2020年4月26日日曜日

土物店跡から本郷通りの寺、寺

コロナでテレワークとなったが、家だと集中できないから急ぎのものはやはり職場に行かないといけない。4月24,25日も出勤した。

それでも早起きになって朝はたっぷり時間があるし、通勤時間帯を避けることもあり、朝食後に自転車で探検した。
本郷通りの西側に並ぶ寺を訪ねてみる。

出発点は天栄寺。
2020-04-25 6:55
家の最寄り駅、地下鉄本駒込駅の向こう側。
家から800メートル、11分だが本郷通りが渡りにくいのであまり通らない。

ここは寺より駒込土物店(つちものだな)跡として有名。
門前に碑が並ぶ。
北から
1.江戸三大青物市場遺跡 縁起碑建設委員会 昭和38年
2.白鳥神社誌
3.史跡文化財 駒込土物店跡 天栄寺 昭和58年
4.さいかちの辻 天栄寺門前 千歳稲荷社跡
5.(案内板)駒込土物店跡 文京区教育委員会 平成14年3月

土物店跡が3つもダブっている。
一つでいいではないか。

江戸時代、神田、千住とともに三大青物市場として知られた。
始まりは元和の時代というから大坂の陣のころ。

ここは岩槻街道と白山上から動坂へいく斜めの道が交差する辻だった。付近の百姓が毎朝野菜を担いで江戸まで売りに行くとき、天栄寺の境内にあるサイカチの木の下で一休みした。すると付近の人が売ってくれと集まり、自然と市ができ、そのうち小売商相手の問屋になったとか。
駒込はナスが有名だが、もちろん他の野菜も集まる。
とくに人参、大根、ゴボウなど土物が多かったのだろう。

明治34年、街道筋に並んでいた各問屋は本郷通りの東、高林寺境内(いまの駒本小学校)に集められ、さらに道路拡張などで昭和12年、巣鴨の17号沿いに移転、豊島青果市場になった。
3つもダブっていた土物店記念碑は、境内にもあり4つだ。

店をたなと読ませる場合、棚に通じる。
昔の店舗は、箱に板を渡し物を並べただけだったのだろう。

なおもう少し北の吉祥寺の境内にはやはり門前から巣鴨に移った生花市場の記念碑がある。

天栄寺境内は日本旅館のよう。

天栄寺を出て本郷通りを北に進むと次は定泉寺。
境内は通りより下がっている。
本郷通り、旧岩槻街道は台地の西の際を走っているわけだ。
十一面観音で有名らしい。
幕末、定泉寺と天栄寺の間は駒込浅嘉町の町屋があり、むしろこの境内の奥(墓地)で龍光時と接していた。もちろん今はそちらも間に民家がある。

ここが定泉寺観音堂。葵のご紋。

本郷通りをさらに行くと少しへこんでいる。
鶏声ケ窪からの谷は東にも広がっていたのだろうか。
昔は岩槻街道も小さな川を渡ったかもしれない。

医歯薬出版
1921年創業。「医学のあゆみ」を出版している。

右の南谷寺はかつては定泉寺と接していた。
間の坂道から通勤の人が出てくる。
目赤不動にちなみ目赤坂に仮称する。

2020-04-24 南谷寺。前日撮った写真。
門前に粗大ごみで学習机が出ていた。
昔だったらもらっていくところだが、今は子どもたちが置いていった机が3つと、私が学生時代から使っていた安物とを含め5つが物置台になっている。

南谷寺は動坂の語源ともなった目赤不動で有名。以前ブログに書いた。
境内は明らかに西側斜面。

次は養昌寺。
入ると本堂前に手押しのポンプ井戸があった。
奥に墓地。

半井桃水の墓
いま本人の文章が読まれることはない。
しかし樋口一葉が師匠として憧れ恋した人として有名。
菊坂から皇居の向こう、芝の彼の家まで着物、下駄だか草履で歩いて行ったのは難儀だっただろう。彼もよく引っ越した。
菊坂から真砂町、壱岐坂、九段坂を上り麹町の向こう、平河町に越した桃水の家に行ったのは雪の日だった。
対馬の人。東京朝日新聞の記者となり、新聞小説を書いた。
一葉が24歳で早世したのに対し彼は大正15年、65歳まで生きた。

養昌寺をすぎ20番と26番の間、吉祥寺前の信号から西へ降りる。
坂下、右にしのだ歯科がある。
江戸期にはなかった坂だが養昌寺坂と仮称する。
坂下からまっすぐ西に上がれば曙町の邸宅街、坂上左に金森邸がある。

坂下を右折、暗渠道を北へ。
本駒込2丁目の18番と22番の間の細道を入る。

円通寺(左)と大運寺(右、本郷通りに面している)
の間の道を抜ける。
千石、巣鴨に行くときなど、二、三度通ったことがある。

(後ろを振り向く)左大運寺、右円通寺
この細い道は江戸時代からあったようだ。
川筋でもなく、曲がっている理由は不明。

本郷通りに出る坂は大運寺坂とする。

尾張や絵図 国会図書館

なお、江戸時代、天栄寺のサイカチの辻からここまで西に入る道(坂)はない。
寺と町家が岩槻街道を口にずっとつながり、その裏は土井家下屋敷でそちらは中山道から出入りできたから道が要らなかったのである。
この大運寺坂の道だけは、寺と古河藩屋敷の間に下駒込村の畑があったからだろうか、道があった。
坂上から
右の角がパン屋さんでいい匂いがした。

南の養昌寺との間、すなわち吉祥寺門前は駒込浅嘉町麟祥院領の町家があったが、大運寺から北はずっと寺が続く。

大運寺、教元寺、長源寺、天然寺、江岸寺と街道沿いに門が並ぶ。
天然寺
このあたり、本郷通りの東は富士神社である。

江岸寺
三河以来の徳川譜代大名、鳥居忠政が建立。墓もある。
父の元忠は関ヶ原前哨戦で伏見城を守り大軍を相手に奮戦、戦死した。
子孫の鳥居忱( まこと)は箱根八里の作詞者として知られる。
駆け足なので境内は散策せず。

江岸寺のうらは昭和の家並み。
この寺が地主だろうか。

寺も途切れると旧理化学研究所の通り。
この辺りは旗本屋敷が整然と並んでいた。

写真、アイソトープ協会正門のあたりがへこんでいるのが分かるだろうか。
暗渠の上流であろう。

実はこの日の目的は寺巡りではなく、本郷台地西の暗渠をたどること。
続きは別ブログ。


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