2019年9月21日土曜日

柳田国男の杏林舎はどうなったか?

田辺製薬図書室の閉鎖にともない、もらってきた廃棄古雑誌をみていて気が付いた。
いまもある「生体の科学」(医学書院)昭和26年12月
奥付をみると
日本医学雑誌株式会社
株式会社 学術書院
合同 (株)医学書院

本社 文京区本郷6丁目20番
分室 文京区駒込林町172番
とある

この林町172番をみてハッとした。
柳田国男が遠野物語を自費出版した杏林舎のあった場所ではないか。
1910年6月、350部がここで印刷された(印刷者今井甚太郎)
200部は柳田が買い取り知人らに寄贈、島崎藤村や田山花袋、泉鏡花が書評を書いた。芥川龍之介や南方熊楠は購入、半年ほどで印刷費用をほぼ回収できた。

柳田は播州の人だが次兄井上通泰の医院(下谷、御徒町)に下宿し、開成中学に編入、兄の紹介で早くから観潮楼に出入りし、郁文館に転校、一高、東大であったから、千駄木のこのあたりは馴染みある土地であっただろう。
御林稲荷のうら、林町173番地 2018年12月
杏林舎は172番地、撮影に立った場所の背中あたりである。

団子坂下には講談社があって、坂上には鴎外はじめ文化人も多く、林町172番のすぐ近くでは平塚雷鳥らの「青鞜」、石井柏亭らの「方寸」が創刊された。

今も続く『医学中央雑誌』は漱石「猫」の甘木先生のモデル尼子四郎が大観音通りを挟んだ千駄木50番で創刊した。昭和5年から印刷は杏林舎である。
1930年1月 

鴎外、漱石 千駄木57
鴎外観潮楼 千駄木21
尼子四郎 千駄木50のち 千駄木54
杏林舎 千駄木林町172
「青鞜」千駄木林町8番(番号は離れているが近い)物集髙見邸
「方寸」千駄木林町9番  

しかし戦時中、空襲に遭う。
1945年、付近の空襲
・1/27 13時~B29  76機、麹町、日本橋、荒川他 死者540、罹災4296
・1/28  22時~B29  1機、千駄木、谷中、本郷、浅草 死者15 罹災1916
  観潮楼、日本医大、尼子邸 焼失 根津神社被災
・3/4 194機 死者650 谷根千だけで200人
・3/10 325機 死者10万人
・4/13 高村光太郎アトリエ、千駄木小、金の星H、子規庵、田端文士村、   
・5/23-25 団子坂・光源寺

杏林舎も被災、戦後どうなったか?
医学書院の分室が杏林舎の場所と分かり、ひょっとしたら名前を変えて医学書院に吸収合併されたのではないか、と思った。

しかし医学書院の公式サイトを見ると、
1944年日本医学雑誌株式会社創立(8月18日)
1947年書籍部門として株式会社学術書院創立(10月16日)
販売会社としてメディカル・サービス・ステーションを分離独立(12月1日)
1950年上記3社が合併し株式会社医学書院と改称
とあった。
場所と施設だけ継承したのだろうか。

なお、現在、北区西ヶ原で医学関係の印刷をしている杏林舎というところがある。
1946年創立、杏林というのはよくある言葉だから関係ないかもしれないが。


関連ブログ
2018-12-20 林町3、町会と満足稲荷

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