2018年10月15日月曜日

拡大する日本医大、解剖坂、猫の家

10/14の続き
千駄木ふれあいの杜から薮下通りを少し南下すると、右手に階段。
解剖坂
ちょうど日医大の学生がいた。
彼は4年生で、解剖坂と呼ばれていることを知らなかった。
伺うと、つい2年程前まで解剖の実習室は本当にここにあったという。ホルマリンなどの悪臭があるから北東のすみなのであろう。
聞くと、霊安室がちょうど薮下通りと解剖坂の角にあったらしい。

建物は古く、全部つぶして新築するらしい。
狭い解剖坂のすぐ北は民家だが、どの程度の建物になるのだろう。
坂上を基準にされたら、坂下は地下3階くらいになるから、3階建てと届出しても6階になってしまう。これは圧迫感あるだろう。

藪下通りにかかる連絡橋は昔からあった気がする。
しかし東側はもう少し空き地があった。
1990年だったか、講演会を聞きに来たとき、花壇のある中庭のようなところを通って建物に入った気がする。当時はこちらが大学だったのだろうか。
1995年の地図
このころ、この藪下通りの下(東)側は、日医の建物があっても何となく余裕がある。通りに面したところは浜田湯とあるが、1984年ころ廃業した。郁文館の東は、猫の家も含めて大学用地になっている。

もっと昔、昭和7年になると、藪下通りの東は専修商業学校。
藪下通りの西も、民家があり病院は一角の一部を占めるに過ぎない。

ネットのGoo地図(航空写真)を見れば、昭和22年は病院本館も今の東半分だけで、坂上の西半分は民家だった。それが昭和38年には、坂の上の交差点まで病院となっている。

根津裏門坂

覚えているのは、1979年、M1のとき、坂下の、谷中真島町のアパートからこの坂を上って丸山ワクチンを取りに来た。
祖父が膵臓がんで手術も出来ず、最後の手段として丸山ワクチンの話が出たようだ。依頼状をもって行ったと思うのだが、その手続きとか、現物の様子とか全く覚えていない。私が受け取って、長野から来た弟に上野駅だか千駄木だか谷中で手渡したはずである。
当時の日医は、本館の敷地は同じだが、これほど大きくなかった。
日曜のせいか正面玄関も人はまばら。

裏門坂上の交差点

角の和菓子一炉庵は明治36年(1903)創業、近くにいた漱石も贔屓にしたとか。
何回かたべたが、美味しいものが山ほどある現在は、目立たない。

それにしても、一炉庵の周りは薬局だらけである。
これだけ小さい店が乱立していると景色として美しくないし、異様な感じを受ける。
医師が処方箋をかく点数を上げて、無理やり医薬分業にしたが、昔と違って、今は分業の意味はないのではないか。やはり薬局は病院の中にあった方が患者と町の景色にとっては良い。この中の1軒にパートに出ている妻は、そういうと機嫌が悪くなるのだが。
日医の坂上交差点側
ここは以前何だったか、民家だったか、記憶にない。
本駒込にいた1977年、毎朝向う(北)からこの道を自転車で学校へ急いだ。

2013年に引っ越してきて以来ずっと工事中のフェンスに囲まれていたが、病院本館の高層化はようやく完成したようだ。

本館だけでなく通りの西側にも日本医大はある。
今これを見たら根津神社裏門坂は日医大つつじ通りというらしい。

日本医科大学医学部
昔はここも民家だったから、多分大学部分は藪下通りの東か、他の場所だったのだろう。
この道をまっすぐ行けば団子坂からくる大観音通りにぶつかる。
大観音と駒込学院のところに出る。

丸山記念研究棟(7号館)
この前の道を東に行けば、日医大図書館の前を通って解剖坂になる。
橘桜会館(日本医大同窓会館)
今の住居表示は向丘2丁目だが、かつては千駄木57番地といった。

鴎外が池之端花園町から引っ越してきて千駄木21番地に家を建てるまで住み(1890.10~1892.1)、その後、留学帰りの漱石(1903.3~1906.12)も住んだ家である。
吾輩は猫である、坊ちゃんなどはここで執筆された。

41年前、毎日前を通っていたが、文学とか明治とかは興味がなかった。
ひょっとしたら知らなかったかもしれない。

ところで、同じ家に鴎外、漱石が住むのは奇跡のような偶然に見える。
しかし当時はまだ桑畑茶畑が残り、1軒の敷地が広いから家が少なかった。東大に近い家は限りがあるため、有名人が同じ家を借りる場合も少なくない。
解剖の初代教授、小金井良精が借りた東片町の家を、のちに長岡半太郎が借りたように。


塀の上の猫も写したと思ったのだが。


さらに北に歩くと民家、駐車場を経て、右側にまたある。
日医大健診医療センター
この前の道を東に入ると千明家の豪邸である。

散歩を続ける。
裏門坂上の交差点に戻り、少し下ると南に上がる石段。
石段右側はここも薬局。

この辺り東大農学部と同じ弥生1丁目である。
昭和40年以前は根津西須賀町と言った。農学部の東側の向丘弥生町は根津に編入されそうになった時、反対運動で弥生のまま残った。
ここは崖上ではあるが、もともと根津だったから根津になっても抵抗はなかったろうに、弥生が小さすぎるから弥生に編入されたのだろう。

その、車の入らない路地を行くと、突然、
日本医科大学国際交流会館(本館)とある。
かなり古い。
1995年の地図にも日本医大弥生寮とある(上の地図)

このあと根津神社に行ったが、鳥居脇にも日本医大がある。
日本医大・大学院
ここは昔、大八幡楼という遊郭があった。明治21年、根津の遊郭全体が州崎に移転、ここは根津神社、崖の緑に隣接していたので、明治29年に温泉旅館紫明館(磯部神泉楼という名もある)となり、36年には神泉病院になった。彫刻の戸張孤雁が肺病で入院している。そのあと浅草専売局根津工場となり敷島などのタバコを作っていた。(森まゆみ「不思議の町。根津」
近くにいた1980年のころの記憶はないが、1995年の地図には日医大病院根津寮となっている。看護師の寮であったようだ。

それにしても千駄木での拡張は無理があるように見える。
近くに宅地の売りが出ると買ってサテライトキャンパスとして建物を建てるが、せいぜい3階建て、敷地も狭い。道路ギリギリまで建てるから新しくても美しくない。

大学としては、印旛沼は遠いが、武蔵小杉を拡大したほうが良かったのではないか? あそこは、交通の便が良く、タワー林立の駅から歩いてすぐ。町中に広いグランドがあるほど敷地にゆとりがある。オシャレなキャンパスと病院になるだろう。順天堂や慈恵も都心にこだわるが、大学はやはり緑があったほうがよい。

千駄木にこれだけ投資してしまったから引き返せないと思うだろうが、決断すべきだ。
武蔵小杉は、大崎からたった8分、品川10分、横浜11分、渋谷13分なのである。(すべて乗り換えなし)。
人口、立地。千駄木よりずっと将来性がある。


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