2021年8月19日木曜日

隅田川テラス、カミソリ堤防とアーチ橋。蔵前の東工大

 両国にきた。

千葉方面のターミナルであったころ建てられた栄光の駅舎をみたあと(別ブログ)、
隅田川に出た。

2021-08-14  12:00
ちょうど総武線の千葉行きが来た。
鉄道鉄橋をくぐり、すこしだけ川下にいく。

12:01
このあたり、両岸とも隅田川テラスという遊歩道になっている。
昔、総武線から川を見たころ、こんなきれいなものはなかったと思う。

伊勢湾台風の教訓で昭和32年から昭和50年(1975)にかけて隅田川に防潮堤が作られた。
コンクリートでできた高さ3~4mほどの直立堤防であったが、幅が薄いことと切れる(決壊する)心配からカミソリ堤防と呼ばれた。
さらに、完成と同時に人と水辺が隔離されてしまった。
そこで1980年から順次傾斜の緩やかな堤防が整備されるようになり、同時に遊歩道も整備された。すなわち隅田川テラスは市民が川に親しむとともに、堤防の根固めとして補強の役目もある。

壁には隅田川を描いた広重の絵が何枚もある。
じっくり見る時間はなく先を急ぐ。

12:02 神田川の合流部分と両国橋
合流点の柳橋には以前行った。
ここで引き返し、北に向かう。
12:06
上流側には蔵前専用橋と蔵前橋

12:06
堤防から東を見ると両国国技館

このあと国技館と安田公園のあいだの道を通って、横網町公園に行った。
ここは関東大震災で空き地に避難してきた3万8千人が、四方から火に囲まれ逃げることもできず焼け死んだ場所である。東京都慰霊堂、復興記念館を見学した。(別ブログで書く)

そのあと、ふたたび隅田川に戻る。

12:42  蔵前橋東詰め
上は首都高
蔵前橋通りということは、神田明神裏の新嬬恋坂までまっすぐつながっている。

12:43
蔵前橋のすぐ南に地図に載っていない橋がある。
蔵前専用橋というらしい。NTT東日本蔵前通信ビル(写真右側)と対岸を結ぶ。
洞道(通信ケーブル・ガス管・送電線などの専用管路トンネル)が川を渡るのに橋になったもの。日本で初めての通信ケーブル専用橋で、水道橋も兼ねる。
グーグル航空写真では水道管らしきものが見える。

ちなみに対岸にみえる都立蔵前工業高校あたりに東京高等工業学校があった。
震災後の1924年に大岡山に移転。1929年に大学に昇格(東工大)。

蔵前橋を西に渡ると左に松の木が3本。
12:45  首尾の松
由来は諸説あり、説明板が後ろにあった。

江戸切絵図を見れば、浅草御蔵の4番掘、5番堀の間に、隅田川に枝を伸ばすように生えていた。この蔵前橋から100メートルほど下流にあたる。

浅草御蔵というのは、幕府が天領から集めた米を貯蔵していたところで、船が入れるよう1番から八番まで堀がほられ、さらに外側を堀が囲んでいた。(上の切絵図では外堀が書かれていない)

この米は扶持米として旗本、御家人などに支給されたり、換金されて幕府の諸費用となった。周辺には蔵役人の屋敷、役宅のほか、武士に代わって御蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した札差、米問屋などが軒を並べた。

明治7年に湯島聖堂にあった書籍館(しょじゃくかん、わが国最初の図書館)の書物(もとは幕府の学問所と将軍の紅葉山文庫のもの)を浅草御蔵にうつし、閲覧書を新設した。浅草文庫である。(明治8年、文部省は湯島聖堂にも東京書籍館を改めて作っている。)

明治14年(1881)、蔵前にあった書物は、上野公園に新築された博物館構内の書籍借覧場に移転し、残った建物に東京職工学校が開設された。これがのちの蔵前高専とも称された、東京高等工業学校、東工大の始まりである。

首尾の松の碑のそばから、ふたたび隅田川テラスに降りる。
12:47
さっき渡ってきた蔵前橋。台東区側から見る。
1927年、関東大震災の後の復興計画で架けられた。典型的なアーチ橋。
米蔵にちなみ、もみの黄色に塗られているというのは、こじつけのような気もするが、クイズで色を聞かれたときは、思い出すときの手掛かりになる。

12:48   首尾の松を描いた浮世絵。
スカイツリー、厩橋、浅草アサヒビールの金色モニュメントが見える。
首尾の松の枝の下で、猪牙舟にのった女が釣りをしている。
ここは米蔵だったから釣り人が陸地から近づくことはできず、魚も多かったか?
松は船からの目印にもなったことだろう。

12:51  厩橋
これもアーチ橋である。
アーチというのは両端を固定し、下への荷重をアーチ材内部の圧縮力に変えることで耐える。通路がアーチの上にある(上路アーチ)のが先ほどの蔵前橋、アーチの下にある(下路アーチ)のがこちらの厩橋。
しかし両者はだいぶ見た目が違う。厩橋などは子供が見れば下路トラス橋やつり橋の仲間に見える。いっぽう蔵前橋のすっきりした形はビーム橋(桁橋)のほうが近い。すなわち、あくまでも分類は見た目ではなく、荷重にどうやって耐えるかという力学的な構造で決まることが分かる。

12:54
江戸時代、防御上の必要もあり、大川(隅田川)には5つしか橋がなかった
千住大橋 文禄3年(1594) 、
両国橋 万治2年(1659)、
新大橋 元禄6年(1693)、両国橋が大橋と言われていたため。
永代橋 元禄11年(1698年)
吾妻橋 安永3年(1774年)である。

厩橋のあたりには「御厩の渡し」があった。
厩とは、蔵前米蔵にあった荷物運搬用の馬小屋のこと。
1874年(明治7年)今よりも約100 m ほど下流に木橋が架けられ、1893年鉄橋に架け替えられた。これによって本所から上野広小路に至る春日通がつくられた。
ここも関東大震災で被災し、1929年、今の橋が架けられた。

近くで見れば、親柱のうえにステンドグラスのようなものもある。同じ震災復興計画で作られた隣の蔵前橋とは全く違う意匠というのがいい。

厩橋を見ていたら、次女夫婦が西のほうから歩いてきた。
川沿いのカフェレストランで13時に待ち合わせの予定だった。

本来、この日は帰省するはずだった。
コロナで結婚式に出られなかった長野の弟や母に、彼女らを見せようと8月14日一緒に行く計画をしていたのだが、コロナでまたしても直前になって中止になった。せっかくの一緒の日帰り旅行がなくなって、ふだん会うこともめったにないのでランチすることにしたのだ。

14:09
彼女らが住む蔵前のイタリアン、シエロイリオ。窓側の席。
厩橋の向こうにスカイツリーが見えていたが、雨で中ほどから上が隠れてしまった。

妻と娘が向かい合ってくだらない話をしていて、目の前の彼が手持無沙汰で黙っていた。そこで橋のクイズを出してみると、さすが彼は厩橋がアーチ橋とあっさり答えた。
こちらが馬鹿な質問したと思われたまま話が終わるのも困るので、皇居の二重橋と厩橋が同じ分類というのは素人は納得するか? 荷重の分散方法で分類するのは一般人には難しくないか、と話題をすりかえた。


 20210816 両国駅の歴史、航空写真から
 

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