2020年12月13日日曜日

根津不忍通りの赤札堂、40年前

 テレワークの昼飯で外に出た。

いつもは行かない千駄木駅の南のほうに行ってみる。
2018年4月息子が彼女を再び連れてきて初めて食事したイタリアン・露地は閉店、
カフェギャラリーになったらしい。

今はどんな食べ物屋があるのだろう、と飲食店の看板を見ながら根津神社裏門坂下を過ぎて根津に入る。
2020-11-30 12:57
根津小学校入り口の信号、根津ふれあい館の手前に洋品店が見えた。建て替えられているが、1980年就職試験の前にネクタイを買ったところだろうか。履歴書写真を撮った写真店も並びにあった気がする。
こちら側には小さな寿司屋だったか、持ち帰り用の吹き寄せ(ちらし寿司)を売っている店があった。多分400円くらいだっただろう。一度買ったことがある。真ん中に唯一の魚介、エビがのっていた。すっかり歩道が広がり当時の店店は跡形もない。

振り返って向こうの信号は根津神社入り口。
40年前二階建ての並んでいた不忍通りは、80年代終わりの地上げバブルですっかり様相が変わった。今や切れ目なくマンションが林立し、人通りが増えた。狭い歩道は自転車も通るから広げなくてはならない。

立入禁止のネットフェンスの内側に「用地取得完了まであと1割・ラストスパート」という当局の看板があった。

40年前の3年間、毎日のように通っていたわけだが、どんな店があったか、今やすっかり思い出せない。

2020-11-30
言問い通りとの交差点、赤札堂は昔のままま。
当時は最も近代的な3階建てであったが、最も古い建物になってしまった。
上の写真左の北東の角、1977年にはあった吉野家は数年前に移転した。

(参考:2013-05-19)吉野家があったころ

この日は東天紅で食事した(別ブログ)。
食後はまっすぐ、不忍通りを根津の交差点まで戻って来た。

2020-11-30 赤札堂
一等地の老朽ビルが壊されるのは時間の問題なので、角の入り口から入ってみた。
1階レジを出たところ。
ほとんど大学生協で食べていたが、朝や休日などたまに自炊もしていた。

二階に上がる階段。
そばの北東の出入り口から出たから一番懐かしい場所。

階段の裏のためL字型になっている。

当時よく買ったのは牛乳、食パン、卵、納豆かな。

昔と比べ総菜が増えている。
この傾向は千駄木のサミットもおなじ。

運営母体は、株式会社アブアブ赤札堂
1917年(大正6)創立
現在、赤札堂10店(都内10、比較的東部の下町に展開)、アブアブ5店(東京2、千葉2、栃木1)
本部は上野広小路のABAB上野店8階。


月曜は77円セールの特売日のようだ。
スーパーがほとんどない谷根千地区で安くて貴重な存在という。
2階に行ってみる。

手すりはペンキが剥げていて古い。
40年前、2階は衣料品のフロアだった。
78年1月から81年3月まで3年3か月、着るものはここで済ませた。
1280円くらいの半袖柄シャツを買った覚えがある。合コンにも着て行った。

いま2階はすべて食料品。
パン、米、飲料、乾物、菓子、嗜好品、冷凍品など。

昔はこんなに品物が大量になかった。

言問い通り側の壁は1階と3階に窓がある。
40年前、3階は暮らしのフロアで、バケツや包丁など水回り商品、カーテンやすだれなんかも並んでいた。
しかし今はシャンプーなど日曜消耗品やタオル、二階から追い出された衣服。


今はみんなおしゃれだから下着くらいしか買わないのだろう。

赤札堂から出ると向かいの吉野家跡地は空き地のままだった。
交差点の歩行者溜まりとして道路の一部になったのかな?

西北の角、京樽は古いが40年前にあったかどうか・・・

不忍通りの裏道を北に入る。
左は鶏唐揚げなどを売る総菜屋、右は八百屋だった気がする。
こういう個人商店がなくなったため、赤札堂は食品売り場を二階まで拡大し、また総菜を増やしたのだろう。
左は2013年に来たときはステーキの鉄平があった気がする。


宮の湯は銭湯として1952年開業、2008年廃業した。
今年2020年6月にアートスペース「芸術銭湯+Cafe 宮の湯」としてオープンしたが、10月に閉店したらしい。
一度も入ったことはないから思い出もない。

この通りを北に行くと観音通りとの角に赤津湯があったらしい。
今の根津ふれあい館の場所で、廃業後駐車場になったらしいが(谷根千1987)、40年前はどちらも記憶にない。

私が千駄木の向こう、本駒込から谷中に移ってきたのが1978年1月。
アパートのあった谷中2丁目5番地というのは、谷中、根津、千駄木の3つが境を接する地番。まさに谷根千の中心だったが、通学、行動範囲はほぼ100%根津だったから、このあたり一番記憶が濃い。
古い民家が更地になっていた。

2020-11-30

(比較写真 2018)
左(手前)から2軒目が壊されていることがわかる。

帰宅後、森まゆみさんらの「谷中根津千駄木」12号(1987夏)を開いた。
副題「不忍通りが大変だァー」

1981年3月にこの地を去ってしばらくして土地バブルが起こった。
最初は私が住み始めた1977年文京区が千駄木坂下町に0.7ヘクタールの再開発計画を立てた。それは立ち消えになったが、1983年ごろ、ある人が280万円で売った土地が、土地ころがしで350万、450万と跳ね上がり、85年には山梨ナンバーのK社長が動き始める。

20坪6000万で出て「あの辺も高くなったな」と思ったら同じ家が図面で見ると1億3000万になっていたという。大通り沿いは坪1500万にもなった。
このあたりは借地が多く、地主、家主、店子と権利が複雑な物件も多かった。
(それだけに開発が遅れ懐かしい風景が残ったのだが。)

業者は先に不在地主から底地を買い、そのあとから借家人の追い出しにかかった。893まがいの人がうろつき、出ていかなければ長屋でも芝居の書き割りのように、羊羹のように切って、切り口にビニールをかけ、嫌がらせで追い出しにかかったという。
「あなたところは1000万高く買うから他の人には黙っていてください」
売って出ていく者、残る者、住民の間にも不信感が生まれ、ぎくしゃくした80年代だったらしい。
金儲けへの欲望がすべてを動かした。
行政側は不燃化、高層化といって業者側に立ったけれども、わいろはなかっただろうか? 少なくとも業者は渡したかっただろう。受け取ったかどうかは知らないが、行政は業者側に立った。

かつては二階建ての商店が並んでいた不忍通りは、日照権の関係から西側からマンションが建ったが、今や両側に並ぶ。
この騒動で店を閉め、根津を去った人も多く、マンションが建ち並んで住民はすっかり入れ替わってしまっただろう。

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