2020年4月14日火曜日

ジョンズホプキンス大学とイオンチャネル創薬

今から10年以上前、新薬の研究開発にある変化が起きた。
それまでそれぞれの企業で合成化学者が化合物を用意し、薬理学者が薬効をみながら新薬のタネを探していた。

しかしターゲット(酵素、受容体、チャネル)が有限であり、コンビナトリアルケミストリーで各社が40万検体もの化合物を作ってスクリーニングし始めると、各社が秘密に研究しながらも、実はターゲットも同じ、化合物も同じ、そして同じ作業をし、同じような結果に到達するという事態となった。
これは無駄である。

そこでアメリカのNIHが自身の保有する700万化合物から30万化合物を選んで、GPCRはじめ様々なターゲットにHTSを実施し、その結果をPubChemで無料公開、世界中どの会社もデータを自由に利用してよいことになった。

GPCRから少し遅れたイオンチャネルに関してはNIHのBethesda から近い Baltimore の Johns Hopkins大学にイオンチャネルスクリーニングセンターをつくった。その経過、状況が2011年3月、Biophysical Annual Meeting 米国生物物理学会で発表された。たまたまこの学会に来ていた私は衝撃を受けた。

1994年ころから森泰生先生のバックアップでイオンチャネル創薬をライフワークとしてきた。なぜなら酵素阻害薬やGPCR拮抗薬などのスクリーニングは90年代からロボット化されつつあったから欧米ビッグファーマには勝てない。そこで電気生理(パッチクランプ)で1日1~数データしか取れなかったイオンチャネルに的をしぼったのである。マイクロプレートに組換え細胞をまき分光学的にランダムスクリーニングする系を作り阻害薬を探してきた。

それが、2003年に自動パッチクランプ装置が登場、メガファーマも本格的にイオンチャネル創薬に乗り出した。田辺も2003年10月、1億円近いMolecular Device社イオンワークスを導入した。世界で9台目、会社の規模を考えれば先端で頑張っていた。
しかし競争は激しく、メガファーマが本格的にイオンチャネル創薬に乗り出し、それに合わせてNanion社、Sophion社も自動パッチクランプ装置開発に参入、イオンワークスも上位機種IonWorks Quattro、2010年11月にはBarracudaをリリースした。
田辺もイオンワークスHTをQuattroにバージョンアップし、2011年1月にはソフィオンのQ-patchも導入した。

そんな中でNIHのイオンチャネル創薬プログラムを聞いたのである。
講演終了後に演者のDr Mcmanus に駆け寄り名刺交換した。

ホテルに帰ってからPubChemをみると、確かにTRPC4、TRPC6、KCNQ2、KCNQ1、KCNK9、Choline transporter、Kir2.1、Kvβmodulator (12K compounds)、RGS4について30万検体アッセイした結果が載っていた。
驚いた。もう会社で苦労してアッセイする時代ではなくなったのだ。

どうしても詳しい話が聞きたくなった。
幸いジョンズホプキンス大学はボルチモアにある。学会期間中に見学できないかとメールしたら、学会最終日の午後なら空いているという。
 
2011-03-09
帰国前日、地下鉄に乗って大学を訪ねた。

2011-03-09
Johns Hopkins大学は緩やかな丘の上にあった。
(写真は暗くなって帰るとき撮った)

1876年設立。世界屈指の医学部を有するアメリカ最難関大学の一つ。
ノーベル賞受賞者を36人輩出。

ドーム型の古い建物の正面玄関を入ると点滴をしたままの患者が歩いていた。
近代的な病棟ビルに囲まれながらも歴史的な建物がそのまま使われており、アメリカの底力を感じた。

イオンチャネルセンターは意外と木材を多く使ったビルだった。
2011-03-09
Dr Owen Mcmanus
ここに来る前は製薬会社メルクの研究者だったという。

ラボを案内してもう。
説明を聞いているとスパナを持った研究者が机の下から顔を出した。
24時間できるロボット化を進めており、装置を常に作ったり調整したりしていた。

浜松ホトニクスのFDSSを褒めていた。
分光学的に測れるターゲットはこちらのほうが生産性が高い。
自動化するため細胞インキュベータもつけた。

ソフィオン社の自動パッチクランプ装置Q-patch
握手しようとしたら慌てて手袋を脱いだのは彼女だったかな。

シンポジウムのMcmanusのスライド最後に示されたメンバーは10人中8人が中国人のような名前だった。
パッチクランプの電気生理は、かつては高度な知識技能を必要としたが、ロボット化されて以来、大学院生やテクニシャンでもできる時代になった。
イオンワークスQuattroが2台並んでいた。
片方はVooDooという名前だった。
アメリカでは実験装置も大きくなるとテレビドラマの主人公などの名前をつける。
(私もアンプや顕微鏡に浅間とか筑摩とか山や川の名前を付けていた。みな軍艦の名前と思っていたようだが。)

田辺も半年後にはBarracuda導入が決まっており、Quattro、Q-patchと3台体制になる。装置の点ではそん色ないが、ここやビッグファーマと比べるとマンパワーで見劣りした。
アッセイの終わった34万検体のプレート
高さx横x奥行きを数えると、60x11x(3or4)=2000-2660 プレート積んであった。
1プレート384ウェルだから1プレート300検体使うとして
340,000/300 = 1133 プレートあればよい。
濃度2点で測っていたのかもしれない。

モニターも大きい。
出てくるデータは大量であり、384の電流波形を一斉に確認したり、他のチャネル、ターゲットの結果と合わせて選択性を見たりする。今では何でもないことだが、10年前は新鮮だった。

昔ながらのマニュアルパッチの装置も健在。
1日に1検体も測れない。
彼らは基礎研究として Kv3 と Kv7のキメラを作り電流を測っていた。

2011-03-09
このセーターは30年くらい着ている。

17時くらいまで案内してくれたあと見送ってくれた。
帰国後の彼とのメールは会社のアカウントだったので持ち出さず消滅した。

私はこの2年後、2013年3月、田辺の研究所から転職、イオンチャネルどころか、研究自体からも完全に離れた。何十年のあいだに貯まった経験・知識は全て捨て、ただの老人となった。
それから7年、もともと変化の激しい創薬現場は今どうなっているかまったく知らない。

テレワークになってパソコンの中を整理していたら写真が出て来たので、これもPCにあった当時の出張報告書を見ながら書いた。


0 件のコメント:

コメントを投稿