2023年8月28日月曜日

猛暑か?オクラに花が咲かない。CO2よりも熱が問題


2023₋08₋25
オクラは順調に生育、例年より木が太く大きくなったのに実がつかない。
花が咲かないまま、葉っぱが落ち始めた。
残っている葉にもアブラムシがびっしり。
花が咲かないという異常は、バイト先のシェア畑でも見られる。
異常な猛暑のせいだろうか?

2023₋08₋25
ナスは7本で43個とったが、多くは7月までにとり、8月中旬以降は取れず、ハダニがついてきた(中央手前)。
これも暑さのせいだろうか。

野菜だけでなく、人も参っている。
8月が終わるというのに、こう暑いと夜寝ても疲れが取れない。

世の中も大変だ。ゲリラ豪雨、線状降水帯、土砂崩れ、川の氾濫。
昔より雨が猛々しくなっている。
地球温暖化のせいだと言われる。

温暖化しているのは二酸化炭素(炭酸ガス、CO2)のせいだという。
その流れで、割り箸をやめたり、植林したり、再生紙を使ったり。火力発電は悪者となった。カーボンニュートラルという言葉が神格化され、自動車はガソリンから電気、水素になりつつある。

しかしエコカーとはふざけている。運転中は二酸化炭素を含む排ガスは出ないにしても、電気、水素を作る時にどれだけ二酸化炭素を発生させたと思っているのか? 

ガソリン車は燃焼(爆発によるシリンダー内の膨張)を直接動力にしているが、電気自動車はいったん熱でタービンを回し(火力、原子力発電)電気を作り、それを動力にしているから1ステップ多い。水素自動車に関しても同様である。水素を化石燃料から作るか、あるいは水を電気分解して作るか、いずれにしろ一次エネルギー、二次エネルギーを使って作り、それをエンジンルームで燃やす。それより、もともとあるガソリンを燃やしたほうが、効率良いことは明らか。

排ガスだけを見て自治体がエコだ、エコだ、と高い電気自動車を導入したり、国が補助金を出すのは理解に苦しむ。
私一人だけ馬鹿なのだろうか? 
誰か説明してくれ!

そもそも二酸化炭素は温暖化の原因なのだろうか?
温暖化と二酸化炭素濃度の上昇がたまたま一致しているだけではないか? 温室化ガスという二酸化炭素が地球から宇宙への放熱を妨げているというのは、あとから付けた理屈でしかない。
ただ、証明は難しいので二酸化炭素削減運動については文句は言わない。

(ただしCO2削減のためといって原発推進することには猛反対する。処理水の廃棄でこれだけ苦労しているのに、国民はなぜ懲りないのか?廃棄物の問題だって解決したわけではない。これでまた地震が来たらどうなるのか? 今度は大丈夫、とはなぜ言えるのか?)

今年の夏は熱中症が話題になった。
テレビでは連日話題にする。しかし報道バラエティというのは大げさにしないと番組にならない。コメンテーターは深刻なことを言わないと使ってもらえない。コロナのときと全く同じである。
暑さに関係あるなら、最高温度の記録を出した地域と、それ以外の地域で差があるか? 温度と搬送者の人数とに相関があるか?
もともと暑くなれは体は弱る。死ぬ人も他の季節と同じようにいるだろう。しかしテレビが毎日連呼する「命に危険がある」とはごく一部の人である。テレビも自治体も一億総国民が熱中症になるかのように騒いでいる。騒がないと番組にならないから。

畑でバイトしている北千住では17:30になると足立区が防災無線放送で、熱中症は(炎天下でなくても)夜間でも室内でも起きます。冷房を使いましょう、と呼び掛けている。
余計なお世話だ。こんなことは自治体がすることではない。これで税金から給料もらっているとは腹が立つ。

ここで冷房の恐ろしい問題を考えたことがあるか?
室内35度(我が家)のとき、もし26度にしようとしたら、9度下げる。このとき、室内の熱を外に出し、同じ量の空気を9度上げているのである。これは効率100%の場合であり、モーターの発熱などを考慮すればプラスマイナスゼロではなく、もっと上げてしまう。

これは、冷蔵庫を密閉した室内に置いて、ドアを開けて冷気を外に出していたら、いくら冷やそうと運転しても部屋全体はプラマイゼロではなく、暑くなるのと同じ。

デパートや量販店、ドラッグストア、テーマパークなど過度に冷やし、なおかつドアも開けて、歩道を歩く人にまで冷気を大盤振る舞いするような派手な場所の屋上、周辺は異常な暑さになっている。
天気による猛暑に、自分で出した熱が加わり、それに打ち勝つためにエアコンをフル回転させ、その放熱がさらに自分のまわりを熱し、さらにエアコンを強め、さらに熱が出て・・・と無限の灼熱地獄となる。この近隣はえらい迷惑だが、自分たちも負けじとエアコンで熱を外に出して同罪となる。
そもそも自分のところだけ涼しければ、他はいくら暑くなっても構わないとは、なんて自分勝手な行動だろう。自らが地球を熱していることを自覚せねばならない。

ここで今日の本題。

地球温暖化をいうなら、二酸化炭素CO2よりも、「熱」のほうが問題ではないか? 因果関係が証明されない温暖化ガスよりも、暑さに直結する「熱」のほうが重要だろう。

たぶん「二酸化炭素」削減は大きなビジネスになるが、「熱」の削減はビジネスにならないからだろう。カーボンニュートラルをリードする人々は地球のことを考えているのでなく、金儲けを考えている。政治家は彼らから金をもらう。しかし、このまま国民を二酸化炭素説で洗脳していいものか? 

クリーンエネルギー(冗談?皮肉?)という原子力発電は、確かに二酸化炭素は出さない。しかし莫大な熱を発生する。冷却水として取り入れた海水をつかって、その大量の熱を海に捨てている。
火力発電はもちろん大量の熱を出す。
期待される風力発電は、安定性に問題がある。つまり風がないと発電できない。そこで風のあるときに熱に変換し、そのあと発電するという風力熱発電が期待されている。しかし後で述べるが、熱は100%電力や動力に変換されない。変換されない分は熱として環境に捨てられる。(実は、風は熱から生まれ熱に戻る。つまり地球規模で見れば熱を出していないのだが、発電所のまわり(=人間の居住地近辺)に熱を捨ててしまう。)

水力発電は、タービンで発生する熱は大したことないが、送電ロスが無視できない。
送電ロスは先進国では5%程度だが、途上国だと20~50%にもなり、そのロスはすべて熱になる。

そして電気製品を使えば、エアコンで述べたように、あらゆるものは発熱し、周辺空気(人のまわり)を温めている。
車は、ガソリン車、水素、電気を問わず、エンジン、モーターは発熱し、その熱を空気中に捨てていく。
水素の生産でも今の主流は化石燃料に高温水蒸気を反応させるからCO2だけでなく熱も発生させている。

だから、本当に地球を心配しているならエアコンは使ってはいけない。車に乗ってはいけない。エアコンを使っている人は偉そうにエコだの、SDGsだの言ってはいけない。熱を出して申し訳ないと思いながら小さくなってエアコンを使うべきである。

だから今若者が持つ携帯の扇風機なんてとんでもない話だ。
夏は暑いのだから我慢しなくてはいけない。
恋愛や就職、受験などの悩みと比べたら暑さなど問題にならないはずだ。

我が家はずっとエアコンを使わせなかったが、子供が巣立ち、妻との関係が深刻な問題になってきた2019年にとうとうエアコンを入れた。しかし設定温度は30度。これでも十分涼しい。もちろん一人だったら35度になってもエアコンは使わない。

私は原発に反対だったから、かつて駅でエスカレーターに乗らなかった。
しかし最近はエスカレーターしかない登り口もある。もう諦め、世間に流されよう迷わず乗っている。そのかわり声高に原発反対と言えなくなった。
家ではエアコンも入れてしまい、自慢できるものが一つ減った。

私は、国民が本当に地球の温暖化を心配しているなら、昭和30年代40年代、1960年代の生活に戻るべきだと考える。人によっては温暖化ガスつまり二酸化炭素濃度に関して、同じことを言うかもしれないが、私は「熱」こそ重要だと思っている。

かつては人々の営みは冬に薪や石油石炭を燃やして暖をとるだけだった。夏は何もしない。これはエネルギー資源を100%無駄なく目的(熱)に利用している。無駄がないというのは、使う資源を最小限で済ませていたということだ。
ところが今は冬に電気から熱を作り、夏は電気から冷気とそれ以上の熱とを作っている。電気というのは、発電、送電で熱を発生させ、装置の運転でも発熱する。夏は自分のまわりを熱してしまうからさらに運転を強化し、また発熱する。

そして、70年代に大普及した車は、化石燃料をエンジン内で爆発させシリンダーを動かす。しかし発生するエネルギーは100%シリンダーの動きに変換できず、かなりの熱を空気中に放出せねばならない。

つまり、車にしろ、エアコンにしろ、あらゆるものは目的とは別に不必要な熱を出し、その分、エネルギーを無駄に消費している。無駄に消費というのは、熱を大量に捨てているということだ。

国民全体が消費生活を昔に戻す、とは品格ある決断だと思うが、世界は金儲け優先、個人は安直な快適を求めづづけるからまず無理だろう。
温暖化で国が水没するツバルの人を可哀そうだという人がいる。地球温暖化を防がなくてはいけないという。しかしエアコンを使い車に乗っている。普通の人は私を含め、自分さえ快適なら他人のことはどうでもいいと思っている。
人間は結局、快適な生活は手放さないだろう。
しかし、文明生活を送っているのに偽善者ぶって偉そうにカーボンニュートラルなんて言うのは、たいそうみっともない。グレタさんも、自給自足以外のものは断食するようなパフォーマンスをすればいいのだ。

国民は今の生活を変えることはしないだろうが、せめて、マスコミは熱中症の過剰報道をやめてほしい。これがエアコンの過剰使用、大量の発熱につながっている。
そして、CO2削減より熱量削減を声高に言うべきである。またエコエコだの言わないほうがよい(たいてい自治体や消費者が「エコ」というのは新たに資源を無駄にしている)。

熱はあらゆる活動で出る。だから何もしない、何も買わない、働かない、ぜいたくしない、というのが地球にやさしいのである。
金儲け大好き人間と、金と権力が欲しい政治家には決してできないことだ。
2023₋08₋15
サツマイモは猛暑でも元気だ。
ツルがはびこり足の踏み場がない。

そこで支柱をたて、つるを立体的に這わせることにした。
こうすることで日の当たる葉の数を増やすとともに、歩く道を確保する。
蔓をめくっていると菜園に同居するヒキガエルが涼んでいた。
他の野菜が水不足で萎れているのに、サツマイモ畑の土は湿っている。

都会の暑さは道路の舗装、コンクリートビルの林立が拍車をかける。
1960年代のように緑が多ければ東京でも(少しは)涼しいはずだ。
2023₋08₋15

もう一度繰り返すと、温暖化を言うなら、「二酸化炭素」より「熱」を問題にするべきだろう。
発電を風力水力原子力のみにしてカーボンニュートラルを進めても、「熱」を放置したら温暖化は止まらない。

全てのエネルギーは、運動も、電気も、光も、音も、化学結合(食料、燃料)も、すべて熱に変換される、とは高校3年で習った。そして熱を他のエネルギーに変えるとき100%変換されないとは大学の熱力学で習う(エントロピーの増大)。つまり、熱は質の悪いエネルギーである。
熱の本質は分子の運動であり、我々の放出する熱は水や空気分子の運動として蓄えられる。地球は太陽からの輻射、宇宙への放熱という意味では開放系であるが、水と空気に関しては閉鎖系であり、我々の出す熱は確実にたまっていく。

熱力学は高校の必修にすべきである。
知識がないとテレビや新聞の言うことを鵜呑みにする。
そして大衆が思い込むとそれが「常識」「真実」となり、それに個人が異説を唱えるのは容易でない。

このブログは野菜つくりと、歴史、散歩と記憶などに限ってきた。意識的に主義主張は控え、世間の出来事とは距離をとっていた。
しかし、この暑さのせいで、日ごろから抱いている世間の常識(熱中症、エコ、SDG)に対する不満が、とうとう、あふれ出てしまった。

2023年8月27日日曜日

平野小学校、愛育学校と明治の学制

長野市で35.9度にもなった猛暑の8月10日、
物好きにも、飯山線立ヶ花駅からてくてく歩いて、母校、平野小学校まできた。
途中、立ヶ花、安源寺の部落に入り、中野平中学を見て、まっすぐ来れば4.2キロメートル52分の距離が倍の1時間41分かかった。
12:35
平野小学校正門
向こうはマクドナルド、しおざきがある江部の交差点。
かつて道路の左は農協生活センター(スーパー)、右の、校舎の裏は旧平野村の役場を中野市農協が平野事業所として使っていた。

そうした周辺部が今どうなったかも興味があるが、もう暑くて疲れてきたので、寄り道せず目的地の小学校にさっそく入ってみた。
12:36
グランド、校舎の位置は変わらないけれど、きれいに建て替わり、昔の面影は一切なかった。

帰宅後、実家からもらった「平野小学校百年史」に昔の写真があるかもしれないと、書棚の奥から引き出し、初めて開いてみた。
前のブログで書いた中野平中学建て替えの「竣工記念誌」が建設工事や在学生徒の様子を載せた写真集のようなものだったのに対し、この百年史は写真より数字、史実などの記載が中心で、古い文書のカタカナ混じり漢文読み下し文をそのまま転写したのが多い「書籍」であった。文字も小さい。

当地は子弟の教育に熱心だった信州らしく、江戸時代から寺子屋教育が盛んで、本書にはそのあたりから書かれている。

「百年史」が発行された昭和50年(1975)3月は、小学校を卒業した6年後、ちょうど私が高校を出て上京したときだが、当時の紙、印刷技術は今ほどよくなく、写真は別のページに紙を変えて印刷されたもの以外、残念ながら不鮮明であった。

さて、百周年は1973年。その百年前は1873、明治6年である。
この年、片塩村命徳寺に開校された愛育学校が起源という。

(そういえば、前々回のブログで片塩のカブトムシのペア300円の看板のとなり、命徳寺の前を通ったとき、たしかに愛育学校跡の碑が道路から見えた。その時は知らなかった)

明治政府は明治5年、学制を発布した。
全国を8大学区に分け、各大学に1つの大学を設け、各大学区は32中学区に分け、区ごとに中学を設ける。さらに中学区は210の小学区に分け、1小学校を設けることにした。つまり、全国に8大学、256中学、53,760の小学校を作る計画だった。

「学制」実施直後、幕末以来の大学南校(開成学校)が第1大学区第1番中学、東校が第1大学区医学校となったが、他はとん挫した。しかし小学校設立は全国で進む。

当地、現平野地区は、第6大学区(本部新潟)の第15中学区(本部飯山)に属し、第42番小学区となった。
こうして明治6年、命徳寺を臨時校舎に借用して第四十二番小学愛育学校が設立された。
区内の11か村は、東江部、西江部、岩船、吉田、片塩、安源寺、草間、立ヶ花、栗林、牛出、大俣である。人口 3,359人のうち、6歳から13歳までのものは455人(男227、女228)であった。

(今の部落は当時、高井郡の村だった。実家の過去帳にも「信濃國高井郡岩船村 小林清七 天保十二辛丑年」と書いてあったな。)

愛育学校はその後、東江部村施主庵、さらには明治7年西江部村天寧寺に移転し、低学年の子は通うのが大変であるから、遠方に4つ支校をつくった。1号支校(吉田、岩船)、2号支校(安源寺、草間)、3号支校(牛出、栗林、立ヶ花)、4号支校(大俣)である。
 
明治8年(1875)には安源寺を含む西の5か村が啓発学校を設立、独立した。明治11年には大俣支校が田麦に設立された好徳学校に併合される。その結果、愛育学校は、今の平野小学校の通学区域と同じになった(七瀬は別)。

ちなみに、高丘小学校の設立は1903年としている。1875年の安源寺・啓発学校を起源としないのだろうか?

前のブログで、高丘と平野のライバル関係、統合中学の位置の悪さ(片塩の東)などについて論じた。しかし、当時の中学設立に奔走した人々の祖父の時代は、西の立ヶ花から東の岩船まで、片塩にあった愛育小学校の区域だったことから、中野平中学の場所もそれほど不自然ではなかったのかもしれない。そして二つの小学校は歴史的に双子のようなものだと分かった。

明治13年ころの就学者数が興味深い。(両江部は明治7年末に合併)
    学齢者 男 女  就学者 男 女
江部村 84  33  51  31  27 4
片塩村 38  19  19  20  18 2
岩船村 52  22  30  12
吉田村 65  33  32  20
合計  239 106 133  89  83 6

母集団が少ない時の男女比のばらつきを考えながら、乳幼児死亡者が多かった時代の男子の少なさ、女子児童の就学率の圧倒的な低さなどがわかる。

明治15年、西江部天寧寺の仮校舎では狭かったことから現在の平野小学校の場所に洋風校舎が新築された。白亜の壁、玻璃窓には行人をして足をとどめさせたという。ある婆さんは校舎の中にお宮を見て驚いたが、これは江部の神社が窓ガラス(玻璃)に映っていたもの。ガラスを初めて見た人も多かった。

しかし、高井郡は明治12年に下高井、上高井に分かれ、下高井郡(1町56か村)が13個に区分、戸長役場を設けた。岩船、吉田は中野町と一緒になり(戸長役場中野)、江部、片塩、七瀬は西のほうと一緒になった(戸長役場は安源寺)。そして明治19年には小学校令が発布、小学校の統廃合が行われた。
その結果、吉田、岩船は中野学校に入り、江部、片塩は安源寺学校にはいり、せっかく新築された愛育学校は空き家となってしまった。

明治22年、市町村制の施行にともない、県の合併計画により江部、片塩、吉田、岩船の各村は合併して平野村となった。(七瀬は田麦などと合併、長丘村となる)。安源寺、草間などは合併して高丘村となった。
(なお、このとき吉田は北の一本木、新井、栗和田との合併を希望し、西条は岩船、江部などとの合併を主張した経緯は興味深い)

この平野、高丘、長丘といったきわめて人工的な地名は、明治22年に作られたものだとすれば納得する。その地の土豪などの苗字つまり狭い地名が広い範囲に広がっていく例が多いが、独立した数個の村(各部落)の合併ではこうした名前にならざるを得ない。

さて、明治22年(1889)平野村の成立によって旧愛育学校の地に平野尋常小学校(修業年限4年)が復活、開校した。

そして就学者の増加により
1907年(明治40)には教室棟1棟(平屋、のちの南校舎)
1908年には修業年限6年となり、雨中体操場、職員室、教員住宅などが新設された。
1934年には二階建て北校舎が増築
1949年には新制中学用に南校舎東側が二階建てとなる。
1950年8月の校舎配置図
私が入学したのは1963年だから13年後である。中学生は統合中学に移り、また役場も移転してかなり変わっているが、こういう図があると、記憶を引き出すのに役立つ。
給食室(廊下にガリ版印刷があった)、宿直室(冬は雑巾がけのお湯をもらった)、理科室はこの図の通りだが、音楽室は北校舎二階の東端、その西は古い農機具などを展示している郷土室だった。
南校舎1階の東端は家庭科室、東の体育館に行く途中に東便所があった。また、北校舎の北東に北便所が新設されたことを思い出す。
体育館側の中庭には、小鳥小屋、ウサギ小屋があり、小学校5年生のときは岩石園が完成した。

小学校5年生のときは養護学級ができ和組とした。それまで各学年は松組、竹組の2クラスだったのだが、和組に特別感を持たせないように、他のクラスも一気に改名した。すなわち1年から順に、松・竹、春・夏、藤・菊、月・星、花・雪、美・徳となり、そのクラス名は卒業まで使うことになった。すなわち私は5年松組から花組になった。
百周年記念のころ(1974、昭和49)
私が卒業(昭和44年3月)して5年後、ほぼ変わっていない。

遠足の行き先(昭和49年度)
春秋、6年間の12回のうち、私のときは更科峠、もとどり山、飯山城址は記憶にない。
代わりに飯盛松(当時アカマツとしては日本一の巨木、国天然記念物、昭和45年枯死)に行った。
年間計画(昭和49年度)
これをみると休暇は、
中間休み 5日(5/30~6/3)
夏休み 20日(7/30~8/18)
中間休み 3日 (10/3~10/5)
年末年始 11日 (12/28~1/7)
寒中休み 5日  (1/31~2/4)
年度末休み 10日(3/22~3/31)

中間休みというのは要するに、田植え休み、稲刈り休みである。私のころはもう少し長かったような気がする。
この二つの農繁休業と寒中休みを足して13日、それを考慮しても夏休みが短い、と子供心に思ったものだ。

さて、2023年、猛暑の中に戻る。
12:38
新しい体育館の場所も昔のまま、敷地の東の端にある。
これは何代目になるだろう?

初代は1908年(明治41)、明治15年の校舎の北側に雨天体操場が新設されたことを書いた。二代目は1922年、グランドを拡大するため、校地の西側、県道の脇に移転したもので私も記憶がある。まんなかに太い丸い柱があった。大人が見れば体育館の真ん中に柱などとんでもないと思うだろうが、低学年の私らには鬼ごっこや「源平」などの遊びのときに便利なものだった。
私が3年生から4年になる時、1966年(昭和41)3月、校地の東に新しい体育館が落成した。
これが三代目だから、写真の体育館は四代目ということになる。

新体育館の前に頌徳碑があった。私の在学中は南西の隅、県道側にあったものである。
昭和12年(1937)に建てられた。明治の平野地区の教育に尽力された丸山富次郎氏を顕彰するものだが、もちろん小学校時代は知らなった。今回改めて見るまで日露戦争の記念碑かと思っていた。
12:37
プールは体育館の北に移転したようで、元あった場所には「いこいの井戸」があった。
プールは昭和34年完成。
プール
たぶん6年生のころ(昭和43年夏)。
隣は竹内徳吉ちゃん。賞状を持っているのは小林きく枝ちゃんと蟻川淳一っちゃん。

運動は得意ではなかったが、鉄棒の懸垂の回数とともに、水に潜っている時間は、圧倒的にクラスで一番だった。二位に30秒以上差をつけた。「死んじゃったんじゃねぇか?」という声を聞くのが快感だった。
12:39
校地南側の道路
かつて、グラウンドの南側はポプラ並木が続き、道路と校地の間には水量豊かな川が流れていた。車社会というのは道路を広げると景色を一気に変えてしまう。
丸山タカオちゃんと依田トシカズちゃん。たぶん5年生ころ。
ヘリコプターで撮った平野小学校通学域(昭和43年)

6年生のころ、東京の警視庁から交通安全のキャンペーンだったか、ヘリコプターが小学校に飛んできて、男女一人ずつ児童を乗せてくれることになった。成績が良くて児童会長をしていた私が乗ることになり、先生が急遽、承諾書の印鑑をもらいに家まで走ってくれた。
祖母は近づくヘリコプターに手を振り、少しでも高いほうが分かるだろうと、軽トラの荷台に乗ったらしいが、私には全く見えなかった。

小学校の6年のとき好きだったのは、沢田啓子ちゃん、津金須美子ちゃん、西原真利子ちゃん、田中りつ子ちゃんの4人。中学にいくと3クラスに分かれる。卒業して雪解けの泥道を歩いて昭和44年春、中学の体育館前に貼りだされたクラス分け名簿を見に行った。

誰と一緒になるかなぁ、と見たのに、なんと彼女らは4人とも別のクラスに行ってしまった。
  4人と同じクラスになれるのは(1/3)^4= 1/81
  3人と同じクラスになるのは(1/3)^3 (2/3) 4= 8/81
  2人と同じクラスになるのは(1/3)^2(2/3)^2 6=24/81
  1人だけ同じクラスになるのは(1/3)(2/3)^3  4= 32/81
  一人も同じクラスに来ないのは(2/3)^4= 16/81
つまり、(1+8+24+32)/81=80%の確率で彼女らと一緒になるはずだったのに。

勉強はできたが、中学受験もするような今の6年生と違い、畑や田んぼばかりの中で育った小学生はこんな計算はできなかったし、確率という概念もなかった。

(続く) 

2023年8月21日月曜日

中野平中学の記憶、創立の経緯、高丘と平野

 8月10日、わけあって飯山線立ヶ花駅から実家まで歩いている。

(別ブログ)
10:54に駅を出発し、途中の中学校に着いた。
ここまでまっすぐ来れば4.0キロメートル、50分だが、立ヶ花、安源寺の村中に立ち寄ったりしたから、炎天下を82分歩いてきた。
12:16
中野平中学跡地と歩道橋
歩道橋は私が中学2年に進級する昭和45(1970)年3月にできた。
歩道橋の下には土埃にまみれて誰も入らないようなバスの待合所があった。

中野平中学校は私の母校だが、すぐ北の田んぼの真ん中に新校舎を建て、2000年12月教室棟が、2002年には残りの体育館などが竣工、引っ越した。しばらく旧校舎はそのままあったが、とうとう見に行かずに壊されてしまった。

跡地には市役所が来るという話があった。
中野市は2005年に千曲川の向こうの豊田村を吸収合併したから市域が西に広がり、用地として最適であった。しかし現庁舎のある町の人々が中心街の空洞化を理由に反対したのかもしれない。

結局、広大な駐車場を持つカワチ薬品、かっぱ寿司、フランセーズ悠なかの(特養ホーム)になった。

県道から北に入って正門のあった場所に行ってみる。
12:18 正門あたり
カワチ薬品の裏の壁があり、母校の面影は見事なほど何もない。
懐かしの旧校舎は空っぽになってからも長年残っていたのだから、なんでもっと早く来なかったのだろうと後悔した。
幸い、中野平中学校竣工記念誌が手元にあった。
校章は中の字にリンゴと稲穂をデザインしたもの。
本書は総合竣工式のあと2002年12月に刊行されたもので、新校舎の記述が中心だが、創立以来の沿革など旧校舎に関する記事もあった。そこにあった懐かしい写真を転載する。
創立30周年の全景(1987)
私が卒業したのは1972年3月だから上の写真はその15年あとだが、ほとんど変わっていない。
違いを探せば、北東の隅、プールの北に格技室?ができ、周囲に民家が増えている。


今回、書棚に入れっぱなしだった竣工記念誌を初めて読んだ。
それによれば、
中野平中学校は昭和33年(1958)5月1日創立とされる。
まだ校舎はなかった。

戦後生まれた新制中学は、高等小学校2年間に1年間プラスしたものだから、各小学校に併設された。しかし戦後ベビーブームの子供たちが学齢に達し、どこも手狭になり、独立した統合中学の開設が望まれた。
中野市では9つの小学校に9つの中学校があったが、中心街を含む中南部、平野・高丘を含む西部、そして北部と、3つの中学に統合されることになった。

つまり創立の昭和33年(1958)は制度上の平野中学、高丘中学が廃止され、西部中学(仮称)平野部、高丘部が誕生し、そして校舎の建築が着工された年である。

年が明けて中野平中学と改称、校章、校歌が制定された。
第1回卒業生は昭和34年3月、校舎は第一期北校舎ができただけで、卒業式は相変わらず各小学校にあった平野部、高丘部で別々に行われた。できたばかりの校歌を歌ったようだ。

第2回卒業生は3年生のおわり、34年12月に校舎が完成、生徒一人一人が木製の椅子を抱いて田んぼの道を蟻のように歩き、新校舎に入ったという。3か月だけ新校舎で過ごし、(高丘クラスと平野クラスは混ぜなかったが)実質初代の統合中野平中学校生として、35年3月に卒業した。体育館などは完成していなかったため、廊下の交差点に式台を作り、四方向の廊下に平野2クラス、高丘2クラスの卒業生が参列、校長は四方をぐるぐる回りながら式辞を述べたという。

第3回卒業生は、高丘では1年生の時に大俣地区の生徒が編入され、2年生の時に移転、平野の生徒と一緒になった。プールはなくグランドも整備されておらず、水泳やクラスマッチは平野小学校を借りた。36年3月卒業。

第4回卒業生は37年3月卒業。中学1年のときに移転、高丘と平野が一緒になった。高丘から来た生徒は、小高い地域から来たから学校のまわりに澄んだ水が豊かに流れている小川が新鮮だった、と卒業生の寄稿文にある。

私は昭和47年(1972)3月卒業だから、第14回卒業生ということになる。
たぶん草創期のころ。県道の狭さが目立つ。
しかし校舎などは私の記憶と全く同じ。

高丘と平野。
隣り合う同規模の二つの小学校が一緒になるのだから、ライバルとしてお互いを意識する。
入学するときはどんなかわいい女子がいるのだろう?どんな男がいるのだろう?大いに興味があったものだ。そして同じ学年だけでなく、スポーツや生徒会で活躍している上級生たちに対しても、平野か高丘か、という目を向けた。

私の学年に関しては高丘出身者のほうが何事も積極的で、勉強、スポーツもできたように思う。
しかし草創期の昭和30年代に通った叔母によれば、平野のほうが何でもできたという。
しかも平野出身者は強気で、統合中学の名前を平野中学にするべきだという人もいたらしい。統合名「中野平」は平野中学の逆だからいいではないか、となだめたとか。
統合前の平野中学と高丘中学の校章

どうしてそんなに過去の平野が強かったのか、昔は不思議だったのだが、今回記念誌を読んで初めて分かった。
まず建設の経緯である。

当時は戦後まだ10年しか経っていない。子供が増えて建設は急を要したが中野市は金がなかった。場所が決まったところから順に建設することになった。
そこで立ち上がったのが平野地区江部の山田顕五氏だった。北信濃随一の豪農、代々山田庄左エ門を名乗った大地主の当主で、まだ40代だったが人徳もあった。建設予定地が平野と高丘の間にあれば良いのだが、まとまった土地はなかなか得られるものではない。彼は連日連夜地権者の間を奔走し、ようやく平野の西のほう、片塩と江部の間、まんざき(松崎)田んぼに用地を得た。
しかし、今では考えられないが、金融機関は市に(市長、助役、収入役の印があっても)金を貸さなかった。そこで、彼が保証人となり、建設委員会が肩代わりし、中野市があとで返済したという。

以上、地域紙「北信ローカル」の記者兼編集者の佐藤君雄さんが「記念誌」編集委員の一人としてあとがきに書いていらした。

こうして出来上がった中学の場所は、平野でも高丘寄りの片塩に近い。しかし中心の平野小学校にも近く、平野の中学という印象が強かったことが、平野が強気だった要因か。

また、平野の子供のほうが何でもできたというのは、高丘にはプールがなかったこともある。平野の人はみな水泳がうまかったが、高丘はせいぜい親の目を盗んで篠井川、千曲川で遊ぶくらいしかできなかったから、ほとんどの人が泳げなかったらしい。(第4回卒業生寄稿文)
また、平野は中野の町に隣接していて買い物にも歩いて行けるが、高丘は遠かった。車社会でなかった昭和30年代、この差は大きく、平野の生徒の優越感、自信につながったかもしれない。

しかし、我々の学年は今面々を思い出すと男も女も平野出身者はおとなしく、高丘は元気で目立つ人が多かった。それぞれの小学校の校風というものだろう。

竣工記念誌にあった旧校舎の写真を何枚か載せる。
1.正面玄関(南校舎)  2.教室風景
3.管理棟(南校舎1階) 4.正門

1.3.玄関のある南校舎の1階は校長室や職員室など。2階は3年生の教室だった。
2.教室の机、いすは木製だったかスチールだったか記憶にない。
4.正門を入ると右は校庭、野球のバックネットがあり、土手にはかねちょろがよくいた。左は技術室、理科室が続く。
1.プールと第二体育館 2.冬の校舎と高社山
3.体育館 4.経緯度標

1.プールの北、第二体育館(格技室)は私の時代にはなかった。
3.三年生の冬、我がクラスの男子は休み時間になると便所に降りたついでに体育館の南側に行きたむろした。日の当たる壁に、電線の雀のように並んでおしゃべりしていた。

さて、卒業して51年、旧校舎の敷地のまわりをまわってみる。
12:17
正門跡のそば、技術室跡の南側あたりに川が流れている。
かつてグランドと校舎の間にあった川の名残か。
当時、大部分は暗渠にしていたが、一部は石段があって水を汲んだり足を洗ったりするようになっていた。もっとも私の時代には体育のあと足を洗うようなこともなかったが。
12:19
学校の裏に回るとかつての田んぼだったところに新校舎が建っていた。
中央にとんがり屋根の展望台が目立つが、興味はないのでこれ以上近づかず。
12:21
フランセーズ悠なかの(特養ホーム)
このあたり、北東の隅、体育館の北の音楽室があったところ。

高輪ゲートウェイを思わせるヘンテコな名前の特養ホームの駐車場に無断で入っていく。
このあたりにプールがあった。
12:23
駐車場の南の端、つまりプールの南。
藪の中に庭石のような大石がいくつか残っていた。
12:23
藪の中に足を踏み入れ痕跡を探していると、「力」を表す造形を3つ合わせたモニュメントを見つけた。
見覚えがある。先輩の残した卒業記念物だろう。
新校舎に持って行ってもらえず、放置されたまま。
そのうち朽ち果て廃棄されるのだろうか。
12:26
体育館の南に当たる場所。
地面のコンクリートや松などの植木は特養ホームでなく、中学校時代のものに見える。
12:26
特養ホームとカワチ薬品の境界
このあたりは左がグラウンド、右が体育館、向こうに南校舎が見えた場所である。
かつて半地下だった川は、地上に出て狭い水路になっていた。

これと同じアングルで撮った白黒写真があった。
南校舎(左)と体育館の南の壁

中央の植え込みを見て思い出した。
中学3年の陸上クラスマッチ、私は2000メートル走にエントリーした。女子にいいところを見せたくて、数日前から岩船と西条の間の果樹園の間を何回か走って準備した。

当日、クラスで同じ種目にエントリーした何人かと集まってウォーミングアップしたりしたが、疲れてしまうので出番まで植込みのまわりの芝生でまったり座ってくつろぐことにした。ところがプログラムが伸びてなかなか出番にならない。
そのうち寝転んでいたK山が女子のブルマでも見ていたのか、●起してしまった。誰かが面白がって触ったりした。肝心のレースなど他は覚えておらず、くだらないことだけ記憶にある。
12:26
カワチ薬品とかっぱ寿司の駐車場
私やK山が寝ころんでいた芝生の植え込みからグラウンドを見たのと同じ方向である。

岩船や吉田の生徒は西の正門ではなく、県道から東門に入り、写真の左、グラウンドから一段高くなっている道を通ってきた。

再び竣工記念誌から写真を借りる。
バレーボールはグランドの東の端だった。
私は球技一般が苦手だった。
丸谷仁子がサーブを豪快に空振りした姿を思い出す。
フォークダンス
我々が3年生のとき初めて文化祭が行われた。生徒会で文化祭名やプログラムを考えた。
私は選挙管理委員長で年1回しか仕事がなかったが一応、生徒会役員の一人だった。仕事がない無能大臣でも一応閣議に出るように、準備会議に出ていた。
試行錯誤の最初だから2日間を埋める出し物など考えつかず、有力役員の鈴木京子の希望もあって両日とも午前午後にフォークダンスを入れた。
美術の時間だったのか、自発的だったのか、私は黒地に黄色い落ち葉を貼りつめた文化祭ポスターを作った。
応援部
白黒写真だが顔を見ると我々より後の時代のようだ。
中野市と下高井郡(中野平、南宮、高社、山之内、木島平、野沢温泉、市川の7中学)の地区大会前には運動部の壮行会があった。
体育館(兼講堂)
剣道部の練習場所は、舞台で時代劇でもするように、体育館の狭いステージの上だった。
もちろんフロアとの間にはネットがあり、バスケット部のボールにあたることはない。ネットの網目の一つを相手の顔とみて素振りした。
剣道部は我々が2年になったとき、学校が廃品回収の収益で防具を5セット買って発足した。ほとんど我々のクラスばかり、まとめて入った。
水泳クラスマッチと中山晋平音楽祭

3年生の時突然クロールが速くなってクラスマッチにも出た。
確か25メートル無呼吸で17秒だった。

しかし連日、放課後になるとプールで遊んでいて(当時は監視員もなく自由にいつまでも使えた)、ある日、飛び込みに失敗、底に激突し顔面を強打した。
やっとプールサイドに上がると、新井信行がやってきて「歯がない」と笑った。そのあと、呆然と座り込んでいる私を置いて、この日泳いでいたクラスのもの全員が広いプールに潜り、ついに小さな歯のかけらを探し出してくれた。
そのあとすぐ、青木歯科に行き、くっつけてもらおうとしたのだが、治療はあれよあれよとすすみ、かけらを出す前に金歯をつけられてしまった。
以後、高校、大学と大事な時代、一番目立つ歯はきらりと光るようになり、顔に若者らしいさわやかさがなくなった。幸い結婚相手は見つかったが、結婚後、白い義歯に替えさせられた。
12:31
ぐるっと回って大した遺構は見つけられず、もとの歩道橋に戻ってきた。
「高社とこしえに北にそびえたち、南果てしなき野には香る風、ここ松崎に地を占めて、」という校歌だが、野はなくなり、高社山も小さくなったような気がする。

当時、放課後になると歩道橋を渡る人はほとんどおらず、倉島郁夫や高見沢誠と上っておしゃべりした。好きな女子とか、返って来たテストの点数とか。
中学2年9月 燕岳登山
中学3年4月、油壷、鎌倉を含む東京方面への修学旅行

3年2組はいいクラスだった。
もちろんいじめなどなかった。(もっとも当時は全国的になかった)
いじめをしようとしたらそいつが孤立しただろう。
12:32
歩道橋の上で目を反対に転ずると昔通りの細い道が残っていた。
左側に沢田啓子の家があったが、表札は違っていた。
このすぐ先に平野小学校がある。

(続く)

2023年8月18日金曜日

高丘小学校と工業団地、安源寺、片塩の同級生

8月10日、お盆を前に長野の実家に日帰りで行ってきた。

雲一つない猛暑日、最高気温35.9度(長野市)にもなった炎天下を、飯山線立ヶ花駅から実家まで5.3キロメートルをこっそり歩いている。
実家や家族に話すと、心配されたり奇行を馬鹿にされたりするから。
11:32
草間のバス停。
10:54に立ヶ花駅を出発し、まっすぐ来れば1.5キロメートル、19分だが、あちこち寄り道したので38分歩いている。ここまで、歩いている人は誰もいなかった。

草間のバス停の待合所は、まるで何十年も使われていないかのように、壁の宣伝は古かった。

ここに高丘小学校がある。
11:33
 中野市立高丘小学校
帰宅後に調べて驚いた。生徒数158人、職員17人(2019年)という。
過疎というより少子化の影響で、1学年わずか20人程度。
しかし、我々のころはこの3倍、1学年60人ほどいた。

この高丘小学校と私の卒業した平野小学校の2つの小学校の児童は、中野平中学校に入学して一緒になる。高丘も平野も農村部の小学校で規模も同じ、30人クラスが2つある小学校だった。
クラスの名前も高丘は東組、西組、平野は松組、竹組だったから、1学年2クラス、60人というのは、ずっと長い間安定していたのだろう。(ただし我々の学年は5年生のときから花組、雪組になった)
11:34
1903年創立、校舎は当然のように新しくなっていた。

高校3年の夏休み、予備校などもないから数学の先生が数日だけ学校で補習をやってくれた。自由参加だったが、こちらも大学入試事情がよく分かっていないから、まじめに出た。その帰り、立ヶ花から自転車をこいでいると雷が鳴り始めた。当時は周りに建造物が何もなく延々と果樹園がつづき、動いているものが自分だけ、いかにも落雷の標的になりそうだった。必死にペダルをこぎ、近くに落ちたような大音響と同時に、道路わきにあった高丘小学校に逃げ込んだ。木造校舎の正面玄関で雨宿りをして雷雲の過ぎ去るのを待った。人生で一番雷が恐ろしいと思った日だった。

このあたり、50年前は何もない丘陵地帯にまっすぐな道路が1本だけあったが、いまや両側にくまごろう食堂やらガソリンスタンドやら、さまざまな建物と、新たに切り開かれた新しい道路ができている。

その極めつけは高丘工業団地。
私が高校を終えて上京した4年後の1979年から開発、分譲を始めた。
11:37
高丘工業団地入口
今回、新しいアプローチ道路もできたことに気が付いた。
高丘工業団地全景(中野市公式サイトから)
左下が信州中野IC、左上が千曲川。中央に高丘小学校。
右上から来る志賀中野有料道路に沿って立地している。
全体面積26ヘクタール、区画面積21ヘクタール。
11:39
オギワラ精機(農業機器、高見沢の子会社)、アクティオ(レンタル建設機器)、そして工業団地の中核をなす新光電気が歩いてきた県道から見える。
山は斑尾。

新光電気は1946年更北村(現長野市)で創業、富士通の関連会社として発展した。会社の沿革を見れば1979年に従業員は1000人を超え、翌1980年にこの高丘工業団地に工場を建て、1984年に2000人、翌85年に3000人を超えた。
この時期、東京や地元で就職した中学の同級生も数多くここに転職した。何人いたか、記憶があいまいだが、いずれにせよ皆定年退職しているはず。
現在4,848名(連結5,596名)(2023年3月)の一部上場企業である。

相変わらず誰も歩いていない道路を東に進む。
道が平たんになった。
11:42
高丘郵便局は昔から道路わきでほこりっぽかったが、廃屋になっていた。
11:44
このあたり頂上。
菓子司「しおざき」の看板とともに中野の市街地がみえてきた。
11:44
高丘郵便局は道路の向かいに少し引っ込んで新しくなっていた。
11:46
県道の崖から中野市街地を見る。
かつては自分の家が分かった。
年取って目が悪くなったのではない。
以前は岩船のお寺の赤い大屋根とか、お宮の森、北信病院とかの目印に加え、田んぼから何軒目と数えられたのだが、その田んぼにも住宅が立ち並び市街地が拡大し、また、かつての目印を隠すように新しい大きな建物が建ってしまった。つまり私の知らない町になってしまった。
延徳方面
たしか安源寺の高見沢誠の家もこのあたりだったと思うが、もう分からない。
彼は高校卒業後、今の若者には珍しく、どこにも勤めずいきなり農家を継いだ。
遠足の前に着ていくもので悩むなど、恥ずかしがることや躊躇すること、心配することが私と似ていて、休み時間はよく一緒に便所へ行く仲だった。
11:47
少し歩いて再び崖から南を見る。
手前は安源寺だが、その先は草間の部落になる。
1975年初めて帰省した夏休みのある夜、高校を卒業して各地に散ってから初めての同級会の相談をするというので草間の勝山隆夫の部屋に数人集まった。彼はトランペットがふけ音楽が得意だったが、最近ジルバを覚えたといって、桜田淳子「十七の夏」をかけ踊って見せた。

歩いてきた県道が東の中野市街地に向かって大きく開け、見晴らしのいい地点にT字路がある。安源寺から上今井橋を経て飯綱町まで行く三水中野線(県道505号)である。
この道は、T字路から始まってすぐ、安源寺部落の氏神、小内(おうち)八幡神社の境内を分断する。
11:49
小内八幡神社と県道
9世紀の創建といわれ、近隣八カ村の総鎮守だった。延喜式神名帳(927)に高井郡6社の一つとして記載がある。室町戦国期は高梨氏の庇護を受けたが、上杉武田の川中島合戦で本殿焼失、その後の国替えで高梨は去り、本殿は飯山藩主松平忠倶が再建したという。江戸時代から馬市が有名で、越後などからも人馬が集まった。
11:49
分断された神社の参道は西に200メートルほど伸びている。
11:50
本殿を振り返る。
11:49
神社の北にあった高見沢秀茂の家は駐車場になっていた。
彼の家は「株式会社高見沢」で、おじいさんが創業社長、父親が専務、学校一の資産家だった。
その後、彼は順当に跡を継ぎ社長となったが、たまにもらう年賀状の住所は長野市になっていた。本社に近い便利なところに自宅を建て、ここを処分したのだろう。

彼はがっしりした体格に物おじしない性格、何事も積極的だった。我々よりませていてエッチな話だけでなく、一般知識もあったから、授業中、先生の問いかけにはうるさいくらいすぐ応答していた。先生も授業が楽だっただろう。野球部ではキャッチャー、みんなの人気者で、3年間心配事、悩みなど何もないような男だった(恋愛は知らないが)。

我々の中学から4年制大学に行く者は極めて珍しかったから、私と話が合ったのか、帰省した時は実家の畑しか行かない出不精の私を誘ってくれ、町田憲一と3人でたびたび会った。長野に免許取り立ての彼の車で行ったときは怖かった。
スキーにもいった。いちばん近くの湯田中ごりん高原で軽く1~2時間滑って、帰りに栗和田のバイパスの食堂で遅い昼食をとったとき、彼は豚汁を残した。痛風になったという。若くして贅沢なものばっかり食ってるからだと憲一と言ってやった。
11:52
三水中野線(県道505号)は広い立派な道になっていた。
ここをまっすぐ行って右に行けば牧山(栗林)の部落。
松島周一の家は牧山部落内でも山に一番近く浜津が池のそば。彼はしばしば不良的な行動をとったが、顔は優しく盆栽が趣味だった。私は彼の影響を受け、日曜など二人してよく山中を歩いてランや松などの幼苗をとった。あるとき彼の家を自転車で訪ねると、彼は軽トラを運転して山の畑のほうから下りてきた。ずいぶん慣れた様子だった。

この道を牧山のほうに曲がらずまっすぐ行けば千曲川の旧川床に出て、その先、上今井橋を渡らずに北へ行くと大俣。
中学の通学区で立ヶ花とともに一番遠い部落である。そもそも大俣は平野でも高丘でもなく、長丘地籍であった。
ここには倉島郁夫と浅沼利夫がいた。
倉島は以前、録風機のことでブログに書いた。

浅沼はよく見るとハンサムな顔をしていたが、本人もまわりも最後まで気づかなかった。英語の本読みを当てらると、早口言葉のようにして異常に速いスピードで読み切る男で、中野平中学から長野高校に進学した秀才3人のうちの一人である。
11:53
県道から西のほうに降りていく安源寺の村内の道も景色が変わるほど広くなっていた。
この右側に酒井昭利の家があった。

彼は昭和44年(1969)4月、1年2組の教室で初めて見たときから元気が良かった。言語的反射神経と語彙力に優れ、つまりダジャレを連発していた。席が後ろの高見沢秀茂とやりあうだけでなく、ボーっとしている前の小林睦美、さらにその前の言葉少なな小林広行もいじっていた。根が優しいのだろう、皆にちょっかいを出した。

運動神経も抜群だったが、当時スポーツ好きの男子がみんな入った野球部などには入らず、私と同じく、ちょっとふざけた運動部だった剣道部に入った。顧問も上級性もいなくて一番偉いのが小林睦美だったから、遊びのような部活だった。

女の体についての知識の深さは、藤沢新浩と双璧をなしたが、その正確さについて我々は判断できなかった。
女子にはもてたが、3年の秋に失恋した。すると、彼はその悔しさ、苦しさを吹っ切るために勉強に打ち込み、わずか1~2か月で英語が学年でトップクラスになってしまった。

高校は別だったから会う機会はなくなった。
お互い就職、進学して長野を離れたある夏、帰省して東京に帰るとき、彼も車で東京に行くというので乗せてもらった。志賀草津道路が白根山のふもとに来たとき、路傍の駐車場に入り、朝食のおにぎりを食べた。確か彼は名古屋のほうに就職したと思ったのだが、東京のどこに行ったのか、私はどこで降ろされたのか、どんな話をしたのか記憶にない。

いつだったかの同級会のとき、別人かと思うような太った体で遅れてきた。後から思うと心臓が悪くむくんでいたのだろう。
その後、彼は若くして亡くなった。東京でそれを知り、1か月くらい遅れて憲一と焼香に来た。安源寺の八幡神社に車を停めたことを思い出す。

来た道を戻る途中、高見沢の特産事業部(食と農業関連)の事業所があった。
11:56
その前の銅像に見覚えがあった。たぶん高見沢の家の庭にあったものだ。

この安源寺には小林広行もいた。幼馴染?の高見沢けさみが「ひろちゃん、ひろちゃん」と慕っていたが、クールでスマートな男だった。あまり話をしなかったが、水泳がクラスで一番速く、クラスマッチのときだったか、私に「飛び込んだら手のひらを上に向けてすぐ浮き上がって水をかき始めたほうがいい」とアドバイスしてくれた。大人になって同級会で中野市の農業の話になったとき、分析が鋭くて驚いたことがある。

再び小内八幡神社の前を通る。
11:57
安源寺の秋祭りは近隣で一番賑やかで、夜になると中学生たちは隣接する片塩、草間、栗林だけでなく他からも集まった。私も、気になっている女子に会えるかもしれないと期待して、一度だけ遠く岩船から来たことがある。

11:59
安源寺は高丘地区の一番東で、坂を東に降りれば平野地区の西の端、片塩になる。
12:03
左の旧道を行けば片塩の村中に入り、片塩のお宮や吉見の家があった。

昭和47年3月(1972)、3年2組が卒業するにあたり、吉見邦夫は、皆仲が良くて別れを惜しむ15歳の我々のまとめ役となってくれた。卒業文集には森田健作の「友達よなくんじゃない。今はつら~いけど」の歌詞を書いていた。酒井や秀茂のようにはふざけないリーダーで、鈴木京子がクラスで一番信頼していた男だった。
彼は高校を卒業して板橋の高砂鉄工に就職、私は新河岸の寮に2回ほど遊びに行った。買ったばかりのステレオがあり、中島みゆきの「時代」や太陽に吠えろのテーマを聞かせてもらった。初めて聞いた「アザミ嬢のララバイ」には感動した。彼は数年で辞めて故郷に帰った。たしか新光電気に転職したのではなかったか。
12:04
大川
片塩の人は大川といっていたが、いま標識を見れば「一級河川・江部川」とある。
江部と草間の間を通り、篠井川と合流、そして千曲にそそぐ。
昔は川岸がこれほど小ぎれいではなく、川幅も広く、水量があって、いかにも大魚が潜んでいそうな流れだった。

大川のこのすぐ下流に安部倫世の家があった。プライベートビーチならぬプライベートリバーというか、庭先に大きな木の枝が鬱蒼とかかる大川が流れていた。彼は中学3年の冬、松島美智子からベージュと焦げ茶色の手編みマフラーをもらった。松島はそれまで目立たなかったが、運動神経も頭もよく、卒業するときになって私はようやく彼女の魅力に気が付いた。
12:06
「教育歴史博物館」なるものができていた。今調べたら2003年からあったようだ。
「田中新左ェ門・辨蔵記念館」「田中歴史文化財団」「人に教育 教育は人なり 田中武徳」「江戸・明治・大正時代の教育史を今に伝える(国内最大級の展示)」と看板がいっぱいあるが、立ち寄らず先を急いだ。

この看板のあたり、道の反対側(南)に小林睦美の家があった。
ちょっとぼけたところもあったが、癖のある酒井や私も剣道部のキャプテンとして彼に一目置いていた。
彼は足の裏を鍛えなくてはならないと、裸足で裏山を走る練習メニューを考えた。竹刀を片手に七瀬から登り、大俣に降りて安源寺を周ってくるという長距離で、途中で素振りが入る。県道以外は未舗装の土の道で、所により木の根があったり砂利道だったりする。道端の農家のばあさんが古い靴を貸してやると、憐れんでくれた。
夏の暑い時期は水中で体を鍛えると言って、毎日放課後はプールで遊んだ。もちろん野球部やバレー部、バスケット部はちゃんと練習していた。
暑くてもたまには防具をつけて打ち合いをしなくてはいけない。そんなとき外のほうが風があって涼しい、と夕方のグラウンドでやった。ところが、だだっ広くて範囲が決まっていないからどこまでも逃げられる。ただ疲れただけだった。こんな練習にもみんな従ったのは小林睦美の人徳による。
彼も若くして亡くなった。
12:09 命徳寺
手前の畑に「ミヤマ・ノコギリ・カブトムシ販売中」(サカイ)の看板。
カブトムシはペア販売で300円~ 
12:11 片塩交差点
この奥が西江部。
この5月に4人殺害事件が起きたとき、この先が封鎖され、この交差点がテレビに映った。
12:15
ようやく中学の前の歩道橋が見えた。
右側のファミマの場所には、最近までかっぱ寿司があったが、50年前はカントリーというドライブインレストランだった。
そうだ、安源寺・草間の同級生で一人忘れていた。藤川次男。
我々は買い食いするといってもせいぜい菓子パンくらいだったが、彼は学校の真ん前のカントリーでラーメンを食べているところを先生に見つかった。勉強もスポーツもセンス良くこなし、口数は少ないが存在感があった。音楽のテスト(皆一人ずつ好きな歌を歌う・伴奏無し)では尾崎紀世彦「また会う日まで」をイントロから身振りまで入れてかっこよく決めた。
我々が高校卒業して上京した年の秋か冬だったか、突然連絡があり、赤坂見附で会うと自己啓発セミナーの勧誘だった。相変わらずさわやかで、私に気がないとみるとそれ以上誘いもせず、世間話をして別れた。

皆元気にしているだろうか?
会いたいな。

(続く)

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