2021年8月20日金曜日

被服廠跡、震災復興記念館に入ってみた

二年ぶりに長野に帰省する予定だった。
春に結婚した次女と婿さんを、コロナで結婚式に出られなかった母や弟夫婦に見せるつもりだった。しかしまたしてもコロナで直前にキャンセル。

我々も娘たちもスケジュールが空いたので食事することにした。
場所は彼女らが住む蔵前のイタリアンレストランなので、食事前に妻と両国から蔵前まで散歩することにした。

この日の両国駅と隅田川テラス(遊歩道)については別のブログで書いた。

両国駅からすぐ、安田庭園の北東に都立横網町公園がある。
ただの公園ではない。
かの陸軍被服廠跡、あるいは東京都慰霊堂、あるいは復興記念館、これらに行くとは、ここのことだ。

2021-08-14   12:14
駅に近いほうから入ると慰霊堂のうしろになる。
ここは2016年5月5日にも来た。錦糸町から歩いて回向院を回ってきたのだが、写真も取らず文章も残さなかったので、今回きちんと書いておく。

12:15
慰霊堂正面に回る途中、関東大震災でなくなった朝鮮人犠牲者の追悼碑あり。
碑文を読まなかったが、ただ地震で亡くなった朝鮮人というのでなく、殺害された人々のことが念頭にあるだろう。

殺害に関与した人は口をつぐみ、資料も多くが戦災で失われただろうし、一方で韓国の人々(と日本の左翼知識人)は、事実はいっさい関係なく反日なら嘘でもOK、何でも叫ぶからなかなか歴史的全貌は明らかにならない。

しかし、当時は差別があり、不安と情報混乱から罪のない朝鮮人の殺害があったことは間違いない。朝鮮併合のあと困窮した農民が日本に流れ込み、日本人経営者は不当に彼らを搾取した。信濃川逃亡労働者殺害事件なども起きた。義憤にかられた社会主義者らの活動が活発になるも、国家は治安維持を名分に鎮圧方向につとめた。抑圧された彼らの貧窮と不満は国民の知るところで、それがデマに真実味を持たせてしまったのだろう。

近年の韓国のふるまいや、慰安婦記事の捏造を認めても謝らない朝日新聞などの行為がなければ、日本の市民もこの碑の前で素直に反省、哀悼の意を表したのではなかろうか。

関東大震災直後の混乱で、自警団ら一般人によって虐殺された朝鮮人は、政府発表で231人、在日朝鮮同胞慰問会は6,000人としている。

慰霊堂正面に回る。
設計は伊東忠太。
だと思った。どことなく築地本願寺に似ている。
この地は大正時代まで陸軍被服廠があり、1922年それが移転した後、東京市が買収、近代式運動公園の造成を進めていた。その最中、1923年(大正12)9月1日、関東大震災が起き、周辺の住民がこの空き地に避難してきた。ところが四方から火が迫り逃げられず、3万8千人が焼け死んだ。

その霊を供養するため昭和5年、この堂が完成、関東大震災による死者5万8千人の遺骨がおさめられた。
さらに昭和20年3月10日の東京大空襲などによる死者も合祀し、ここには現在16万3千体の遺骨が納められているという。
慰霊堂建坪は377坪とある。
当初は震災記念堂といったが、戦後、東京都慰霊堂と改名した。

12:15
慰霊堂は見学できるように開いていた。
5年前に来たときは閉まっていた。今日がお盆だからかな、と思ったが毎日開いているようだ。5年前は閉館時刻を過ぎていたのだろう。

12:16
200坪の講堂のうしろに納骨堂をかねた三重塔がある。
右側にビデオ上映があり、老人が一人見ていたほか、人はほとんどいなかった。
12:17
仏教だけでなく、イスラム教、キリスト教のひともお祈りできるようになっている。
写真は空襲のものが多い。
震災の様子は絵画になっている。
12:19  絵画「旋風」
第一震(11:58)によって130か所で火災が発生、折からの風にあおられ一気に広がった。その高熱によってつむじ風が起き、この被服廠跡でも人々や家財道具が舞い上がり、隣の安田庭園などにも落下した。
被服廠のトタンの壁が残っていて猛火で赤熱しているところに、風で飛ばされた人がぶつかって貼り付き、多数焦げ死んだという。
市川まで飛ばされた人もいると何かで読んだ。
(いま吉村昭「関東大震災」を開いたが、そんな記述はない。)


横網町公園には復興記念館がある。
ここも5年前に来たときは閉まっていた。
12:22
入るのは初めて。入場無料。

昭和6年(1931)竣工
入り口でもらったパンフレットに
ゆるむ心にねぢをまけ(大正13年大震災記念日標語より)
とあった。

12:23

12:24
地震後、皇居前広場には30万人が避難してきた。
大八車などに家財道具を満載している。
当時市民はすでに火災を想定していたのだろうか?

しかしこの荷物が、足手まといになるだけでなく道をふさいて避難、消火の邪魔になり、さらに燃えることで火勢を強めた。橋の上では両側から押し寄せて立ち往生した人々の荷物に火が付き、橋が焼け落ちた。彼らは溺れ死に、橋がなくなって人々はさらに逃げ場を失った。

上野駅前を埋める避難客と家財道具
荷物を持っての避難は、すでに江戸時代から危険が指摘されていて、町奉行から禁止、犯したら罰するとの布告が出ていた。しかしその教訓はまったく生かされなかった。

12:25
死者、行方不明者は東京で70,387人、神奈川で68,660人
阪神淡路(1995)の圧死、東日本(2011)の津波と異なり、大部分が火災によるものだった。この日は能登半島付近に台風があり、関東は風速17メートルの南風、これが昼食時の火災を大きくした。

焼けた交換機やタイプライター

12:26
現在の横網町公園は6000坪だが、当時の被服廠跡は南の両国中学、第一ホテル、江戸東京博物館の一部を含む20,430坪あった。
ここに4万人ほどが集まった。一坪2人である。早くから来た家は十畳分くらいの場所を確保し、四方に家財道具を建て、そのなかに一家が座って避難していたが、あとから来た人は荷物の間に挟まって立錐の余地もない状態になった。

午後4時ころ、その状態で火に囲まれたわけである。
まず家財道具が燃え出し、逃げまどい、苦しくなって地面のほうの空気を吸おうとしゃがむと押しつぶされた。人の来ないところで爪で土を掘って顔を中に入れて息をしようとした女性は髪油に火が付き、そして人々に押しつぶされた。旋風は3回襲い、火が燃え尽きると95%、3万8千人が焼け死んでいた。

ここも人はほとんどおらず、静か。
小石川礫川公園の東京都戦没者記念館より展示ははるかに充実している。
中国語の母娘がいた。

12:27

復興小学校及び復旧図書館
本郷区、小石川区は南部の一部を除き消失を免れた。
東京市の小学校196校のうち、118校が焼失した。
震災を契機に区画整理が行われ、道路、橋が新設された。

12:30
東京市街路ノ復興
震災前の東京はほとんど砂利道だったのが、復興計画で一気に舗装道路が整備されたことが示されている。

12:31
一階で十分見たが、二階もある。
軍隊の傷病者救護
人々は火に囲まれ、空き地などに寄り添うように集まったため、そのような場所はあたかも死体集積場のようになった。浅草区田中小学校校庭・1081人、本所横川橋北詰・773人、錦糸町駅・630人、吉原遊郭内公園・490人など。

12:31
一枚一枚見ていたら気が変になるかもしれない。

大震災記念安田善次郎氏寄贈
安田善次郎の本邸は被服廠跡の西隣、いまの安田学園や同愛記念病院の場所にあった。
その南の旧本邸は庭園として東京市に寄付していた。

作者の有島生馬は有島武郎の弟。この絵は皇居前だろうか。山本権兵衛首相、後藤新平内務大臣のほか、有島生馬と親交のあった竹久夢二、島崎藤村、大杉栄なども描かれているという。
社会主義者、大杉栄は千駄木にも縁のある妻・伊藤野枝とともにこの直後、憲兵隊甘粕大尉らに殺害された。
12:34
上野公園より見たる灰燼の帝都
右下の黒い部分は不忍池と池之端岩崎邸から湯島天神の森だろうか。
火というものは外部要因がなければ燃えつくすものがなくなるまで燃える。

中央に焼け残っているのは、神田和泉町、佐久間町である。

ここは東京衛生試験所(のちの国立衛研)と三井慈善病院の耐火建築があり、道路を挟んだ北にも市村座、三ツ輪研究所のレンガ建築があった。南は神田川。水道は断水していたが秋葉原貨物基地の運河水路の水が使えるという幸運があったが、いちばんの理由は住民が逃げなかったことである。失敗したら家が燃えるだけでなく全員が焼死という賭けであった。

四方を火に囲まれ、消しても消しても押し寄せる火炎にバケツリレーで立ち向かった。
夜中にいったんは鎮火したが夜明けとともに再び火災は押し寄せる。不眠不休の住民は水をかけ、家屋を押し倒し、延焼を防ぐも疲労困憊で地べたに座り込んで立てなくなった。そこに午後になって最大級の火災が浅草方面から襲来、しかしさらに8時間もの戦いで夜中11時に完全に消し止めた。二昼夜、30時間以上の消火に消防署は全く関与せず、住民だけで守ったことは震災の奇跡と言われた。

100年近くたち、三井記念病院の南、和泉公園にそれを記念した「防火守護の地」という記念碑がある。以前見た時は写真も撮らなかったが、今この絵を見て、改めて特別な碑として思い出された。
12:35
こちらは東京空襲の展示。
悲惨さにマヒしてしまった。

外に出る。
12:38
5年前はこれらだけ見た。
焼け跡から出た金属性遺物。

火災は9月3日まで続いていたが、残暑厳しいころで路上の死体は急激に腐敗を始めた。
死体の多くは逃げまどった挙句に焦げたもので、大部分が性別不明であった。
一家全滅の家も多く、膨大な数の身元確認は不可能である。

警視庁衛生部は早くも9月2日の午前10時から死体処理の対策会議を開いている。
その結果、死体の腕に布を巻き付け、発見時の情報をできるだけ記録して、各区ごとに遺体を集めることに決まった。二日間保管して遺族の便宜を図り、身寄りのない遺体は焼却することになる。

荏原郡桐ケ谷、北豊島郡町屋、南葛飾郡砂村新田、豊多摩郡落合などにあった火葬場のほかに臨時の火葬場を設けたが、それでは間に合わず、露天で薪を積み石油をかけて焼却した。
ここ、被服廠跡でも近隣から運ばれた死体もあわせ、49,821体が積まれた。一体残らず蛆がわき、運ぼうとすると肉が崩れた。薪と石油では半焼けになるだけでさらに腐敗は進み、手が付けられなくなった。しかしたまたま新発明されていた重油火葬装置が一角に築かれ、9月9日から3日間で焼却された。
当時の東京で縦横に走っていた水路の溺死体は路上の死体よりさらに処理が困難だったという。

12:39
溶鉱炉のような熱さだったのか、保管していた釘が溶けて鉄塊に戻っている。

この地で奇跡的に助かった人々は「一二九会」(ひふくかい)を作り慰霊をつづけた。
大正12年9月と被服廠をかけている。
もう存命者はおられないだろう。

蔵前橋東詰めに面した公園北口から出るにあたり、再び慰霊堂を見た。
納骨堂には都内の震災死者58,000体に、東京空襲の身元不明の遺骨が加わり、163,000体が安置されている。
今立っている場所で4万人が泣き叫び、ぶつかりながら逃げ回り、あるいは焼かれ、あるいは押しつぶされて38,000人が死んだ。
怨念、無念の地である。
霊感がなくてよかった。
事故物件とか、殺人があった場所で幽霊が出る、なんて、ここに比べたら可愛らしい話である。 

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