12/30、日帰りで帰省。
前夜までの雪が上がった長野駅に8:40着。
高校に行ってみることにした。
中野の実家からは遠いので用がなければいかない。
卒業後、はっきりしているのは
1977年 剣道班夏合宿
校舎が新築されてからは
2007年8月15日 娘の宿題で信濃美術館の東山魁夷館に行った帰り。
2010年9月23日 亡父の初彼岸で帰省したとき
に行っている。
2010年は、懐かしいものを記録する目的で行ったにもかかわらず、久しぶりに使ったデジカメに画像が保存されていなかった。
さて寒い中、長野電鉄、本郷駅に降りる。
9:03
長野市内の生徒は自転車かバスなので、この駅を使うのは主に須坂、小布施、中野、山之内から通う生徒。あ、それから私立の長野女子高。
2018-12-30
このホームに立つと、左側の家にあったひまわりと、長野女子高のある生徒を思い出す。当時「8時だよ全員集合」に出ていたゴールデンハーフのエバに似て可愛らしかった。小布施から来ていたのではなかったか。その20年後、井浦秀夫先輩に再会し、思い出話をしていたら、彼の奥さんだというのでびっくり。
ベンチの色は変わったが、相変わらず竹風堂だった。
いまは小布施堂や桜井甘精堂のほうが有名だが、昔は「栗の木三本、竹風堂」のほうがおしゃれだった。
2010年、36年ぶりに来たとき衝撃を受けたのだが、駅ビルの店舗は1軒残らずなくなった。1974年当時は斬新、おしゃれな橋上駅でいろんな店が入っていた。
写真右のトイレもきれいで、須坂からきていた丸山君は、自宅、高校よりもきれいなここの個室で毎朝用を足していた。
改札方面を振り返る。
この角が書店で、化学、物理で分からないことがあるとここの参考書を立ち読みした。
マガジン、キング、サンデー、さらには創刊(1969ころ)されて間もない少年ジャンプ、少年チャンピオンを毎週5冊しっかり読ませていただいた。
読む時間も計算して駅に着くのだが、集中してしばしば時間を忘れる。1時間に1本もなかったから2時間近くここで立っていることになり、そのときは他の本も読んだ。
いまや、かつて賑やかだったフロアは壁で仕切られている。
貸事務所になったのだろうか。
しかし張り紙すらしていないことは空き家かもしれない。
外から駅ビルを見れば当時と同じ
本郷ステーションデパートという文字がまだある。
すぐ北にイオンがあるし、この四、五十年で電車に乗る人が激減したのだから無人ビルになっても仕方がない。
駅から出て道を渡ると美和神社。このあたり一帯の住所は三輪という。
たまに植木市をやっていた。中学時代に盆栽に凝り、高校になり興味が失せたとはいえ、何回か苗を買った。
これらのケヤキは1974年のころどうだっただろう?
「ここは神様のいるところです ここにのってあそばないでください 美和神社」
なぜ注意書きがこの場所なのだろう? 乗られるのは木でなくて祠か?
神社を横切った後、吉田のほうから来る道を渡る。
県道399号、旧北国街道だったらしいが当時は知らなかった。
この左(南)側に小さな郵便局があった。
もう切手は集めていなかったが、お年玉や小遣いなどためたお金を初めて自分で貯金した。大学受験の願書もここから出した。
住宅街を北に行き西に曲がると、右に県短(長野県立短大)が見えてくる。
当時は女子短大だったが、2004年に男女共学となり、昨年2018年に県立大学と名称変更、4年制となった。
4年制移行は、20年以上前から計画があったらしいが、少子化がわかっていたため田中康夫などは反対し凍結。しかし、短大、同窓会側が運動を継続、2009年県政で復活。村井、阿部知事時代にすすめられた。
経営苦しむ県内私大(長野大、松本大、諏訪東京理科大など)は、競合学科を新設されることで猛反発を続けたが、押し切られた。県内私大はもともと地元の自治体が中心になって設置したもので、地元密着、公立化(上田市、諏訪広域市町村)の検討も進んでいた。
写真右の3階建ては、昔はなかった。明和寮とあるが、なんとなく使われていない雰囲気。
そういえば新しい県立大は1年生は全寮制という。長野市内の子まで入寮せねばならず、寮費の負担は学生か税金かと、全寮制に批判あるも、県は強行、寮は2キロ離れた後町小学校跡地を第2キャンパスとし、新築したらしい。
県短(県立大)正門前。
かつては校舎や学生が見えないほど木が多かったが、今やすっかり切られ丸裸、新築工事の進行中。この少子化の時代、私が県民だったら怒るだろう。こういう話は、どういう力学で進むのだろう。
右には短大の森と小川があった。
左のアパートあたりは田んぼだった。
高校は7分の1まで欠席していいと聞いたので、各科目まんべんなく休むように1限目をさぼった。特に冬に集中していたたため、稲の切り株の上に積もる雪と一人急ぐ道が一緒になって記憶されている。
坂道になると、さっきの小川は左側を流れていた。
道は未舗装で狭く、車などは入れなかった。
道幅はこの4分の1くらいで、この左側あたり、ぎりぎりまで家があったような気がする。
そのうちの1軒からイチジクの枝が張り出していた。
高校が見えてきたが、当時、正面はグランドだったはずで、桜の植わる土手だった。
(新しくなった高校の見物は別ブログにかく。)
家は長野電鉄信州中野駅のすぐ裏だから、中野で乗って本郷で降り、上に書いたルートで通うのがいちばん楽だった。
しかし冬季を除けば飯山線立ヶ花まで自転車で出て、北長野駅から再び自転車というルートを使った。なぜなら私の家、中野市岩船は中学校の通学区でもっとも東の端にあり、中学の同級生が全員、飯山線で通っていたからだ。また、定期代も国鉄飯山線は電鉄の3分の1くらいだった。
そこで、帰りは本郷でなく、北長野駅に出ることにする。
SBC通りに出る通路
北長野から自転車で来る場合、SBC通りをまっすぐ西にきて、北門から入った。
当時、右側には木造倉庫のような野球部の室内練習場があり、通りまで両側には何もなかった。
北門
当時ここから高校を見れば、グラウンドの向こうの木々の間に校舎が見えた。
このままSBC通りをまっすぐ東に歩き、長野吉田高校など見てもよかったが、車の通らない南ルートを通ってみる。正門に戻る。
正門から出て東にいく。昔はこの上がグラウンド。
南側擁壁工時、東側土留工事が1984年に行われている。
当時から東側は住宅街だった。
街並みがすっかり変わり、迷いながら東へ東へ進むうちに、なんとなく見覚えある場所にぶつかったりする。
市営宇木団地を過ぎれば、当時は農家と畑が多かった。
畑はなくなり、景色も変わった。
ちょうどこのあたりで、女子中学生2人組とすれ違った。肩かけかばんに頭を入れ、きちんと斜めにかけていた。普通二人いればどちらかはかわいくないのだが、二人とも可愛らしかった。毎朝みたから今でも顔を覚えている。多分宇木団地から東部中学に通っていたのではないか? 3つくらい年下だからもう60歳近くか。
それから上の写真の右側、田んぼの向こうに祠があった。
小さい社で周りが耕地だったから年々削られたのか、ほんの小さな盛り土のようになっていたが、大きな木が生えていた。あるとき一人で行ってみて裏に回ると、藁人形が釘で打ち付けられていた。
人はみな、他人に恨みがあるものだが、実際に行動を起こした印を初めて見たのは、ここである。
県道399号を渡ると桐原駅。
となりの本郷駅と比べると小さい。跨線橋は昔あったかどうか不明。
人はみな、他人に恨みがあるものだが、実際に行動を起こした印を初めて見たのは、ここである。
吉田神社
田舎にしては立派
県道399号を渡ると桐原駅。
となりの本郷駅と比べると小さい。跨線橋は昔あったかどうか不明。
ここ。
2010年、36年ぶりに歩いたとき、全く忘れていた景色が眼前に現れた。
1972-74年当時は商店で、クラブで汗をかいたあと北長野に向かう途中、我慢できなくてファンタを買って飲んだ。当時小遣いをもらっていたが、ほとんど使わなかった私としては、極めて異例のこと。
吉田27-14田村宅
2010年当時は商店はやめていたが、建物は昔のままだった。
しかし8年後のこの日、建物は新しくなっていた。
もし2010年に一度通っていなかったら、分からなかったに違いない。
昔は池だったが、今は水がなく構造物もあり空き地のようである。
池を過ぎてお地蔵さん
お地蔵さんの場所から北長野駅はまっすぐ。
駅のほうから見ればお地蔵さんは通りの突き当りにある。
この道は昔から広かったのも不思議だが、建物が古いまま変わっていないのも不思議。
高校から2.4㎞ 32分 北長野駅。
北陸新幹線のために、駅前広場(要するに自転車置き場)がひどく狭くなっていた。
ここで自転車を盗まれたことがある。
盗まれてから毎日朝晩ここを探したが戻らず、休日に付近の高校や駅を探し、とうとう某高校で見つけた。ブレーキが壊れていて、職員室に文句に行ったら修理代を出してくれた。それが長野高校に連絡が行って、生徒たちにも伝わり、私が某高校を脅したという話に発展した。
いろいろ思い出しながら駅に入ったら電車が来たところで慌てた。
スイカは使えない。
昔のようであった駅舎内部を見る暇もなく、財布を出そうとしたが、寒さで手が凍えていて開けられない。駅員さんに乗車証明をもらって飛び乗った。
10:35。
8:43の後、2時間近くたってやっと来た電車、これを逃すと立ヶ花行きは11:34までなかった。