2019年9月16日月曜日

延命院事件と七面坂

夕焼け段々をのぼり、諏訪台通りとの角にある延命院。
1979~1981は谷中のアパートから最寄り駅に行くとき、
2013年からは散歩がてら日暮里駅を使うとき、
何十回、何百回と前を通っていたが、入るのは初めて。

2019-09-16
今まで入りづらかったが、最近は門前でバザー?をやっていたり観光客が入っていく。
敷居が低くなった。
江戸末期の江戸名所図会にもあったというシイ。樹齢600年という。
樹高16メートル、幹回り5.5メートルだったが、2002年に南側の大枝が崩落、今や残った北側も鉄のつっかえ棒で支えられている。
シイといえば、食べられるどんぐりと聞き、スダジイの実を生でかじったことがある。
地面に落ちたもので病原微生物がいたらいやだから飲み込まなかったが。
日本に自生するシイ属には、実が細長いスダジイと、丸いツブラジイの2つある。
これはどちらだろう?

本来、別当寺というのは神社を管理するための寺(住職、すなわち別当は宮司より上)であるが、この説明では七面大明神は神ではなく仏とされている。最初は神であっても神仏習合時代で本尊になってしまったのだろう。
七面社は各地にあり、たいてい日蓮宗寺院で祀られている。
細長い諏訪台の上で空が広いせいか、普通の寺と雰囲気が違う。
新規区画分譲中という墓地はこの裏か。

延命院と言えば、延命院貝塚。
もともと上野台地、本郷台地は海、川にせり出した岬のようなものだから、新坂、領玄寺、天王寺、道灌山、弥生町、千駄木、動坂、と縄文・弥生遺跡の宝庫。
延命院も明治21年、斜面の土でも売っていたのか、貝塚が発見されたが、場所が分からなくなっていた。ところが1987年、夕焼けだんだんの下(奥)でビル工事をしていたら(パン屋のチロルだろうか)、手つかずの1メートル20センチの貝層が出てきた。土嚢袋に1600袋という。当時谷根千地区は再開発の真っ最中で、台東区、文京区側の工事現場では多くが破壊されたらしいが、ここ荒川区は工事をストップし、調査したという(谷根千14号)。

なお、この寺は崖下の六阿弥陀道まで敷地があり、七面坂で長明寺、坂下で宗林寺と接していた。つまり富士見ホテルはじめ夕焼けだんだんはすっぽり延命院の敷地内である。
そうそう、延命院でもっと有名なのは日潤事件。
家斉の時代、この寺に元歌舞伎役者という美男の僧侶、日潤がいた。参拝にきた女性たちと関係を持ち、その後、大奥、大名屋敷の女中など多数の女性が訪ねるようになり、他の僧も参加し淫行が繰り返された。日潤は死罪。

この石碑は明治時代に建てられた。
うえの説明文では幕府大奥の権力闘争によって捏造された事件というが、その証拠は知らない。

延命院を出て夕焼け段々を下りずに南の七面坂を下りる。

昔の人は寺名をいわずに拝む対象で呼ぶ。
延命院ではなく七面様とでも呼んでいたのだろう。

アルバイトに行くときなど電車に乗るときは、ここから駅に向かった。
キャンディーズの最後から二枚目、「わな」を聞くと、夜のこの坂を思い出す。発売日を調べたら1977年12月、本駒込から谷中に引っ越したばかりのころだが、それから2,3年、口ずさんで坂を上り下りしていたのだろう。

2019-09-16
昔はもっと狭く、急に広がった。
2012-10-15 七面坂
アパートと墓を削ったようだ。

彫刻家、挿絵画家の戸張孤雁(1882-1927)も七面坂下に居を構えた。
親友荻原碌山の死後、中原悌二郎と太平洋画会研究所彫塑部にはいる。
3人ともこの谷中日暮里で暮らし、結核で早世した。

この日は雨。
坂下のかき氷屋、ひみつ堂は行列もなくすいていた。

関連ブログ

0 件のコメント:

コメントを投稿