2025年4月30日水曜日

姫路城、行かずに10年前の写真で書く

3月25日の朝、ダンス講師として乗り組んだクルーズ船・飛鳥IIが姫路、飾磨4号岸壁に入港した。

朝食後、飛鳥が用意した無料バスでJR姫路駅に来た。
バスで来た人々はおそらく全員、姫路城の見物に行ったが、私は一人電車に乗って赤穂に行った。(前のブログ)

9:40発の播州赤穂行きの電車に乗る前、駅北口から姫路城を眺めた。
2025₋03₋25 9:34
大手前通り。
姫路駅前から正面に姫路城がみえる。
かつての大手筋はこれより少し西の通りだったらしいが、1945年7月3日、姫路は深夜の大空襲で大きな被害を受けた。戦後の復興計画の目玉事業として、駅と姫路城を結ぶ幅50メートル道路が作られた。だから駅からお城が正面に見えるのは偶然ではなく、当然なのである。

姫路は2015年3月27日、薬学会で神戸に来たときついでにお城を見に来たことがある。
ちょうど10年経っているが昔の写真がPCに残っているので比べてみた。

2015₋03₋27 14:52
ほとんど景色は変わっていないが、昔のほうが写真の解像度が粗かった。

昔撮ってPCにある写真など、もう死ぬまで二度と見ることもないので、この機会に外に出してみた。
2015年、15:07
駅前から歩いて15分後、大手門から三の丸に入ったところ。

大天守が真っ白である。
それもそのはず、なんとこの日、奇しくも2015年3月27日は大天守の修理事業が完了し再公開が始まった初日だった。朝から混んでいたらしいが知らずに来たこの時間になると空いていた。

平成の修理事業というのは大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした。白漆喰は昭和の大修理から45年経過しカビで黒ずみ、白鷺城の別名にふさわしくなかった。
2009年5月:鹿島建設らが16億2千万円で修理工事を落札。
8月:起工式、10月:工事着工。
工事は大天守をすっぽり覆う素屋根(足場)を設置したため、長い期間、大天守の美しい姿は見ることができなかったらしい。

姫路城は国宝5城の中でも抜群に大きく、また保存状態もよく、1993年に法隆寺とともに我が国初の世界文化遺産に登録された。
2015年、初めて見た時の立派さは期待を裏切るものではなく、いま10年前の写真を見てもそう思う。
15:09
三の丸広場。
いま改めて見ても、広い。だだっ広い。
売店とか資料館とか公共施設を所狭しと建てる日本の城郭にあって、運動場のように広い。

三の丸は明治になって建物を破却し大阪鎮台所属の歩兵第10連隊が置かれ、戦後は野球場が作られ(1947)プロ野球の試合も行われたほどである。

姫路城は規模的には(江戸城を除くと)名古屋、大阪とともに日本で3本の指に入るらしい。

内堀で囲まれた三の丸までの内曲輪(現在の姫路城公園)は23ヘクタール、かつて中堀で囲まれ家臣の屋敷が並んでいた中曲輪(白鷺中学校や淳心学院などが含まれる)までが107ヘクタール、外堀で囲まれていた外曲輪(南端は現在のJR姫路駅近くまであった)まで含めると233ヘクタールである。外曲輪には町人地や寺町が置かれたから城郭都市というべきで、外堀まで含めた江戸城、北条時代の小田原城、三の丸まで含めた山形城に似ている。

(山形城は二の丸までの城址公園は25ヘクタールだが、山形駅まですっぽり入る三の丸まで入れると235ヘクタールで姫路城に匹敵する。しかしあまり有名でないのはなぜか?)

三の丸までは自由には入れるが、二の丸から先は入場料(1000円)が必要。

15:17
菱の門
チケットを買って入って最初の門。
平地から天守などのある城山(姫山・鷺山)に登っていく門である。

それにしても大きい。姫路城はなぜ大きいか?
徳川家康が関ヶ原のあと、豊臣恩顧の多い西国大名を抑える意味で、池田輝政を播磨一国52万石の大大名にして姫路城を8年かけて巨城にした。加藤、福島が改易され、池田が転封された後は毛利島津の来襲をここで防ごうと徳川譜代の大名を置いた。

西南の役で西郷軍が新政府軍のこもる熊本城で食い止められたように、もし西国大名が決起して幕府軍、佐幕藩と各地で争いながら東進したら姫路は期待された働きをしたかもしれない。
しかし実際は、いつのまにか戦は姫路の東の鳥羽伏見、越後、会津で起こった。
15:19
いの門、ろの門をくぐると天守閣への上り坂となる。
15:19
暴れん坊将軍のロケにたびたび使われたことから将軍坂といわれる。

姫路城は姫山を中心に築かれた平山城である。
姫山は桜が多かったから桜木山とも呼ばれ、転じて鷺山になったとか。
(しかし三国堀を挟んで天主のある右の岡を姫山、左・西の丸の岡を鷺山とする説もある)
ちなみに別名・白鷺城の読みははくろじょうが正しいとされる。大手門の南西にある姫路市立白鷺小中学校も(はくろ)である。

はの門、にの門、ほの門をくぐり、天守閣の内部に入っていく。

15:26
大天守内部

15:28
下を見ると櫓や門が複雑に並んでいる。
地形を反映しているのか向きがばらばらである。

姫路は池田輝政が大改築する前から城があった。

もともとここは山陽道の要地であったから、今の姫路城がたつ姫山、鷺山のうえには南北朝時代から赤松氏の砦があった。しかし戦国時代の城としては小寺氏の家臣、黒田重隆が城代として入ったころの城が最初とされる。重隆は江戸時代の大名、筑前黒田家の家祖とされ、秀吉の部下となった黒田孝高(通称・官兵衛、剃髪後は如水)の祖父である。

のちの秀吉時代に名を挙げる黒田官兵衛は姫路城代として小寺氏に仕えていたが、信長の才能を高く評価し、天正3年(1575)主君小寺氏に信長への臣従を進言した。天正5年(1577)信長は秀吉を播磨に進駐させた。官兵衛は一族を国府山城に移らせ、居城であった姫路城本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に住み、参謀として活躍するようになる。

天正8年(1580年)秀吉はようやく陥とした別所長治の三木城を拠点とすることで姫路城を官兵衛に還そうとするが、官兵衛は「姫路城は播州統治の適地である」と進言して受け取らず、秀吉から姫路城普請を命じられた。
15:31
他の城と比べ内部も広い。

それにしても、よく残ったものだ。太平洋戦争中には姫路も2度の空襲被害があったが、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れた。
姫路城は文化財保護の観点から京都のように空襲対象から外されたわけではなかった。しかし米軍が上空からみて灯りがなかったため田んぼと思われ濠も沼に見えたらしい。
15:33
空いているとはいえ、狭い階段の前では行列になる。
10年前はインバウンド客もおらず良かった。

15:50
開いた窓から屋根を見ると、平瓦と丸瓦が並べられ、上に盛り上がる丸瓦が1枚1枚、漆喰で塗り固められている。これが遠くから見ると壁の白さもさることながら、雪が積もったように白く見える理由である。白漆喰は防カビ剤を入れたそうだが5年ほどしか持たないというから、私が見たのは最も白い白鷺城だったということになる。当時はシロスギ城とも揶揄されたが、今は落ち着いた色になっただろうか?
15:54
大天守から西の丸をのぞむ

大天守から降りると備前丸広場に出る。
姫路城本丸は天守群がある天守丸と一段下の備前丸に分かれる。
ここからの大天守はとりわけ大きく見える。
15:56
池田輝政は城主としてここに居館を立てた。池田氏のあと入封した本多忠政は山上の館が不便だったのか、山下の三の丸に新たな居館を作り、以後城主は三の丸に住んだ。
備前丸という名前は本多時代から使われ始めたようで、これは二代藩主池田利隆が備前岡山城代を兼ね、姫路城池田氏最後の三代池田光政がそこで生まれ、備前殿とでも呼ばれていたか?(三国堀も西国将軍・池田輝政の領地、播磨、備前、淡路にちなむ?)

本丸、二の丸、三の丸などという曲輪は、我々は濠などで区切られたものとして見るが、備前丸、天守丸などという言葉を見ると、本来は城内のまとまった土地に対して使うのかもしれない。

備前丸から上山里曲輪に降りると井戸があった。
16:02
お菊の井戸
夜になると井戸から一枚、二枚、三枚、と皿を数える女の声が聞こえたという「播州皿屋敷」の怪談。舞台は小寺氏の室町時代だが、江戸時代、上方で歌舞伎、浄瑠璃として広まった。似た話は各地にある。江戸では少し遅れて18世紀なかごろ、怪談芝居として「番町皿屋敷」がつくられた。やはりお菊を主人公として10枚の皿と井戸が舞台である。大正時代には番町皿屋敷が恋愛悲劇として作り直された。
ちなみに、「お菊の井戸」はこのあたりが公園として大正元年に一般公開された時に創作されたものらしい。

上山里曲輪から二の丸に降りる。
16:04
二の丸とロの門
午前中あるいは日中は混んでいたのだろうか? 行列の誘導ライン。
ロの門から大天守まで並んだということか?

西の丸に行く。
16:10
西の丸から見た天守群
姫路城天守は、外観5重、内部7階という大天守と東・西・乾の3つの小天守からなり、それらが渡り櫓で結ばれた連立式天守である。秀吉時代は3層の天守閣1つであったが、池田輝政の時代に解体され乾小天守に転用されたという。
16:18
姫路城の城主、姫路藩は誰だったか、パッとでない。
熊本は加藤清正から細川氏、福岡は黒田、広島は福島正則から浅野氏、高知は山内、高松は松平、彦根は井伊、仙台は伊達、という風に出てこない。
これは先に書いたように、西国大名の抑えという姫路城の特殊性による。
多くの藩は藩主が急死したら幼い子を次の藩主にたてたり、死後に急いで養子をとったりした。幕府も大目に見た。
ところが姫路の城主は幼い子供では困る。

1613年、池田輝政が死ぬと嫡男利隆があとを継ぐ。しかし1617年、彼が若くして没すると嫡男光政が第3代藩主となるも7歳と幼かったため、幼君には要衝姫路を任せられないという理由で鳥取藩32万石に転封された。

続いて姫路城には徳川四天王の一人本多忠勝の子忠政が桑名から15万石で入封した。
忠政の嫡男・忠刻は、1616年(大坂夏の陣の翌年)将軍徳川秀忠の娘千姫(豊臣秀頼未亡人)と結婚したため、千姫も姫路に来て西の丸に住んだ。すなわち西の丸の建物群は池田時代でなく江戸時代になってから作られ、西の丸長局(百間廊下)と千姫化粧櫓が有名である。

そうした千姫に関する説明板が西の丸の長い板廊下のあちこちにあった。
夕方ということもあり、誰もいなかった。

16:28
西の丸ところどころから見える天守群は何度見ても美しかった。

さて、本多忠刻は父より早く若くして死んだため、姫路藩本多家二代目は龍野藩主であった弟の政朝がつぎ、政朝も病に倒れたため政勝が継いだが、1年で転封し代わりに奥平松平家が入るが、やはり病没、跡継ぎが幼いということで転封。
つづいて、やはり徳川四天王を祖に持つ名門榊原家がはいるも、越後高田に転封。さらに本多家(再封)、結城松平家がはいるも二代目が幼いということで転封。

最終的に、1749年、老中首座酒井忠恭が前橋から入封した。家康の重臣酒井正親・重忠を祖とし、大老酒井忠世・酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家である。この家が明治まで姫路藩を維持した。江戸下屋敷は文京区白山にあり、明治後はそこに酒井伯爵家が住んだことは以前書いた。
16:36
桜門橋と大手門
駅からまっすぐの大手前通りが突き当るところに出て、最後に振り返ったところで2015年3月の写真は終わっていた。
・・・・
さて、2025年3月25日。
赤穂から姫路に戻った。

2025年 12:42
駅前の展望デッキの下
2013年にできたというが、2015年に来たときは気が付かなかった。
上がってみた。
12:43
展望デッキからJR駅と山陽姫路駅を結ぶ「連絡デッキ」も設置された。
両デッキは姫路市が約15億円かけて整備したらしい。
デッキの上からお城を見る
桜門橋まで1.1キロ、15分だから姫路城まで行けないこともないが、だいたい想像できたので帰ることにした。
12:46
姫路駅南口
飛鳥の送迎バスが止まっていたので乗り込んだ。
赤穂のパンフレットなど見ていたら姫路城に行っていたIさん、Kさんが乗って来た。
13:00発だから13:30までの美味しいランチブッフェに間に合うかもしれないと思っていたが、飾磨4号岸壁についたら、姫路の観光業者の人々がテントで出店していて、土産物など見ていたら13:30を過ぎてしまった。
それでも船内11階に上がり、ビーフハンバーガー、ピザ、フルーツ、ケーキなどを食べた。

夕刻、飛鳥は高知に向けて出港、夜は姫路から乗りこんできた前川清のショーがあった。

(続く)

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2025年4月25日金曜日

赤穂浪士の義とは何か。花岳寺にて

3月25日、クルーズ船飛鳥IIが姫路に入港した。

姫路城は見たことがあるので皆と別れ、電車に乗ってひとり赤穂に来た。

10:11播州赤穂駅着

改札を出るとすべてが赤穂義士だった。
駅ビルの階段には義士たちの雄姿がパネルになっている。たぶん47枚あるのだろう。
10:16
辞世句 大石内蔵助良雄 
あら楽しや思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし

階段を下りて駅前ロータリーをわたる。
10:20
一角に赤穂の標語?スローガン?が建っている。
「日本の魂のふるさと忠臣蔵と、山鹿素行の武士道の教えが生きたまち」
とある。
「日本の魂のふるさと」とは大げさだな。次の「武士道の教えが生きた」も本当かな、と思うが「生きた」と過去形だからまあいいか。
10:20
新築だが和風の駅舎を見ようと振り返れば、「義魂」とかかれた大石内蔵助の立像。
何から何まで忠臣蔵である。
しかし私は忠臣蔵を見に来たのではなかった。
駅に着くまですっかり忘れていたほどである。

わざわざ来たのは赤穂城を見たかったから。
(前のブログ)

お城に向かって歩くと交差点に広場があった。
10:25
いきつぎ広場と書いてある。

元禄14年(1701年)3月14日九ツ前(午前11時頃)、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に切りつけた。江戸上屋敷で事件を知った早水藤左衛門、萱野三平が午後江戸を出発、普通なら17日、飛脚で8日かかるところを僅か4日で走破した。
4昼夜半早かごに揺られ続けた両人は、城下に入りここにあった井戸の水を飲んで「息継ぎ」をしたという。

このいきつぎ広場には「義士行燈」もあった。
毎正時には人形が出てくるからくり時計だそうだ。
大石内蔵助が「昼行燈」と言われたこととは関係なさそうだ。

要するに町全体が赤穂浪士一色になっている。
地図を見れば赤穂忠臣蔵郵便局まである。
(ごく普通の郵便局だが2013年に赤穂加里屋郵便局から改称した)

しかし目的地はお城なので先を急いだ。

赤穂城は元和偃武のあとに13年かけて作られた珍しい城である。
その縄張りが他の名城と比べても当時最先端であったことはあまり知られていない。
さらに、いったん破却され、本丸、二の丸、三の丸ほぼすべての城地が学校、農地、住宅、商業地などとなったのに、すべてを移転させ、元の姿に復活させようとしていることも、他の城址では見られない。
(前のブログ)
実に、来てよかった。

急ぎ足で見物して駅に戻ったが、1時間に一本の電車に乗り遅れた。
11:11
電車は出たばかり。次は58分後。
ここで待っていてもしょうがないので再び赤穂の町を歩くことにした。

駅前通り(お城通り)の商店が和風外観の建物になっていることを前のブログで述べた。
すなわち城郭と同じように屋根は瓦、壁は白または黒という風に統一されている。
11:25
キックボクシングジムまでがその和風景観の建物になっていた。

お城通りを進むと、朝通り過ぎた息継ぎ広場に再び出た。
改めて赤穂浪士のことを考える。
赤穂では「浪士」とは言わず、「義士」という。
「義魂」である。

義は、儒教の主要な思想であり、五常(仁・義・礼・智・信)のひとつである。正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた。

彼らの義、正義は何であったか?
吉良上野介を殺すことか?
彼は浅野内匠頭に意地悪したかもしれないが、討ち入りされるほどではないだろう。赤穂浪士たちが恨むべくは即刻切腹、お家とり潰しを決めた将軍、幕府だろう。
(吉良は刀を抜いていないから、喧嘩両成敗とはならず、吉良に御咎めがなかったことに不満をもってはならない)

息継ぎ広場で考えて彼らの墓のある花岳寺にいくことにした。
すぐ近くということも大きな理由だった。
11:30
花岳寺へいく裏通り。
白壁に瓦屋根で統一して歴史的景観を作ろうとしたお城通りよりも、こちらのほうが城下町らしい風情がある。
11:32
曹洞宗台雲山
花岳寺
ふつう寺号は抽象的、道徳的なものが多いが、花岳とは珍しい。
1645年赤穂浅野家初代、浅野長直が入封してすぐ、浅野家菩提寺として創建した。
この山門は赤穂城の西惣門であったものを明治になって寺が購入し移築したらしい。

11:33
浅野公霊廟義士木像 という石柱
浅野家だけでなく、続いて入封した森家も菩提寺とした。しかし二代・森長孝の代に臨済宗に改宗しており、長孝から11代・忠典まで花岳寺には葬られていない。最後の赤穂藩主、12代・森忠儀(ただのり)は、ここに墓がある。
また、大石内蔵助の祖先が眠る大石家先祖の墓、義士墓、家族墓などがあるらしい。

入ると境内は思ったほど広くはなかった。
11:34
鳴らずの鐘
梵鐘は浅野家二代・長友が父である初代・長直のために鋳造した。
元禄15年12月14日吉良邸に討ち入った47士が翌年2月4日、見事切腹したとの知らせが赤穂に届いたとき、町民が続々この寺に集まり(改易され赤穂藩士は表にはいなかった)、弔うためにこの鐘を延々と撞き続けたという。
以来少なくとも50年は誰も撞かず、「鳴らずの鐘」と呼ばれた。
鳴らなくなったのは人々が思い出したくなくて撞かなくなったのか、それとも撞きすぎて鐘が変形してしまったのか、1797年、再鋳造され、以降は鳴っている。
戦時中の金属供出のときは「義士との由緒深きにより」と供出を免れたという。

11:36
初代「大石なごりの松」
切り株の上に乗った説明板は「天然記念物 双樹梗概」とあり、東松、西松と2本あったようだ。
読むと、元禄4年(1691年)に大石良雄が母の冥福を祈り移植した松であり、元禄14年(1701年)に赤穂を離れるとき、この木の下で名残を惜しんだという。昭和2年(1927)枯死。樹齢310年とも書いてある。松くい虫というから2本同時に枯れたのだろう。
しかし、1701年は310-(1927₋1701)=樹齢84年の松だったことになり、その10年前に移植できるか?
11:42
本殿と「大石なごりの松(二代目)」
義士墓所・義士宝物館・義士木像堂の拝観は有料(500円)なのでここで退出した。

門前を南に歩けば三の丸の塩屋門跡とか市立民俗資料館(旧大蔵省赤穂塩務局庁舎)があるが、時間がないので行かない。
11:47
花岳寺の周辺民家は古く、観光用に作られたお城通りの街並みよりずっと落ち着いている。

11:49
再びお城通りに出た。
11:52
ここは駅から赤穂城まで結ぶメイン観光道路として整備された。
道幅を広げただけでなく赤穂義士にまつわるモニュメントをやたらと置いている。
例えば植え込みごとに47士の名前が書いたプレートが置かれている。
11:59
「茶舗わかさ
中村勘助正辰」
と書いてある。
「茶舗わかさ」は、この植え込みの前の店。
名前を入れることで植え込みの維持費用を出してもらっているのだろうか?

何の説明もないが、中村勘助正辰は浅野家譜代、禄高百石の家臣。もちろん47士の一人である。

同じ植え込みの中に歌碑がある。
12:00
原惣右衛門元辰
かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山みち
これも説明ないが彼の辞世の句だろう。

息継ぎの井戸で水を飲んでから大石邸に向かった早水満尭と萱野重実は第一の急使。彼らは事件のみを伝えた。続いて足軽飛脚による第二の急使があり、そしてこの原惣右衛門元辰が大石信清とともに第三の急使となり、主君切腹とお家とり潰しを伝えた。彼ももちろん47士である。(一人一人に番号が付いていれば説明したり知識を整理するのに便利なのだが、義士に対して失礼なのだろうか。例えば天皇は第96代などと番号が付いているから覚えやすいのである)

続いて町飛脚による第四・第五・第六の急使が次々に赤穂藩邸から国許赤穂へ情報が送られ、事件から14日後の3月28日までには刃傷事件・当日午後の浅野長矩切腹・赤穂藩改易といった情報が出揃った。3月27日には家臣に総登城の号令がかけられ、3日間にわたって評定が行われている。

その後、翌年12月の吉良邸討ち入りまでのことは多くの日本人が知る通り。

「義」というのは正義の義でもあるが、義理とか義務とかの「義」は、本心とは違う行動、仕方なしに行う行為の文字でもある。47人の赤穂「義」士たちの中には本心では行きたくなかったものもいたのではないか? 

もちろん当時の事情など分からない後世のものが、好き勝手に想像することはできない。
しかし当時あれだけ話題になったということは、当時においてさえ尋常でない行動だったことを示す。尋常でないことをやり遂げた彼らを偉いともいえるが、尋常でないゆえに(声を大にできないながら)反対意見もあったのではないか?

義は儒教の中の5徳のうちの一つである。
儒学者としても有名だった兵学者・山鹿素行(1622‐1685)は、赤穂に二度滞在した。一度目は7か月、二度目は1666年から8年半。元禄赤穂事件よりだいぶ前のことであるが、大石らの討ち入りに影響したという説もある。
しかし山鹿語録には、
「君、君たらずんば自ら去るべし」(論語から)つまり士は二君に仕えるべしとし、
「君のために百年の命を絶つ、夏虫の火に入りて死するにも同じ」主君の為に死ぬのは愚行と主張する。
「士は怒りにまかせ行動すべからず。憤怒の心は身を亡ぼす」
「逃ぐるは恥にあらず。礼なき勇は狭小にして欺天亡国の業」
士は例え辱められても、売られた喧嘩は買うべからずと説いているから、生きていれば、およそ吉良邸討ち入りには反対だったのではないか?

駅に向かいながら、赤穂市の忠臣蔵に対する尋常でない熱意を感じた。
しかし、浅野家は3代・56年だが、そのあとの森家はずっと長く12代・165年である。しかも明治維新を迎え、森の家臣たちの子孫は現在も赤穂市に多く住んでいるだろう。赤穂のお城、殿様といえば森家なのである。なぜ浅野家、忠臣蔵なのだろう?

今の若い人は忠臣蔵など知らないのではないか? テレビが普及したころから昭和いっぱいは年末になるとよくドラマが放送されていたが、もう40年も前のこと。近ごろは見なくなった。今さら忠臣蔵を町おこしに使うのも時代遅れのような気もする。

しかし、赤穂城の大々的な復元事業が忠臣蔵とセットになっているとすれば、吉良邸討ち入りは、江戸時代の庶民の娯楽以外に、現在の赤穂の城址公園整備という大事業に役立ったといえる。

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2025年4月23日水曜日

赤穂は江戸時代最先端だった名城を復元しつつある

クルーズ船飛鳥IIが横浜を出て二回目の朝の3月25日、姫路に入港した。

乗客は船内で映画、読書、食事、スイーツなどゆったり楽しんでいても良いのだが、観光に降りる人もいる。彼らはほぼ全員姫路城を目的地とする。

しかし私はこの名城を以前見たことがあり、立派だけどもう一度見たいとも思わない。インバウンド客で混んでいたら嫌だし。
そこで少し離れているが赤穂に行くことにした。
理由は後で述べる。

ちなみにアコウと入れても難なく変換される。

飛鳥が用意した無料バスでJR姫路駅まで行き、そこから山陽本線に乗る。
電車は相生から赤穂線に入り、播州赤穂まで30分、590円。1時間に1本程度ある。

赤穂駅から三の丸跡の大石神社まで1.0キロ、歩いて15分。本丸跡までだと1.6キロ22分。
ここまでは出発前に船内で調べた。
2025₋03₋25 9:32
JR姫路駅
電車は9:40に出た。
9:55 竜野駅
竜野といえば脇坂氏10代・竜野藩の城下町で、「赤とんぼ」作詞の三木露風が生まれたところである。しかし山陽本線は竜野から南5キロほどのところを通った。おかげで開発の波から免れ、長く城下町の風情が残っていたらしい。
いつか行ってみたいと思っていたが、今回も行かないとなると一生ないだろう。

ちなみに山陽本線の駅は開業時からこの名前であったが、所在地は揖西郡神部村、揖保郡揖保川町とかわり、所在地自治体が「竜野」になったのは、ようやく2005年旧龍野市・揖保川町など1市3町が合併して「たつの市」となってからである。

10:07
千種川(ちくさがわ)をわたる。
加古川・市川・揖保川・夢前川と並び播磨五川と呼ばれる。赤穂はこの川の河口に発達したから、目的地は近い。

川を渡ると坂越(さこし)。
駅は内陸だが海側は江戸時代栄えた湊町だった。

10:11播州赤穂駅着。
赤穂は岡山県と瀬戸内海に接するから播州兵庫県の西南の隅である。
10:15
赤穂の駅ビルからの眺め
「忠臣蔵のふるさと 播州赤穂」という横断幕が見える。

駅ビルから降りる階段には義士たちの雄姿がパネルになっている。たぶん47枚あるのだろう。
階段を下りて駅前ロータリーをわたると、一角に赤穂の標語?スローガン?が白い柱に書かれて建っている。
「日本の魂のふるさと忠臣蔵と、山鹿素行の武士道の教えが生きたまち」
同じような文句があちこちにある。

さらには、新築だが和風の駅舎を見ようと振り返れば、「義魂」とかかれた大石内蔵助の立像。
何から何まで、大げさではなく、見るものすべてが忠臣蔵であった。

しかし私は忠臣蔵を見に来たのではなかった。
駅に着くまですっかり忘れていたほどである。

わざわざ来たのは赤穂城を見たかったから。

お城通りという駅前通りをまっすぐ南に歩いていく。
10:23
赤穂藩上水道の遺跡
江戸時代、神田上水・福山上水とならび日本三大上水道と言われた。
ここは海が近く井戸に海水が混じり飲めなかったため水を引き、元和2(1616)年に完成した。ここは、 長屋などの井戸に水を引いた江戸時代の上水道とは異なり、各世帯各戸へ給水する当時としては画期的なシステムだった。

なおも歩くと交差点に広場があった。
10:25
いきつぎ広場と書いてある。

元禄14年(1701年)3月14日九ツ前(午前11時頃)、主君の浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に切りかかった。浅野家の上屋敷(鉄炮洲上屋敷)で事件を知った早水藤左衛門、萱野三平が午後江戸を出発、155里(約620km)の行程は、普通なら17日、飛脚で8日かかるところを僅か4日で走破した。
4昼夜半早かごに揺られ続けた両人は、城下に入りここにあった井戸の水を飲んで「息継ぎ」をしたという。この井戸は上水を流し込んでいたのだろうか?

広場には江戸時代の赤穂城下の地図があった。
10:25
当時の赤穂城下
赤穂城と城下町は千種川と海に囲まれた砂浜の上につくられた。これでは井戸に海水がわくだろうな、と思う。いまは塩田や海はすっかり埋め立てられた。

この古地図をみれば、花岳寺などの位置から簡単に今立っている息継ぎ広場の場所がわかる。
当時も広場だったようで、高札所のような場所であったか?

このあたり(お城通り)の街並みは、歴史的景観を意識した建物になっている。
10:26
飲食店などが昔風の建物にするのはよくあるが、補聴器を扱う室井電気店やヘアサロン「アルル」のような店まで徹底して擬古風の店構えである。

赤穂城到着。
10:31
三の丸の大手隅櫓

10:32
先ほどの江戸時代の地図と比べれば、海がすっかり埋め立てられたのが分かる。

大手門から三の丸に入る。
10:32
大手門
復元されたばかりなのか、まだ新しい。

播州赤穂藩浅野家は芸州広島藩浅野家の分家である。
不覚にも私は長年、てっきりほかの藩のように、本家が自領を割いて作った分家だと思っていた。間に岡山県があるが瀬戸内沿岸に自領の飛び地があってもおかしくない。

しかし赤穂藩は岡山の池田輝政の五男・政綱が3万5000石を分知され立藩した。政綱のあとは弟の輝興が相続したが、1645年、突然発狂して正室や侍女数人を斬殺し改易となった(正保赤穂事件)。

代わって常陸国笠間藩より浅野長直が5万3000石で入部した。彼は芸州浅野家の祖、浅野長政の三男、浅野長重の長男である。
浅野長政は豊臣政権五奉行の一人だったが、家康につき、長男・幸長が家督を継いで紀州和歌山藩を立藩したあと隠居して1605年から江戸に住んだ。そして隠居領として与えられた常陸真壁などが、1611年、三男の浅野長重に相続され、長重流浅野家が常陸で立藩した。なお長政の次男だった長晟が1613年兄の和歌山藩を継ぎ、1619年に改易された福島正則に変わり広島に入った。だから赤穂と広島はもともと何の関係もなく、たまたま瀬戸内に双方転封されたのである。

浅野長直は、池田輝興が改易されたとき幕命により赤穂城を受け取りにきて、そのまま国替え、赤穂藩主を命じられたという。
10:33
石垣が立派。この規模の藩の城では立派過ぎるし、新しい。
当時のものではないだろう。

大手門を入った三の丸は、かつて家臣たちの屋敷が並んでいた。
10:34
筆頭家老・大石内蔵助邸
一家三代が暮らした屋敷である。
屋敷は江戸時代に焼失したが、当時の長屋門が何度かの修理を経て残る。
元禄の昔、江戸から早籠で刃傷沙汰の急報を伝えた早水、萱野の両名が未明に叩いたのはこの門である。
10:34
大石邸の前は空き地。
10:35
大石神社は素通り

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片岡源五右衛門宅跡
350石、主君浅野長矩と同じ年。長矩の遺骸を引き取り泉岳寺に葬送した。
10:37
それにしても空き地が多い。
多すぎる。

帰宅後調べたらつい最近まで(1979)本丸は赤穂高校、二の丸の南西部は高校のグラウンド、三の丸は民間の住宅地や商業地、あるいは農地になっていたようだ。近年城址公園とするべく、すべてを移転させたらしい。
本丸にすっぽり入る赤穂高校とグラウンド


片柳勉(地球環境研究,Vol.17、2015)から引用

10:37
小さな堀を渡って三の丸から二の丸に入る。

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大石頼母助屋敷門(復元)
頼母助は大石内蔵助の大叔父にあたり、二の丸に屋敷を持つ家老だった。
山鹿素行が赤穂に来たとき、この屋敷で8年余りを過ごした。

山鹿流軍学者として有名な山鹿素行(そこう)は、元和8年(1622)会津若松に生まれ、6歳で江戸に移住。9歳にして林羅山に儒学を学ぶ。さらに甲州流軍学、歌学と神道を学ぶ。
兵学者として名声を高め、津軽、小笠原、戸田、本多など列侯諸士が素行に礼をもって講話を聴いた。赤穂の浅野長直も1652年、素行を招き、素行は7か月余り滞在した。
1666年、45歳の時、素行の著書『聖教要録』が不届きなる書物として弾圧され赤穂に配流され、8年あまり過ごし、1675年許され江戸に帰着。その後は平戸松浦家に身を寄せ、1685年64歳で病没した。
10:41
復元整備されつつある二の丸庭園
濠を隠すような土塀の向こうに本丸の濠と石垣がある。

10:43
二の丸から本丸の石垣をみる。

実は姫路からわざわざ赤穂まで来たのは赤穂浪士の足跡を訪ねるのでなく、赤穂城を見るためだった。
赤穂城は池田時代は簡略なものだったが、1645年浅野長直が赤穂へ入封すると、1648年に築城願いを幕府へ提出、同年に築城着手、1661年、13年かけて完成した。
すなわち、赤穂城は元和偃武のあと新たに作られた珍しい城である。

(ちなみに大坂夏の陣のあと、応仁の乱以降150年近くにわたり断続的に続いていた大規模な戦闘が終わった。これを元和偃武(えんぶ)と言う。武器を偃(ふ)せて庫に収めることを指す。大阪夏の陣(5月)をよく元和元年というが、元和は平和になったということで7月に改元されたから戦闘中は慶長20年である。)

元和偃武のあと、国内にほとんど築城がなかったのは幕府への遠慮による。
徳川政権が確立した後、城の修理、建築などすれば芸州福島正則のように謀反のうわさがあるとか何かと難癖を作られ取りつぶされる恐れがあるからだ。
赤穂はその点珍しい。
10:44
そして元和偃武のあとということは最新の城ということである。
鉄砲、大砲が出現してから築城ということで、幕末の函館五稜郭と同様、多数の稜がある。稜の間にくれば二辺から十字砲火を浴びる。
地形に制限される平山城とちがい、広島、松本、山形、高岡など平城は曲輪が正方形、長方形が多い。赤穂の本丸、二の丸は円形にして稜を配置し、その間に凹みを多数つくっている。
10:45
三の丸が二の丸の北に付着しているのに対し、二の丸は本丸をすっぽり囲んでいる。
その二の丸を歩きながら本丸の石垣を見ていく。

10:46
石垣と濠は、植栽も含め復元して間もないように見える。

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二の丸の東にきて外縁の土手に上がってみた。
十字砲火ができるようジグザグになっている。
川は加里屋川。
江戸時代、二の丸の東は海であり、明治後の干拓でできた川のようだ。

10:49
左が二の丸、右は二の丸の外だから海で、船入り場があった。明治後は干拓され畑になっていたようである。

厩口門から本丸に入る。

浅野家三代が長矩の刃傷沙汰で改易になった後、代わって下野国烏山藩から永井直敬が3万2000石で入部する。しかし、5年後の1706年には信濃国飯山藩へ転封となった。
同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部、廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主は森氏が続けた。

永井・森の両家は旧・浅野家家臣の住居の多くを使用せず破却している。(三の丸の大石邸は火事で全焼した)
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本丸には御殿があり、浅野氏のあと入部した永井家の資料に基づき間取りが現物大で再現されている。

赤穂といえば、永井氏のあとの森氏について書いておく。
この家は明治維新まで続き赤穂藩主としては最も長い。
清和源氏という森可成が美濃金山を本拠とし、土岐氏、斎藤道三、織田信長に仕えたが、1570年、浅井・朝倉連合軍との姉川の合戦で戦死した。
その次男・森長可は伊勢長島一揆鎮圧や長篠、甲州征伐などに戦功をたて、信濃海津城20万石を与えられ、その弟で信長の小姓となった森蘭丸(成利)も美濃金山に5万石を与えられた。しかし蘭丸が本能寺の変で横死、長可は豊臣秀吉に仕えたが、小牧・長久手で戦死。

兄たちが皆早死にして残った弟・森忠政は金山城7万石の相続が許され、秀吉の死後は家康に接近し、慶長5年(1600年)2月(関ヶ原の前)には信濃国更科・水内・埴科・高井の4郡に移封されて海津城主13万石となる。

関ヶ原の戦いでは当然東軍に属して所領を安堵され、1603年には美作国一国を与えられ信濃から津山藩18万石に加増転封された。
ところが元禄10年(1697年)4月、実子が無かった4代藩主森長成の発病、死去に伴い、他家の養子になっていた弟の衆利が森姓に復し、末期養子に立てられた。しかし将軍拝謁のため江戸への道中で失心(発狂)したとされて改易された。
そこで4代の祖父、隠居の身となっていた元津山2代藩主長継に備中国西江原2万石が与えられた。
そして宝永3年(1706)2代・長直(長継8男)のとき赤穂藩2万石に転封。以降明治まで同地を治めた。
10:54
押込、茶部屋、など、畳を並べた形で間取りを再現
向こうの石垣は本丸南東隅にあった天守台である。

明治後、本丸は小学校、公共施設がおかれ、1928年旧制赤穂中学が置かれ、戦後は赤穂高校となり1981年まで鉄筋コンクリート校舎が存在していたことは、先に述べた。

天守台に上がってみた。
江戸時代を通じて天守閣そのものは建築されなかったようである。
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赤穂城は国の史跡であり、日本100名城の一つ。
ただ、国指定の史跡は2020年3月現在1,846件あるから珍しくはない。
(国の特別史跡となると32都道府県に63件しかない。このうち水戸弘道館、江戸城、多胡碑、登呂遺跡、彦根城、讃岐国分寺など約24か所は行ったことがある。)

10:56
天守台から南西方面を見る。近年まで赤穂高校のグラウンドであった二の丸の向こうに、野球場の照明が見えた。江戸時代あのあたりに塩田が広がっていたはずである。

塩は海水を煮詰めて作るから大量の燃料を必要とする。燃料は貴重だから煮詰める海水が濃ければ濃いほど良い。濃くするのに入浜式塩田法と流下式塩田法があるというのは、小学校か中学校の社会で習った。(それにしてもこの知識は一度も使わず、50年以上たって初めて思い出した。学校の勉強というのは何なんだろう?)

赤穂は播磨随一の清流、千種川の河口にあり、この川が運んでくる花崗岩の砂と広大な干潟が入浜式塩田に適していたらしい。
浅野長直が1645年に赤穂に入封すると、ここで大規模な入浜塩田の開拓に着手し、浅野家三代で約100ヘクタールの塩田を開いた。浅野家断絶のあとも永井家・森家へと引き継がれ、開拓が進められた。その結果、千種川の東に約150ヘクタール(東浜塩田)、西に約250ヘクタール(西浜塩田)にまで拡大した。
東浜では、江戸などの東日本の好みに応じ苦汁(にがり)を含む差塩(さししお)(並塩)を、西浜では、薄味である上方向けに苦汁を除去し白く小粒で上品な味の真塩(ましお)(上質塩)を生産した。その結果、偽物が出回るほどのブランド塩となって、赤穂は日本一の塩の生産地となった。

明治になって塩が専売制になったとき各地に塩務局が置かれた。明治38年築の塩務局事務所は、現存する唯一のものらしいが、行く時間がなかった。
私が社会科で瀬戸内の塩田を習った直後の1970年代になり流下式塩田からイオン交換樹脂による濃縮が行われるようになった。
その結果、お城の南西はすっかり埋め立てられ、運動公園や工場用地となった。

10:56
天守台から見た間取り復元御殿と本丸門
ここに近年まで高校の校舎があったとは信じがたい。

10:57
本丸に入るときくぐった厩口門

それにしても大規模な赤穂城復元事業である。
赤穂市は1951年に市制施行。人口は45,892人(2020年)。この規模の市の予算で大量の民家、農地、公共施設の移転を伴う、この城址公園整備事業は偉業といえる。
11:00
まだ城内に見るものは多そうだったがきりがないので切り上げ、駅に急いだ。
しかし駅までの所要時間を甘く見たから1時間に1本の電車に間に合わなかった。
心のどこかで乗り遅れても良いという気持ちがあったようだ。
早く姫路に戻っても姫路城を見るくらいしか思いつかない。
それより小さい赤穂のほうが見どころが多そうな気がした。
11:11
電車は出たばかり。次は58分後。
ここで待っていてもしょうがないので再び赤穂の町を歩くことにした。
(続く)


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追記 2025₋05₋06
もらったパンフレットを捨てようと思ったら、いい写真があったので載せておく。