かつてコマ劇場やミラノ座などで囲まれたシネシティ広場については別ブログで書いた。
2020-09-13
アパホテルの裏に回ると旧東急ミラノの工事現場が良く見える。
2020-09-13
48階の新ビルは2022年完成予定。
この通りを花道通りという。
この通りを境に南は歌舞伎町1丁目、北は歌舞伎町2丁目となり、雰囲気はガラッと変わる。
通りの北側に病院がある。大久保病院
場所と名前は駅の古看板にある性病科、肛門科を思わせるが、1879年避病院として創立、1881年東京府立になり、2004年から東京都保健医療公社に運営を移管、304床の地域拠点病院である。
新しい病院のビルには都の施設(健康プラザ)も同居する。
要するに明治12年以来の先端病院はそのままで、戦後、周囲が大歓楽街に変貌してしまったのである。
1923年の関東大震災以降には少しずつ住宅も建ち始め、新宿駅も中央線沿線の発展に伴いにぎやかになっていく。
第五高女、市立大久保病院、淀橋五小などがみえる。
それが、1945年の空襲で一気に灰燼に帰した。
戦後すぐ、角筈北町会の町会長だった鈴木喜兵衛が、借地権の入り組んでいたこの地域をまとめ、大劇場2、映画館4、お子様劇場1、演芸場1、大総合娯楽館1、大ソーシャルダンスホール1、その他ホテル、公衆浴場を配する大規模復興計画を立てた。
当初の計画では、同じく戦災で焼失した銀座の歌舞伎座を誘致しようとしたことから、1948年東京都の石川栄耀都市計画課長が一帯、すなわち角筈1丁目の北半分とその北に隣接する東大久保3丁目の一部を合わせ、歌舞伎町と名付けたらしい。
新宿アシベ会館
大久保病院の前から花道通りを東に歩く。
南が映画館などのある1丁目。
北が2丁目。
アシベ会館の角で北を見れば少し上り坂、両側にラブホテルが並ぶ。
ゲームセンター、映画館、風俗店の並ぶ喧噪の1丁目と対照的に、こちら歌舞伎町2丁目はカップルが密かに歩く。
男と女が交わる同じ欲望でも動と静。
2020-09-13
アシベ会館の1階は風俗店の無料紹介所になっていた。
蟹川という川が東に流れ、戸山公園箱根山の西から早稲田大学の東を通って神田川に流れ込んでいた。
左すなわち北へ入る道を覗くたびに、ホテルの看板が両側に見える。
歌舞伎町2丁目全体に広がっていて新大久保までそういう雰囲気が続く。
全国一のホテル街ではなかろうか?
この世は男と女しかいないということが実感される。
1丁目で雰囲気を盛り上げ、こちらに流れてくるパターンが多いのだろうか。
片方がここを根拠地とするプロということもあるだろう。
一丁目側のビルの入り口をみるとホストクラブの多さに驚く。
東宝ビル(旧コマ劇場)の東隣のビルである。
コロナ感染者のクラスターで新宿が話題になったのもむべなるかな。
2020-09-13
店内ならともかく、路上に顔写真を出すというのは昔はなかった。
男女平等の時代になったと感じる。
もちろんホステスも顔写真で宣伝している。
花道通りは広い分、おおきな看板が目立つ。
気が付くと風林会館。
80年代に「オレたちひょうきん族」が出たとき、武田信玄の戦陣で風林火山の幟が並ぶ中に1本、風林会館と書いてある幟がある。目立たないから視聴者は気づかないのだが、100人に一人が気付くのがいい笑いだと評されていた。
90年代終わり、この風林会館には大きな海鮮料理店があった気がしたのだが記憶違いか。
2020-09-13
都電の跡、四季の道の出口にもホストクラブの看板
花道通りはどこまで歩いても、北側はホテル街。
鶯谷や渋谷円山町、池袋北口などは狭い路地に密集するが、こちらは区画整理されたところに整然と並んでいる。戦前はいい住宅地だったのだろう。
疎開先、出征先から戻ると焼け野原、極端な住宅不足となり、上野、鶯谷や新宿などターミナル駅周辺の焼け跡地には旅館が立ち並んだのだろう。それが歓楽街に来た人の受け皿ともなり、今や建て替えられておしゃれなホテルが多くなっている。
1988年竣工、美術館のような日清食品東京本社ビル
安藤百福発明記念館(カップヌードルミュージアム)は横浜。
花道通りが明治通りに出て、ようやく住所も、欲望の街並みも、ともに歌舞伎町が終わった。
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