2020年4月28日火曜日

鶏声台地と酒井家、土井家、暗闇坂

中山道(国道17号)が白山上を北に過ぎると下り、はま寿司・COCOS、東洋大学の前で一番低くなる。
つまり東洋大の前は川が流れていた。
上流をたどれば本郷台地の西側を旧理研のあたりまでいく。

別ブログ
20200427 理研から鶏声ケ窪までの暗渠、龍光寺

つまり東洋大学や白山神社がある高台は、本郷台地と離れている。
もちろん白山通りで小石川植物園などがある白山台地とも離れている。


名前がないので台地の東、鶏声ケ窪(傾城が窪)にちなんで鶏声台地とする。
台地は東洋大学の東で切れ目があり、そこを17号が割るように通って東西二つに分けている。

17号を挟んで東は本駒込1丁目、2丁目の旧曙町、西は東洋大、白山神社などを含む白山5丁目があるが、17号が低いので、横へ入る道は東も西も少し上り坂である。

まず東洋大前の交差点、井上円了像がある前から東に曙町へ入っていく上り坂。
2020-04-24
駒寿司とBouquetという喫茶店がある。
まっすぐ登ると金森邸の西を通って屋敷坂を下り、養昌寺の北、吉祥寺前に出る。
明治時代、坂の左側全体に土井子爵の屋敷があったから土井坂とする。

1909(明治42)
土井邸の坂に面した部分は(地図では山林)番地が違うので分譲してしまったのかもしれない。

この傾城台地には中山道(17号)の東に土井子爵邸、西に酒井伯爵邸があった。それぞれ藩の下屋敷があったところの一部だ。
なお、地図を見れば西の植物園のある白山台地は広いので亀井、川崎、徳川、土方、荘田、阪谷のお屋敷がある。

さて、17号から曙町に入る上り坂は緩やかでほとんど坂らしい坂もないが、西側はいくつも上り坂がある。北側から東洋大に戻りながら坂をのぞくと
22番と23番の間の坂。
すぐその南の坂。土田石材店があるので石屋坂とする。

26と27の間。ここを上がると暗闇坂の近くに出る。

左は東洋大。
塀の向こうに井上円了像があるので円了坂とする。

円了坂を上がり北に進むと暗闇坂の上に出る。
2020-04-24 急な暗闇坂
これは江戸時代からある。
左が下総生実藩、森川出羽守1万石抱え地、右は旗本松平中務6000石の下屋敷だった。

この辺り西側は絶壁。
傾城台地の西の縁である。
道路の西側から橋を渡って玄関に入るとそこは2階、3階になる。
樹木があれば面白い家になるのだが。

まっすぐ行くと突き当り、いったん17号に出ないと北に進めない。

17号を少し北上して再び西に入る。

ここから北(右)、江戸時代は酒井雅楽頭、姫路15万石の下屋敷があった。
広いバイパスである白山通りと17号の合流地点の北の方まで広がっていた。
明治後はこの道の右側が伯爵酒井家の屋敷となった。
明治42年の地図を見れば、土井家より大きく坂の下には大きな池もある。
そこで、ここからまっすぐ降りる坂を酒井坂とする。

酒井家、土井家の広い絵図(尾張屋版嘉永七年、1854、国会デジタル図書館)

土井大炊守は古河8万石だが、向かいの土井大隅守は三河刈谷2万3千石。
なお土井主計は五千石の旗本


酒井坂を下りずに北へ行くと角の家に負けないくらい良い家がある。

さらに北に行くと広い坂道に突き当たる。
坂の向こうはみずほ情報総研白山事業所。
90年代の地図では勧銀宝くじセンター、70年代は第一勧銀の社宅だったので勧銀坂とする。

ハナミズキの咲く広い勧銀坂
勧銀坂下、白山通りとの角は文京区役所 福祉部文京白山の郷(特養老人ホーム)

広い白山通りでなく東の崖側の細い路地を南下し坂を探す。

さっき上を通った暗闇坂の下

東洋大にぶつかり南に行けないので白山通りに出る。
東洋大学6号館
コロナで閉鎖中、入れない。

横に細い道があったので入っていくと
階段
上がると東洋大学のメインキャンパスの裏だった。
東洋大裏坂とする

石段を下りて再び白山通りに出る。
この日は粗大ごみの日なのか、南谷寺ではいい机が出ていたし、ここではツッパリ棚などが捨てられていた。アルミのパイプがまとめて置いてあり、野菜の支柱に使えそうなのでもらってきた。

京華学園のところから暗渠のような道が白山通りから左に分かれている。
京華通りという。この辺り、明治40年の地図には池があった。
がけ下に龍雲院があるが門が閉ざされている。

この通りが五辻に出る少し前、西側に懐かしくなった古書店があった。
誠文堂というがコロナで閉店という張り紙あり。

ここを南下しながら傾城台地の西の崖を見ていく。

まず白山神社の裏階段
白山裏参道坂とする。
階段の左下は龍雲院

次の路地は入ると石段

石段を上がると白山神社境内に続いていた。


再び通りに戻り、路地があると入るを繰り返す。
この道は行き止まり。崖上は白山神社。

次の路地を東に入るといい木造住宅があった。
人が住んでいるのかどうか、よくわからない。
このあたりはもう薬師坂通りに近く、白山神社の崖はない。

京華通りの終点は白山下交差点。
背中が薬師坂通り、左が圓乗寺前にいく浄心寺坂通り、
まっすぐは今の白山通りと並行した裏通り、昔の白山三業地である。
右斜め前は白山通りを突っ切って、蓮華寺坂をのぼり植物園の南に行く。
右は今出てきた京華通りである。

滑走路のように広い白山通りはなかったけれども、
この5本の通りは江戸時代からあり、白山下で辻を作っていた。
(先に示した江戸切絵図では1点で交わっていないがヒトデの形をした辻であった)

そして、もう一度最初の地形図を見れば、ここは
本郷台地、傾城台地、白山台地がつくる「Y」の字の中心に当たる。




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