2021年7月13日火曜日

国士舘と世田谷城址、区役所付近の地形

  6月30日、恵泉女学園に用事があったので、早く家を出て周辺を歩くことにした。

地図を見たら恵泉の最寄駅、小田急線経堂駅の一つ前に豪徳寺がある。
その少し東に松陰神社があったので、さらに一つ前の梅ケ丘で降りた。

2021‐06‐30 10:41
改札を出ると学生がいっぱい歩いていく。
松陰神社の横に国士舘大学があったことを思い出し、彼らの後をついていくことにした。

世田谷区梅ケ丘はきれいな家が多い。
住宅地として優れているが、都心は遠いし(新宿、渋谷に出ないとどこにもいけない)、江戸明治の史跡がないから、文京区のほうがいいかな、などと思いながら歩いていく。
もっとも世田谷を選ばなかったのは千駄木と比べ土地勘のなかったことが大きい。

10:49
駅の南に広がる住宅地の緩い坂を上がり緩い坂を下りると、正面に国士舘大学世田谷キャンパスが現れる。

国士舘というと、憂国の士という名前からして右翼っぽい。
1917年に柴田徳次郎が立ち上げた私塾国士舘が起源。かれは吉田松陰や佐倉惣五郎らを崇拝した保守思想家。
幕末の尊王攘夷派が維新後に現実的な政治家になったように、戦後、うまくやればよかったのだが、1970年代でも右翼的な色は濃く、一部の学生による暴力沙汰がニュースになった。
1983年、学内の管理運営をめぐり柴田梵天総長兼理事長(柴田徳次郎の妾腹の長男)の一派が安高武常務理事(柴田徳次郎の三女の夫)と争い、梵天派の大学OBにより安高が大学内の理事室で刺殺されたという歴史にはびっくり。

しかし前を歩いている学生は、当たり前だが、ごく普通の大学生。
昔勝手に抱いていた学ランが似合うようなイメージは全くない。
スポーツが盛んで、柔道の斎藤仁、鈴木桂治なども出身者。
2020年大学別就職者数(大学通信オンライン調べ)で、消防士は帝京を抑え1位、警察官も日大を抑え1位。やはり屈強なイメージだが、思想ではなく、一般国民のほうを向いているのはよい。
10:51
世田谷キャンパスは、目の前の梅が丘校舎と崖の上の世田谷校舎群からなる。
ほかに多摩永山(体育学部体育学科)、町田鶴川(体育学部こどもスポーツ教育学科、21世紀アジア学部)にもキャンパスがあるが、いずれも駅からバス。
世田谷には政経学部、理工学部、法学部、文学部、経営学部がある。
国士舘の中心であり、大学本部もここ。

ふと、高校の同級生、若くして亡くなった玉木一徳が文学部の教授だったことを思い出した。2004年、信州中野の市長選は新人同士の激戦で、歯科医師青木一氏に僅差で敗れた。玉木の家は我が家の田んぼの向こう、西間という部落で、父親は私の父と友人(知り合い?)だった。青木氏の父は祖父の知り合いで私が通った歯科医であった。全員、記憶の世界だけの人々になった。
10:55
国士舘中学、高校も同じ敷地にある。
公道を挟んだ校地を陸橋でむすぶのに幅広く道路を覆ったからトンネルの上がキャンパスのようになった。地域住民も学生もともに使えて良い。

10:58
国士舘メイプルセンチュリーホールの脇を歩いていくと正面に世田谷区役所が見えた。
今どき珍しいほど古くて質素。

世田谷区はJRこそないが、京王線、小田急線、田園都市線、東横線が都心に向かい、さらに井の頭線、世田谷線、大井町線がそれらを結ぶ。
中心がどこだか分からず、区役所がここにあると初めて知った。豊島区(池袋)、北区(王子)、台東区(上野)のように、区役所の位置に納得感がない。

10:59
国士舘の体育・武道棟の東は区立若林公園。
このあと公園に隣接する松陰神社に行った。
11:02 松陰神社
ここは見所が多かったのでブログを別にした。

松陰神社から再び国士舘と区役所の交差点に戻る。
11:24
区役所はこの建物だけではなく奥にも広がっている。
前川国男設計という。
質素でいい感じと思ったら、もうじき建て替えるらしい。
まあ、人口94万、23区中最大を誇る(発足当初は人口最少の田舎だった)から立派なものを建てたいのかもしれない。ちなみに面積も1位だったが盛んに海を埋めたてている大田区に抜かれて2位になった。

区役所向かいは国士舘。ここらが正面玄関っぽい。

西へ坂を下りていく途中に寺あり。
11:26 勝国寺
世田谷城の北東に位置し、鬼門除けのために薬師如来を安置して祀ったのが起りとされる。城主吉良家の祈願寺となったが、西(写真左)と北(国士舘大、梅が丘校舎)が崖になっていて、出城の意味もあっただろう。

ここで地形を見ておく。
国土地理院HPから
中央付近の二重丸が区役所。
上の黒い線が小田急線、左上から「し」の字が世田谷線。その交点が豪徳寺駅。
「豪徳寺駅」という文字の上が梅が丘駅
2本の点線は上が北沢川、下が烏山川の暗渠、2つが合流して目黒川となる。
烏山川は豪徳寺、世田谷城址の南を回り、北上して国士舘の中央の2つの「文」、松陰神社の北側を通って東に流れていく。
代官山の西、桜並木でおしゃれな目黒川の上流はここだった。

区役所、国士舘の丘から西の谷に降りて豪徳寺の丘に上がり(別ブログ)、その南に連なる世田谷城址を訪ねた。
11:48
城主の吉良氏というのは足利一門で、家紋も同じ「丸に二つ引き」。
「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われたほどで同じく足利一門である三管領家(斯波・細川・畠山)より家格が高かった。その分、幕政への関与や守護大名として発展する面は抑制された。

三河と奥州の二系統あり、奥州吉良氏は足利幕府の奥州管領であったが衰退し、初代鎌倉公方の足利基氏に招かれ荏原郡世田谷に居館を築き土着した(武蔵吉良氏)。
空堀の遺構はあるが、豪族の居館という感じ。

戦国時代は北条氏の傘下に入るも、1590年の小田原征伐のあと世田谷城は廃された。
江戸時代は家格の高さから三河吉良氏とともに高家として遇されたが、吉良が二家はまずいということで蒔田氏を名乗った。しかし赤穂事件で吉良上野介が討ち取られ三河吉良家が断絶した後、吉良姓に復活した。

江戸時代以降、豪徳寺や畑に削られたのか、城は小さい。
頂上は狭く、これが本丸であるはずはない。
都営豪徳寺住宅(30平米、月48,000円ほど)から豪徳寺にかけての台地が城の中心であったのだろう。

11:50
城の面影はなくても、公園としては斜面があって優れている。
工場跡地のような四角平坦な空き地は、ゲートボールするくらいしか使い道がないが、木陰と坂があれば子供は鬼ごっこもできるし高校生のデート、老人が暇つぶしにベンチで休むのも良い。

城址の西隣、豪徳寺参道の前を通って東急世田谷線の踏切を渡る。
11:57 宮の坂駅
20年以上前、やはり豪徳寺を見た後ここから世田谷線で三軒茶屋に出た気がする。
駅名の宮はすぐそばの世田谷八幡のこと。
11:59 世田谷八幡
古くからあったが16世紀に吉良家が再興。
1時間ほど前に松陰神社で見た茅の輪がここにもあった。

いまの世田谷区の範囲には、江戸時代末期、42の村々があった。
1889年、市町村制施行で、荏原郡の村々は合併して世田ヶ谷村(後に町)・駒沢村(後に町)・松沢村・玉川村に、北多摩郡の村々は合併して砧村・千歳村になる。
1932年、荏原郡の町村は東京市世田谷区となり、36年には砧村・千歳村も加わった

吉良家家臣だった大場氏が彦根藩世田谷領の代官となり、その屋敷も近くにある(世田谷線を挟んで城跡の南)。だから歴史的にも世田谷区の中心は、区役所から世田谷城に至るこのあたりといってよいと思う。

何と言っても世田谷区というんだから、旧世田谷村のこのあたりが一番栄えていたのだろう。

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