister,  
・ジュラシックパークほどの感動はなかった Lost World,  
・殺人犯を護送する飛行機が乱気流に巻き込まれる Turbulence,  
・大統領専用機がハイジャックされ、最後のセリフがいい Air Force One,  
・これをみたあとビデオを買ったら子どもたちもはまった Titanic,  
・Eメールが始まったころの You Got a Mail
これらの時代。

四季の路の東側はゴールデン街。
駅前などにあった戦後の焼け跡闇市がここに代替地をもらって移ってきたらしい。
2020-09-13
作家、映画、芸能関係者など文化人が集まったというが、今の時代はどうなんだろう?

1979年の別冊アングルをみると、店舗名がそのままのものと変わったものとある。
バブルのころの地上げで出て行った店もあったらしい。
(その後、保存運動がおこり、町は維持され空き家には新しい店が入ってきた)
いまは店主老齢化にコロナの追い打ちで閉店もあるだろう。

東南の隅、すなわち一番靖国通り沿いの、いちばん奥にハングリー・ハンフリーがあった。
一度この店に来たことがある。
昭和56年、1981年11月15日、山本芳邦さんがウィスコンシン大学に留学する壮行会だった。
アルバムを見ると合田幸広、平尾哲二、鈴木岳之諸氏などの顔が見える。

ゴールデン街はウナギの寝床のようにカウンターだけ、狭いところに難しそうな店主と常連客、というイメージ。しかしこの店は広くて、他の店とはずいぶん違った。
だから実質、ゴールデン街で飲んだとは言えない。

ゴールデン街の先、東に花園神社が見える。

ゴールデン街まで歌舞伎町1丁目で、道を挟んで東の神社側が新宿五丁目となる。
しかし1978年までの旧住居表示では両方とも新宿区三光町といった。
1975年、東京に住み始めて買った地図。


本殿は1965(昭和40)年に建てられた。

近江屋版 嘉永4年
左下の空白が高遠藩内藤家屋敷、右上に「花園イナリ社 別当三光院」とみえる。

江戸開府のころはもっと南にあって内藤新宿の鎮守であったが、寛政年間に朝倉筑後守の下屋敷になってしまったため、尾張家下屋敷の一部であった現在地に移転。もと花が咲き乱れていた庭の一部であったことから花園稲荷神社とした。

ここには明治に廃寺となった三光院があり、別当もつとめたことから、三光院稲荷とも呼ばれ、ここから旧町名の三光町が生まれた。

2020-09-13
90年代後半に来たとき、やはり境内で骨とう品を売っていた。
日本海海戦で東郷平八郎と幕僚が三笠艦上に立つ有名な絵が出ていた。
新聞の切り抜きだったか、雑誌の付録だったか、誰かが絵の複製を額に入れて飾っていて、片付けで捨てたような汚れた代物だった。値段は覚えていないが、買おうか迷った記憶がある。

22年前と同じ業者が同じ品物を出していたりして。

てっきり花園神社は靖国通りに南面していると思ったら、東の明治通りだった。
この日初めて勘違いに気づいた。


駅まで戻って、いちばん古い新宿の記憶を思い出した。
西口の焼き鳥横丁だった。
ガードをくぐったところ。
このあたり、昔は待ち合わせの人も含め、人々が大勢たむろしていた。

今青梅街道は大ガードのある靖国通りの延長というイメージがあるが、本来は内藤新宿の追分、重宝院子育稲荷、いまの都立新宿高校のあたりから分かれ、新宿通りからこの狭いガードを通る道筋である。

角筈地下道という。
かつてこのガードは臭く汚かった。

ガードを出ると横丁はまだ残っていた。
やきとり横丁は思い出横丁に改名されていた。
昔は正式名称を知らず、西口のしょんべん横丁といった。
焼いた煙が両側から充満、地面も舗装されていたかどうか。
今はそこそこきれいで外国人が喜びそう。

1979年別冊アングル
40年前と同じ店がいくつかある。
2020-09-13
1975年7月10日ころ。上京3か月の大学1年。前期の定期試験は9月なのだが、教員の都合なのか科目によっては7月に試験があった。それが終わってクラスの数人でなぜか渋谷を越えて新宿に出た。
6年上の小宮山達郎さんは学校群制度のころの新宿高校出身、一度就職してから再受験、入学された。たぶん彼の案内で来たのだが、いっぱい店がある新宿でなぜここだったか?
値段もあるだろうが、まだ昼だったから空いているのがここだったということもあろう。

2020-09-13
せまいL字型カウンターに梅沢順氏ら数人。
(竹野直人、加藤欣司、関口洋一、川腰肇、吉野諒三諸氏らがいたかどうか?)
ビールに焼きナスを食べ一人早めに席を立った記憶がある。たぶんそのまま長野に初帰省したのだろう。この夏は、学割のきく高校生のうちに始めてしまった自動車教習所の卒業期限が迫っていた。
昭和50年。まだ18歳だった。

その後、通り抜けたことは2,3度あるが、店に入ったことはない。
45年間一度も寄らなかったのだから、もう死ぬまで機会はもうないだろう。

昭和54年10月発行