2020年2月28日金曜日

スモンの謎5 用量と発症頻度

前回、日本で大量発生したスモンが外国でほとんど発生しないことを述べた。
世界中で使われるキノホルムを犯人にしたからには理由が必要だが、それを日本の特殊事情、長期大量投与とした。
昭和40年ころは公害とともにサリドマイドの薬害、さらには薬漬けが問題になっていたことから、いかにももっともらしく、広く受け入れられた。

しかし、本当だろうか?

少量では発生せず、長期にわたる大量投与でのみ発生するなら、大量に飲んだ人ほどスモンになる確率が高いことを証明せねばならない。

しかしそのような調査はしなかった。
キノホルムは日本薬局方に収載され特許もなく誰でも製造販売できた。家庭での置き薬や胃腸薬の成分としても入っていたから、何人、どれだけ飲んでいたか調べようもない。

薬事日報 昭和45年9月15日
厚生省通達のキノホルム含有医薬品。
国内だけで93社、173品目にも及んだ
(実川ら、グラフィックドキュメントスモン、1990)
武田、田辺だけでなくエーザイ、第一、中外、大日本、大正などほとんどの会社が売っている。

服用量と発生率は調べられないので、
発祥したスモン患者だけを対象に、投与量と症状の重さとの関係を調べた。

しかしこれは意味がない。なぜなら
1.まったく飲まなかった人、ごく少量の人もスモンになっている。
2.症状が重いほど腹部症状が長く続けば、服用量が増えるかもしれないから、相関があっても因果関係にならない。

こうした致命的な欠点に目をつぶって、とにかく当時の研究を紹介する。

グリーンブック No2、p228(昭和46年)によれば、
患者890例の調査報告(楠井、重松)の要約で、

「今回の調査は、スモン患者のみについてキノホルムの服用状況を遡及的に観察したものであり、この成績だけからでは、それがスモン患者に特有な現象であるかは断言できない。しかし、もしキノホルムがスモンの発症あるいはその進展と密接な因果関係があるならば、いわゆるdose-response relationship(量と反応の関係)が成立するはずであり、またすべてのスモン患者が共通してキノホルム剤を服用していることも必要条件となる」

と、のちのスモン協議会の結論や裁判、教科書と違い、まともなことを述べている。
そして以下のように続ける。

「キノホルム剤の明らかな672例について観察したが、いずれの場合も明瞭なdose-relation ship は認められなかった」(p229)
と結論したのである。

祖父江は総量と症状をみて相関なしとした。
軽症 48例  平均使用量 57グラム
中等症 105例 平均使用量 68グラム
重症 53例  平均使用量 52グラム
(スモン協議会総会 1970年11月13日。なぜか報告書に記載がなく、この数字は文献11、p88による)

ただし祖父江らは、軽症者と重症者の服用量の分布を見て、1日の使用量と重症度の関係が見られるとした。
(グリーンブック、No2 p132)
                       軽症者 重症者
0.9 g 以下/日  29% 17%
1.2~1.8 g /日  25% 25%
2.7 g /日       13% 36%
それ以上    33% 22%

しかし、これで差があるといえるだろうか?
だいいち、諸外国でほとんどないことを思えば、0.9~1.8グラム/日(諸外国の量)では軽症も重症もゼロ%(そもそも患者でありえない)でないと世界標準と合わない。

とにかく、権威が集まったスモン協議会の結論として、
「キノホルム剤の明らかな672例について観察したが、いずれの場合も明瞭なdose-relation ship は認められなかった」(p229)

その後、あらたな調査研究報告が出たわけでもないのに、社会のムードというものがキノホルム犯人説に傾き、それに押されたのか、キノホルム説派がこじつけのような理由を出してきて、ついに8年後、
昭和53年8月、東京地裁可部裁判長は、日本だけの特殊事情をなんとか説明するために、
発症は「一に長期大量投与による。」とした。

それが正しいか、数字を見てみる。

スモン患者は、協議会の18班員による890例の調査では、服用量に記載のあったものが672例で、

確実に飲なし 102
量の記載あり 508
量不明 62
である。(服用率調査と同じグリーンブック No2 p235であるが、微妙に違う)

量不明をのぞいた610人の総服用量は
0        102
1~10グラム   62  
11~20グラム  84
21 ~40グラム  173
41 ~60グラム  77
61 ~100グラム  63
101グラム以上  49 
計      610 人
     
20グラム以下が248人、41%いる。
40グラム以下なら421人、69%である。

キノホルム派の中心、椿教授は昭和46年、ヨーロッパに飛んで服用量の調査をした。西ドイツでは1日0.6グラム以下が79%、投与日数13日以下が64%とし、日本より少ないとした。
(逆に言うと、0.6グラム以上が21%、投与日数13日以上が36%、10グラム以上のものが3割程度いるだろう。しかしそこからスモンは出ていない)

一方、チバガイギーは、1年間のキノホルム販売量をその国の人口で割ると、西ドイツ、スイス、オランダなどでは日本より多いとした。
また、椿教授よりもっと大規模に調査し、オーストリアでは1日1.2グラム以上が80%、投与日数1週間以上が29%、そのほかの国でも総投与量10グラムないし20グラム以上はかなりある。だから(長期投与患者の100グラム以上はないとしても)スモン患者と大差ないとする。
(文献2、宮田 p100)

また、戦前から昭和30年代までなぜ発生しなかったということについても、椿教授らは同様に投与量が少ないからとした(東京スモン判決・判例タイムズ365号、p153)。そして片平・中江調査の、1日投与量が1グラム以内、投与日数30日以内であったという数字を根拠にする。しかし30グラム以内のスモン患者は41%以上、69%未満いるのである。つまり5000人ほどは30グラム以内であり、戦前スモン患者がいなかったことの説明にならない。(文献6 増原(4)p90)


どうしてこんな矛盾だらけなのか?
答えは1つ。
そもそも仮説が間違っていて、無理やり押し通そうとしたからである。

科学というのは仮説があり、それに対して支持者、反対者が議論し、最も矛盾のないように、自然とそのときの最良解に収束していくものである。
ところがスモンに関しては途中からキノホルムに固定し、マスコミなども参加して反対者を封じ込めた。その圧力は後で書く。

昭和45年夏以来、10年?にわたり、東大医学部を中心とした我が国医学会最高権威を集めたスモン協議会は、信じられないことに、会の名称であるスモンを研究しなかった。
その代わりキノホルムばかりを研究した。
それもキノホルムをなんとか犯人にするよう、あらゆる手を尽くして研究した。
この時の医学は科学ではなく、政治のようであった。

キノホルム停止の45年9月から、チバガイギーが裏で舌を出し、田辺が認めないまま金だけ渋々払うところに到達するまで(和解確認書の調印が昭和54年9月)、9年もかかったのは、この仮説があまりにも矛盾だらけであったことを示す。

続く

参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980

3-5は権威者側の公式発表、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するもの。
3-6はネットで読める。


別ブログ
20200223 スモンの謎4 外国ではなぜ発生しないか
20200219 スモンの謎3 中止後の発症激減
20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
20200214 スモンの謎1キノホルム説の登場


千駄木菜園 総目次

2020年2月23日日曜日

食べたネギの根の成長、ふきのとう

白菜が取れすぎるので毎週末に鍋を食べている。
一緒に入れるねぎは買ってきたものだが、根の部分を3センチほど残し埋める。
すると緑の葉っぱが出てくる。
根のついた泥ネギでなくとも、スーパーの真っ白な根のないネギでも大丈夫。
2020-02-15
根の部分を埋めたら出てきたネギ(深谷ネギ、妻沼ネギ)
右の数株は九条ネギだが、種から育てたら成長が非常に遅い。

しかし冬はなかなか芽が出ないので、ある程度まで室内で育てるとよい。
右の鉢はパプリカ越冬中。
その横の枯れかけているネギは根の部分でなく途中を埋めたもの。すなわち葉の部分。
当たり前だが葉に分化したものからは根も芽も出ない。

大根、白菜は大きなものから取っているから残っているのは小さい。
それでも暖冬で(私としては)豊作だった。

小松菜も葉っぱが厚くてうまそう。

2月15日まで4日連続15度以上は、2月としては65年ぶりの暖かさという。

 
2020-02-15
越冬エンドウは早くも花をつけている。
木を大きくするために摘花した。

だんだん虫が心配になってきたので春キャベツの越冬苗と小松菜にネットをかけた。
2020-02-15

2020-02-16
朝から雨。寒くはない。まさに節気の雨水。
この日は末娘の結婚相手の両親と初めて会う。銀座神谷木挽庵に12時。
一番できの良い白菜と大根を丁寧に包んでもっていった。

2020-02-21
小松菜に白さび病。
今年は人にあげられない。
さすがに生は気持ち悪いが、軽いものなら茹でて使ってくれと頼む。
調理すると分からない。妻は食べないけれども。

2020-02-23
本当に暖かい。
2020-02-23
ふきのとうは食べきれぬほど取れた。
大根は1040グラム。

千駄木菜園 総目次

スモンの謎4 外国ではなぜ発生しないか

スモン関連の資料の年月はほとんど昭和で書いてある。
このブログシリーズでは、1,2はいちいち西暦に直していたが、面倒なので3からは昭和のままである。

なぜ昭和で書いたものばかりなのか?
昭和30年代にはじまり、40年代にキノホルムと確定、昭和のうちに突然(大きな動きは)終わってしまった。
しかし、西暦で書かれたものがないのは、海外でスモンが発生しなかったこともその理由だろう。

キノホルムというのは世界中で使われていたが、スモンは起きなかった。
最大の謎というか、キノホルム説を推し進める学者にとって最大の不安材料だったに違いない。

(外国でも少数起きているという反論はあったが、日本の1万人以上と比べたらゼロに等しい。外国では投与量が少ないから、という反論については、日本でも投与量の少ない患者までひっくるめて85%という数字を出したのだから、問題にならない)

この薬は1899年にチバ社(のちチバ・ガイギー、現ノバルティス)が創製した。当時は外用剤であったが、1929年梶川静夫医師が疫痢、急性大腸カタルに有効なことを示した。1933年デービッドらがアメーバ赤痢に著効と報告、内用剤として世界中で使われた。

チバガイギーが1930年ころから販売したキノホルムは4000トンにおよび、患者一人当たり4グラムないし8グラムとすれば、延べ5億人、10億人となる。ドイツのバイエルなど他社のキノホルムも合わせれば、10億、20億人(延べ)が使ったことになり、安全性に問題はないとする。(文献2、p99)

キノホルムがスモンを引き起こすという仮説から厚生省が使用禁止の措置をとり(昭和45年9月)、昭和47年3月スモン協議会が公式にキノホルムこそ原因であるとしてからも、世界は日本の学者のいうことを無視して使っていた。
WHOはチバガイギーから大量に買って熱帯の国々に配布した。

サリドマイドを先進国で唯一承認しなかった厳格なFDAをもつアメリカは、スモン以前の1960年(昭和35年)に適応症をアメーバ赤痢に限るとしたから患者がおらず、チバ社が自主的に販売を辞めたに過ぎない。そのアメリカは、日本のスモンを知りながら、キノホルムは公定書(薬局方)に載せていた。
医薬ジャーナル 16, p1060 (1980)
合衆国公定書USP、国民処方集NFいずれにも収載されている。

スモンを心配してキノホルムを中止したのは全世界で日本、韓国(当時はなんでも追随した)とスウェーデンだけである。

田辺製薬の社内報「まるご」に面白いシリーズがあった。
「いまもキノホルム剤は世界100か国以上で有用な薬として使われている」
と1979年から連載されたもの。スモンの販売禁止から9年後、患者側との和解を申し入れて(昭和51年6月)3年後である。
社員が出張した時など、地元の薬局で買って様子をレポートするのである。
社内報はMRが卸、医院などに配布することもあり、内部文書ではない。
田辺は和解したものの、キノホルム説は徹底的に認めないというアピールであった。

まるご1980年9/10月号
松原一郎社長が台湾、インドネシアなどにいったとき、下痢をして自ら薬局で買って飲んでいる回もあった。

世界が認めないサイエンスなどあるだろうか?
WHO、欧米はじめ世界は、キノホルム仮説を、好奇の目で見ていたか、あざ笑っていたかどちらかである。

日本では神妙に謝罪したチバガイギーは、内心は全く反省もなく、自社工場で相変わらず大量に合成し世界に出荷していたし、米国スクイブは1968年にフランスでキノホルム製造を開始、1980年には台湾、オーストラリアへの輸出も視野に入れ、インドネシアにキノホルム製造工場を新設した(まるご1980年7/8月号)。ドイツ・バイエルなども製造販売していた。世界中でぴたりと製造販売が禁止されたサリドマイドとは全く異なる。
日本ではサリドマイドと並ぶ代表的な薬害として教科書に載るが、世界はそうでない。

wikipedeliaの英語版でClioquinol(キノホルム)をみると、こうある。
(2020年2月23日現在)
(Subacute myelo-optic neuropathyの部分)
Clioquinol's use as an antiprotozoal drug has been restricted or discontinued in some countries due to an event in Japan where over 10,000 people developed subacute myelo-optic neuropathy (SMON) between 1957 and 1970. The drug was used widely in many countries before and after the SMON event without similar reports.[7] As yet, no explanation exists as to why it produced this reaction, and some researchers have questioned whether clioquinol was the causative agent in the disease, noting that the drug had been used for 20 years prior to the epidemic without incident, and that the SMON cases began to reduce in number prior to the discontinuation of the drug.[8] Theories suggested have included improper dosing, the permitted use of the drug for extended periods of time,[9] and dosing which did not consider the smaller average stature of Japanese; however a dose dependent relationship between SMON development and clioquinol use was never found, suggesting the interaction of another compound. Researchers have also suggested the SMON epidemic could have been due to a viral infection with an Inoue-Melnick virus.[10]



参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980

3-5は権威者側の公式発表、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するもの。
3-6はネットで読める。


別ブログ
20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
20200214 スモンの謎1キノホルム説の登場


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2020年2月21日金曜日

中野刑務所跡、新井薬師

2020年2月17日、年末に続き、中野共立病院での面談。

中野駅北口の陸橋
銘板をみると2012年6月建造とある。
その6月15日、Tさんと来ているが、橋も工事現場も記憶にない。

今回はこの道を北上、中野刑務所跡を訪ねる。
住宅街の中、
2020-02-17 
矯正会館、矯正協会の本部である。

1888年、監獄官吏・刑事司法関係者・国会議員などが会員となり会費を出し合って創立した大日本監獄協会を前身とする。
1900年、監獄協会に改称。
1922年、刑務協会に改称。
1957年、矯正協会に改称。
2013年、公益財団法人に移行した。
監獄、刑務、矯正って全然違う言葉だけど。

ここから北西一帯が中野刑務所の跡である。
何か遺構がないかと、周囲を回ってみる。

監獄にしては低すぎるコンクリートの塀が見える。
ひと気がない。
解体するのだろうか、工事のフェンスで囲まれている。

保存されていた中野刑務所の正門が見えた。

市ヶ谷監獄が手狭になったことから1915年竣工、豊多摩監獄と称された。
とくに思想犯が収監され、大杉栄、荒畑寒村 、亀井勝一郎、小林多喜二、三木清、中野重治、埴谷雄高、河上肇、大塚金之助、戸田城聖などが知られる。

戦後、GHQが接収、1957年返還され中野刑務所と改称した。 
1983年、閉鎖。

妙正寺川に接する4万坪に及ぶ敷地は、法務省矯正研修所東京支所、水再生センター、平和の森公園になった。
体育館のような建物。矯正研修所が使っていのものか。
右は水再生センター。

矯正研修所というのは全国の刑務所で矯正に当たる職員の研修施設である。
ロゴマークが調教されているイルカのようだ。

ぐるっと西を周って南に来ると、梅の木の向こうに監獄正門が小さくみえた。
案内板もあるということは、以前は見学もできたということか。

見学できるかどうか矯正会館に入って聞いてみる。
正木亮博士像
売店のようなところを覗くと全国60の刑務所で作られた商品を売っている。
残念ながら月曜は定休だった。

誰もいらっしゃらなかったが、ひとり職員の方が歩いてこられたので聞いてみた。

法務局管轄の研修所は昭島に移り、建物は全て解体するらしい。
敷地はもうどこか別のところが所有しているらしく、私どものものではないので正門の見学はできませんという。中野区が小中学校を統合して学校を建てるといううわさがありますが、詳しくは知りません、と。

彼は親切にも外に出て、正門が見えるかもしれません、と水再生センターとの間の道に連れて行こうとしたが、いや、見てきました、と断った。
となりの水再生センターをぐるっと周って、平和の森公園に行こうとしたが、工事中のフェンスがはるかかなたまで続いていたので断念した。4万坪は広い。
10万坪あった水戸や金沢の上屋敷(後楽園、東大)より狭いのだが。

 中野駅に帰る途中、新井天神通りという道をとおった。
なるほど北野神社があった。

新井薬師公園は工事中

北の裏口から新井薬師に入るとなぜか聖徳太子像

東京都左官職組合連合会の中野支部が昭和35年に境内に建立したらしい。
「組合員鶴谷善平氏が 昭和34年10月5日より多忙の寸暇をさき 意に満つるまでの一念に折りをこめて制作したるもの」という。

「戦後建築職人の技能の低下が嘆かれ、特にわれわれ左官職も稍もすると技能を軽んじ、社会的にも軽視されがちな傾向多々ある今日、鶴谷氏これを大いに憂い、技能者養成指導員の技術に対する重要性の再認識と、次代をになう後輩諸氏が、聖徳太子の遺徳を遵じ奉ると共に、技能の向上を促す念願にて制作せるものなり」とあり、びっくり。

左官職人と言えば壁をできるだけ平らに塗るのが大事と思っていたから、このような造形技能を持つ人がいたとは驚いた。
本堂裏の会館
新井薬師は、新井山梅照院薬王寺と号する。真言宗豊山派。
西武新宿線の駅名だから名前だけは聞いていたが、初めて来た。

もちろん本尊は薬師如来。空海作という伝承は真言宗だから。
諏訪系神社の御柱みたいなものが立っている。
中野区最大の寺院という。面積だろうか?

足立区の西新井大師も同じ真言宗豊山派。
こっちが西新井で向うが東新井ならすっきりするのに。

足立区の西新井は、弘法大師ゆかりの井戸が本堂の西にあったということで地名になったそうだ。仕方がない。
こっちでも新しい井戸が本堂の東ででて、東新井大師なんて名づけたらややこしかっただろう。

裏から入り、最後に山門を出ることになった。

薬師あいロード
ゆっくり蛇行して古そうな道だが参道ではない。
駅そばのサンモールとはまた違うが、長く続く店もありそうで、中野区の住みやすさを感じさせる道である。駅まで10分くらいか。

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2020年2月20日木曜日

都会の狭い庭、開墾の歴史

2月7日、植木屋さん来宅。
山茶花(左)と金木犀をバッサリ小さくしてもらった。

2020-02-09
大分日が当たるようになると欲が出てくる。
今私の一番の娯楽は野菜つくり。
畑を広げよう!

2019-04-19 
この踏み石の列を左の塀の方に移し、畑の幅を広げたい。

敷石を移すだけではだめで、掘り返して耕さねばならない。
妻が植えた水仙やチューリップを奥へ押しやりながら掘る。

がれきが出てくる。
2020-02-15
すぐに巨石(コンクリートの塊)が出て来た。
かつて掘ったときに地中から出てきて、敷石にした。しかし小石をコンクリートで固めたもので、雨などで少しずつ崩れていくので、再び地中に戻したものである。

さらにもう一つ出て来た。
これは記憶になかったが、埋められた位置から考えて自分で並べたのだろう。

残っていた妻の領地(写真右)を大分浸食し、2つの巨塊を地中で右へ移動させた。
更に広く掘ると山茶花の根が横たわっている。
のこぎりで切断。山茶花にはあまり愛着がないので迷いもない。

2020-02-16
出てきたがれきは、ゴミに出せないし、出せば庭の土量が減る気もする。
耕作の邪魔にならぬよう、ビニール袋に詰めて敷石の下に埋めた。

翌日、もう一本根があり、それも切断。
2020-02-17
畑の拡張が完成
春になったら何を植えようか、わくわくしてくる。

おもえば、毎年のように畑を広げてきた。
もともときれいな畑土でなく、石、瓦片、ガラス、根っこ、粘土、、
昔の写真があるので、庭と畑の変遷をみる。

2011-07-24 初めて来たとき

桜は二階の屋根を覆い、ゆうゆう道を越えて他人の家にかかり、
金木犀、山茶花は幹は道路際にあるのに、競うように庭を越えて二階のベランダまで来ていた。
すなわち人の住んでいる形跡がなかった。
やっとジャングルに足を踏み入れたが、自動的にフラッシュが光るほど暗い。
こんなところが文京区にあるのかと思った。
(→ 別ブログ)

二年後の2013年3月上旬、業者に木々の大規模剪定を頼み、塀ぎわのカイズカイブキの列は撤去、草取り、大掃除してもらったら、一気に明るくなった。
4月16日引越し。
埼玉の旧宅からはツワブキとフキ(もとは長野)、実生リンゴだけもってきた。
2013-05-13 
2011年と同じアングルで撮影。

引っ越して1か月後、洗濯物も干せるようになりました。
ヒキガエルたちにとっては災難だっただろう。

2013-05-13
相撲を取ったりキャッチボールなどもできそう。

2013-05-17 
再び植木屋さんに来てもらい、塀のきわにレッドロビンを植えてもらう。
掃除したら藪の中から現れた、つつじの植え込み。
石の配置など見るに、かつてはきれいな庭だったのだろう。

リフォームと引越し、家の売却に転職が重なったから余裕がなかったはずだが、花屋で苗を買い、キウリ、ゴーヤ、ナス、ピーマン、トマト、ミニトマト、それぞれ1鉢程度を植える。
庭のごく一部、植える部分だけバケツの穴程度を掘って植えたから、畑はまだない。

5月19日、母と弟がきた。ニラ、ミョウガ、シソ、アヤメなど持ってきてくれた。
2013-07-13 転居して3か月
うしろに右キウリ、左ゴーヤのネットが見える。支柱が足りなくて倒れそう。
足元、石列の前は芝生を植えようと思い、このあと種をまく。

7月13日は、西尾将史君と日暮里図書館吉村昭記念室にいき、帰りに園芸用支柱を買って谷中墓地を歩いて来た。

2013-07-27
苗は和室前だけでなく、リビング前のロビン手前にも植えたようだ。
左にトマトが見える。支柱は日暮里の金物屋で買ったものだろう。
デッキ前の桑の木は残そうと思ったが

2013-07-27
和室からみたキウリ。
長年落ち葉が溜っていた土に初めて植えたせいか、なりが良い。
生ごみから出たカボチャらしきものも見える。

2014-04-13
レッドロビンを植えて1年、庭が一番美しく豊かな生活にみえるころ。
トマトのあったところは妻がチューリップを植えたようだ。

2014-08-03
秋山馨さん森村浩三さん来宅。
足元にオクラが見える。
この年はナス1鉢、オクラ1鉢(二本を無理やり分けた)、キウリ2鉢のみ。

昨年と同じ場所にキウリ。
芝生が生えている。こういう庭も良かったな。

2014年秋、大根(聖護院、宮重)、ホウレンソウの種を買う。
9月26日、枯れたキウリと支柱を片付け、和室前を初めて面として耕す。
2014-10-03
9月28日、種をまき、10/1大根、10/3ほうれん草発芽。
しかし生育イマイチ、繰り返し種をまく。

2014-10-03
芝生が元気ない。

2014-11-29 障子を開けると大根。
 病気になったら毎日庭を見ながら暮らす。
病床6尺、子規のように鶏頭でも植えようかな。

2015-03-31
まだ畑は和室前だけにとどまっている。

2015-05-17
冬に大根、ホウレンソウを作った場所は夏野菜の準備。

2015-05-04
敷石代わりに桜幹の輪切りを埋めたりした。

2015-06-07
妻のチューリップの場所を奪い、トマト、オクラ、ピーマンを植える。

2015-07-28
畑は小さいが、カボチャが這いまわっている。

2015-09-20
2年目の冬野菜をまく

2015-11-21
大根(宮重、聖護院)、春菊、ほうれん草をまいたはずだが、大根しか見えない。

2015-12-27
新たにリビング前を耕して畑にした。
このころよく鳩が来た。
浅草上野の鳩でなく、キジバトである。

2016-01-14
埋めた桜の輪切りからキノコがはえてくる。

2016-04-08
春菊とホウレンソウに桜が散る

引っ越して3年、4回目の春、畑の大拡張を決断。

2016-04-30
芝生のあったところを畑にする。
耕すと巨石が出て来た。
また燃えたガラス片、瓦片、がれきなどで畑の造成は難航

2016-05-15
芝生をやめて作った畑には実生のナス、ピーマンを植える。

2016-05-15
畑を増やすと散らかって庭の美しさがなくなる。

2016-06-20
和室前はキャベツのネットと枝豆

2016-07-01
リビング前、ロビン前に支柱が見える。

2016-09-06
和室前の畑と芝生の畑の境になっていた丸石を移動し、耕して両者を融合した。
現在の形に近くなる。

2016-10-09
大根が育ち、落花生が残っている。

2016-10-09
レッドロビンの前を耕して白菜
夏、リビング前はオクラだった。

年が明け、5回目の春、夏
2017-08-27
リビング前のネットはトマトとキウリ

2017-09-02
芝生のあったところの畑を拡張、深く掘ると赤い土。

2017-09-03
ほぼ今の形になる。
左に見えるツツジは翌2018年11月に左へ移動、畑を広げた。

さらに
2018年12月、フキを移動してレッドロビンの前のキャベツ用畑を広げた。
2019年11月、リビング前の畑を5メートル防虫網に合わせて長くする。
そして2020年2月16日、上の写真の右の敷石を右に動かし、畑を広げたのである。

あと何回、ナス、大根が作れるだろう?


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