7月10日に田辺三菱製薬・戸田の図書室閉鎖でもらってきた本を開いてみた。
岩波の「科学」。
1931(昭和6)年創刊。
「子供の科学」(1924年創刊、誠文堂新光社)につぐ現存最古の科学雑誌。
もらった製本済の雑誌は第12巻10号(1942年10月)からあった。
あの南太平洋海戦が10月26日。
6月のミッドウェイで大敗、残った瑞鶴、翔鶴、瑞鳳がソロモン海でホーネット撃沈、エンタープライズ大破させるも、こちらも大損害。艦だけでなく、アメリカ軍以上に航空機、優秀な操縦士を多数失い、ハワイ以来の航空艦隊は壊滅した。
科学者たちは嘘の大本営発表を聞いていただろうが、そんなころの雑誌である。
11号は食糧増産が急務か、稲の研究の特集。
巻頭言は「稲と大東亜共栄圏」
編集者はそうそうたるメンバーである。
・安藤廣太郎 農学者、文化勲章
・岡田武松 藤原咲平の前、第4代中央気象台長。課長時代の1905年5月27日「天気晴朗ナルモ浪高カルベシ」の予報は連合艦隊から大本営への電文にも引用された。文化勲章。
・柴田桂太 薬学の柴田承桂の長男で植物生理学者。柴田承二先生の父。
・大河内正敏 子爵。一高から帝大工学部造兵学科を主席卒業。帝大教授、貴族院議員。理研の第3代所長
・小泉丹 寄生虫学、進化論。
・柴田雄次 桂太の弟。無機化学。
・橋田邦彦 帝大生理学教室教授。戦時中の文部大臣としてA級戦犯にされ、警察が迎えに来たとき、服毒自殺した。
・坪井誠太郎 コロボックル説・坪井正五郎の長男。母は箕作家の出。なお我らが坪井正道先生は誠太郎の長男。
・仁科芳雄 戦時中は駒込・理研のサイクロトロンで原爆の研究、戦後1946年、理研の第4代所長となる。
・主任 石原純
石原純(1881- 1947年1月)は、
本郷教会牧師石原量の長男として生まれ、郁文館、一高、東大理学部。ドイツ留学でアインシュタインのもとでも学び、相対性理論を日本に紹介した理論物理学者。帰国後1914年33歳で東北帝大教授。1919年学士院恩賜賞の秀才。
アララギ派の歌人でもあり、1921年、妻子を持ちながら美貌の歌人・原阿佐緒と恋愛事件を起こし、大学を辞職したが、1922年アインシュタイン来日では通訳を務めた。
寺田寅彦(1878 - 1935)らとともに「科学」創刊に携わり編集主任となる。
46年占領軍のジープにはねられ1年後に死亡。
当時の記事はやはり戦争から離れられない。
42年12月の巻頭言は、大東亜戦争勃発1周年に際して、と題す。
今までわが国の科学は諸外国の後を追う形であったが、世界戦乱で情報が入らなくなった以上、今後幾年は我が国で独自的に進めるほかはない、そのためには研究者同士密接に協力せよという趣旨。
一般記事も満洲、中国含め地理的に広い。
14巻11,12合併号(1944年12月1日)
東インド諸島における物理探鉱の活動。
皇国空の神兵がパレンバンに落下傘降下、戦争遂行に最重要だった油田を確保したのが1942年2月。ところが専門家が半年以上現地に行かなかった。ようやく来たら遭難?、さらに半年後に再開、ようやく敵の残した最先端の機器・資料の修復、整備をしたという。その報告。
物理的探鉱というのは
1.爆薬による人工地震の解析
2.オルウェック振り子、チッセン重力計などにより重力偏差解析
で油田を探すのである。
1944年11月と言えば、10/20-25のレイテ沖海戦で大敗、神風特攻が始まっている。太平洋の制空権を失い、蘭印に石油があっても、内地に輸送できなくなってしまった。
なお、1944年11,12月号が田辺東京研究所に入ったのは戦後の号と同時、昭和21年8月20日。頁の上辺が裁断されておらず、今回私がそっと切った(紙がぼろぼろのため)。つまり今まで田辺製薬で読んだ人がいなかった。
この号の後は、一気に終戦、15巻1号、昭和20年9月である。
すなわち1945年1月から8月号まで休刊であった。
昭和19年から、石原主任を除きそれまでの編集委員が顧問となり、編集委員が改まった。
坪井忠二は地球物理学。編集顧問となった誠太郎の弟。
緒方富雄は洪庵のひ孫。
編集後記に橋田邦彦の急逝が触れられている。
第16巻4号(1946年6月)Kwagaku no Nippongo
なんと巻頭言がローマ字である。
終戦直後、志賀直哉が日本語を辞めてフランス語にしようと主張したのは有名だ。もちろん反対意見の方が多かったから日本語が続いているわけだが、「科学」編集部に置いても似たような意見はあったようだ。
当時国字問題というのもあり、漢字は次第に捨てられていくとの認識があったらしい。
「科学」でも編集後記で執筆者に「従来の日本文で書いたとしても、できるだけ漢字を使わないでほしい」と呼び掛け、紙面をさっぱりきれいにしたいと書いている。
参照
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