2020年6月28日日曜日

薬業健保会館とプルデンシャルタワー

6月15日、新宿で用事を済ませ、いただいたランチ券があったのでニューオータニで食事した。

別ブログ
 20200627 懐かし昭和の新宿西口高層ビル
 20200619 十二社、角筈村、淀橋、大名倒産、
 20200615 ニューオータニ庭園の松でおしゃべり


そのあと一人になり、赤坂見附の交差点から少し歩いた。
弁慶堀
水辺も歩ければいいのに。

青山通りの坂を東に上り、西のほうを見下ろす。
左の石垣は衆議院議長公邸

その石垣に東京女学館発祥の地というプレート
江戸時代は松江藩松平家18万石の上屋敷。
明治後は宮内省の所有となった。
1886年、政財界の大物たちが創立委員となった女子教育奨励会ができ、それを母体に1888年東京女学館がここに生まれた。2年後に工部大学校跡に移転したから、プレートが立派な割にここは短い。(今の広尾に行ったのは関東大震災後)
東京女学館といえば私は夏目雅子しか知らない。

それにしても衆議院議長公邸って必要だろうか?
何をするんだろう?
国会の司会くらいしか知らない。打ち合わせなんかどこでもできるだろう。
しかし不要だといえば民間に払い下げられマンションになってしまう。
このまま遊ばせとくしかないのかもしれない。

と思ったら、となりは参議院議長公邸
こちらもひと気がない。

公邸正門横に華族女学校遺跡碑
1885年四谷で創立、4年後にこの地に移転した。
1906年に学習院と合併、女子部となり、
1918年青山に移転、戦後、戸山の近衛騎兵連隊跡に移転した。
(別ブログ)

三べ坂
岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありしより名づくといふ。
地下鉄永田町駅からこの坂は3回通ったことがある。
2013年から年1回、6月に近くの薬業健保会館で日本化学品輸出入協会の講演を頼まれたからだ。

薬業健保会館
講演タイトルは
 2013年 化学・製薬産業の起源ーー染料とサルファ剤
 2014年 空気からパンを作るーー窒素固定、肥料と爆薬
 2015年 フェノールの発見からプラスチックの時代へ
自分では面白いと思ったのだが、受けなかったのか、3年で終わってしまった。

薬業健保会館の向かいはメキシコ大使館

新坂
メキシコ大使館の前の道は日比谷高校裏口に突き当り、西に下っている。
江戸時代、下は外堀の溜池でたぶん家がなかったから坂もなかったのだろう。
英語は Shin-zaka (Hill of Shin)とあった。Hillの使い方に注目したい。

坂を下りると出発点の赤坂見附交差点はすぐそばだった。
ビックカメラの向こうにニューオータニが見えた。

外堀通りと新坂の角はプルデンシャルタワー
プルデンシャルタワー
2002年竣工、38階、158メートル
かつて横井英樹のホテルニュージャパンのあったところである。
33人の死者を出した火災は1982年。

ニュージャパンの廃業後、横井の債権者だった千代田生命が1995年取得、しかしここも経営破綻、AIGスター生命となり、さらにプルデンシャルグループに売却された。

長尾拓先生が国立衛生試験所の所長を退官し再就職した内閣府食品安全委員会も、ここに入居していた。7人の委員は総理大臣直轄、国会同意人事で国立衛試の所長より偉いんだ、とおっしゃっていた。
場所だか部屋だか気に入っていらして、遊びに来なさいと言われたが埼玉から溜池は気持ちの上でも遠かった。
行く機会を逸した。

プルデンシャルタワーの前の地図
地図を見ている人の正面を上にするか、北を上にするか、誰が決めるのだろう?




千駄木菜園 (総合)目次 (お出かけなど)

2020年6月27日土曜日

懐かし昭和の新宿西口高層ビル

6月15日、妻の免許更新のあと四谷に出てランチしようと新宿に来た。
新宿駅は工事中で、遠回りしたあと西口改札に出る。

2020-06-15 西口改札
何年ぶりだろう?

小田急デパートのエレベーター
昔から駅構内なのかデパートなのか分からない。

何年ぶりだろう。
少なくとも10年以上は来ていない。

京王線乗り場

西口ロータリー



そのまま地下道を都庁の方に歩く。
昔はホームレスの段ボールの家が並んでいたが、今は見かけない。
地上に出る。

10:26 京王プラザ 
1971年開業、西新宿高層ビルの第一号である。

初めて入ったのは79年の夏ころ、薬剤部の研究生だった山田さんと1階の喫茶スペースでお茶を飲んだ。ケーキとコーヒーで800円だった気がする。
82年1月には笹生氏の結婚式、88年9月にはin vivo NMRの講演会、
90年3月には薬理学会年会があった。

さて、2020年のこの日、
妻は都庁第二庁舎の免許更新センターにいくので、11時半に別れた。
2020-06-15 10:29
都庁 48階、243m
いつだろう?展望室に上がったことがある。工藤さんがいた。

都庁は1990年12月完成。翌1991年4月1日から丸の内の旧庁舎から移転した。
ということは、90年3月の薬理学会年会のときはまだなかった。
1993年3月、加藤隆一会長のときの年会はパシフィコ横浜だったから、その時ではない。
いつ上がったのだろう? 92年11月のCNSはとバスツアーだろうか?

庁舎に入ってみた。
コロナのため展望室は閉鎖されていた。

10:32
妻が免許更新手続きのあいだ、時間つぶしをしなくてはならない。
新宿中央公園から熊野神社(十二社)、かつての角筈村辺り、中野区との境の神田川まで散歩してきた。

(別ブログ)

11時過ぎに急いで都庁前まで戻りスマホをみると、10:48に妻からのメールが入っていた。混んでいて講習は11:30からだと、涙の顔文字が入っていた。

たっぷり時間ができたが、再び神田川の淀橋まで歩く元気はない。
うろうろしよう。
11:13
ホームレスの人は減ったけれど、まだいらっしゃる。

11:14
住友三角ビルに上がってみる。

1975年、東京に出てきたとき新宿の高層ビルは4棟だった。
その数は学生時代に増えた。
ここに整理しておく。

交通の要衝、新宿の西口はながらく淀橋浄水場であったが、一等地がもったいないということで東村山に浄水場を移転したのが1965年(昭和40年)。そのご、再開発が始まった。

1971年6月、京王プラザ、本館47階178m (日本一、ホテルとしては世界一)
1974年3月、新宿住友ビル 52階210.3m (日本初の200m越え)
1974年6月、KDDIビル  32階164.4m
1974年9月、新宿三井ビル 55階225m (しばらく日本一)
1976年5月、安田火災海上ビル(パンタロンビル) 40階200m
1978年6月、新宿野村ビル 50階209.9m
1979年11月、新宿センタービル 54階223m


何回か入った住友ビルだが、こんなところあったかなぁ?

エレベーターホール
なんとなく覚えている。
すでにビル内を改修、再開発するらしく、48階から52階にあった多くの飲食店は撤退していた。

11:17
上がれたので上がってみた。


わずかに残っていた店舗もコロナで閉店を早めていた。
ビル改修でなくても撤退したい店は多かったのではないか?
いまや、駅ビルが巨大化して店舗が過剰、わざわざここまでくる必要性がない。
明らかに昭和が一番華やかだった。

最初に上がったのはいつだろう?
1986年、長野の両親が東京見物に来た。妻が出産を控え水天宮から、芝増上寺をまわり、田舎者をびっくりさせてやろうと、新宿高層ビルに連れて来た。妻が入ったことがあるというチーズフォンデュが有名なスイスシャレーに入った。午後だったのでケーキでお茶を飲んだ。

1990年ころか、会社の薬理部門の飲み会が土佐料理祢保希(ねぼけ)だったな。皿鉢をさわちと読めたかどうか。

他にも西新宿高層ビル街での飲み会はあったが、どこだったかはっきり記憶がない。

11:18

かつて賑わったレストランフロアも各階1,2店舗しか残っていない。
たまに工事の人が歩いている程度。
下の階も同じ。

11:20
住友ビルは最後に来たのが1996年12月14日、シンシナチで一緒だった森夫妻、黄田家としゃぶしゃぶを食べた。畳の和室だったが店の名は不明。
7歳だった息子は、すごく美味しかったとしばらく言い続けた。

三角ビルといったら「三角ではありません、六角形です」といった友人がいたな。

11:24
以前は関係者しか使えなかった業務用エレベーターでおりた。
資材を運ぶため養生されていた。

1996年、しゃぶしゃぶで大金を使ったので年末の福引券をいっぱいもらった。
黄田家が帰り、森、小林で引くと住友ビルで使える商品券がなんと数千円にもなった。3割くらい金券で還元されたのではなかったか。
もう食べられないので、地下の商店街にいき、書店でいろいろ本を買った。何を買ったか不明だが、私が生涯で唯一日々を記録した5年日記(1997ー2001)はこのときのものである。
この書店でも福引をもらったので引くと、再び多額の商品券をゲットするという、大盤振る舞いの住友ビルだった。
地下1階。もちろんその書店はなかった。

1978年ごろ、住友ビルの横に屋外のスケートリンクがあった。
町田憲一と東中野から歩いてきて、滑った。

もちろん今はない。

11:34
住友ビルの西はセンチュリーハイアットホテル。
1980年9月開業、地上28階
いまはハイアットリージェンシーというらしい。
1983年鈴木龍夫さんの結婚式はここだった。
飯野正光先生の講師昇進のお祝いもあった。
最後は2003年1月25日、遠藤實先生の古希のお祝い。先生と新宿駅まで一緒に歩いた。

この部分はホテルではなく、公的スペースのようだ。
本を読んだり弁当食べてる人がいた。

11:36
都庁とハイアットリージェンシーの間からうつす。
左から住友ビル、三井ビル、奥に損保ビル(パンタロン)、
その手前の茶色は新宿センタービル、テナントがなかったから一般人には縁がない。
駅に近いのはモード学園コクーンタワー。朝日生命本社ビルのあとに2008年竣工。地上50階・地下4階、学校法人所有のビルとしては最も高い。

11:45
三井ビルに行ってみた。
この地階は昔から飲食店が入っていて、住友ビルよりアクセスも値段も手ごろだった。

記憶にあるのはカフェテラス形式のレストラン
サラダとかサンドイッチとか70,80年代は珍しかった。

あと、山田さんが「ぼんち」というおにぎり屋さんに連れて行ってくれた。
昼だった。ほおばりながら「おいしいね」と彼女は言った。
京王プラザと同じ日か、同じころである。

11:46
それから1980年ころ、このテラスで食事していたら、駒場時代の同級生、畜産獣医学科に行った佐藤君とばったり会った。バイクで来たようで、ヘルメットを持ち皮のスーツを着こんでいた。

11:49
あれから40年、いまテナントで一番混んでいたのは丸亀製麺だった。
もはやおしゃれな場所ではない。

妻を迎えに都庁のほうに行ってみた。
11:54
都議会の庁舎
半円の構造物なら、円の中で会議をやるのではないだろうか?

妻は優良ドライバーで30分で出てきた。
彼女は高層ビルに何の思いもないらしい。
ニューオータニのランチに行こうと四谷に向かった。


帰宅後、調べたらしゃぶしゃぶは、新宿野村ビル「酔鯨亭」、福引は森さんの分をうちの末娘が回して2等5000円ゲットしたとあった。記憶というのはいい加減である。
(のち酔鯨亭は姉妹店のねぼけになったようだ)



20200619 十二社、角筈村、淀橋、大名倒産、
20200615 ニューオータニ庭園の松でおしゃべり


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2020年6月25日木曜日

ナスのハダニ、消毒前の初収穫

今の時期、収穫するものはあまりない。
2020-06-23 朝
小松菜とネギ
翌6月24日、久しぶりの在宅ワーク。
午後、晴れ間が出たので、挿し木したばかりのサツマイモに板をかぶせて日陰を作った。
2020-06-24
サツマイモの向こう、落花生はこんなものかな。
トウモロコシは小さいのに雄花が出てきてしまった。

室内で越冬したパレルモも実がなった。
しかしペピーノは冬を越して外に出したら葉っぱがだんだん白っぽくなり、枯れてしまった。

 ふと見るとナスの一株がおかしい。
葉っぱが白っぽくなり、見るとアブラムシ程度の小さい虫がうごめいている。蜘蛛の巣のようなものがあり、動きは速い。このところパソコン画面ばかり見ていて、老眼が一気に進んだか、目を凝らしても見えない。
ハダニのようだ。

ハダニは昆虫ではなく、ツツガムシと同様、クモの仲間。
世代交代が比較的早く、薬剤抵抗性を獲得しやすいというから、コナガの悪夢を思いだした。

家に消毒薬は3本ある。
ベニカはヨトウムシ駆除に活躍するし、マラソンもアブラナ科には必須である。
一番古くて使い道のないスミチオンで消毒することにした。
もう10年以上昔に期限が切れているが、もったいないので試してみる。

その前に今生っている実をとってしまおう。

早生大丸なす、小さいけれど木も小さいので負担軽減のため早めにとる。

ピーマンも小さいけど木を大きくしたいので。

キウリはまあまあ。
でも下の葉っぱにうどんこ病が出てきている。

2020-06-24
本日の収穫。いずれも初物。
板の幅は18センチ。
右は自然落果してしまった温州ミカンと、枯れたスナップエンドウ。
エンドウはカビが生えていたが中の実は晩秋にまけば発芽するかもしれない。

スミチオン噴霧
蜘蛛の巣が写真に写った。
このナス、助かるだろうか?

ふと、枯れてしまったペピーノ(ロイヤルカスタード)もたぶんハダニだったことに気が付いた。

彼らは葉の裏から葉緑素を含む細胞質を吸い出す。
セルロースの細胞壁より美味しそう。ハダニはグルメだ。
自分では消化できない細胞壁まで大食するイモムシとは違う。


(追記)
6月26日、ハダニは死んでいなかった。スミチオンは無効。
教科書通り、マラソンを噴霧してみた。



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