2021年6月27日日曜日

ダンス練習場ファーストプレイス閉館と荒川区、吉村昭のこと


日暮里にあるダンス練習場、ファーストプレイス東京が7月15日で閉鎖するという。
残念だが仕方がない。
ある程度予想されていた。
というのは、荒川区議会で家賃滞納が問題となり、昨年8月31日契約解除されたからだ。
今まで営業できたのが不思議なくらい。

この家賃滞納の件、すなわち荒川区議会の音声記録はYouTubeで聞ける。

この音声の24’ 40””から聞けば、家賃は月540万円だったそうだ。

2021‐06‐27
国内最大級の床面積575坪だから仕方がない。
坪1万円ほど。
日暮里駅周辺の家賃は、平均坪単価:19,621円
最高坪単価:50,000円
駅徒歩1分だから破格の安さだろう。貸主が荒川区だからか。
もっともこれだけ広いと普通の家賃では借り手も見つからない。

ファーストプレイスは(株)スタジオひまわりのグループ会社、(株)アカデミーホールが経営する。池袋のアカデミーホールも運営し従業員25人。

さて、ファーストプレイスは家賃540万円がなかなか払えず、2014年6月開業以来、しばしば滞納したらしい。それでも年末にはまとめて払っていた。しかし2019年は11月分まで納めたが、12月以降は未納。
2020年8月の段階で未納分は9か月で4911万円。荒川区が預かっている保証金は5800万円。
しかし、ファーストプレイス側はホテルラングウッドに払う光熱費も1200万円滞納しており、この分は荒川区に支払い責任があるという。すると5800万円あっても300万円ほど区の持ち出しとなり、契約解除に至ったようだ。

その後もコロナが長引き一時閉鎖と入場制限がつづき、素人が見ても収入のさらなる低下は明らかだった。回数券の販売が中止され、いよいよ閉店を思わせたが、どこかで存続を期待していた。
大ホール
552㎡ (16.2m×32.2m)、天井高4.8m

ファーストプレイスの大ホールはダンス練習場として素晴らしい。
私など千駄木から歩いても行けるから、人一倍ありがたみを感じるが、それを差し引いても、広さ、床、鏡、音響、スタッフ、あらゆるものが最高で、熱心なダンサーたちを集めた。
廃業するというのは、無垢のサクラ床板をはがすのだろうか。もったいない。
何とか存続できないものだろうか?

開業は2014年6月。
以前、ここはスポーツクラブオッソ日暮里というプールも備えたフィットネスジムだった。ダンス練習場ができるという話は4月ころから競技会などで噂されていたが、初めて来た時は驚いた。

高級感があって今までのダンス練習場の概念を越えていた。
太っ腹で最初の1週間だったか10日だったか、無料開放した。私は最寄り駅の一つだったから仕事帰りに一人でも立ち寄った。広くて無料だから物珍しさもあったのか、その1週間に東京近辺のほとんどのダンサーが顔を出したのではないか。ちょうど私は半年組んだTKさんと解消したころ。その前のパートナーだったTYさんも練習していて気が散った。

当初あった1か月利用し放題のフリーパス1万円はありがたく、その後も3か月に一度の回数券安売りキャンペーンなど、多くの競技選手がお世話になったことは間違いない。
競技会ができるほどの広さと床の良さだけでなく、アマのチャンピョン、全日本ファイナリスト、金スマのロペスなど有名人の踊りも生で見られ、周りからもらえる刺激が貴重だと遠くから練習に来る組も多かった。

しかし近年はダンス人口も減ったのか、フロアがすいている日が多く、経営は苦しいだろうとは思っていた。それでもサービスの質をまったく落とさなかったのは、ダンスが単なるスポーツではなく、夢を与えるもの、美を追求するものという哲学があったからだろう。その苦労には感謝しなくてはならない。ファーストプレイス、スタジオひまわりのダンス界への貢献は誰もが認めるところだ。
17:12
何とか続けられなかったか?
荒川区のほうもそう簡単に借り手は見つからないだろうから、区内の小中学生の利用をタダにする代わりに家賃を半額にするとか。
持続化給付金などを払うなら家賃を猶予してもよい。

単独企業で家賃540万はきつい。
スタジオひまわりを応援するつもりで複数のダンス教室が共同で入ったらどうだろう。山手線の駅から1分。坪当たりの家賃は今までより安くなるはずだし、様々な点で協力すればダンス復興の拠点になる。
ここがなくなってしまえばダンス衰退の流れが加速されるだろうから教室経営者も危機感を持ったほうがいい。


ところでなぜ荒川区に家賃を払うか?
ホテルラングウッドの4階には日暮里サニーホールがあり、ここは荒川区の施設で安く借りられる。日曜は社交ダンスのパーティも開かれ、私も競技を始める前はよく遊びに来ていた。
ホテル宴会場かサニーホールかは分からないか、区内の様々な団体の会議や荒川区小中学校の同窓会もしばしば開かれている。

2021‐06‐27 17:08
4階サニーホール管理室は荒川区の出張所のようにみえる

荒川区とホテルラングウッド、ダンス練習場ファーストプレイスの関係はどうなっているのだろう?
ずっと前から疑問だったのだが、今回、家賃滞納問題のユーチューブを聞いたら、そのすぐあと(30’ 20‘’)からの区議会総務企画委員会の報告でようやくわかった。
4階日暮里サニーホールの入り口
ここはもと第五日暮里小学校があったらしい。
すなわち4747平方メートル(?)(音声ではあとで3100平方メートルといっている)の敷地は区有地。荒川区が持っている。
建物は地下1階(レストラン天心、香林など)と地下2階(ダンス練習場ファーストプレイス)、4階5階(サニーホールなど)の部分を荒川区がもち、ホテルラングウッド部分は三菱UFJが区分所有している。ホテル部分については1986年に荒川区と30年契約を結び、2016年に30年契約を更新したところ。ここは家賃ではなく地代を払っている。

2021‐06‐27 17:06
しかしホテルもインバウンド中心だったからコロナで経営悪化した。
開店休業の状態が1年ほど続いた2021年3月末、ラングウッドの事業運営者・平成16年からの(株)グリーン・ハウス(とんかつ新宿サボテンでも知られる)は撤退した。そしてマイステイズ・ホテル・マネジメント(全国100棟展開中)が名称・雇用などをそのままにホテルを引き継いだ。
ちなみに地下一階にあった中華の香林はコロナ以降閉まったままだが、廃業したのか、ホテル公式サイトから消えていた。ホテルに入っていた花屋さん(上の写真右)もコロナで廃業した。
1階、ホテルロビー
さて、第五日暮里小学校を調べると疑問にぶつかった。
確かに場所は東日暮里5-50-5、ラングウッドの住所である。
ところが終戦直後の1946年4月第二日暮里国民学校(現第二日暮里小)に統合され廃校とある。
地下1階
和食の「天心」は岡倉天心からか。

実はここは戦時中まで作家吉村昭(昭和2年1927- 2006)の実家の工場があった。
父親は陸軍被服廠と取引もあり手広く紡績・製綿工場などを経営、ラングウッドの敷地にあった工場は兄の一人が経営していた。
吉村昭は八男で、第4日暮里小学校から地元の開成中学にすすんだ。中学2年で太平洋戦争勃発、日暮里の家が空襲で焼けたあと、足立区に疎開、終戦は長兄が経営する千葉浦安の造船工場で迎えたが、現ラングウッドの敷地にあった工場にも一時身を寄せていた。


文春だったか何で読んだか忘れたが、吉村は2006年、癌の末期で死が迫り、夫人の芥川賞作家津村節子に車いすを押されてホテルラングウッドに来た。1階のカフェレストラン「セリオ」でサンドイッチをほんの少し口にしたが、その場所が工場の事務室あたりだったと、彼は夫人に話したという。
2021‐06‐27
疑問というのは、終戦時は吉村家のものだった敷地が荒川区小学校になって、終戦から1年も経たず廃校になったとすると、その敷地は1988年ラングウッドホテル開業までどう利用されていたかということ。学生時代、78年から3年間、駅の反対側の谷中にいたが、この場所には来なかった。

荒川区は吉村昭をとても大事にしていて1992年日暮里図書館に吉村昭コーナーを設置した。2013年6月11日なんと天皇陛下が来られたというので、千駄木にいた私も翌7月13日、西尾将史氏を誘って見に行った。
さらに区は発展させて2017年に記念文学館を開館した。そこに行けば何かわかるかもしれない。

ひと月前の陛下行幸を伝える日暮里図書館 2013‐07‐13
2013‐07‐13
ファーストプレイス開業時は、髪も黒くて多かったことがわかる。


千駄木菜園 (総合)目次


(追記 2021‐08‐02)
近くに来たので寄ってみた。閉鎖されて半月。
常に案内板にあった地下2階ファーストプレイスの文字はなし。
6階ワクチン接種会場の案内人が立っていらした。

ファーストプレイスがなくなってダンス関係者が来なければダンスウェアも売れない。
地下1階タカダンスファッション アトリエも店仕舞いの最中か。

2021‐08‐02 11:58
地下2階に降りると真っ暗。
いつまでこの状態が続くのだろう?


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2021年6月25日金曜日

上野公園10 新鶯亭など茶店の歴史と小川先生


以前、 
20210305 上野公園9 新鶯亭など茶店の歴史
として書いたが、たまたま今日見たらだらだら長くて読みづらい。
そこで二つに分け、後半部をこのブログに独立させた。

(以下、再録)
・・・・・・・・・・・・・・・・

2019年3月2日、湯島の職場に寄ったついでに上野のヨドバシカメラでリモート用パソコンを買った。そのあと家まで歩いて帰る途中、上野公園を通った。
東京都建設局のHPから

韻松亭、大仏の頭、精養軒、梅川亭の写真を撮って、動物園正門のほうに出る途中、木々に囲まれひっそりと茶店がある。
2019‐03‐02 11:02 新鶯亭
たぶん入ったことはない。
鶯団子とある。
鶯色ならヨモギ団子みたいなものかな?

店は休業中であったが、ちょうど年配の女性が腰にラジオをぶら下げながら、草取りでもされるのだろうか、出てこられ、動物園側に行かれた。

私もそちらに行くと目が合ったので「店はお休みですか」とご挨拶した。

コロナで客がほとんどいないから、団子を作っても無駄になってしまう。土日だけ開けているという。

私は上野公園が大好きなんです、
と昭和50年以来の記憶を話すと、いろいろ教えてくださった。

「昭和20年にここで生まれたの」と彼女は目の前の店を指す。
一番感受性の高い時期、この一帯を遊びまわっていたのは昭和20年代か。
戦後の上野公園を毎日見ていらしたことになる。

今の西洋美術館、東京文化会館があった辺り、凌雲院の跡地は引揚者のバラックが並んでいたこと、帰省の時季は公園に徹夜の行列ができたこと、白装束でアコーディオンを弾く傷痍軍人のこと、不忍池の入水、森の中、便所での首つりなど自殺が多かったこと、などを話してくださった。
テレビ東京「池の水ぜんぶ抜く」で不忍池が出ないのは泥の中から死体が出てくるからじゃないかしら、と仰る。不忍池への石段を下りたところ(今は更地)にあった桜木亭の女将とは友人だったらしく、都の依頼で池のレンコンを収穫した業者が、差し上げようとしたが、気持ち悪くて断った、という話も。

不忍通りの向こう、池之端にある忍岡小学校の1年下に小川潔さんがいらしたという。
「確かご兄弟もみんな東大だったんじゃないかしら」
彰義隊の小川何某のご子孫、西郷さんの北、彰義隊墓所の横にあった墓守小屋(平成時代まであった)でお生まれになり、やはり公園で育ち、東大理学部から学芸大教授になられたことは、以前書いた。
「小川さんにお会いしたら○○といえばわかりますよ」とおっしゃったが失念した。

彼女は公園内の上野中学に進まれた。
実は公園内に、国立博物館を挟んで区立中学校が2つもある。上野公園に住んでいる生徒などいないはずだが、安直に学校用地を調達したのだろう。
12:03
上野公園は外国人観光客がよく来る。国や都はさらにその数を増やしたがった。
東京都は噴水を縮小、イベント広場を広げ、樹木を切って、パークサイドカフェ、スターバックスを開業させた。公務員、お役所は開発とイベントが大好き。しかし上野公園は常に人があふれるようになり、すっかり良さが消えてしまった。

一方、弁天島の茶屋3軒(こちらの地主は寛永寺?)、石段下の桜木亭などもなくなり、昔の茶店はここくらいしか残っていない。
スタバなどを入れた東京都は古くて小さな茶店を撤去したかったのではあるまいか。明治時代の公園開設当初は場所代で公園維持費を賄おうと茶店を入れたにもかかわらず、1956年の都市公園法以来、茶店への規制が厳しくなった。新鶯亭でも雨漏りの修繕すらなかなか許可が下りず、水洗便所化も大変だったという。

店が暴力団などにわたるのを防ぐためもあるのだろう、借地権という権利はないらしい。
しかし権利がなければ先祖代々ここに住んでいられる拠り所があいまいになってしまう。また、(権利として)売れなければ他に引っ越すこともできない。
退去圧力に屈せず居住、営業を続けるには、ご先祖様が上野公園の石碑など文化財の設置、維持に尽力あったということを認めてもらうしかないだろう。
相続する親族がいなくなれば都に返還することになるから茶店はなくなる運命にある。

ちなみに新鶯亭の「新」は昔、鶯亭があったから。
鶯亭は鶯谷駅南口に行く途中の右側、今の忍岡中学の敷地にあった料亭。
そこの経営者が上野公園内に囲碁の対局も行われた東華亭や新鶯亭などを開いた。新鶯亭は山下の不忍池のほうにあったらしいが、大正4年には今のところに来て106年になるという。

さてコロナ禍の新鶯亭。
開店休業であっても営業時間が10時から17時までだから時短協力金の6万円はもらえないという。貯金を崩して耐えているのだろう。その話からコロナ、都政、国政と話が広がった。75歳とは思えないほどお元気で、1時間以上も話してくださった。

長い立ち話に腰が痛くなり、まっすぐ家に帰ろうと歩き出した。
しかし東京都美術館のすぐ横を通ったのでちょっと入ってみた。
何年ぶりだろう。
12:14
東京都美術館のレストラン・ミューズ
Museとはギリシア神話で音楽、文芸、学問全般の神とされた9人の姉妹。
同じ館内にあるカフェ・アート、レストラン・サロンは休業中。
3軒とも精養軒の経営のようだ。

2013年にKさんと入った国立科学博物館のレストラン・ムーセイオンも精養軒である。
Museion(ギ)の英語MuseumはMuseたちの神殿という意味だ。

多くの茶店がなくなり寂しいが、新しい文化施設に入るカフェ、レストランは良い。
新設のために樹木を切るわけでもないし、明るくて広くて若者も喜ぶメニューだろうから、古い茶屋と併存すればよいが、その茶屋は大部分消滅した。

旧奏楽堂前まで来たら林の中に行列。
12:22
生活困窮者?に食料の配布。見ていると箱入りのビスケットや果物(バナナ)、遠足のお菓子みたいな袋の詰め合わせ、もちろん腹の足しになるものや主食、おかずもあるのだろう。
どんなものがもらえるのかな。

ボランチアの人が多く、食料もたっぷりだが、もらっている人は少ない。
段ボールがいくつも空いてつぶれていた。
早く配り終わりたいのか、係の人は集まった人たちに三回目、四回目と何回ももらうように誘導するため、行列が円を描くように案内している。もらう人はすでに満杯のレジ袋を両手に抱え、手が使えないから差し出す袋に係の人がどんどん詰めてあげている。
彼らはホームレスではなく、身なりも私よりいいものを着ていた。

私も並んでもらおうかどうか迷った。
彼らは1週間で食べきれず無駄になるほどの食料をもらっていた。私がもらえばボランチアの人も早く片付いて喜ぶかもしれない。
しかし並ぶことができなかった。
自分が生活困窮者でないから資格がないということもあるが、他者のためにボランチアをしている尊い人の前に立てなかったからである。

12:27 
芸大美術学部の正木門が開いていた。
芸大アートプラザというミュージアムショップだが、門にカフェメニューが出ていた。
門内を覗くとキッチンカーと椅子テーブルがある。。
これも上野公園のポスト茶屋時代の休憩所かもしれない。

12:36
久しぶりに通ったら谷中名所ヒマラヤスギが派手に強剪定され小さくなっていた。

40年前、この近く、谷中真島町あかじ坂下に住んでいた。
しかしこの日は荷物が重くて回り道する気にならない。
三崎坂をおり、団子坂を上がって帰宅した。

・・・
昼食後、本棚を探したら出てきた。
小川潔先生・上野しのばず学習会の資料 
第16回(2019-05-25)
ずばり、上野公園休憩所(茶屋・貸席等)の変遷
大学の先生だから、新鶯亭の女将の思い出話と違い、資料を確認しながらの講義だった。
その日の受講者は4、5人で、今見てもレベルの高い話だったことが分かるが、わずか2年前の自分のメモを見ても思い出せない。新たな学びはできないほど耄碌したか。
オーナー、店名の変遷
西郷さんの横、グリーンパーク旦妃楼飯店はコロナのせいか昨年3月閉店。
1階のクアトロスタジオーニは存続。

これをみれば、よく歩いていた1980年ころは、現存の新鶯亭、精養軒、梅川亭、韻松亭のほかに、龍玉亭(90年代に廃業)、花山亭(2000年代)、東華亭(80年代)、桜木亭(80年代に動物園正門前廃止、不忍池は2010年代に廃業)も存在したことがわかる。
当時私が入ったのはここにない弁天島の勝亭などで、高台上で営業していたはずのこれら茶店は記憶にない。

上野公園を愛し、その隅から隅までご存じの小川先生は、公園を観光客誘致のコンテンツにしようという経済(金儲け)優先の国や都による乱開発を憂慮されていた。以前は市民のための公園であり、金を儲けようという発想はなかったと思う。

そのセミナーは、コロナで昨年春に中断したまま再開されない。

「遺言のつもりで上野公園のことを話しています」とおっしゃっていたが、お元気だろうか。

 
別ブログ
 20200611 上野公園7 新しい改札口と公園破壊
 20190922 上野公園6 江戸の坂
 20190113 上野公園5 正岡子規球場と大噴水
 20190112 上野公園4 王仁博士の碑と日韓問題
 20190110 上野公園3 彰義隊と小川一族
 20190109 上野公園2 昭和38年の西郷像と広小路
 20190108 上野公園1 聚楽台と映画館あと
 20181229 上野駅2 駅舎と外観
 20181212 上野駅の思い出、昭和と平成

2021年6月23日水曜日

堅川を歩き、猿江恩賜公園と墨東病院

6月20日、ダンス競技会で錦糸町駅南口、丸井8階のすみだ産業会館、サンライズホールにきた。(別ブログ)
サンバ、ルンバのラテン種目が7組中6位に終わり、スタンダードまでの待ち時間が長かったので会場の周辺を散歩することにした。

デパート丸井とJRAウィンズ西館の間の道を南下するとすぐ高速道路にぶつかる。
首都高小松川線、下は堅川のはずだが、埋め立てられていた。
形ばかり残った橋は牡丹橋という。

2021‐06‐20 14:42
牡丹橋から東を見る。向こうに四之橋が見える。
江戸時代、西の隅田川合流点(以前ブログに書いた)から数えて4つ目であった。
明治の地図も四之橋だが、幕末の江戸切絵図では四ツ目橋であり、通りは今も四ツ目通という。

西の隅田川方面をみる。
昔は江戸城が見えたはずである。
堅川は、地図で見れば見事に東西に一直線。
のろしを上げて、それを目指して掘ったという運河だが、そののろしの場所はどうやって決めたか? 南の小名木川(おなぎがわ)と平行だが、ほんのわずか東西から傾いている。
そのうち何かで読むだろうと思い、いまは敢えて調べない。

ホームレスの人がいた。
もう少し通りから離れた端のほうが落ち付いて寝られる気もするが、ひとそれぞれ。
大量のマンガ本を並べていらした。売り物か持ち物か不明。
牡丹橋から東へ歩く。
四之橋の車道わきの歩道をくぐると、まだ有効利用されていない土地があり、葦が茂っていた。長野の田舎でよく生えていた葦(ヨシ)を東京で見るのは初めてかもしれない。

14:47
葦はアシ(悪し)に通じるからヨシと呼んだという。じっさいヨシといれて変換すれば葦がでる。ところが葭という字があるのはなぜか? 葭もアシ、ヨシ、両方で読む。もとは違う草だったのだろうか? 
そういえばカヤも萱、茅、2つあるな。

首都高すなわち堅川跡の北岸を東に歩く。左はラブホテルが並ぶ。
14:54 松本橋北詰
江東橋四丁目1番、という住所。
堅川が区の境になっているので北側の江東橋は江東区でなく墨田区。
この住所は広くて、丸井はもちろん、錦糸町駅南口、両国高校まで含まれる。
ちなみに江東橋という橋はずっと両国寄りの、国道14号が大横川を渡る橋。

江東はいまや深川区と城東区が合併してできた区の名前として最もよく使われるが、墨東とともに昔から隅田川の東の地域を指す言葉として本所区、深川区で使われていた。

堅川第一公園は昭和28年開設。
おそらく川沿いのきれいな公園だったのだろうが、いまは高速道路と埋め立て地に沿った細長い公園になっている。
ホテルが延々と並ぶ。
駅側の繁華街と、しっとり散歩できる堅川公園(左)とに挟まれた最高の立地。
しかし東京の大部分の人は知らないだろう。
パチンコ、映画、競馬、飲食、ホテル。錦糸町は元気な街である。

松本橋を渡るときはじめて堅川の水面が見えた。
が、すぐ横十間川に合流する。

ふと、橋の欄干に張られた万国旗が目についた。

14:56
いや、国旗ではない。びっしり何か書いてある。
布は透けていてどちらからも文字が見える。
ヒンズー語でもアラビア語でもないようだ。
どちらが表か分からないから馬が左を向いているものを写真に撮る。
帰宅後調べたらチベット語のようだ。
異国にいる自国民への布教活動だろうか?

松本橋を渡ると南は江東区、そしてすぐ猿江恩賜公園。
公園前の道が通行止めになっていたので行ってみると清水橋が工事中だった。

14:59 横十間川と清水橋
同じ場所に架け替えるようだ。
堅川は隅田川と中川を結ぶ運河であるが、このあたりがちょうど中間点。

歩行者、自転車用の仮橋からみると、高速道路の向こうに都立墨東病院

堅川、横十間川、大横川など、以前書いたが、江戸城は風水的に見て背中に山(高尾山、富士山)、左に川(神田川、荒川)、右に道(東海道)、正面に海を持ってきたかった。
だから大手門、街道起点の日本橋、江戸前の海など、東側が江戸城の正面だった。
そこからみて東西にまっすぐ伸びるのがタテ、南北に横たわるのがヨコなのである。

本所深川は低湿地だったから縦横に運河を掘り、水運に使うとともに掘った土を周囲にかさ上げし、水はけを良くした。その多くは今や埋め立てられて細長い公園になっている。
墨田区、江東区はコンクリートのイメージがあるが、公園が意外と多い。

15:01
南を見るとヒューレットパッカードとリクシル。
いずれも本社。あの辺りは都営新宿線住吉が近い。
新しい合理的な会社は、名より実、都心に近くて地価が安い場所を選ぶ。

木の足場は船の乗り場だろうかと思ったが、水面から高すぎる。
橋の工事用だろう。

15:03 さて猿江恩賜公園。
猿江というのは地名。江戸時代に猿江村、深川猿江町がみえる。
猿江神社からとったと思われるが、源頼義の奥州遠征のとき、家臣の猿藤太(さるのとうた)という武将が此の地の入江で力尽きたのを地元の漁師達が手厚く葬り、境内に塚を建てたという。

恩賜というのは、もと皇室の御用材の貯木場(御木蔵・おんきぐら)であったものを大正13年、昭和天皇のご成婚を記念して東京市に払い下げられ、昭和7年公園となったから。(南側部分)
広い北側は戦後、林野庁の管轄となり、1976(昭和51年)まで引き続き貯木場であったが、移転して江戸時代以来250年の猿江貯木場は幕を閉じた。

横十間川、小名木川から大横川を南下すれば大貯木場であった木場があるが、こことの関係はよくわからない。

新宿中央公園や駒沢公園ほど知名度はないが、広くてびっくり。

これだけ広いと使い方も自由。
ボール投げ、フリスビー、テントで1日中?昼寝

江東区は一人当たり公園面積で、人口の少ない千代田区を除けば、江戸川河川敷、葛西臨海公園などをもつ江戸川区とトップを争う。(文京区は18位で江東区の3分の1以下)

1971年ころ、自区内にゴミ焼却場を作ることに反対した杉並区住民に、23区のゴミの7割が運び込まれていた江東区が怒った(東京ゴミ戦争)。(当時私は長野でテレビを見ていた)
あのころは杉並区は山の手、閑静な住宅地、江東区は「夢の島」など埋め立て地が多いというイメージがもたれたが、あれから数十年、今や立場が逆転したのではなかろうか。江東区のほうが健康的、おしゃれで暮らしやすそう。杉並より都心に近いし、若々しい。オリンピック会場の有明なども江東区だし。

15:10
公園には池があってもいい。
そこで1970年代まであった貯木場時代の池を小さく再現したという。
戦前までは水中貯木と言って、材木に板を渡し、石を載せて完全に沈めることで40年以上も材木の質を保てたらしい。その時の重しの石が池の護岸に使われている。
当時の池の面積はこれの35倍という。

子供がメダカ?を網ですくっていた。
美男美女の父親、母親と言葉を交わしたが、とても感じのいい人たちだった。
持って帰っても死んでしまうから帰るとき池に戻すという。
子供と一緒にのんびり休日を過ごすのは幸せだ。老人として寺社の散歩をするのでなければ江東区は文京区より健康的だし子育てにもいい。

15:15
ポプラだけでなく、大木が多い。
公園開設(1983)以前から貯木池のほとりにあった木だろうか?

あまり歩き回るとダンスの競技に影響するので、会場に戻ることにした。
途中、都立墨東病院の前を通った。
15:23 墨東病院
ここはもと本所病院だった。1961年に墨田病院と統合して名前が変わった。
都立本所病院は明治19年に伝染病隔離施設として駒込、大久保とともにできた最初の3つの府立病院の一つである(明治22年に広尾ができ4つとなる。大塚などはもっと後)
765床、城東地区随一であり、大きくて入り口まで近づけない雰囲気。

ERってEmergencyのあと何だろうとおもったらRoomだった。

『救命センターからの手紙』で日本エッセイスト・クラブ賞を受けた浜辺祐一氏は、ここの救命救急センター部長である。(いま墨東病院HPをみたらまだ名前があった)。
1975年駒場で同じクラスになった。確か姫路の淳心学院出身。名簿にわざと濱邉と書いていたから、文学部心理学科に行った吉野諒三と一緒に理由を聞いたらこっちのほうがかっこいいからと言った。46年前か。

1975年 錦糸町駅付近
その46年前、上京した時買った地図。北口にロッテ会館、南に江東楽天地。
まだ駅前広場はなく、京葉道路を南に渡ると墨東病院。 
都営新宿線は建設中、越中島貨物線が南の埋め立て地に延びていた。
そして猿江恩賜公園の場所には貯木場の池があった。

・・・・・

散歩を終えて丸井8階のダンス競技会場に戻ってのシニアIIスタンダード種目は、何と初めての予選落ち。
このところ練習に手ごたえあり、準決勝進出を期待していただけに大ショック。
もうダンス辞めたい。

ダンスで53回も来た錦糸町駅南口。
ダンスをやめれば来ることはない。
すくなくとも猿江恩賜公園、墨東病院は、今回が最初で最後だろう。

 

2021年6月21日月曜日

錦糸町、丸井8階でダンス競技会


2021‐06‐20
錦糸町駅の看板はサラ金が多いと昔何かで読んだが、今そんなことはない。
総武線西行きのホームから見える看板に消費者ローンなどは一つもない。
と思ったら、
元禄二年創業、質屋のフクシマがあった。
創業318年とはすばらしい。

南口改札を出ると広場は半蔵門線入り口と喫煙所。
東には1937年創業の東京楽天地。
広場の南を京葉道路(国道14号)が走り、正面に丸井。
この日の目的地、丸井の中はあとで入るとして、周りを書いておく。

丸井の東隣は有名な魚寅。
マグロぶつ切りコーナーはいつもひとだかり。

その東の通りを入り、振り返ってパチリ。
2021‐06‐20
写真左はヒノマルII、みとやジャックポット、ヒノマルIとパチンコ、スロットが3軒並ぶ。
右は中央競馬会、ウィンズ錦糸町東館すなわち場外馬券売り場。
丸井を挟んで西にもウィンズ西館がある。
当然このあたりは馬券を持った人が行き来し、付近の飲食店も競馬中継をやっている。
向こうに京葉道路を挟んで駅ビルのテルミナがみえる。

ニュー錦糸町ビル
ここらへんの飲食店はやはり競馬の客が路上で飲んでいる。
このビルは1968年11月(築53年)のマンションである。
駅前の丸井の裏側にあたり、駅徒歩3分。
家賃は24.4m²、2Kで6万円 / 月くらい。
この裏は丸井の自転車置き場になっていて、谷底のような駐輪場と崖のようなマンションの裏側景色もユニークだった。昼時はごちゃごちゃしていて道路から入る自転車が渋滞していた。

すなわち丸井はJRA(東)、ニュー錦糸町ビル、JRA(西)、京葉道路に四方を囲まれている。店内こそおしゃれだが、大宮と違って周りはなかなか活気あふれた環境にある。
元は都電の車庫だったらしい。

その丸井は7階レストラン街まで。
8階から墨田区の公共施設、すみだ産業会館。
ここは16年前、2005年2月26日から毎年来ている。
数えたら、この日でなんと53回目。
8階、サンライズホール
53回も来た目的はダンス。
ダンスの競技会は南関東だけでも毎週のようにどこかであり、出たいコンペを選び、年に10回くらい出ていた。競技会会場は駒沢体育館、千駄ヶ谷の東京体育館などのときもあるが、錦糸町丸井の8階が交通便利なので一番多い。
ここだけで53回来て、ラテン競技会27回、スタンダード競技会は41回も出ている。
(他の会場も合わせるとこの日を入れて2004年森下文化センターでの初出場から通算でラテン94回、スタンダード140回。合わせて234回)

2015‐03‐07 東京体育館

しかし昨年からコロナで競技会は激減した。
今回は今年まだ二回目。
シニアIIのラテンとスタンダードに出る。
今回、主催する団体はプロアマ共同運営のJDSF-PD。
PDに属するプロの先生と生徒が組む競技会・T&S競技会が併催された。
出場選手が少なく会場費を節約する意味もあるのだろうか。
コロナでダンス教師は苦しく、事情は分かる。

しかし予選から進行を混ぜたことで問題が生じた。
ふつう競技会は1ヒート12組、すなわち12組が一度に踊り、半数ずつ勝ち残っていく。ところがT&S競技会は一人の先生が何人もの生徒と踊るから、別の生徒とは別のヒートで踊らねばならず(体は1つしかない)、必然的にヒートが増え、1ヒート、3,4人で踊っている。
そのため時間がかかり、私のラテンは1回戦が10:53、次が12:19、表彰式が13:52となった。実際はトラブルでさらに間隔があいた。次のスタンダードは1回戦がなんと17:02である。
コロナで会場にいる人数を減らさなくてはいけないのだから、もっと集中させれば終わった人からさっさと帰れるのに。

PCを持ってきたので空き時間に少し仕事した。
パートナーは熱心に友達の踊りを見ている。
2021‐06‐20
密の中、ほとんど待ち時間。

7組中6位というラテン表彰式が終わってスタンダードまで3時間近くある。
仕事も飽きたので丸井の外に出た。
16年間、ここに53回も来ていながらダンス一筋、周りを歩いたことがほとんどなかった。

堅川の上に作られた首都高に沿って東へ歩き、猿江恩賜公園にいった。
これはあとで別ブログに書く。

帰ってきて丸井の7階で食事。
ゆっくり燕尾服に着替える。
2021‐06‐20
スタンダードはタンゴとスローフォックストロットの2種目。
気合入れて臨んだら29組中、まさかの22位、予選落ち。
このクラスで一回戦負けは初めて。

2月の競技会以来、久しぶりだったからいつもより良い結果を期待していた。
コロナで競技会が減ってから基礎からやり直し、度重なる緊急事態宣言でも関係なく、みっちり練習した。最近踊りが変わってきたと思っていたのに結果は逆。なぜだ??
もうダンス辞めたい。
パートナーは私以上にダンスに人生をかけているからショックで口もきけないようだった。
何が悪かったか分からない、とぼそりという。

競技会なんて、朝早くから準備して、ラテン・スタンダード合わせて1万円払って、そのお返しとして、審査委員からいつも冷酷に不愉快な結果を突き付けられる。ばからしい。最初から出なければいいのに、と内心思う。宝くじと同じ。ほとんど外れでも、今度こそ、と思って買う。

競技ダンスというのは、成績が停滞してくると、練習中、喧嘩ばかり。
常に相手に注文したり、良くない点を指摘しあうのだから、不愉快になるのが当たり前。怒って途中で帰ることもある。
長年やっているといくらやっても上手くならないし。

もうずっと前からダンスをやめたいと思っているのだが、パートナー、教室の山上先生(スタンダード)、立石先生(ラテン)、3人とも熱心で良い人たちだから、なかなか言い出せなくて続いている。

今回予想外に出来が悪かったのは悔しいけど、もう限界だと彼女が思えばいいな。
ダンスをやめると言い出してくれればいいな。
長年通った錦糸町、丸井もそろそろ来なくなるかもしれないから、記念に数枚写真を撮ってブログにした。

2015年、立川市泉体育館?