2021年7月2日金曜日

洋書調所、開成所から学士会館が立つまで

 6月30日、ワクチン2回目接種で大手町に来た。無事終わり、地下鉄で帰るのも味気ないので神田方面に歩きだした。一ツ橋北詰から白山通りを北へ。

通りの西に如水会館、共立講堂が見える。

2021‐06‐30 16:33
共立講堂の向かい側に学士会館。
南の植え込みに「新島襄先生 生誕地記念の碑」
 新島は上州安中、板倉伊予守の江戸藩邸で生まれたとある。
はて、同志社創立者だからそんなに昔の人ではない。
ここは東大の前身、開成学校があり、開成学校は幕府の開成所を引き継いだもの。
そして、もちろん開成所は安中藩邸ではない。
はて?
新島襄(1843 - 189、妻は八重)
ちょっと調べてみた。
安政年間(1854‐1860)「江戸東京情報地図」朝日新聞社
学士会館の場所は確かに安中藩上屋敷である。
その南は江戸城を火事から守るためか、二番明地、三番明地、四番明地が並んでいた。

慶応元年(1865)「尾張屋版江戸切絵図」人文社
四番空地に御固米御蔵、地誌調所、開成所の文字が見える。

ペリー来航以来、蘭学のみでは対応できなくなり幕府は洋学研究の必要に迫られた。
1855年(安政2年)、天文台蛮書和解御用掛を拡充し、洋学所を開設。
1856年、洋学所を蕃書調所と改称、幕臣の子弟の洋学教育に当たった。
1862年、蕃書の名称がよくないため洋書調所に改称。それまで神田小川町、九段坂下などにあったが、護持院原と言われた火除け地に新築、移転。
1863年(文久3年)、開成所と改称。
教授科目を蘭・英・仏・独・露の語学と天文・地理・窮理・数学・物産・化学・器械・画学・活字の諸科とした。

上の絵図にある地誌調所は湯島の昌平坂学問所に置かれていたが、移転してきたのだろうか?

明治4年(1871)吉田屋文三郎「東京大江図」人文社
明治維新で大名家の江戸藩邸は新政府の役所、高官の屋敷になったが、安中藩主板倉家の屋敷はそのまま。開成所は板倉邸の南にも広がっている。
この地図は維新前後の情報が混じっており、注意が必要。

明治8年(1875)「東京一大区小区分絵図」人文社
幕府の開成所は医学書とともに新政府にひき継がれ、明治元年開成学校となった。
一つ橋通りの東に開成学校、同教師館、同体操場、同寄宿所の文字が見える。

西の外国語学校は今の東京外語大とは違う。
1873年、開成学校の語学課程と外務省外国語学所が合併したもの。

明治11年(1878)内務省地理局「実測東京全図」人文社
開成学校寄宿舎のところが東京英語学校になっている。
これは 東京外国語学校の英語科が分離して設立され、主として開成学校進学課程として位置づけられ、のちに開成学校予科と統合され、東京大学予備門(のちの旧制一高)となった。

明治20年(1887)参謀本部「五千分の一東京図」人文社
開成学校は東京大学となっている。(「大学」の文字だけ見える)

通りの西に東京外国語学校とあるが、1885年までに英・仏・独3語科は東京大学予備門、その他の語科は東京商業学校(後の東京商科大学、一橋大学)に吸収合併、僅か12年で廃止された。この跡地に東京商業学校が銀座木挽町から移転してくる。

現在の東京外語大は、1897年(明治30年)高等商業学校附属外国語学校の設立を創立とする。1897年に東京外国語学校として分離独立した。
東大が本郷に移転した後、学士会だけ残り、通りの西が高等商業、東側が外国語学校だった。

さて、最初の疑問に戻ると、新島襄が生まれたとき、幕府の開成所は影も形もなく、安中藩江戸屋敷の南は原っぱであったようだ。
16:34 東京大学発祥の地
東京開成学校が東京医学校と合併して東京大学となったのが1877年(明治10年)4月12日。
1885年までに本郷校地へ順次移転した。医学校の本郷移転は1876年、東大発足時には本郷に既にあったのだから発祥の地は本郷であっても良いはずだが、主力をなす法、文、理学部が神田にあったからここを発祥とするのだろう。
あるいは発祥は幕府の洋書調所のことをいうのだろうか? いや、そのときここは安中藩邸だった。

ちょっと道路に近い。
建てたころはこんなに道が広くなかったのだろう。

せっかくなので入ってみる。
用はないからちょっと緊張。

南側から入るのは初めてかも。

学士会は同窓会として1886年創立。当時大学すなわち「学士」を出すのは東大しかなかった。
(21世紀まで東大に同窓会がなかったのは学士会があったからかもしれない)
その後1897年の京都を皮切りに東北(1907札幌、1911仙台)と九州(1911)にも帝国大学が順次設立され、学士会は広がった。(とはいえ、地理的制約から利用者は東大関係者が多かっただろう)
1918年(大正7年)には大学令が公布(翌年施行)され、東京商科大(1920)、東工大(1923に昇格決定も震災で1929)や私立学校も大学となり、新たな大学の卒業生にも学士号が与えられることとなった。
しかし学士会はその後の北海道(1918)、京城(1924)、台北(1928)、大阪(1931)、名古屋(1939)の各帝大卒業生に限られた。
16:36
三井本館とともに、半沢直樹のロケ地にも使われた。

ここには何回か結婚披露宴にお呼ばれした。
この機会に整理しておくと
1981年3月21日(田中氏成田氏)、1983年2月26日(藤井氏)、1983年5月15日(渋谷氏)、1984年6月30日(小林松氏)、1986年2月22日(平尾氏)、1986年6月1日(國枝氏)、1986年9月28日(押田氏)
三川潮先生、遠藤實先生の退官記念パーティもここではなかったか?

16:38
静かな談話室?では本を読んでいる人、パソコンで作業している人など何人かいた。
私は学士会会員ではないのであまりうろうろできない。

16:41
絨毯がないと、さすがに1928年竣工の古さを感じさせる。
白山通りから少し引っ込んだ形の新館は1937年竣工。

16:43
いつもは神保町側のこちらの出入り口を使っていた。

学士会館を立ち去ろうとしたらボールを持つ手があった。
16:44 日本野球発祥の地
開成学校は1870年大学南校となり、1872年の学制施行にともない第一大学区第一番中学となった。さらに1873年開成学校、1874年東京開成学校と改称される。第一番中学と呼ばれていたころ、来日米国人教師のホーレス・ウィルソン(1843~1927)が授業のかたわら生徒たちに初めて野球を伝えたとされる。1873年には新校舎とともに野球場が整備されたという。

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