2018年7月30日月曜日

キャベツ、3年間の害虫

2018-07-24 朝

キャベツ1つが割れ、連日の猛暑も影響したのか、割れ目が腐りかけている。
腐るとアリがたかってきて、妻は使ってくれなかった。

2018-07-24
今年はまあまあかな。
しかし玉に巻かないものがいくつか出た。肥料不足?日照不足?

早めにネットを張ったせいか青虫は居ないが、毛虫がけっこういる。
5月にいたヨトウムシほど大食漢でないため、放置しても大したことない。
つぶそうとしても逃げ足が速い。

ま、とにかく、3年目の今年は食べられるキャベツが初めてできたということで、これまでの失敗をまとめておく。
なお、種はダイソーで買ったものを冷蔵庫に保管、3年間使っている。

種まき 発芽 地植え 初収穫 処分
I   2016 2016・05・09 5・14 6・18 なし 8・17
II  2017 2016・10・10 10・17 3・12 6・1 6・4
III 2018 2017・10・09 10・14 2・25 6・24  

一回目は春にまいた。
地植え前から青虫(コナガ?)。
スミチオンは葉が黄色くなったのでマラソンに変更。
しかし効かず。
6月地植え、ネットを張るも、7月、コガネムシ、コナガ乱舞。ヨトウムシも。
消毒は10回以上もしただろうか。
2016-07-24 
マラソンはコガネムシには効く。一晩でこれだけ死んだ。


最大の加害者はコナガ(小菜蛾)である。

調べたら、西アジア原産、1965年ころから日本でも大発生するようになったという。卵から成虫まで15日、1シーズンに10-12世代も生まれるから変異も早い。70年代終わりには有機リン系農薬に耐性をもつ個体が出てきた。
私は何も知らず、手元にあったスミチオンやキャベツに害の少ないマラソン(ともに有機リン系→)を使っていた。勉強不足で1年無駄にした。
2016-8-16
1つも収穫できず抜根する。
この日までネットで覆っていたから、コナガは天敵もいない天国で、好きなだけ食べ、好きなだけ飛んで、好きなだけ交尾していた。

2回目は、同じ年、
害虫の少ない秋まきでリベンジというか再挑戦。
面白いことに、早く蒔きすぎると、翌年の春にトウ(菜の花)が立ってしまうらしい。10月にまいて、霜でやられそうな小さな苗で越冬。
翌2017年3月、虫の出ないうちに地植え、ネット張り。
しかし5月末からコナガよりもヨトウムシが問題となる。我が家の消費より虫が食べる方が早く、かといって穴だらけのものは人にもあげられない。結局一度に全部とって、食べられる部分だけ、食べられる量だけ、使う。残りは生ごみとして埋めた。

3回目が今回。2回の反省から当然秋まき。
ネットを張ってからは夜、懐中電灯でヨトウムシの駆除をするのが日課となった。
おかげで途中からヨトウムシはみなくなった。
それでも残る食害はナメクジと毛虫だろうか。

スーパーに行くと、立派なものが非常に安い値段で売っている。

我々は農家に感謝しなくてはならない。

2018年7月17日火曜日

補助92号線の歴史と今

家から西日暮里駅に行く途中、道灌山通りの北側、西日暮里4丁目。旧日暮里渡辺町。
大通りから一本中に入ると、そこにやたらと道路建設反対の貼り紙がある。

猛暑の続く3連休最終日、歩いてみた。
2018-07-16
 駅に向かうらしい50代くらいのご婦人を呼び止め聞いてみた。

「92号線の計画はなくなったのでは?」
「いえ、都では10年以内に作りたいみたいですよ。皆反対しているのに、何で作るのか。まったく税金の無駄遣いですよ」

 植木に水をやってらした70代くらいの老婦人がいた。

「3丁目(道灌山通りの南)や谷中はなくなったみたいですが、こちらの4丁目はやるみたいです。全く何のために作るのか。幅20メートルもの道路を作ったら町内会は分断されるし、せっかくの静かな町がなくなってしまう。私らは年に1回か2回、1000円のカンパをするだけですが、先頭に立ってやっている人は陳情に行ったり貼り紙作ったり大変です」

この通りはほぼ全戸が旗を建てたり貼り紙したり、本気である。

微妙に曲がる道なりがこの道路の古さを感じさせる。
根岸から大竜寺まで正岡子規の葬列が通ったとされる。

補助92号線は、上中里・西ヶ原の古河庭園のところで本郷通りから分かれ南下、山手線を越えて田端文士村のあった高台を横断しながら下り、この西日暮里4丁目の住宅街を強引に突っ切る。

そして道灌山通りを越えたら花見寺修性院、法光寺、南泉寺、延命院を蹂躙し尾根に出る。谷中「夕焼けだんだん」や、朝倉彫塑館は図面上残るが、ぎりぎりのところを幅20~22メートルの幹線道路が通って両側に高層マンションが立ったら、消滅するだろう。

現在谷中散策の人々の歩く尾根道を広げることは、海蔵院、長安寺をつぶすことを意味する。観音寺の築地塀もなくなる。
幹線道路の新設と周辺の区画整理はセットになっているから、江戸、明治の面影を残す谷中はそっくり消滅する。

そして団子坂、三崎坂からの道(補助178号線、15m予定)に合流(合流点だけすでに不自然に広がっている)、愛玉子、岡埜栄泉、旧吉田屋酒店もつぶし、上野桜木で言問通りを拡張する環状3号線(幅27~35m)と交差する計画だった。
しかし、この道灌山通りから南の谷中地区部分は平成16年に見直し区間に入り、ようやく平成27年12月、廃止が決定した。私が谷根千にきて3年目のことだ。
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kiban/tokyo/pdf/minaoshi_02.pdf

当然であろう。

70年以上前、戦後間もない時期に、つまり建物疎開や大空襲で焼け野原になった状態で、戦災復興院が都市計画の図面を書いた。
おそらく地図を見るだけで好きなように線を引いたであろう。環状線はこの辺りを通そう、この道路とこの道路を補助線でつなげば便利かな、、、
こんな適当な計画が、今になって地域住民の意思や要求とは無関係に持ち出され、進められようとしていたものだ。
終戦直後の良かれと思った計画でも今から見れば野蛮極まりない。

92号線の計画は、谷根千地区ではなくなったが、道灌山通りの北では生きていた。
(私は田端部分以外全部なくなったと勘違いしていた)
生きていたどころか、西日暮里4丁目では測量の通知が突然2、3年前?各戸に配られたという。(3丁目部分が中止決定になった時期?)

役所というのは、なぜこんなに無茶な計画を押し通そうとするのだろうか?
八ッ場ダムや諫早湾干拓で見る通り、一度決まったらどんなことがあっても実行しようとする。建設業者からのわいろなどでは説明できない。災害など何かあったときに計画不履行の責任を問われることを恐れているのだろうか。
こういった路地をなくし災害に強い街にするというのが、彼等の言い分だが、幹線道路沿いに高層マンションが乱立し、人口過密となったらむしろ災害に弱くならないか。

そのまま住宅街を北に歩き、田端駅前通りに出た。
92号線はここ、赤紙不動の前まで来ている。
車がいないから、非常に広い生活道路というべきか。
2018-07-16
 遊ぶ子供もおらず、せいぜい年に一度のお祭りにしか使えないような幹線道路。
境内を削られた赤紙不動(→東覚寺)。
この道が計画通り南に延びたら谷中の寺町もこうなる運命だった。

区画整理で古い家はなくなり、駐車場になったり、グループホーム(右)、介護老人施設(左)ができた。かつての田端文士村も、いまや散歩するに値しない。

かつての滝野川第一小学校(右)は田端小学校と名前が変わっていた。

ところで、この部分だけはずっと昔から広かった。

41年前の1977年、本駒込5丁目に住んでいたころ、最寄り駅は駒込だったが(東口改札まで徒歩8分)、京浜東北線を使うときは田端駅まで歩いた(1.2㎞、14分)。大学とアパートの往復ばかりだった私にとって、今思えば貴重な街歩きだった。

1963年の航空写真(goo地図)がある。
私がいた頃より14年前だが、41年たった今より、この写真の方がずっと近い。
1963(文字は現在)

これをみれば、92号線はすでに左上の古河庭園のところで本郷通りから別れ、女子聖学院を過ぎ、山手線近くまで来ている。
山手線の南は、線路に近い方と、田端小学校の西側が広くなっているが、これら二つの区間はつながっていない。
1963 拡大図
私が歩いた1977年には、63年より少し工事が進み、山手線から南の二つの区間は細い仮道でつながっていた。
そして2010年代になり、小学校の西から田端駅前通りまで、立派な計画道路が東覚寺の境内を削って開通したわけだ。

田端から本駒込に帰るとき、この小学校の西の、不自然に広い道に出た後、角の向かいの素敵な家の横をぬけてポプラ坂を下りた。その家の表札には板谷と書いてあった。

人文科学の本をほとんど読まず、せいぜい自然科学の学業と異性にしか興味がない大学3年生にとって、それが板谷波山の窯跡、ご子孫の住居とは知る由もなかった。

10年か20年以上たって波山を知ったとき、覚えていた1977年の表札と初めてつながった。その後田端、千駄木で家を探すようになってから、しばしば田端を歩いた。2010年9月はまだ板谷家はあった気がするのだが、2011年4月は区画整理で破壊されていた(→田端)。


 今日、広くなった道路は、南の東覚寺から小学校の西側部分まで。
そこから北は狭いまま。
この辺りの拡張未完成ぶりは1977年から変わっていない。

このまま92号線を北に歩き、山手線を渡って上中里、王子へ出ても良かったが、35度の猛暑、午後は職場へ行こうと思ったので田端駅に戻った。

江戸坂

帰ってからネットを見ると
北区の共産党議員の
「住民の合意なしに進めるのは無理ではないか?見直しを都に要望するよう区長の答弁を求めます」に対し、
「補助九十二号線につきましては、区といたしましては、道路ネットワークを形成する上で重要な路線と認識しており、早期完成に向け東京都に働きかけてまいります。」【答弁 三浦まちづくり部長】
http://kyoukita.jp/situmon/2010/2010-2/10615hm.html
とあった。

どうしてこうずれているのだろう?
山手線に橋をかけないと、92号線は分断されたままになる。つまり単なる太くて短い行き止まり道路2本に過ぎず、空き地を作っただけの、壮大なる税金無駄使いとなる。
そして相当な大工事となる山手線跨線橋をあえて作るには、せめて広い道灌山通りまで通じさせ、意味のある路線にしなくてはならない。

役人たちは、今中止にしたら、これまで作ってしまった失態の責任をとらされるのがこわくて、がむしゃらに進んでいるのだろうか。


千駄木菜園 総目次

2018年7月15日日曜日

受精しなかったトウモロコシ

連日の猛暑。トウモロコシ。毛は枯れてきたが、実を触ってもスカスカ。
日当たりが悪いせいか背丈は1メートルにも満たず、大きくなる気配もないので収穫してみた。


2018-07-15
キウリと比べても小さいのは仕方がない。
しかし皮をむくと、なんと、初めてみる奇妙な姿。
黄色い実が根元の方にごくごくわずかしかない!
残りは受精しなかった模様。
隣に実がないから横に広がり、なぜか窪んでいる。
普段見るトウモロコシの粒の形は、隣の粒と押し合うことでできるものと判明。

トウモロコシは今年初めて作ってみた。
 
2018-04-20
4月に2本出ている鉢を1つ買ってきて株分けした。
教科書的には根が傷むから片方は鋏で切って、1本だけ育てるのだが、信用せずに(もったいないから)2株育てた。
 
2018-06-03
雄花出る。しかし雌花はない。
2018-06-08
驚くことに、わずか数日後、すぐに雌花が出てきて毛を伸ばしている。

この毛(絹糸)はめしべで、粒の元につながっている。つまり粒の数だけ出ている。絹糸は、トウモロコシの下の方の粒から先に伸びていくから、下の方から受精が始まり実が詰まっていくらしい。先の方に実が入らないこともあるのはこういうことか。

雄花が出たときに自分の雌花が出ないということは、トウモロコシは他家受精だろうか。
実際、自家受精もするらしいが、効率が悪いらしい。
風媒受精だけでは不安なので、一本の雄花を切り、はたきのように、2本の雌花の絹糸をそっと叩いた。
この長い絹糸を花粉が移動するのはどういうメカニズムか? 神経の軸索輸送のようなものか。

一本の茎には一つの実(雌花)だけを残し、残りは切った方がよいと言われる(芽かき)。
よく見ると雌花の下に、小さなものがもう1つ出ていた。
(普通、上の方に次の雌花が出る気がするが、反対だった。意外!)
我が家は日当たり、土に自信がないので、これは他人の言うことを信じて摘み取った。
2018-06-24
絹糸は枯れてきたが、ここからほとんど成長しなかった。

結論:トウモロコシは難しい。
それでも、作ってみて良かった。あんなできそこないでも(できそこないだからこそ?)、アメリカ先住民の遺跡で展示されていた野生種や、ディズニー映画ポカホンタスのトウモロコシ畑を思い出すこともできた。

長野にいたころ夏は毎日おやつで食べた。分家のお嫁さんキヨちゃんの実家、信州黒姫のトウモロコシは我が家のものよりずっと甘かった。私はハーモニカのように汚く食べていたが、祖母は手で一列ずつ剥いて口に入れていた。

わずかばかりの実は来年蒔いてみようか。
今度は受精しやすいよう密に何本も植えなくてはならない。

野菜つくりは、自分の目でほんのわずかなことを確かめるだけで貴重な1年が経ってしまう。この調子だと、農家のようなものができる前に、私の寿命は尽きる。
まあそれでもいい。何事も経験。知ることが重要。


2018年7月14日土曜日

御茶ノ水2 明大博物館とボランチアの人々

7/12、用事が終わってお茶の水駅周辺をうろうろしていたら10時になったので明大博物館に行ってみた。
明治大学と言えば、かつては駿河台下交差点へ降りる途中の西側に、レンガ?の薄汚れたような校舎がいくつかあったのだが、すべてきれいな高層ビルになってしまった。
その一つ、駅に一番近いところのアカデミーコモンの地階にある。
拷問の器具がある、とどこかで読んだが、行くのは初めて。
2018-07-12
朝一番だから、ボランチアの方3人以外、誰もいなかった。

入ってすぐ目にするのは1881年(明治14)以来の大学史のコーナー。
創立者の岸本、宮城、矢代だろうか。
時間がなかったので寄らず割愛。

ところで、彼らはみな、明治政府の法律顧問として来日したG.E.ボアソナードの門下生だった。明大のほかに、法政大学、関西大学の創立者たちもボアソナードの教えを受けていて、ずっと兄弟のような関係にあり、昨年9月、この3大学は連携協力協定を結んだらしい。
その記念として、ボアソナードと教え子たち、という展示があった。
しかしこれも拝見せず。

次のコーナーは江戸以来の食器、道具などが展示されていた。

明大博物館は、それまであった商品、刑事、考古の3博物館が2004年に統合されたもので、展示もその3つのコーナーに分かれている。
江戸切子などをみたあと、「刑事」のコーナーに。

ここは捕り物、拷問、裁判、処刑など。
御用だ御用だ、という提灯や各種さすまた、
十手なども。

膝の上に載せた抱き石など拷問器具の展示、そのあとは処刑

箱から首を出して鋸で切る?

左は火あぶり、右は磔、

火あぶりは、放火犯に対して行った。
磔は十字じゃなくて、横棒が2本、それぞれに手と足を縛る。斜めの棒に見えるのは槍。

写真は撮らなかったがギロチン台は予想通り。

「ニュルンベルクの鉄の処女」は、少女の顔がついた鉄の鎧のようなもので、中に罪人を入れて閉じれば、中の釘が刺さるようになっている。しかし実際はこれで処刑することはなく、むしろ恐怖をおある拷問用具か、釘のないものもあることから閉じ込めて晒し者にする恥辱刑に使われたと考える説もある。

考古コーナーは土器や遺跡の展示。

そのまま帰ろうかと思ったが、一つ気になったことをボランチアの方に聞いてみた。

首だけ出して鋸で切る道具にあった米俵は何か、ということ。

それまでおしゃべりしていた御三方は、急に姿勢を正して丁寧に説明して下さった。
「単に、板が動かないように重りだったのではないかと思います。米ではなく石が入っていたのではないか。
それから、あの目の粗い鋸では簡単に切れず、また竹製であった時期もあり、見せしめの意味合いが強かった。通行人にご自由にお切りください、と示しても、実際切る人は居なかったでしょう」

それでは火あぶりの柱にかけてある籠のような竹は何でしょう?

「これは分からないんですが、そのまわりに枯れ草などを置いても火が回りやすいように、空気の通り道ではないか?」「いや、逃げないように籠にしたのでは?」「鈴ヶ森で出たのは鉄製だったから使いまわししたのかな」「吉宗の時代の公事方御定書では・・・」
など、4人で議論になった。
一人がご自分のカバンからファイルを出すと、国会図書館デジタルライブラリーからプリントした処刑場面の絵図だった。彼はいつも持ち歩いているのだろうか。

ボランチア学芸員になりませんか?と誘われる。
皆さん明大のOBですかと聞くと、45人中、明大出身は10人くらい。この日の3人も、最も雄弁だった方だけ明大だった。真ん中の方は、病気で神田川向うに通院しているとき、たまたま見学に来て応募されたとか。会話に英単語が混じっていた。もう一人の方は女性で、われわれの話を聞いて素人っぽい質問したりして、それぞれ専門があるのかもしれない。

彼らは私より5歳くらい上だろうか。
昔の御茶ノ水や神保町の話になった。やたらとあったジローなど喫茶店やレストラン、楽器店、ヴィクトリアのスキー、皆さん私より御茶ノ水に詳しい。一人は名曲喫茶が大好きだったようだ。

当時駿河台にあった日大、中央、明治の話になる。
明大は最近中野にキャンパスを開設したが、駿河台、和泉、生田とずっと変わっていない。私も生協食堂にはいったことがある中央大学は、私が3,4年生のころ八王子に移転した(1978)。このころは東京薬科大をはじめ多くが多摩など郊外に移った。

少子化で移転した多くの大学が苦しんでいる中、明治は受験者数日本一を誇る(実受験者数。延べだと近畿大)。入試1年分で数十億円が入るそうで、ビルが一つ建つ。商学部OBの彼に、我々3人が「移転しなくてよかったですね」というと
「いや、あの頃明治は単に引っ越すお金がなかっただけだよ」と仰った。

女性の方はどこそこのブランマンジェがおいしかった、などと話された。
皆(私を含めて)爺さん、婆さんになっても青春時代の御茶ノ水の思い出はあるのだ。


2018年7月12日木曜日

御茶ノ水1 増えた薬局、ソラシティの眺め

千駄木から地下鉄で3つ目
新御茶ノ水駅のエスカレーターは長くて、右側開いているレーンを上り始めて後悔するも、登り切った。

地上はJR聖橋口。すっかり変わっている。
2018-07-12

Sola City
ソラマチというと墨田区になってしまう。

丸善は変わっていない。

画材店レモンは、昔喫茶室が併設されていた。

JRの御茶ノ水橋口に出る。
初めてこの交差点に立ったのはいつか?
1974年、高校3年夏の東京見物? 大学入学後の神保町古書店めぐり?
2年生の冬、駒場から本郷に行くときも、ここから歩いたな。

そちらの方角を見てびっくり。
東京医科歯科大、順天堂大とも、大学名を書いた立派な高層ビルがいくつも並んでいる。
かつて両方とも実験や研究打ち合わせで中に入ったこともあり、この方角は何回も見ていたはずだが、この景色は初めて見た。
病院だけは田舎も都会も立派になっていく。
2018-07-12

スクランブル交差点に目を向けてまたびっくり。

薬局ばかりなのである。

交差点の東側に
 ・日本調剤・御茶ノ水橋口薬局
 ・さくら薬局
 ・日本調剤・神田駿河台薬局
道路西側に
 ・日本調剤・御茶ノ水中央薬局
 ・マツモトキヨシ
 ・ドラッグストア・キムラヤ
医科歯科大別館や三楽病院のある西への通りには
 ・御茶ノ水駅前薬局
 ・和同会薬局
 ・日本調剤・駿河台薬局

駅から1,2分のところに9つもあるのだ。
猥雑としたドラッグストア2軒は普通としても、すっきりドアが閉まり、大勢の歩行者が全く見向きもせず通り過ぎる調剤専門薬局が駅前交差点に7つもあるというのは、おかしいだろう。
下倉楽器や黒沢楽器が辛うじて小さく残り安心するが、全くお茶の水らしくない。

薬局はそれほど儲かるのだろうか?
この変化は、薬剤師会の要望を入れた国策によるものだ。私立順天堂は院内薬局だが、国立の医科歯科大は誘導に従って薬局を外に出した。神田川北側に門前店舗は作れないから、ここに集中した。バスを下りる東大病院の患者も少しいるかもしれない。

この医薬分業で患者が便利になったとは思えない。主張するダブルチェックは院内でもできただろう。医師会が了承したのは病院側にも処方箋発行に伴う経済的メリットを与えたからで、すべては医療費に加算される。
いつもどおりの診察でも病院の会計で待たされ、薬局でも待たされる。同じ薬をもらっているのに、薬剤指導管理料も加算される。患者は手間も負担額も増えているが、問題にならない。

用事を済ませて、再び聖橋のほうに行く。

ソラシティが気になる。

その線路側、東に降りていく坂の右側に千代田予備校があった。

中学の修学旅行は記憶なく、長野から自分の意志で上京したのは高3の夏休みが初めてだった。午前に駒場を歩いたあと、御茶ノ水に来た。千代田予備校という看板が目についた。都会の人たちの間で度胸をつけてみようと思って中に入り、ちょうど昼時だったので食堂でカレーを食べた。もぐりで少し講義も聴いた気がする。

Sola Cityに入ってみた。
壁のフロアガイドを見ると16~18階に友人O氏が勤める会社がある。彼はここだったな、と思い出し、思い切って16階に上がる。
エレベーターが開くと誰もいない、余計なものも一切ないフロアの、ガラス戸の向こうから、受付の女性二人がこちらに目を向けた。逃げるわけにもいかず、高級ホテルのような絨毯を踏んで近づき、彼の名前を出すと取りついて出くれた。

「・・・はい、会議室はすべて使用中です。ブースは空いています」と受付嬢が彼と電話でやり取りしたあと、ブースに案内され、しばらくすると彼がやってきた。信州岡谷出身。
5年ぶりに共通の知人の話などした。
辞去するときに、このビルで外を見れるところがないか、と聞いてみた。
ないそうだ。

しかし、ちょうど窓際に並ぶ会議室の一つが空いたようで、そこに入れてくれた。
絶景。
湯島聖堂

東を見れば総武線がまっすぐ伸びる。
秋葉原駅の先に小さく浅草橋駅も見えるではないか。これは予想外。


北を見れば湯島聖堂の裏に神田明神の鳥居、その向こうに東大病院、その右に上野公園が見える。少し曇っているのが残念。

西に目を転ずれば、聖橋と東京医科歯科大。
真下を見ると総武線と中央線の分岐点
鉄道ファンにはたまらない景色だろう。

まじめに仕事されていた小尾紀行氏を突然訪問、邪魔してしまったが、親切に付き合ってくれた。大いに感謝しながら、エレベーターの前でまた握手して別れた。

下に降りるとニコライ堂が目に入る。


かつては来たときはもう少し芝生の部分があったような気がするのだが、記憶違いか。

聖橋に戻る。

湯島聖堂の前から丸ノ内線がでてくる。
食べかけのレモンをここから放ると快速電車の赤い色がそれとすれ違う・・・。
さだまさしの「檸檬」はこんな歌詞だった。
あのころの車両はステンレスの灰色部分がなく、車体全部に色が塗ってあった。

今ここでレモンをかじったら年配の人は半分くらい気が付くか?
若い人は変人と見るだけだろう。
大部分の人は死ぬまで一度もレモンを齧らない。

この歌は湯島聖堂から始まりスクランブル交差点で終わる。
相生坂
かつては昌平坂とも言ったらしいが、いま昌平坂は相生坂下から北へ上がる坂。

1974年の夏もこの道を歩いたが、塀の向こうが湯島聖堂とは、田舎の高校生は知らなかった。