2020年4月20日月曜日

小日向台に上り茗荷谷に降りる

池袋から水窪川暗渠を歩いて、小日向台地の南西端まできた。
ここから千駄木の家まで歩いて帰る。

水窪川暗渠が神田川に合流する手前、巻石通りとの交差点。
ここから家まで3.8キロ、50分。

巻石通り(水道通り)を東に歩く。
小日向台地の南端をなぞるように東へ流れた神田上水のあとである。
すぐ左の山側に還国寺(げんこくじ)があるが寄らない。
小日向台に上がる最初の坂がある。
大日坂
坂の下のほう東側にある天台宗妙足院の本尊が大日如来。
上がらずに東進。

すぐ左手に上品な小寺が現れた。
臨済宗円覚寺派、清光院

すぐ東となりが文京福祉総合センター
文京総合福祉センター
黒田小学校、文京区立五中の跡地。

黒田小学校は福岡藩主黒田長知が米2000石を寄付して小日向地区への小学校設立を請願したもの。卒業生には松平恒雄(旧会津藩主・松平容保の六男、秩父宮勢津子妃の父)、永井荷風、黒澤明などがいる。昭和20年空襲で焼失、廃校となった。
跡地は戦災者の集合住宅であったが、昭和22年にできた五中が昭和24年に移転してきた。しかし生徒数減少から2009年、七中と統合、音羽中学となった。

昭和7年
黒田小学校の他に服部坂の上に小日向台町小学校もある。黒田小学校の過密を減らすため1902年設立された。

福祉センターの入り口近くの地中が透明になり、神田上水の遺構がみられるようになっている。


福祉センターの東に坂がある。
服部坂
右(東)の角は文京区江戸川橋体育館。
2014年10月、文京区の健診の帰り、自転車で小日向台を下りダンス競技会を見に来たことがある。
きれいな石垣が目につく。以前はなんだったのだろう?
1995年の地図をみたら文京五中の体育館になっていた。
服部坂を挟んで校舎と体育館が並んでいたのだ。
ではその昔はなんだったのだろう。
江戸時代は小日向水道町、町屋であった。
となると石垣は明治に黒田小学校をつくるとき組んだのかもしれない。

服部坂は坂上の西側に服部権太夫という旗本の屋敷があったから。
1200石、1160坪だからかなり大きい。
左手前は文京区福祉センター。
その上の鳥居は小日向神社、もとは氷川神社だが明治になって音羽の田中八幡(別ブログ)と合祀され、この名前になった。
この神社のあたり一帯が服部氏の屋敷である。

服部坂を上がると神社の前から東にゆるく降りる坂がある。
横町坂
左は福勝寺。

小日向台地は静かな住宅地である。
本郷台地よりも小さいから崖が近い。
また頂上部も西方などと違って緩やかな起伏があるから、楽しい。
文字通り日当たりがよい高級住宅地である。

地図に新渡戸稲造旧宅跡とあるから行ってみたらマンション建設中だった。

地上4階、高さ9.9メートル。ワンルーム39戸を含む64戸である。
第一種低層住居専用地区の規制はクリアしているのであるが、ワンルームなど小日向などに作る必要があるのだろうか。先住民は不愉快だろう。

Villurage Kohinata は3階建て30戸

小日向台町小学校の角を東に曲がり豪邸を見て歩く。

薬罐坂
南に降りる坂があり、西側に生西寺、東に小日向公園がある。

再び坂上に戻り北に歩く


下り坂になり、右(東)をむくと家の切れ間から丸ノ内線の車両基地が見えた。
小日向と小石川の間に切れ込む茗荷谷である。

地下鉄が外に出てしまうほど谷が深い。

坂はキリシタン坂の中腹にぶつかる。
下を見ると丸ノ内線をくぐっている。
切支丹坂を下から見る。
坂上、右側にいくと江戸時代の切支丹屋敷があった。

ガードをくぐると庚申坂の石段。
このあたりミョウガが取れたのだろう。


庚申坂は坂下に庚申塔があったからという。

のぼると小石川台地の尾根を走る春日通。後楽園方面を望む。
写真右が庚申坂との角にある茗台中学。

昭和35年文京区立第十二中学校として設立されたが、昭和30年代にできた中学は11番の文林中と同様すぐに現校名となった。大通りはマンションが大きいので中学も五中のように廃校になることはない。


別ブログ
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