2021年7月3日土曜日

白山通りを歩く。共立講堂から小学館と岩波書店

6月30日、ワクチン2回目接種で大手町に来た。
無事終わり、地下鉄で帰るのも味気ないので神田方面に歩きだした。
一ツ橋北詰から白山通りを北へ。
すぐ通りの西側に如水会館がある。
2021‐06‐30 16:32
如水会館
如水会については1回目ワクチンの帰りに日本橋川を歩いたとき書いた。
入り口に何やら看板が出ている。
祝東京五輪出場 荒川龍太君(平成29年卒、如水会員)
えっ、と思ったが、ボート競技シングルスカルとあり納得。
大学から始めるスポーツなら国立大も互角に戦える。一橋はボートが強い。
平成29年で会員というのは一橋大は卒業するとほとんど会員になるのだろうか?

一橋大千代田キャンパスと道を挟み、共立講堂と共立学園(女子大、短大)本館

16:35 共立講堂
1938年築。西側の1号館(現在中学、高校校舎)と同時に設計施工された。
当時は日比谷公会堂と並ぶ大講堂、一般にも貸し出したため戦後も音楽関係の公演などテレビ、ラジオ中継でよく名前が出てきた。
一度中を見たいものだが、もう入れない。

すなわち大型興業施設の消防法が改正されたり、また各自治体や大企業による公会堂・ホールが各地に建設されたりしたことから、1976年、長年にわたる貸しホールの歴史を終え、以降は共立学園の講堂として、入学式や卒業式、授業、クラブ活動などの場として使われている。

白山通りの東側の学士会館(別ブログ)にふらりとはいったあと、通りの西側に渡った。
16:47
小学館(手前)と集英社
共立学園の北は道を挟んで小学館が並ぶ。

小学館は名前の通り1922年創業と同時に「小学五年生」「小学六年生」を創刊した。
1907年以降の学制は尋常小学校6年、高等小学校2年だったから、小学5年、6年と言えば高等科に行くか旧制中学に行くか考える学年である。この雑誌は旧制中学に進む富裕層向けのものだったのだろうか?

長野の家は、農家でとくに教育熱心ではなかったが、近隣では珍しくなぜか「小学1年生」から定期購読してくれた。ただし小学校のとき勉強できたのはこのせいではなく、近所の家でもう少し年長者向けのマンガを盛んに読んでいたせいである。

集英社は1926年、小学館が娯楽部門を分離独立させたもの。それにしては名前が「英知を集める」とは反対ではないか? 小学館は今も集英社の株式を50%持ち、出版界で一ツ橋グループを形成する。
「少年サンデー」「ビッグコミック」vs「少年ジャンプ」「ヤングジャンプ」と完全に内容も読者層がかぶり、すみわけができていない気がする。ただし「りぼん」「別冊マーガレット」は集英社で、小学館に少女漫画はない。
16:48
ここは東京商科大の校舎があったが、震災で国立に移転、1933年小学館が取得し本社とした。歩道にテーブルが出ていて、小学館も粋なことするなーと思ったら1階に入居しているカフェの席だった。

小学館と集英社の間の道を入ると岩波書店があった。
16:51 岩波書店一ツ橋ビル
出版社というのは記事に文句を言う人とか危ない人が押し掛けることもあるから、普通警備が厳しい。しかし中を覗くと守衛さんがいないようなので、入ってみた。

 案内板を見ると
岩波書店一橋ビルは、地下1階、地下2階だけが岩波書店で入り口は北側で別。
こちらは1階から15階まですべて他の会社が入っている。 
受付がなくて誰もいない理由が分かった。

岩波は神保町の交差点にも岩波ホールを持っているが、従業員200名、純利益8400万円、いっぽう小学館は710名、純利益39億円である。これがビルの大きさの違いを反映しているだろうか。

創業者岩波茂雄(1881- 1946)は信州諏訪の生まれ。一高に進学したが人生に悩み中退、東大の選科をでて1913年南神保町に古本業岩波書店を開く。漱石の知遇を得て翌年『こころ』を出版、これが当たった。(ただし資金がなく漱石の自費出版にしてもらった)。
以後、『思想』(1921年)『科学』(1931年)『文化』(1934年)などの雑誌や、「岩波文庫」(1927年)を創刊。硬派路線を進み軍国主義を批判、政府、軍部とも対立した。(戦時中の『科学』は驚くほど自由である)

戦後は朝日新聞とともにインテリ左翼の代表のように言われる。しかし岩波茂雄は美濃部達吉の天皇機関説を支持する自説を朝日新聞に投稿したが、同紙が不掲載としたため、朝日は意気地なし、と批判した。

長野にいた頃、信濃毎日新聞の文化欄に小林勇(1903- 1981)のエッセイが連載されていた。
当時の出版社は創業者が故郷から頭のよさそうな子供を丁稚奉公で採用した。例えば講談社は野間清治(1878 - 1938)が1909年千駄木で創業して故郷の桐生から若者を集めた。
小林は諏訪の南、駒ケ根の農家出身、17歳で上京し岩波書店の住み込み社員として、岩波文庫の創刊に携わった。岩波茂雄の娘婿となり、岩波の代表取締役から1962年会長、1972年退任した。1972年は私が中学3年だから退任後のエッセイを高校生で読んでいたのかな?

ふつう書籍は、委託販売、書店は売れ残ったら返品できるが、岩波だけは書店に買い取らせる。戦前からの自信だろうが、苦しい書籍業界で、相手だけでなく自分の首も絞めていないか?
16:52
帰ろうと振り向いたら久しぶりに見る公衆電話と懐かしい「図書」があった。
昔、生協書籍部や書店によく置いてあった。
6月号、7月号を帰宅後読んだが、難しい。


この数十年ネットで楽な文章、必要な情報だけを読むことに慣れていたから、特に興味のない話題、漢字の多い文章に気持ちが入らない。
若いころはこういうものばかり読んでいたのである。
古典は岩波文庫で読んだし、岩波新書なども古書店などでまとめて買ったものだった。
「教養」という言葉が似合う出版社だった。

昔から流行を追わないこういう出版社は貴重だと思う。
しかしこれでは常に売れるものを探し続ける小学館、講談社には勝てない。
もちろんそういう方面で競争する気もないだろうが、ネット社会では存続も難しくなるのではなかろうか? 一般国民の頭が岩波についていけないのである。

神保町の交差点に来ると岩波神保町ビル、岩波ホールがあった。
長く支配人を務めた高野悦子(1929 - 2013)は二代目社長岩波雄二郎の妻の妹。
岩波ホール支配人とは関係ないが、70年代、同姓同名の著者による「ニ十歳の原点」が若者によく読まれた。私は読んでいないが、友人の本棚でよく見た。岩波の本から離れてしまった現代の若者は、今出版されてもあれほど読まないだろう。

この日は世田谷での講演の前に少し歩き、ワクチン接種してここまできて疲れた。
岩波ホールのビルに地下鉄三田線の入り口がある。しかし白山駅から家まで歩きたくなくて、家の前まで行くB-ぐるに乗ろうと後楽園まで歩いた。

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