2021年8月16日月曜日

両国駅の歴史、航空写真から

  両国に来た。雨。

2021‐08‐14  11:52 
両国駅は総武線各駅停車しか止まらないから線路は上り下り2本(1番、2番)で済む。
しかし北側に低くなった3番線ホームがある。
今は乗り場となることはほとんどなく、たまにイベントに使われるくらい。
しかし、昔はもっとホームがあった。

地理院地図 1942年3月
6番線まで3面6線のホームとその北に貨物引き込み線がみえる。
貨物駅時代の秋葉原や南千住のように、水運が使えるよう隅田川から運河が掘られている。
北方の緑地は安田庭園、横網町公園(東京都慰霊堂がみえる)。

ちなみに運河は貨物駅ができて新しく掘ったのではなく、江戸時代、対岸の浅草御蔵(蔵前)のように竹蔵(貯木場)のために掘られていた。享保年間に貯木場は猿江(別ブログ)に移り、ここも幕府の米蔵になった。
明治11年の地図には堀、水路はそのままに陸軍用地となっている。
地理院地図 1975年1月
私が上京した昭和50年は、運河と引き込み線はなくなったものの、3面6線のホームははっきりみえる。国技館はなく、北の安田庭園のそばまで国鉄用地だった。

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運河と引き込み線の場所は両国国技館と江戸東京博物館になった。

行き止まり駅に見られる櫛形ホームは、両国が千葉方面への始発駅だったからである。

総武鉄道は、国府台、習志野、佐倉に陸軍施設もあったことから鉄道敷設免許が早く下り、1894年、本所駅(今の錦糸町駅)から佐倉まで開業した(あいだに市川駅、船橋駅、幕張駅、千葉駅、四街道駅)。そのあとは東側の銚子方面を先に伸ばしていく。両国駅は日露戦争が始まったばかりの1904年4月、「両国橋駅」として開業した。

当時、東京は都心の用地買収が難しく、西の飯田町、南の新橋、北の上野が四方に延びる列車のターミナルで、それぞれがつながっていなかった。両国もそうした理由で東への玄関として選ばれたものかと思ったが、どうも私鉄の総武鉄道の財力では隅田川に鉄橋をかけられなかったということも大きかったようだ。

11:54
8月14日、東口改札から出たので正面である西側に向かう。
開業した時はすでに住宅が密集していたから、東京西部の私鉄と違って最初から高架だった。
両国駅は西が隅田川、北が貨物基地だったから南しか市街地がない。
だから高架下を北側に行く道がない。
11:56
両国橋駅から両国駅に改称したのは1931年。もともと両国という地名は橋の両岸に使われていた(日本橋両国など)が、だんだん両国が東のほうだけを差すようになり、駅も一般に両国と呼ばれることが多くなり改称した。

関東大震災(1923)では車両や、石炭庫などが大いに燃えたが駅舎は倒壊しなかった。しかし増大する乗客貨物をさばききれなくなっていたため、1929年、今存在する新駅舎が竣工した。
当時の駅の様子を反映し、いまのホーム、1,2番線への改札よりずっと北側が駅舎の中心になっている。

1932年、震災復興都市計画で鉄道用地が捻出され、お茶の水と両国の間に線路ができた。当初は両国より東は電化されていなかったため、乗り換えを要したが、そのうち千葉方面も電化されると両国始発列車は激減した。海水浴の臨時列車はあったが、ターミナルとしての地位は落ちた。

1972年総武線複々線化により千葉からの快速が東京駅に入る。
線路は両国駅の北側を通っているが、急カーブで隅田川をくぐっており、地下深いためホームは作られず、停車駅は隣の錦糸町となった。
わずかに発着していた特急「しおさい」「あやめ」「すいごう」(1日1往復)も1988年のダイヤ改正で廃止された。
これで千葉方面からの中距離、長距離電車は一切両国に止まらなくなった。
戦前は池袋や渋谷をしのぎ、東京、上野、新宿、横浜、新橋に次ぐ第6位の取扱収入を誇った両国も、いまや見る影もない。
11:57
相撲の錦絵など観光的な装飾が目立つが、規模、改札の数は平凡な(小さな)駅と同じである。駅舎の古さを特にアピールしていることもない。

駅周辺を歩いてみる。
11:59
すぐ西は隅田川。鉄橋が見える。

12:00

12:06
隅田川堤防から見た両国国技館
両国の貨物駅が国鉄バス東京自動車営業所となり、その跡地に1985年竣工、大相撲が対岸の蔵前国技館から移ってきた。

12:08 安田庭園
本庄松平氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷だった。明治になって旧岡山藩主池田章政の邸宅となる。明治33年(1900年)、安田財閥創始者、安田善次郎が購入。1922年、彼の遺志にもとづいて東京市に寄贈されたが、翌年の関東大震災により焼失、東京市が復元、開園。いまは墨田区が管理する。
安田善次郎が買ったときはまだ両国駅はなかった。

12:11
安田庭園の東南、すなわち国技館の東も国鉄用地であったが、アパホテル(右のタワー)と東京都下水道局、江戸東京博物館(写真左)になっている。

12:12
安田庭園の東は民家が少し残る。
正面の安田学園は安田善次郎が1923年創設した。
この敷地は西の同愛病院と合わせて、安田善次郎の本邸だったが、震災後の1924年、学園が神田錦町から移転してきた。

もちろんこの辺りは国鉄用地ではない。
いま道路の右は東京医学技術専門学校、その東はNTTドコモ、区立両国中学、第一ホテル両国などがあるが、かつては本所区役所などもあった。

この日はすぐ先の横網公園で東京都慰霊堂、震災記念館など見て、食事するため蔵前にむかった。
(別ブログ)



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