2021年7月31日土曜日

東洋文庫の江戸、東京古地図の企画展にいってみた

すぐ近くの東洋文庫ミュージアムで企画展「江戸から東京へ -地図にみる都市の歴史」が開かれている。

三菱商事の株主優待券があったので、7月28日、暑中出かけた。



2年前の2019年3月、ロビーだけ覗いたが、ミュージアムに入るのは2015年以来、6年ぶり。

2019-03-09 ロビー
背中側(不忍通り側)の池は「ムセイオンの泉」、
正面から左側に広がるショップは「マルコ・ポーロ」、
入場券を出して入った空間は「オリエントホール」
庭は「シーボルト・ガルテン」
庭を越えてレストラン「オリエント・カフェ」
そこに行く道は「知恵の小径」と丁寧に名付けられている。

似たものを区別するときは名前が必要だが、これらの場合は名前はあってもなくても良い。
逆に名前だけだと何だか分からない。

その「マルコ・ポーロ」(ミュージアムショップ)は3回目だが、見ていて飽きない。
企画展の図録や書籍だけでなく、浮世絵や古地図など所蔵品をデザインしたポスターや便せんなど素敵な商品がいっぱい。
待ち合わせの人が遅れたほうが、じっくり楽しめる。

2021‐07‐28
オリエントホールにある江戸図(北の部分)
6年前もここにあった気がする。

東大本郷キャンパスのところは松平加賀守、水戸中将殿とかいてある。
不忍池の弁天島がない。谷中をみると三浦志摩守、玉林寺、瑞輪寺はあるが、天王寺のところが感応寺とあるから江戸の初期である。そのわりには幕末の江戸切絵図よりずっと正確で素晴らしい地図だ。

根津神社のところが甲府中納言殿とかいてある。
甲府徳川家の徳川綱重(家光の三男)の江戸根津屋敷である。ここで綱重の長男・綱豊が生まれると近くの千駄木の根津権現が産土神となった。5代綱吉は子がなかったので綱豊を養子とした。
綱豊が将軍世嗣(のちに改名して6代家宣)に定まると、綱吉は、1706年根津権現社を千駄木村から、綱重の屋敷跡に遷座した。

頭に焼き付くほど見ている尾張屋版江戸切絵図は幕末なので、それと比較しているといつまでも飽きない。

さて、二階の企画展にいく。
階段途中から北を見る。ムセイオンの泉、ショップ方面。

階段を上がるとモリソン文庫
平日の午前中、ほとんど人がいないのでソファに座って本の壁を見あげて休憩。

東洋文庫は、三菱の3代総帥岩崎久弥が、1917年に中華民国の総統府顧問をしていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する、中国に関する欧文文献のコレクション(2万4千点、モリソン文庫)を購入したことに始まる。その後、久弥は和書・漢籍をはじめとする東洋諸言語の文献を集め、日本を含めた東洋全域を網羅するコレクションを構築した。
所蔵総数は約95万点、5件の国宝と、7件の重要文化財を含む。

モリソン文庫を抜けると展示室。「岩崎文庫」というらしい。
御成敗式目、続日本紀、吾妻鑑などの文書、古地図が展示されていた。
江戸だけでなく、ヨーロッパ人の残したアジア図、日本地図も何点か見えた。北海道がmatsumaeと書かれ大陸とつながり、東インド諸島が詳しく朝鮮半島が細いのは彼らの情報量を示す。

江戸時代初期は、城内(西の丸、吹上)に御三家の屋敷があったことが分かる。

展示室をぬけると暗い廊下。「回顧の路」と名付けられている。
床に奈落の底が開いている。
前回じっくり見て大丈夫とわかっていても足を置くのが怖い。
「クレバス・エフェクト(特許取得品)実際の深さは10㎝です」
とある。

クレバスは氷河などにある深い割れ目のことだろう。
たぶん、下に鏡があり、上(床)がマジックミラーになっているのではなかろうか? すなわち鏡を2枚平行にたてると無限に反射し、鏡の中に鏡がある繰り返しがずっと奥まで続く。
それなら「ミラー・エフェクト(鏡効果)」というべきではないか? クレバスエフェクト(割れ目の影響、効果)といえば、深い切れ目を見ると必要以上に足がすくむような、心理効果を連想させる。

前回来たときはこのあたりに解体新書があった気がする。
次の部屋はメインの展示室で「ディスカバリールーム」という。
江戸の古地図がいっぱい展示されている。
古地図は、見る人に知識があればあるほど多くのことを教えてくれる。

よくきく新撰東京名所図会(1896-1908)の実物を始めてみた。
もちろん国会図書館にはあるが、家で自由に閲覧できる「インターネット公開」にはなっていない。明治の東京が見える貴重な書籍である。

 新板大江戸絵図(寛文五枚図のうち北の部分)
1670‐1673(寛文10‐13)刊
明暦大火後、幕府の命令で、絵師・遠近道印(おちこちどういん、1628ー?)が中心になって作られた。
幕府公認で出版、版も重ねられた。縮尺は1分(3mm)が5間、すなわち3250分の1。
驚くべき正確さ、当時の測量はどうだったのだろう?
しかし、太平の世は正確さより利便性娯楽性を優先し、名所は大きく、また1枚に収めるため道は曲げて周辺は縮め、大いに普及したのが江戸切絵図である。

その後、正確な測量図は幕末の伊能忠敬まで待たねばならなかった。
教科書にも載って中学生でも知っている伊能と比べ、遠近道印の無名さはどうだろう?
いかにも地図製作者としてのペンネームという感じで、本名も諸説ある。

先に見た1階オリエントホールの大型地図(江戸全図)は、年代、正確さは同じだから、これが元になったものだろう。そちらと比較すると、こちらは団子坂、無縁坂が階段になっていて、不忍池に弁天島がある。

今ブログを書いていて、全部の地図を撮って来ればよかったと後悔している。
まだ会期中。
しかし900円払ってまた行くほどでもないかな、と迷う。
今行けば、間違いなくもっと細部まで見てくるだろう。

ちなみに展示されていた資料は

De mythologie der Grieken
pompeii
コーラン経
日本書紀
تاریخ زمین لرزههای ایران / نوشته - ن. ن. امبرسز و چ. پ. ملویل ؛ ترجمه - ابوالحسن زده
كشف الصلصلة عن وصف الزلزلة‮ / لجلال الدين السيوطي ؛ تحقيق عبد اللطيف السعداني ؛ قدم له محمد الفاسي
異国叢書
日本西教史
朝鮮王朝實録一千九百七十九卷(太祖至哲宗)坿総索引
Inventario. Secção 13-Manuscriptos. Collecção Pombalina
Candide, ou l'optimisme. Edition critique par Christopher Thacker
Baalbek : image and monument, 1898-1998
The Beagle record
San Francisco relief survey
Seismology. 2. ed
Notes de s(é)ismologie. [No. 1]: Le tremblement de terre du Kan-sou (Chine), 16 décembre 1920.
東京帝國大學附屬図書館復興報告
Report on the commercial, industrial and financial situation in Japan and her dependencies in 1923
Das Erdbeben in Japan am 7. März 1927
1999大地动 : 921集集大地震纪录摄影集
Aquarelle : [Chromofacsimilirt von R. Steinbock nach der Aquarelle aus der Sammlung "die Reise um die Erde"]
蘭亭序
千字文
死者の書
御成敗式目
永楽大典
訓民正音
L'Asie divisée en ses principales regions ...
A new history of Ethiopia. Being a full and accurate description of the Kingdom of Abessinia ...
Vida del P. Francisco Xavier de la Compania de Iesvs ...
Nieuwe kaart van Tartarie ...
Voyages a Peking, Manille et l'île de France ...
山陽詩抄
琉球行列図
川路聖謨とロシア使節の対話
特命全権大使米欧回覧実記
続日本記(巻二二~四〇)
大江戸図説集覧初輯
吾妻鏡
義経記
長禄江戸図(第一帙)
太田道灌雄飛録
聞見集
慶長年中江戸図、慶長年中江戸図考(第一帙)
画本東都遊 上
江戸名所図会(第一帙)
武州豊嶋郡江戸庄図(第一帙)
新添江戸之図(第二帙)
新板武州江戸之図(第二帙)
むさしあぶみ 絵入
墨水兩岸一覽圖
江戸名所記 繪入
江戸雀
江戸鹿子
四季遊観 江戸名物図絵
江戸図鑑項目及び江戸図
繪本江戸土産 及續
絵本江戸土産
江戸大絵図 寛文一一年刊(第二秩)
江戸図正方鑑
江戸方角安見圖
明和板江戸図
江戸火災之眞寫
江戸名所之絵(江戸一覧図)
商売往来 絵入
江戸循覧記
江戸買物独楽案内
江戸歳時記 及附録
徳隣嚴祕録 及因獄祕圖(文化一一)
震華監要
瓦版
府郷御江戸絵図(第25帙)
概觀維新史及索引
New map of Tokyo. With 1300 references
New Century Map of Tokyo
東京区分町鑑
A handbook for travellers in central and northern Japan
二十万分一帝国図
The reconstruction of Tokyo
風俗畫報(新撰東京名所図会)
東京案内
江戸切絵図(本郷、小石川、駒込、など)

あまりいっぱいあって撮る気が起きなかったのである。

シーボルトガルテンの向こうにあるオリエントカフェは入らなかった。


別ブログ


2021年7月28日水曜日

なぜトウモロコシは雄花だけ先に咲くか?

子どものころ長野ではモロコシと言っていたな。省略語だろうか?

そもそもモロコシは唐土。
今のトウモロコシは新大陸からヨーロッパ、大陸(カラ、唐)経由で16世紀に入ったとされる。その時、モロコシ(タカキビ、高粱コウリャン?)に似ていたから名付けられたと思われるが、これも大陸から来たということは忘れていたのだろう。

我が家のトウモロコシは昨年ハクビシンにやられ、出来の悪い株、2,3本しか残らず、少し味見して翌年用の種を残しただけだった。

今年は春、そのときの種をまいたが、発芽率悪かった。

4回にわたって合計56粒まいて、35芽出て、そのうち育った苗が25本。

25本を27センチ間隔で3列に植えたが、その後の育ち方はまちまち。

2021‐06‐10
支柱をたてる代わりに、ファンシーケースの骨組みをかぶせた。
外側の不織布が破れ、鉄骨が不燃ごみになるところを再利用している。

同じような種をまいたのに、これだけ大きさが違う。
発芽してからの成長速度も違った。
ヒトは2000グラムから4000グラムまで、生まれた時はバラバラでも最終的には同じような大きさまで育っていく。
しかし植物は苗の時の大きさが最後まで影響するようだ。
いい種を選ぶという大切さ。
とくに市販の種でない場合は注意せねばならない。
2021‐06‐19
雄花が出てくる。まだ雌花は影も形もない。
なぜ同時に出てこないのだろう。

自家受粉しないように、ほかの株と交配することが目的だろう。

自家受粉は同じ体細胞からできた精子と卵子が結合する。体細胞染色体の片方に傷があった場合、子は健全、片方傷、両方傷が1:2:1となる。4分の1はその遺伝子が働かないということだ。

他家受粉の場合、となりの株は同じ房が土に落ちて発芽したものだから同じ親から出たきょうだいによる受粉となる。傷がホモ(上の計算で両方傷)になった株は育たず除外できるとすれば、周辺に育ったきょうだいの3分の1は健全、残り3分の2は片方傷となる。
きょうだい受精の組み合わせと確率は
 健全・健全が1/3・1/3、
 健全・片傷が1/3・2/3と2/3・/1/3、
 片傷・片傷が2/3・2/3
しかし片傷の個体同士が受精したなかで両方傷が生まれる確率は4/9のなかの1/4で、1/9となる。

傷が重なる確率、自家受粉の4分の1ときょうだい受粉の9分の1の差が、他の環境の圧力の差と比べ大きいかどうか?
環境と比べあまり大した圧力でないため、自家受粉の植物が多いのだろう。
自家受粉と他家受粉をきめた植物の特徴はなんであったか、知りたいものだ。

2021‐06‐26
雄花は雄蕊(おしべ)の先がちょこんと外に出ている。
稲の花に似ているが、イネはその中にめしべがあり、開花前に同じ花で受粉する。

遺伝子の傷が重ならないように進化したとすれば、
無性生殖から有性になったあと、
  同じ花: イネ
  別の花: ウリ科など雄花、雌花がべつ
  別の個体(きょうだい): トウモロコシ、猫?
  別の個体(他人): 好み、タブーが入ってきたヒトなど
と進化したのだろう。

2021‐06‐27
コガネムシが雌花のひげ(絹糸、長い雌しべの花柱)を食べていた。
写真では切れて散らばったひげが見える。

トウモロコシはイネ科トウモロコシ属。
モロコシ属、サトウキビ属とも違う。

祖先はイネのように同じ花で受粉していて、そのうち穂がいくつもある個体ができ、違う穂で受粉するようになってから、雄と雌の穂に分化(キウリ)、そのあと他家受粉するよう(出穂の)時間差ができたのだろう。

2021-07-22
雌花は複数出ても最初の1つだけを大きく育てるために、他は取り除く。
この株は同じ股から2つ出て、小さい雌花が4つも出た。
2021-07-22
取り除いた雌花はベビーコーンとしてゆでて食べた。

触ってみて硬いものの皮をはいで実があったので収穫。
2021‐07‐26
上二つは25本のうち、最も優秀なもの。
下二つは下部に通じるひげのみ受粉に成功、根元のみ実になっている。しかしこの不完全トウモロコシでさえマシなほう。他の株は莢が膨れてさえいない。

25本も植えて知人に差し上げることもできないとは。
今まで4回作ってきてトウモロコシは難しい。
2021‐07‐26
さっそく食べてみたら甘かった。
珍しくスーパーで買うものより旨い。ナス、キウリ、白菜、キャベツなど市販品に負ける千駄木菜園としては例外といってよい。
しかし2本だけとは。

2019年に長野と与野ビバホームから1鉢ずつ買った苗の子孫だが、品種は不明。
いい種をとって、来年こそは、おいしい、といろんな人に言わせたい。




2021年7月24日土曜日

桶川市・坂田図書館と加納の本木雅弘、島田さん


桶川市の国道17号に坂田という大きな交差点がある。
1981年埼玉に住んで以来、長野の実家に帰るとき必ず通った。
高速道路ができてからここに来ることはなかったが、2011年4月、何十年ぶりかで通った。父の4歳下、昌親叔父が長野から出てきて鷲宮の兄の家から多摩の弟の家に向かう車に、道案内として同乗したのである。

まだ圏央道は桶川西までしか来ておらず、久喜のほうから田舎道をきて坂田交差点で17号を渡るとき、彼は突然昔話を始めた。

叔父は中学を卒業して中野の自転車屋に就職、間もなく独立、自分の名前の一字を入れた親輪舎という小さな店を開いた。
長野から深夜、小さなスクーターに乗って単身上京、日中、東京中の店を回り、中古の軽トラックを買って、さらに買い集めた中古バイクを荷台にのせ、深夜長野に帰ったという。中野では飛ぶように売れて一回来ると相当儲かったらしい。しかし体力的にはきつそうだ。道中、舗装されていない箇所もあったのではなかったか?
昭和30年代、1960年代のころの話である。

坂田交差点は、若かった叔父が早朝と夜中に通過したところで、よほど記憶に残っていたらしい。
2011年彼は肺癌であったが抗がん剤治療はしないで普通の生活を続けていた。周囲もすっかり癌を忘れるほどであったがこの2年後、2013年9月、79歳で他界した。

昔話を聞いた10年後の7月17日、その桶川市坂田にやってきた。
2021-07-17   8:26
坂田コミュニティセンターで子ども大学の世話。
上尾市、伊奈町、桶川市、聖学院大学、日本薬科大学の5者でやる小学生高学年向けのプログラム。2014年から毎年実行委員長と副委員長を交互にやっている。

私が関わった最初の2014年も自治体企画は桶川市の当番だった。
すぐ近くの紅花ふるさと館に集合した。ちょうど圏央道の工事中で、子供たちと一緒に国道17号をくぐるトンネル工事現場を覗いたり、坂田加納のインターチェンジ予定地で盛り土されたスロープの上を歩いたりした。

その時とても可愛らしい小学生がいて私になついた。賢くて、スタッフという名札を見てSTAP細胞という言葉が出てくるほど。名前を忘れてしてしまったが、卒業証書を渡すときの写真が残っている。伊奈町小針小学校だった。もう7年経つから大学1年生か。

坂田コミニティセンターは坂田図書館と一体化していて、合わせた複合施設は「スマイルピアザ坂田」という。さらに同一敷地にスーパーかすみ、スギドラッグ、キャンドゥとモールを形成し、それらは「フレスポ桶川」という。
フレスポの図書館と言えばいいから、スマイルピアザという名称はなくてもいい気がする。

この日の子ども大学テーマは、本と図書館について、桶川市立図書館の館長さんたち3人が講義された。
桶川の図書館は1975年に巡回を開始した移動図書館車「むぎぶえ号」が始まりというから、ながらく図書館はなかった。その後、分室が各地にでき、
1985年、駅西口の分室が待望の桶川市立図書館として開館。
1987年、駅東口に移転し、残った古いほうは(桶川マインの)駅西口図書館となった。
1992年、市の西部には川田谷分室ができる。
2年前の2019年、桶川市立図書館を桶川図書館と改称、同時に西口図書館を中央図書館、川田谷分室を川田谷図書館と名前を変えた。
そして図書館のなかった東部地区に4つ目として坂田図書館がオープンした。

坂田図書館の一番の特徴は、スーパーマーケットと一体化していること。
隣というレベルでなく、フロアが完全につながっているから買い物かごを持ったまま行き来でき(さすがに書棚までは行かないだろうが)、匂いも音もやってくる。

近年、駅に直結する区役所出張所や図書館が現れ良い試みだと思っていた。しかし駅から遠い図書館は依然として単独だった。このように毎日の買い物帰りに図書館に寄れるというのは、これまた便利である。

この広い敷地は工場があったらしく、桶川区役所新築の候補地だった。しかし縄文遺跡が発見され建設が遅れるうちに、やはり区役所は駅の近くが便利ということで西口の旧庁舎の敷地に建て替えたと聞く。その結果こちらはスマイルピアザ坂田とフレスポ桶川となった。

図書館に「おけがわ なかなか」というポスターが2枚貼ってあった。
シブがき隊・本木雅弘をつかった観光PRポスターのようだ。

彼はこの近くの加納小学校、加納中学から浦和学院にすすんだ。
桶川市東部の農村地帯、加納、坂田地区の子供は加納小学校(桶川市坂田883、旧坂田尋常小)、加納中学に行く。
農家として14代続くもっくんの実家もこの近くかもしれない。
関東の農家は信州と違い屋敷森もあるから一軒の敷地が大きい。彼の家も大きいだろう。

島田桂子さんの家も確か桶川市加納だった。
1998年田辺で部下二人の主任研究員として独立してすぐ、Perez-ReyezがラットのT型Caチャネルをクローニングしたと発表した。それまで森泰生さんたちは沼研時代から他のCaチャネルの部分配列をプローブにT型Caチャネルを吊り上げようとしていたが、Naチャネルなどが釣れてしまっていた。私もT型Caチャネルは電気生理学での現象であり、実体は既知のCaチャネルでサブユニットの組み合わせによりT型になるのではないかと考えていたころだった。そんなときT型が新しいチャネル実体として取られた。

Perez-ReyezはラットのTチャネルをとったので、こちらはヒト脳のライブラリーからTチャネル(のちにα1Gと命名される) を取ろうとした。研究所のフレックスタイム制をフルに使い、中心となる須藤直樹研究員は夜遅くまで働き、早朝から働く島田さんにメモを残して帰宅する。須藤さんが出社するころは次のステップの準備ができているという具合だ。私は真ん中の時間帯で今までのテーマ、脳型Caチャネル阻害薬のスクリーニングを引き受けた。この3人で世界で(たぶん)初めてヒトα1Gを単離、安定発現細胞株も取ったのはいい思い出である。

選択的阻害薬にも世界で(たぶん)初めて到達したが、企業内研究であるため発表できなかった。適応症がなかなか見つからず、そのうちメガファーマのGSKが興味を持ったころ私がプロジェクトからはずされ、いつのまにか闇に葬られた。

島田さんはこれらの実験をしながら私の馬鹿話をよく聞いてくれていたのだが、その後一緒に仕事することはなかった。元気でいるだろうか?

子ども大学が終わって外に出た。
フレスポ桶川駐車場の向かいに大きな学校のようなものがあった。
しろがね幼稚園とある。
我が家の上2人が出た伊奈町(すぐ近く)のしろがね小室幼稚園の系列だと思ったら、別法人だった。両者とも山上憶良の
「しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」
からとったという。
こんなに人気のある名前なら全国にしろがね幼稚園はいくつあるのだろう?
港区の白金幼稚園は地名からだろうが。

新井利次さんに桶川駅まで送ってもらう。
東口というのは中山道側だから桶川の表玄関だったはずだが、駅前広場もない。
桶川駅東口 2021-07-17 12:39 

桶川と上尾はともに高崎線の大宮寄りにある隣同士。
あまり差はないと思っていたが、来てみればだいぶ違う。

    面積km^2    人口  市政施行 駅開業
桶川   25.35   7万4千   1970   1885
上尾   45.51  22万7千    1958     1883

隣り合う中山道の宿場町だったのにどこで差がついたか?

上尾は昭和40年代から
 西上尾第一団地(3202戸、1968)
 第二団地(2984戸、1970)、
 原市団地(1582戸、1966)、
 尾山台団地(1760戸、1967)とマンモス団地の町。
私も新婚時代を含む6年間、尾山台に住んだ。団地で人口が増えたかと思ったが、上尾の市制施行は団地以前、桶川より12年早く、もっと前から差があったことを示す。少しでも大宮に近かったことがこの差になったのだろうか。

もっくんが生まれた1965年はまだ北足立郡桶川町のころである。
島田さんは1963年だったかな。知り合いだったりして。


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千駄木菜園 (総合)目次

2021年7月22日木曜日

朝の根津神社を通って不忍池まで歩く

妻は健康のためといって毎日歩いている。

週3日のパートは根津神社近くまで歩いて通い、それ以外の日は違う方角に向かう。

しかしやがて歩くのが飽きたらしい。そりゃそうだろう、用もないのに歩くなんて私には考えられない。そのうち彼女は文京区のパン屋さん巡りという目標を見つけ、昼飯前の散歩が日常になった。

しかし梅雨の終わりごろから暑くなり、中断していた。

それが久しぶりに歩くという。

朝暑くなる前に、蓮の花を見に不忍池まで行くというので、私もついていくことにした。

 6:25
どうせなら音が鳴るという開花の瞬間をみたかったが、目覚まし鳴ったのが6時。
しかも彼女は支度に時間がかかり、私は庭で野菜を見ながら待つ。

2021-07-19 6:27
千駄木小学校の前の廃業文房具屋さんは一般住宅になった。
この時間、犬を連れた散歩とジョギングの人だけ。

宮本百合子旧居跡の門柱を過ぎ、高風荘。
ここは明治天皇の女官だった千種孝の隠居所だったところで、宮本百合子日記には葬儀の様子がある、と妻に教えるもあまり興味なさそう。

6:30
左の角の伊東邸は数年前まで大きな日本家屋だった。伊豆を本貫、日向の大名であった伊東氏の通り字「佑」が表札にある。10年近く気になっているがご挨拶する機会もない。
右は旧安田楠雄邸。

この保健所通りは、通りに面しただけでも我が家の前から吉丸一昌、山崎朝雲、高村光太郎、宮本(中條)百合子、松平子爵、安田邸、須藤邸、島薗邸、岡本銀行頭取邸などが並んでいた。しかし子孫が住まわれているのは須藤邸だけで、建物として残っているのも安田、島薗邸だけ、マンションになったり細分化されたりして景色が変わってしまった。

6:33 団子坂の朝日
不忍通りは暑くてうるさそうなので、坂を下りずに薮下道をいく。

6:34 観潮楼となりの早川邸跡。
マンションが完成して初めての夏。植え込みも伸びたが、樹木と塀で建物が見えなかった頃に比べるとすっかり景色が変わってしまった。

6:36 汐見坂
朝倉響子邸あともマンションに。
鴎外、荷風が登りながら眺めた石垣は消滅した。

ツタの家(右)の北は一時不動産市場に出たが、日本医大が買ったようだ。
元々住宅地だが、周辺に広めの土地が出れば必ず日医のサテライトオフィスになっていく。

6:38
日本医大裏の解剖坂
すっかり景色も変わった。
ここ北東の角は解剖室、霊安室があったのだが、坂名の由来も分からなくなった。

東大、医科歯科大、順天堂大、大学病院はどこも拡大していく。
公的医療費のひっ迫から在宅医療が奨励されるが、その流れは見えない。
むしろ町の小さな医院は目立たなくなっていく。
6:39
根津神社裏門坂の途中、西門から覗くとラジオ体操の最後、深呼吸をしていた。
それにしても、なぜ本殿周りの柵の外、こんな隅っこの通路でやっているのか?

と思いながら境内を進んだら分かった。
本殿前の広いところは人でいっぱい。あれは、あふれた人たちだったのである。

体操終わってもおしゃべりタイム、
根津、千駄木、弥生、谷中、いろんなところから集まり、毎朝来れば顔見知りができ、さらに紹介されて、街の情報を交換しながら人の輪が広がっていくのだろうか? 
輪に入れずずっと一人の人もいるだろう。たぶん私。いや私はここには来ないだろう。

お隣の伊藤先生の奥さんもいらしているはずだが、と、探すも分からず。

ラジオ体操って誰かがラジカセ持ってくるのだろうか?
でも遠くの人は聞こえないだろう。中心の人の動きを見て合わせるのかな? でも建物の陰になっている人もいる。それは隣の人に合わせることがウェーブのようにリレーされてくるのかもしれない。末端の人は中心で何が起きているか分からない。
かといって自分たちのためだけにラジカセを別に持っていくのは御法度であろう。

端のほうで他人に合わせて手足を動かすだけならわざわざここまで来ることもないとも思うが、往復歩くということも大事なのだ。

6:41
それにしても白装束のような服が多い。
似合っても似合わなくても衣装は大事だ。
ジョギングなども普通の格好で走ったら何事かと周りの目を引いてしまう。
電話のないころは医者に走る人はいただろうが、今はトイレに行きたいのかな、と思う。
たまに電車に遅れそうになると駅に走るが、あまりかっこいいものじゃない。今はそういう体力もないし、急ぐ必要もなくなった。

根津というのは小さな家がびっしりあった街だが、古い家も少なくなった。

6:43 
根津教会 1919年(大正8年)築。 
2018年10月20日、根津千駄木祭りで入った。
祭壇が角にあり信者席が弧を描いている。

裏道を通って言問い通りに出た。
不忍通りは歩きたくなかったので、弥生坂の途中、信号のないところを横断、東大浅野キャンパスの裏道に入る。
6:47 
大学構内であるが住民も通るのだろう。

スロープだけ残った建物跡

6:49 東大職員住宅跡。
2017年ころ、すでに大部分廃墟であったが、まだ居残っている人が少しいらした。
しかし今は完全に無人で柵に囲まれている。

6:52 ここで初めて不忍通りに出る。
右はルネッサンスタワー上野池之端
2005年築、もとは松坂屋配送センター跡地というが、記憶にない。

向かいは上野動物園(西園)。
西園は不忍池の北池を含むから鳥類や両生類が主かと思っていたが、キリンなどもいるようだ。
最後に入ったのはいつだろう? 
あれ?子供のころの長野からきた東京見物のときだけか?
「私は子ども3人とも一人で連れてきました」
と妻が怒ったように言った。

6:55 不忍池到着
家から29分。あまり爽快さはない。
さてハスは咲いているかな?

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2021年7月19日月曜日

上野公園11 ハスはいつ咲くか?

早起きして蓮を見に行く。
起きたら6時過ぎ。
この時間ではポンと音がするという開花の瞬間には間に合わない。
しかし蓮の花見は早朝と決まっているので、今から行くのも良い時間。
6:55 不忍池着
家から南に歩いて29分。
2.3キロメートル、年齢のせいか遠く感じた。
6:58 ボート乗り場
40年ぶりに漕いでみたかったが、10時から18時まで。
1時間700円か。
6:58
咲いてはいるが少ない。
この辺りは少ないのかな?
先週11日はネットで「来週までもたない」という人と「まだまだこれから」という人がいた。
しかし見ごろは例年7月中旬~8月中旬頃という。どういうことか?

7:00
1987年、東大に出向していたころ、通学路だった。
プライベートビーチじゃないが、池に向かってホームレスの人が段ボールの家を作っていた。通路とハスの間にアジサイに囲まれた風流な小庵が2軒ほどあった。

7:01
一番花が多いところでこの程度。
写真では分からないが、花が散った後の、ハチの巣というか、じょうろのような構造物(実が詰まった花托)が見える。しかし一方で、これから咲こうとする蕾もある。桜のように一斉に咲いて一斉に散るものではないらしい。
よく考えれば、キウリやナスの花も7月上旬~8月中旬に次々と咲いている。

調べると、蓮の花は日の出と共にゆっくりと時間をかけて咲き始め、
8〜9時頃に満開を迎え、またゆっくりと時間をかけてしぼみ、午後にはすべて蕾へ戻るらしい。これを3、4日繰り返しそのまま力尽き、最後は散る。

咲くときにポンと音がするという話があるが、ゆっくり花弁が開くなら物理的に音が出るわけがない。もっともこれだけ花が少なければ、鳴っても聞こえるチャンスはない。
7:05
南の野外ステージ近くに水の湧き出る水盤があった。
その周りのハスのないところに鯉が群がっていた。
新しい水が好きなのかな? それとも
ハスのジャングルより青空が見える明るい場所が好きなのかな?
単に誰かが餌付けしたというだけかもしれないけど。

水盤の中にはメダカのような小さな魚がいっぱいいた。
鯉に食べられないように逃げてきたのかな?
見ていたら大きな鯉も一匹紛れ込んでいた。
大雨で水位が上がったとき入り、出られなくなったみたい。
すなわちこの鯉はメダカを食べないようだ。
7:07
蓮池の中に遊歩道ができている。
何年前だったか初めて見た時は、こんな税金の無駄使いをして、と思ったが、公園というものが来る人を楽しませるためにあるなら、この桟橋はアリかなとも思う。
7:08
とんでもなく大きなレンズのカメラを持った素人っぽい老人がいた。
花をアップすればきれいだが、スマホでの全体写真はこの程度。

もともと蓮の群落における花は、桜、つつじ、芝桜などと違って、この程度の密度なのではないか? よく見る写真は花を実際以上に目立つように写しているのではないか?と思った。
しかし不忍池でもネットを見ると、もう少し花が多い遠景もあり、ピークはまだ先なのかもしれない。

7:10
このハスはいつからあるのだろう? 
自然にハスだけの池になるわけがない。
沼自体は縄文時代からあっただろうが、人工的に植えたのは寛永寺造営後、弁天島を作った後だろうとされる。紅と白の二種類あったという記録があるらしい。

国土地理院地図 1945‐1950
太平洋戦争では水田になり、戦後、再びハスを植えたようだ。

google 2021
今蓮池はハスがびっしり。
今回行かなかったが、東北の、自然に木が生えて小さな島になったところは、色が変わっている。

7:11
蓮池の東側の通路兼広場
池の西南の広場ではラジオ体操をしていたが、こちらは柔軟体操だった。
けっこう間隔があいているのはコロナというより、参加者がそれほど親しくない集まりなのかもしれない。動きもバラバラだったし。

どこかで朝食を、と思って上野駅に行こうとオークラ劇場の横を通る。
アダルト動画がネット上に氾濫している昨今、ピンク映画は需要があるのだろうか? ステージ上での実演みたいなものに変わったのだろうか? などと思いつつ、妻と一緒のためポスターなどに視線を向けることもできず通過してしまった。

上野駅構内のアトレはドトールとスタバしか開いていなかった。
駅を出て3153の1階、ロッテリアに入る。
メニューを見ても注文が面倒で、ふと横を見るとセットメニューのベーカリーがある。
フォルサムとあるがWholesomeならホールサムだろう。
7:30
調理パン1つとドリンクで400円ほど。
通勤の人、行き来する電車を見ながらジュースを飲む。
2013年、転職した年、大阪から上京した岩田弘氏とここで朝食を食べたが、同じ店だろうか? あのときパンの種類はずっと多かったが。

7:53
新しくなった上野駅公園口
すでに気温は30度以上。(たぶん)。
もちろん妻は歩いて帰る元気がなく、
7:59発の台東区コミニティバス、東西めぐりんに乗る。
東西めぐりんは最近、鶯谷駅~千駄木日本医大ルートができ、そちらはもっと早くからあるが、上野駅を通るのはこれが始発。
8:00 国立博物館前を通過中

8:15 谷中銀座近くのよみせ通りで下車。
不忍通りをわたり、狸坂、保健所通りは登校中の小学生がいっぱい。
千駄木小学校まえの横断歩道では子供たちにつられ、旗を持った人に挨拶した。