能登半島地震で始まった、長いような短いような1月が終わろうとしている。
2024年1月1日朝、つまり元旦にひとり帰省した。
大宮発7:49のあさま自由席は1車両に数人しか乗っておらずガラガラだった。
しかし長野電鉄、9:53発の特急スノーモンキーは驚くほど混んでいて、ほとんど外国人観光客だった。
10:25信州中野駅着。
彼らは終点湯田中まで行くから降りる人は2~3人だったか数人だったか。沿線で一番大きな駅の一つがこれである。いかに地元の人が電車に乗らないか分かる。
駅から家まで歩いて550メートル、8分だが、早く着いてもコタツにあたっているだけだから遠回りしてみた。何十年ぶりかの道だった。
1989年、リンゴ畑だった駅西側の区画整理と橋上駅化(西口開設)が完成した。私は1975年に上京したから、住んでいた頃は東口からぐるっと、駅の南北に2つある、どちらかの踏切まで遠回りしなければならなかった。
北の踏切は、まだ記憶に残らない頃、よく電車を見たいとせがんで連れて行ってもらったらしい。
そこへ行ってみようと歩き始めたが、途中で引き返す。
10:33
北の踏切から家に向かう道。
左は線路、右は東和医科器械製作所(現・東和)
東和の現会長、尾島和夫さんは1997年から2003年にかけて存在した「ふるさと中野テクノ会」の幹事で、私が会議や講演などに呼ばれたときなど、いつも二次会、三次会まで接待してくださった。
左のフェンスは、もっと昔、タールを塗った枕木に、鉄条網が張ってあった。
1960年代だろうか、母の実家、柳沢に行く途中、彼女は支度に手間取りいつも電車がぎりぎりで、踏切まで回る時間がなく、その鉄条網の破れから入った。そして線路の上を私の手を引いて走り、ホームに上がってから駅舎に行って切符を買っていた。
10:33
道がカーブするところの空き地。
昔から鉄条網に囲まれた長野電鉄の空き地だった気がする。
10:34
左の道は線路に沿って南へ、右は岩水神社の裏にいく。
この三つ角の向かいは黒岩君の家。
彼は山の内町から転校してきた。岩船部落は通学区の東端、田舎と都市部との境であるから転校生はたいてい都市部の南宮中学に行く。しかし彼の家は、確か父上が農協の理事だったからか、珍しく農家ばかりの中野平中学に来た。妹の秀子さんは私の妹の数少ない友人の一人だった。
彼の家は入口が50年前と場所が変わっていて、空き家になっていた。
10:34
駅の裏の道
この道は私が小学校のころ、60年代終わり、リンゴ畑に住宅が建ったころ開かれた。
その住宅ができる前は、駅(線路)のすぐ裏までリンゴ畑であり、道らしい道はなかった。駅側の斜面にはネビロ(野蒜の転訛)が生えていて、大きなクルミの木が何本かあった。
そのネビロと草の土手にはコカ・コーラの空き瓶などが捨ててあり、酒屋に持っていくと10円で買ってくれた。その草むらには、ときに成人雑誌も捨ててあった。畑と田んぼと近所の家しか知らない子供にとって、駅の裏の畑は、なにか未知の世界に通じるものだった。
駅側の斜面に登り口ができている。
10:35
登ってみると駅の構内で、中野駅から分岐する木島線の線路跡が枯草に埋まっていた。木島線は母の実家に行く路線だったが2002年に廃止された。
10:36
進むと右に大堀君の家があった。
小学校6年のとき、リンゴ畑が住宅地になって、そこに引っ越してきた。
彼は同じ岩船でハトをたくさん飼っていたので、2匹だけ飼っていた私はよく遊びに行った。すいぶん大人びていてベトナム戦争の話などしていたが、中学になる時、中野平中学ではなく南宮中学に進学して、それっきり。
10:38
ここはまだ一面リンゴ畑だったころ、フォスター電機という会社の工場があった。
裏の畑のほうに融けたプラスチックの塊とか大きなスポンジ、発泡スチロール、ときには磁石のついたスピーカーなどが捨ててあり、農産物しか知らない小学生には魅力的な場所だった。いまフォスター電機は影も形もなく、新しい道路に一般住宅が建っていた。
お宮のほうに行くと町田憲一君ちの工場があったところが、いわき総業とアパートになっていた。
神社の横に公園ができていた。
10:40
岩船北公園。初めて存在を知った。
10:41
岩水神社本殿
初詣での人がいないせいか、あるいは肌寒い天気のせいか、元旦の晴れやかさを感じない。
それとも自分の気持ちのせいだろうか?
小学校高学年の3年間、岩船の部落を将来背負って立つと思われた3人の長男は村祭りで獅子舞を踊った。年に一度、私はその年の産子惣代(うじこそうだい)の家で剣をもって舞い、次の山浦正隆ちゃんは区長さんの家に場所を移し御幣をもって踊り、最後はみんなでお宮に来て、町田憲一君がこの本殿で鈴を両手にもって獅子を舞った。
3年目の小学校6年生のとき
普段から境内にはよく遊びに来た。
何人かいるときは三角ベースなどもしたが、そうでないときは何をしていたか思い出せない。蟻地獄の穴を掘って虫を探したり、早朝羽化する直前のセミをとりにきたときもある。
社地の両側は藪と大きな穴になっていて、窪地の茂みに入っていくとよくボールが落ちていた。あるとき私は草に絡まりカビの生えたキャッチャーミットを拾った。
10:42
境内から参道をみる。
昔は洞に乞食が住み着いたほどの杉の大木があったそうで、私の子供のころも切り株が残っていたが、いまや切り株どころか周りの木々も、道路(右)と宅地になってしまった。両側の林と窪地は私有地だったのか、区(岩船)が売ってしまったのか、知らない。
10:44
岩水神社の鳥居と石柱は区画整理で参道が半分に縮まったとき、本殿に近いこの場所に移された。鳥居は狛犬とともにその時新調されたようだ。
昔を思い出すと、ここで遊んでいた頃、大人だった人はほとんど亡くなってしまった。
こんなつまらない文章をここまで読む人は、公開しているとはいえ、誰もいないと思うので、さらに私的なことを書く。記録として。
元旦、急に帰省したのは母の見舞だった。
弟夫婦がずっと在宅介護してくれていた。だいぶ前からほぼ寝たきり。
床ずれ、膀胱炎を繰り返していたが、1年前の2023年2月に3回目の脳梗塞を起こしてから見当識が怪しくなり、5月に帰省したときは誰が誰だかわからなくなっていた。
11月に急性腎盂腎炎で発熱、北信病院に入院した。熱はなかなか下がらず、自宅に戻せば数週間しか持たないといわれる。
コロナ以降の規定なのか、病院での面会は同居家族だけという。弟嫁がラインで動画を送ってくれた。呼びかければ反応はするという程度。
12月2日、我々が行くのに合わせ病院が母を一時帰宅させてくれた。寝たきりのまま介護タクシーに乗せられてきた。意識はあるのかどうか不明。
もう91歳で、ほとんど眠っているので胃ろう、人工呼吸はせず、自然に、安らかに過ごしてもらう、と我々の間で決めた。しかし北信病院では看取りはできないといわれ、主治医から転院を勧められた。治療はしない療養型病床のある、飯山の日赤、上今井の佐藤病院、小布施の新生病院が候補という。
12月8日、キリスト教系、看護師の優しいと言われる新生病院に転院。
ここで点滴が静脈から皮下経由になった。血管に針が入らないから皮下注射になったというが、そんな急に入らなくなるだろうか? 看護師の腕にそれほど差があるだろうか? 今までのところが刺せなくなったら場所を変えて刺すだろう。
血管でなく皮下点滴だとそれほど輸液は入らないから体力はもたない。実際、弟たちは医師から1か月くらいと言われたらしい。しかし私は何も言わず。
ここは北信病院よりもっと面会が厳しい。同時に2人まで、10分間。
4人で来たら特別に2人ずつ5分交代で面会できる。基本は月~金、土日は要相談という。
次回の予約目安は1週間程度というが、1日4組限定ではそれも難しいのではないか?
コロナのせいだろうか? 都会ではもう(少なくとも病院外では)コロナによる制限はないのに。
実際に12月15日に弟夫婦が面会すると次は23日という。
私はその日バイト先の畑で正月用しめ縄作りイベントを仕切らねばならないため行かれず、その次の面会に行くことにした。
しかし次の面会は年末は無理で10日後が目安となり、年が明けた1月6日に私が行くことになった。しかし皮下点滴になって1か月近く、医師の言われた「限界」に近い。もつのだろうか?
弟たちが1月6日では危ないということで電話してくれ、1月3日に面会予約が取れる。
しかし12月31日、弟の嫁さんから電話。危ないからと病院に呼ばれ、急遽翌日1月1日、14:30に面会してもよいことになった。
そこで元旦の朝、帰省したのである。
面会の人数に制限があるため私は一人で来たのだが、浦和の妹は二人の息子を連れて到着した。
元旦で飲食店は開いていないので、寿司と唐揚げのテイクアウトで昼食。
時間を見て帰り支度をした我々4人を弟が小布施の新生病院に連れて行ってくれた。
14:40
新生病院
1932年、カナダ聖公会から派遣されたスタート博士により開設された結核療養所を前身とする。正面には十字架が掲げられている。
私がここを知ったのは20年くらい前か。モーグルスキーの森徹を扱ったテレビ番組である。野沢温泉村のスキー選手一家に育ち、飯山北高を出た後カナダ留学、1994年に国内大会で優勝、95年にナショナルチーム入り、96年ノースアメリカンカップ・ディアバレー大会で優勝。しかし活躍が期待された地元開催の長野オリンピックの半年前の97年9月、スキルス性胃がんが発覚。手術を受けたため長野五輪は断念、ソルトレイクを目指したが病状の進行は速かった。五輪直後の98年春には治療断念、新生病院のホスピスに入った。発覚して10か月、この年7月に死去。25歳。テレビでは小布施の花畑の中を、家族に車いすで押される姿が映っていた。
14:41
かつては至る所にあった体温センサーを久しぶりに見た。
病院だからか。
元日のせいか、受付にもどこにも人の姿がない。
廊下に中島千波の絵が何枚も飾ってあることに高校時代美術部だった妹が気付いた。
彼は父親(中島清之)の疎開先であった小布施で生まれたらしい、と弟が教えてくれた。
14:45
3階に上がると職員詰め所にようやく人が見えた。
面会者名簿など記入して、係の人が準備するのを待つ。係の人はとても丁寧で、これがキリスト教の病院のせいなのか、今の病院では普通なのか、分からない。
今まで点滴は一日500ccだったが、もう入らない(体が受け入れない)ため、入れると浮腫になるため200ccに減らしたと説明された。
母は2000年1月、68歳のとき軽い脳梗塞になった。
救急車を呼ばず父が車で北信病院まで連れて行ったら待合室で待っているうちに麻痺が治ってしまったという。幸い後遺症は全くなく、スタチンと抗血小板薬を欠かさず飲んでいたが、まったく普通の健康な生活に戻った。
2010年2月に父が亡くなっても一人で庭の草取りや、絵を描いていた。
しかしいつからか脚が痛くて歩くのがおっくうになり、すべり症と診断された。絵などもだんだん描かなくなった。同居する弟家族とは台所、居間が別だったから、ひとりで帰省して母のコタツに入っていれば「何食べたい?」と精一杯ごちそうしてくれたのだが、いつしかテレビを見るだけになり食事は弟夫婦のほうに行くようになった。
2017年11月、85歳の時、脳梗塞が再発。突然、自分からは話さなくなった。言語中枢がやられたのか、「薬」とか「お薬手帳」という単語と実物を一致させられなくなり、私が「薬はどれ?」と聞いても現物を指せなくなった。たまたま私が帰省しているときで、こちらが驚いていろいろテストする様子に本人も戸惑っていた。事の重大さに本人もショックだったかもしれない。
自分で話すことはなくなり、話しかけると、そのまま言われたことを繰り返したり、「そうだなぁ」と言ったりしてごまかすようになった。文字も、自分で記入していた毎日の血圧の数字すらも書けなくなった。
すべり症で下半身がしびれていたのか、脳梗塞で排泄神経がダメになったのか、あるいは尿意を感じても歩けなくてトイレが間に合わないのか、おむつをするようになった。
世話をする弟たちも大変だったが、本人も苦しい数年間だっただろう。
そして1年前の2023年2月に3回目の脳梗塞。右半身がマヒ。
もう私のことは分からなくなった。
・・・・
さて、元日の新生病院。
ストップウォッチ型タイマーを残り10分に設定されて渡され、それを首に下げて病室に案内される。
15:06
小さくなった本人は目をつぶっていた。
眠っているのか起きているのか、そういう区別はあるのかどうか。
眉間にしわが寄っていた。
苦しいのだろうか。まだ意識があるとしたら悲しい。
点滴バッグは空っぽだった。
あとで聞けば、朝200cc入れたらしい。
もう500は入らないというが、入るのではないか?
点滴を皮下にしたのも、点滴量を減らしたのも、病院の方針だったのではないか?
1か月間かけて家族に死を受け入れさせ、患者を神のもとに送る措置だったのではないか?
誰にでも訪れる死である。
もう十分生きた人である。
こういう状態で1分1秒でも長く、という気持ちは私にない。
点滴に異論を唱える心は、もちろん起きなかった。
・・・
今、私は67歳だが、自分の子供が生まれた時のことはよく覚えている。おそらく90歳になっても可愛かった子どもの姿は忘れないだろう。女親は余計そうだろう。
彼女は私のことをずっとかわいがってくれた。
しかし私はあまり親孝行しなかった。とくに彼女が病気になってからは帰省しても弟のほうにばかりいて、十分相手をしてあげなかった。
そんなことを考えながら小布施から電車に乗った。
権堂駅まで来たとき大きな地震があった。何とか長野駅には着いたが、寒い中3時間以上、駅構内で行列に並び続けるなど、その日は帰宅するのに難儀した。
能登半島地震のニュースが連日放送されている、1月4日、母は亡くなった。