2018年11月16日金曜日

中村屋、中村不折、中村つね

新宿中村屋が好きだ。
月餅がうまい。
包装紙もいい。
しかし、いちばんは創業者が信州出身だからだ。

信州と言っても、私が生まれ育った北信(善光寺平、中野、飯山など)ではなく、松本、諏訪などの中南信が好きだ。
今でも松本では鈴木メドード、齋藤記念音楽祭など文化活動が盛んだし、明治のころは若者が安曇野や諏訪盆地、伊那谷から上京し勉強した。
あるものは作家、ジャーナリストになり、あるものは岩波書店、みすず書房、筑摩書房、など硬派の書店を起こし、同郷のものを呼び寄せた。
(みすず学苑は違うと思う・・)

ところで新宿中村屋って、中村さんが始めたパン屋さんと思っていない?
創業者は相馬愛蔵(1870 -1954)
安曇野に生まれ松本中学(現松本深志)を中退、東京専門学校(早稲田)卒業、札幌農学校で養蚕学を修めて帰郷した。

1898、愛蔵は、仙台出身の星(ほし)良(りょう)(1876-1955)と結婚。
良は巣鴨にあった明治女学校で北村透谷、島崎藤村らの講義を受け文学に傾倒、のちペンネームだった黒光(こっこう)を号とする。明治女学校時代は千駄木林町、いまの安田邸あたりに住んでいたらしい。

相馬夫妻は安曇野に住むも、黒光が健康を害し、というより田舎が合わなかったのであろう、夫妻で上京。
1901、東大正門前にあったパン販売店中村屋を居抜きで従業員ごと買い取る。
クリームパン、クリームワッフルを開発。
名前を相馬屋なり信濃屋なり変えればいいものを中村屋のまま繁盛したため、そのままにした。
1909、本郷と比べたら、はるかに田舎だった新宿の現在地に移る。

いまも中央線沿線は中南信出身者が多く住むところで、どんどん西に発展しつつあった東京をみて愛蔵も親しみある新宿に移転したのであろう。
(ちなみに山手線は1885、甲武鉄道が1889、甲府まで開通が1903、松本までが1906)、

相馬夫妻は絵画、文学の人が集まるサロンをつくり、荻原碌山、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、中原悌二郎らを支援した。

ここに挙げたものは皆、谷中千駄木に縁がある。
相馬夫妻は上京して団子坂上の借家にすんだ。二人とも学校を出ていたから、文化に理解があったのだろう。すぐ近くの画塾、不同舎の連中にデッサンを消すパンを持って行ってあげたらしい。

で、ふと、新宿中村屋のカレーを食べたくなった。

渋谷、池袋は結構行くが、新宿はあまり用がない。
90年代はまあ行ったが、この10年は1,2回しか行ってないとおもう。
2018-11-14

30年位前までは紀伊国屋書店にはよく来たのだが。

あった、中村屋。
中村屋が好きだといいながら、実は今まで入ったことは、記憶では1度しかない。
1995年ごろカレーを食べたのは2階だった気がするのだが、今回、地下2階になっていた。
エレベーターで降りると、ホールに椅子がコの字型に並んでいて、みんな座っている。
しかしどんどん進み、10分も待たなかった。
20年ほど前、ある洋食レストランに入った時も思ったのだが、ウィークデーの昼、新宿の老舗には、年配の夫婦が多い気がする。荻窪とか三鷹あたりから、男性が定年後、二人でデパートに来たついでのような、品の良いカップルをよく見る。
中央線は良い住宅地と良い古書店がある。
文化が高い気がする。
ウェイターも気持ちいい。
さすが中村屋である。

カレー、1500円
相馬夫妻はインドから亡命してきた独立運動家のラース・ビハーリー・ボースらをかくまい、保護した。1918年に長女 俊子がボースと結婚、このカレーは彼に教わったレシピというが。

荻原碌山守衛は安曇野で愛蔵の後輩。
1908年、欧州から帰国して角筈にアトリエをつくり、すぐそばの中村屋に出入りする。黒光に恋するが30才で死去。

碌山と言えば、美術館。
私の中学は2年生で北アルプス燕岳に登る。
有明荘に午後ついて早い夕食後に眠り、夜中に出発。朝日を見る行程だが、1970年、私の年は途中で雨が降った。登り切って燕山荘の軒先に入らせてもらいガタガタ震えながら、宿で作ってもらったおにぎりを食べた。海苔なし。中身は1つは昆布の佃煮、1つは梅干し、沢庵が2切れ。経木に包まれ、冷たく少し硬くなっていた。
軒下は薪が摘んでありスペースはほとんどない。冷たい雨に濡れながら、中が少し見えた。このとき都会の中学生だろうか、暖かい燕山荘に泊まっている学校があった。金持ちだなぁ、と思った。

なお、終戦後に千駄木に弘田竜太郎指導の「つばめ合唱団」あった。そこの世話人赤沼さんは燕山荘の息子さんと結婚していたから合唱団の名前にしたのだろう。「燕山荘東京事務所」の表札をお化け段々の上にかけていたらしい(谷根千19号)。

で、燕岳から下山してからバスで帰るのだが、途中、穂高町の碌山美術館に寄った。
私にとって初めての美術館であったが、退屈だった。
普通の中学生はそんなものだ。
ただし碌山の名前だけは覚え、中村屋の和菓子詰め合わせの箱をあけるたびに、月餅の隣の列にクルミの入った同名菓子「碌山」をみつめた。

さて、
看板や包装紙の「中村屋」という文字は中村不折。
不折は信州高遠に育ち、代用教員を3年して上京、千駄木団子坂の画塾、不同舎で絵を学ぶ。不同舎の後輩、碌山の紹介で相馬夫妻と知り合い、看板を書く。(彼は子規庵の向かい、書道博物館を作ったほどで書家としても有名)

中村彝(つね)は、水戸出身、碌山の友人。夫妻の厚意で中村屋の裏のアトリエに住んで援助を受ける。
相馬夫妻の長女俊子に恋をするが反対された。37で死去。

碌山、中村、戸張、中原、みんな谷中千駄木あたりに住み、碌山の友人として中村屋に出入りし、みな30代で夭逝した。

食べ終わって、3階の中村屋美術館には入らず外に出る。
久しぶりに地下道も歩きたいが、通りに出た。
やっぱり新宿っていいなぁ
懐かしい。
2018-11-14
隣の高野でフルーツチョコレートを買った。
商品のわりにフロアが広く、また店員がやけに多い店であった。
しかし煎餅や団子しかない谷根千と比べて、なんとおしゃれなところだろう。
ここに普段から来る中央線沿線の老人たちは、やはり文化度が高い、と思った。


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