2022年2月18日金曜日

伊奈町2、しろがね幼稚園、氷川神社から図書館、町役場

この3月で9年勤めた伊奈町の大学を定年退職する。

大宮から近いわりに埼玉県でも知らない人がいるほど小さな町だが、職業人生の最後を過ごした。そして、奇遇にも、33年前の1989年から7年間住んだところでもある。

4月からは千駄木で過ごす。(今もテレワークでそうだけど)
今度こそ、もう伊奈町に来ることもないだろう。
私にとって特別な町だから、2月8日、ニューシャトル志久駅でレンタサイクル「忠次号」を借りて懐かしい場所を回ってみた。

忠次号は初代関東郡代(当時は代官頭)、伊奈忠次にちなむ。
彼が伊奈町に陣屋をおき、長男忠政がつぐも34歳で死去、忠次の次男忠治が27歳で代官頭を継いだが、赤芝山(現川口市赤山)に陣屋を構えていたので、伊奈町の伊奈氏はほぼ忠次のみである。
2022‐02‐08 11:06
最初に行った中山住宅には、26年前まで住んでいた家、近所の家がそのまま残っていた。
(前のブログ)

11:15
住んでいた家から2分。佐藤さんちの前を過ぎるとすぐ小室小学校の裏門。
昔はフェンスもなく、校舎裏の空き地だったが、今は舗装されて教職員の駐車場になっていた。
家に遊びに来た人が野球好きなら、ここから入って校庭にいきキャッチボールをした。息子は0さいから7歳だったから、野球にはまだ早かった。
坂をあがって県道・蓮田鴻巣線に出る。鉄道のなかった伊奈町はこの街道に沿って発展した町で、学校や商店はすべてこの街道沿いにある。

11:16
小室小学校正門側からグラウンドを見る。
長女は3年、息子は2か月通った。

この県道を南に走る。
東北新幹線をくぐり、志久交差点をすぎる。
しばらく行くと左にのぞみ病院がみえた。
家族が予防接種など何回か行ったはず。ずいぶん大きくなっていた。

病院の先にしろがね小室幼稚園。
長女は2年間通ったが、息子は1年しか通わなかった。私の留学から帰ったとき、彼は小学校入学まで1年8か月あったのだが、保育料がもったいなかった。どうせ妻も次女も家にいるのだから、息子も家で遊ばせていた。しかし同年代の子供との接触も大事ということで、1年は通わせた。

しろがね幼稚園の先生はかわいい人ばかりだった。
これは明らかに面接で選んでいるなと思った。そのことを会社の先輩、臼木里志さんに話すと「そうなんだよ、みんな胸が大きいんだよ」とさらに発展して返ってきた。彼はものすごくまじめ、純粋な方で、おだやか、いつもにこにこしていらした。大宮栗橋線沿い、蓮田駅のほうのサンライズ伊奈マンションにいらしたが、私が伊奈町に来たときは浦和のご実家の近くに転居されていた。お子さんを通わせていたときの記憶がよほど鮮明だったらしい。

11:22 しろがね小室幼稚園
園庭の東側にかまぼこ型の建物ができていて、外からグラウンドは見えなくなった。
♪ しーろがねこむろようちえん、という園歌?を思い出した。

今回の散策はしろがね幼稚園を南端として、来た道を北に戻った。
途中、志久の交差点で東に曲がった。そのまま行けば左の田んぼの手前にスーパー(CGC?全日食?)があり、綾瀬川を渡って栗橋線手前にホームセンターがあった。

懐かしくなって向かう途中、ホームセンターのコメリができていた。
外にガーデニングコーナーがあったから見る。
不知火(デコポン)、イチジクの苗があった。いま千駄木菜園に植える場所はない。しかし東京に果樹の苗など売っていないし、もう伊奈町に来ることもないだろうと、記念に買った。
鉢植えでもいいや。

東へ行くのはやめて再び中央通りに戻って北上。
村中の細い道にポツンとある伊奈小室郵便局を見てくればよかった。

小室小学校をすぎると、志久駅からまっすぐ東に来る道が左からぶつかり、三つ角になっている。
11:54
忠次号の前かごから買った果樹の苗が見える。
この三つ角の交番は昔からあった。KOBANと大きく書かれてはいなかったが。
その南のミニストップもあった。
しかし右のラーメン屋一代元のところは山田うどんだった。

交番の北側から東に入ると氷川神社。
周りに家は増えたけれど、境内は全く変わっていなかった。
11:57
ここは子供たちのお宮参り、七五三など、何回も来た。
図書館の帰り道でもあったし。
(1993-05-13)
(12月生まれの次女のお食い初め、お宮参り。
100日目でなく、実際に歯が生えた時にやったのかな?)
鳥居の反対側から写した?

11:57
境内横の藤棚は30年前のまま
11:58
氷川神社裏に町立図書館がある。
このさきの蕎麦屋・松輝庵からは天丼、かつ丼の出前を何回か頼んだ。

12:01
休日、子どもたちを自転車に乗せて行けるところはここしかなかった。

12:07 ギガパール
かつてはCGCグループの「ショッピングひまわり」というスーパーだった。
2003年に撤退、大黒流通チェーンのスーパーになったらしい。
入ってみたが、普通の品ぞろえ、価格だった。

12:12
普段使っていたのはひまわりだったが、大通りの西側、マンションの裏にもコンビニのような小さなスーパーがあった。台湾料理店になっていたが、建て替えたようだ。

12:15
伊奈町唯一の商店街。
伊奈書店は閉店、看板を塗りつぶしてもうっすら見える。
鰻八は一度も入ったことがない。

12:17 伊奈町中心部。
左は伊奈中学。子供が行くことはなかったが、30年後、伊奈町いじめ問題調査委員会の委員長を委嘱され、伊奈中学の1件について何回か調査、話し合った。昔なら何の問題もないふざけたやりとりでも子どもの不登校と重なってしまった。
右は我が家のメインバンクだった埼玉りそな銀行。
その向こうの安楽亭は何回か入った。鷲宮にいた叔父、アメリカから一時帰国した森泰生夫妻とも焼き肉を食べた。

12:19
伊奈町役場。ここから留学したから転入、転出手続きが2回ずつあった。
むしろ役場に来たのは住んでいた時よりも30年後のいじめ問題の会議。
子ども大学で一緒になった職員の方と廊下でばったり会って楽しかった。

12:21
伊奈病院も、のぞみ病院同様大きくなっていた。
一度、夜熱を出した子供を自転車に乗せて連れてきた。
しかし普段は「昔は病院なんて行かなかったんだから、少し様子を見よう」という私。
妻もしぶしぶ従い、車がなかったこともあり、3人の子供はほとんど病院に行かず育ってくれた。

12:22
伊奈病院の前にある薬局。
医薬分業が進み、処方箋受付薬局になっていたが、昔は普通のドラッグストアで、粉ミルクや紙おむつを買いに来た。

12:22
伊奈病院と役場の間にある商店。
デイリーヤマザキになっていたが、昔は個人経営の小さなスーパーだった。

12:23
何という店だったか思い出せない。

伊奈病院からさらに東に行くと綾瀬川沿いの低地、田んぼが広がっている。
1995年6月、伊奈町が企画してくれた田植え体験プログラムに長女を連れて行った。
裸足の指の間から冷たい泥がにゅるりと出る感触は、中学以来、24年ぶりの経験だった。あれから27年経っても足指が覚えている。

その田んぼは見渡す限り北の水平線まで延々と広がっていて、ずっと行けば伊奈学園(1984年開校)、町制施行記念公園(1973)があった。
住んで3年目の1991年には伊奈学園の向こうに埼玉県民総合活動センター(けんかつ)が全面オープンした。宿泊研修もでき、1993年には天皇陛下が視察に来られるという伊奈町自慢の施設である。しかし町民個人としては併設図書館くらいしか利用価値がなかった。

伊奈学、けんかつの周りは県の住宅公社が宅地造成中だったが、低湿地だったため盛り土して何年も寝かせていた。道路だけはできていたから、妻はここで車の運転を練習した。アメリカで取った免許を国内免許に切り替えるためだった。

当時は大宮と浦和が合併しようとしていて、大宮は何とか新市の主導権を握ろうと、上尾と伊奈を抱き込み、地理的中心を北に持ってこようとしていた。
上尾との境にあった埼玉がんセンターと県かつ、名前が田舎っぽいニューシャトル以外何もなかった伊奈だが、ごみ処理施設など新市の施設を建てるだけの広い田んぼはあり、一気に存在感をみせた。そして与野を入れた5市町の頭文字をとったYOU And I プランのメンバーとなった(おそらく北部3市町が盛り上げたのだろう)
しかし、2001年の合併は浦和の抵抗でYOUだけとなり、伊奈町、上尾はさいたま市に入れなかった。

伊奈町から引っ越してから26年、最も変わったのは、田んぼの真ん中に住宅街ができた県かつ、伊奈学の周辺だろうが、この日は肌寒く、遠かったので行かなかった。

1990年に27,100人だった人口は、44,900人(2022年1月)と増えた。
しかし、この日、自転車で回ったところはほとんど昔と変わっておらず、眠ったような町だった。


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