1月24日、神田駅のそば、新常盤橋から日本橋川に沿って下流に歩いた。
この川は江戸時代以来のビジネスの中心地を流れ、最後は豊海橋で隅田川に合流する。
(別ブログ)
2021-01-24 14:15
日本橋川の終点、豊海橋から永代橋を見る。
向こうは深川、越中島。
隅田川は永代橋を過ぎて石川島にぶつかり、右(西)が隅田川、左の越中島との間の水路は晴海運河と呼ばれる。上の写真だと隅田川は永代橋の先で右のほうに隠れていき、橋の向こうに伸びるのは晴海運河である。
江戸時代に隅田川にかかっていた橋は5つだけ。
江戸防御のためもあるだろうが、本所深川を除けば、川向うは人があまりいなかったのだろう。
その5つとは
千住大橋 文禄3年(1594) 、
両国橋 万治2年(1659)、
新大橋 元禄6年(1693)、両国橋が大橋と言われていたため。
永代橋 元禄11年(1698年)
吾妻橋 安永3年(1774年)である。
元禄は綱吉の時代に2つ続けて架けられた。
永代橋という名は、橋あるいは幕府が末永く代々続くようにという慶賀名だと思っていたが、対岸にあった中洲、永代島にわたるための橋だったという。
永代島はいまの江東区の永代、門前仲町、富岡に広がる地域である。1624年、その中州に永代寺が創建され(だから永代島になった?)、すぐ永代島八幡宮(のち富岡八幡)も建てられた。
富岡八幡は江戸最大の八幡、深川八幡として幕府の保護を受け、永代寺も別当寺として栄えた。しかし明治になって永代寺は神仏分離で廃寺となり、敷地は深川公園や深川不動(成田山新勝寺の東京別院)となった。門前仲町は深川不動ではなく、永代寺の門前である。
その後、明治29年になり塔頭だった吉祥院が名を継ぎ、参道途中の小さな寺として永代寺を名乗っている。
隅田川も海に入るところで、当然これより南に橋はなかった。
文化4年8月(1807)富岡八幡で12年ぶりに江戸三大祭りの一つ、深川八幡祭りが行われ、江戸市中から多くの群衆が橋を渡って押し寄せた。ところが、その重みに耐え切れず、橋の中央部よりやや東側の部分が崩れ落ち、だが後ろから群衆が続々と押し寄せ、死傷者・行方不明者、1400人を超える大惨事となった。
日本銀行発祥の地
(道は右にカーブして豊海橋を渡っている)
明治になって、日銀は永代橋のたもとにあった建物を利用して営業を始めたが、すぐに常盤橋のところに移転した。
永代橋は、明治になって老朽化が進んだため、1897年(明治30年)、日本橋川を挟んで対岸(南)の現在の場所に再架橋され、それまでの旧永代橋は廃止された。
新しい橋は道路橋としては日本初の鉄橋、頑丈で、1904年(明治37年)には路面電車も敷設された(1972年11月廃止)。しかし大正12年の関東大震災で炎上し、1926年、再架橋される。
永代橋は渡ったことはないが、その地下を通る東西線はよく乗った。門前仲町、東陽町、葛西でダンスをしていたからだ。
14:16
上の写真、地図看板の右うしろに薄く見えるタワーマンションは石川島かもしれない。なお石川島は佃島の北にあった島だが、埋め立てられて佃島と陸続きとなり、住所も佃島2丁目。
東岸にわたり上流へ行く
次回は清洲橋から浅草まで歩こうかな。
14:21
日本橋川河口北岸は日本IBM本社
日曜、コロナでひと気なし。
1階にはコンビニの他に保育所あり。
家康入府から70年近く千住大橋しかなかった隅田川も橋が増えた。
この地点(日本橋川河口、北岸)の下流は埋立地が広がったこともあり、
永代橋 150m先
中央大橋 750
佃大橋 1300
勝鬨橋 2150m
上流には
隅田川大橋 200
清洲橋 650
新大橋 1250
両国橋 2100
蔵前橋 2950
厩橋 3350
駒形橋 3850
吾妻橋 4100
言問橋 4700
桜橋 5150
白髭橋 6700
14:33
隅田川大橋から下流を見る。
永代橋の向こうは佃島のタワーマンション群。
やや右のほう、そこへ渡るための斜張橋の中央大橋が小さくみえる。
「斜張橋」という言葉はお隣にお住いの伊藤学東大名誉教授が名付け親である。
先月90歳になられたが、毎朝根津神社まで歩くことを日課とされている。
今月はコロナと寒さで休まれている。
隅田川大橋から上流側を見る。
上は首都高9号深川線、川底深く地下には半蔵門線がとおる。
小さく見えるのは清洲橋。
14:39
隅田川大橋、西詰の穴あきビルは、ダイワリバーゲート。
1994年「リバーサイド読売ビル」として竣工、中央区では4番目の高層ビルだった。2015年大和証券オフィス投資法人が信託受益権を取得、この名前になった。穴(ピロティ)の両側は賃貸しマンション、穴の上はオフィス、三井製糖、吉野家などの本社が入っている。
14:39
清洲橋
こちらは斜張橋でなく吊り橋である。
震災後に永代橋とともに計画、昭和3年竣工。
東岸は清澄町だが、橋の名は深川区清住町と日本橋区中洲町から一文字ずつ採られた。