2022年2月14日月曜日

伊奈町、中山住宅7年間と洪水

2022‐02‐08 
この3月で9年勤めた伊奈町の大学を定年退職。
コロナで自宅勤務が多く、この時期は講義もない。
だから11階から毎日見ていた景色も見納めに近い。

ただの景色ではない。
33年前、1989年から7年間住んだところでもある。
二重のお別れとすれば、ぜひもう一度、懐かしいところを見ておきたいと思った。

ニューシャトル志久駅にレンタサイクルがある。
ほこりにまみれて何台もあるが、聞けば前金500円、返却時に200円戻るという。
早速借りた。
2022‐02‐08 11:06
志久駅の周りはニューシャトルの他の駅と同じように、開業(1983年12月)から38年間、店が一つもない。利用客がいないからだ。それでも私が住んでいたころは1時間に2本だったが、今は6本に増えた。

1983年、東大宮の公団、尾山台団地の抽選が当たってしまい、大宮市北袋の独身寮を出た。
1984年、結婚、
1986年に長女が生まれた。
子どもが成長すれば小さな2DK(41平米)の団地は狭い。
時代はバブルの大波が東京から埼玉まで押し寄せていた。
家を探した。職場は戸田公園だが、大宮より南の京浜東北、埼京線は高くて手が出なかった。

当時の埼玉は、公団が分譲マンションを、東浦和、北鴻巣、東鷲宮、三郷早稲田で開発していた。
第一次、第二次、と半年に一度くらいずつ募集していたが、同じような間取りで1988年春に3300万円だったのが秋には3800万円になるような時代だった。
東鷲宮、三郷早稲田は申し込んだが抽選で外れ、町の不動産屋で中古住宅を探し始めた。川越線、高崎線、野田線など見に行った。

1989年1月、大宮駅から東へバス15分、大宮市南中野猿花で中古住宅を契約寸前までいった。しかし思いとどまり、2月、伊奈町小室字志久で築12年の中古、3300万円を契約、リフォームして7月2日、入居した。妻のおなかには3か月後に生まれる息子が入っていた。

11:09
毎日の通勤、休日に大宮に出るとき、KDDの森へのピクニック、
一人で、家族で、この道を行き来した。

伊奈町は蓮田と上尾の間にあって、1984年ニューシャトルができるまで鉄道がなかった。ニューシャトルも知名度が低く、そもそも人口が少なかったこともあり、埼玉の職場の人もこの町の存在を知らなかった。だからそのぶん土地も少し安かった。
駅から歩いて7分、走って4分。
いくら中古でも高崎線、宇都宮線沿線ではとても買えなかった。
11:10
左は古山さんのお宅。川が流れていたのだが、暗渠となり道が広がっている。
右は大日本インキの工場。工場は住民に気を使い、年に一回、夏祭りを開き住民を入れていた。そこで金魚すくいがあった。娘がしばらく飼っていたが、このままでは死んでしまうのでこの川で放した。「金魚さん、さようなら~」という娘の言葉を覚えている。
(1991-06-30)
2022年の写真の場所より少し先、古山さん宅の前あたり

11:11 中山住宅(南側)入り口
全く変わっていない。
左は沢田さんのお宅。娘さんが伊奈町役場に勤めていらした。
2019年、子ども大学で伊奈町の担当者と打ち合わせの時、再会した。
彼女は姓も変わっていたが、中山住宅の話から判明した。教育委員会生涯学習課の課長になられていた。
右は斎藤さんのお宅だった。1階は常にシャッターが下りており二階に住まわれていたが、今も全く様子が変わらない。
(1995年11月 次女の七五三)
左沢田さん宅、右斎藤さん宅

11:11
土地125平米、建物88平米(築12年)で3300万円
初めての家だからうれしくて、小さな庭を耕し、少し野菜を育てたりした。

(1991‐06‐30)

11:12
遊水池に高床式でたつ中山住宅自治会館

ここは1975年(昭和50)に中山材木店が分譲した住宅地で、全部で101軒とアパート7世帯があった。
引っ越してきて2年半たった1992年2月、自治会長の選挙があった。
25軒くらいずつ4班に分かれていて、この年は私のいる第4班から会長を出すことになっていた。
2月22日、夕食後の7時、各家から一人ずつ自治会館に集まった。
とにかく誰か決めなくてはいけないのだが、立候補者がいない。
司会はいたはずだが、おかしなことに誰もしゃべらないのである。

ほぼ全員が16年くらい住んでいる中で、私は何もわからない新参者であるから黙っていた。
しかし、さすがにしびれを切らし、「立候補がいないなら、くじ引きなり、推薦なり、しましょうよ」と口火を切った。
お隣の中村さんはご主人をなくされ、おとなしい奥さんと娘さん一人だったので、彼女に当たったら困るだろう。「どうしてもできない人は除外しましょう」と付け加え、各人できない理由を言ってもらうことにした。
そしたら「健康に自信がない」「日曜も忙しい」だの、みっともない言い訳ばかり。はては「娘が高校受験するので」と1年後の話をする人もいて呆れた。

結局全員を対象に、推薦することになった。
開票すると私にも1票か2票入っていた。私のことなど誰も知らないはずなのに、少ししゃべったから目立ってしまったのだろうか。会が始まってからみな黙っていた理由が分かった。
休憩をはさみ、上位5人だったか、1票でも入った5人だったか、長田、中津、小林、柳本、相田の5人で話し合いで決めることになり、別室に移動した。
しかしここでもみな黙っている。絶対やらないぞ、という執念みたいなものを感じた。
壁の時計を見ていて長針の動くのが分かるくらい、沈黙が長時間続き、12時近くになった。
とうとう根負けして、というか呆れ果て、「じゃ、私がやります」と言ってしまった。

深夜まで皆が待っている部屋に戻った後、一つ言わせてもらった。
すなわち、4年後の第4班からの会長選出は、一度やった人は除いてくじ引きとすることを提案し、21名中19名の賛成を得た。(推薦、投票が良いという反対者は1名だけだった)

会長になると、この自治会は非常に仲が良いことが分かった。
16年ほど前に同じ年代の人たちが一斉に入居した。当然同年代の子供たちも多く、一角にあった公園で運動会や夏祭りも行われたらしい。町内旅行も毎年ある。
その代わり自治会費が高かった。団地では毎月300円くらいだったのが、ここは1000円位したのではなかったか?
主な支出は慶弔金だった。慶弔だけでなく、敬老のお祝い、入院した時の見舞金、子供が成長しお祭りがなくなった代わりに成人式のお祝いも上げていた。

押し付けられたような会長だったので、自分好みに変えようと思った。
入院見舞金は年寄りが増え、もらわない人もいたので、廃止したい。成人式のお祝いも関係ない人がいるからやめたい。その分、自治会費を値下げして、役員の仕事を減らそうとした。
役員の中で、やはり新しく来た庄司さん(会計)などは私の味方だったが、古くからいらっしゃる原さん(副会長)は、伝統を守ろうとしっかりブレーキをかけてくださった。

仕事はいっぱいあった。
3月には定期総会があり引継ぎ。
全戸参加のどぶさらい、公園のくさとり、廃品回収、そして11月は恒例のバス旅行。大人57人、子ども28人で榛名山に行った。さらには火の用心の夜回り。子供会と合同の餅つき大会は自治会館の前の道路上でもち米をふかし、みんなで杵を持ち、参加者はそのまま大広間で大根おろしや黄な粉、餡子で食べた。
敬老会は従来、赤飯と金一封だったものを、家族全員で食べられるように大きなケーキを1軒1つ配ろうとしたかったが、どうなったか記憶にない。
さらには伊奈町本区の役員会議(公民館での飲み会)にでたり、南側にある工場からの悪臭問題で役場に行ったりした。

会館は無料で誰でも借りられ、小さな子供たちを連れたお母さんたちが昼食会やお茶会などもできた。
今まで大学、会社と付き合ってきた人々と全く違う人たちと触れ合うのも面白かった。

(1991年9月?)
家の前が遊水池で広々していたから気に入っていたのだが、土地が低いということでもあった。
1991年9月、台風が襲った。
会社で午後、実験を始めると家から電話があり、家に水が迫っているという。
慌てて帰ると途中(最初のほうの写真)古山さんちの手前から道路が水没している。
我が家にたどり着くと、水は床上までは来ていなかったが、畳が上がっていた。

妻は水が迫っているのを知らずパウンドケーキを焼いていたらしい。
消防の人たちが畳を上げに来てくれて初めて知ったという。
もう少し水が増えたら小室小学校に避難することになっていて、長女は小さなリックサックにケーキを入れてもらい楽しそうだった。

(1991年9月)
テレビを見ると、武蔵野線が不通、各地で浸水している。
私は、現地の人々を見ないかぎり(困っている人を想像しなければ)、異常気象のような非日常にわくわくしてしまうところがある。不謹慎なのだが、我が家がこうなっているなら少しわくわくしてもいいだろうと言い訳した。

やがて水は引き、小学校に行くことはなかった。
翌日はいい天気。不思議と気分は青空のようにさわやかだった。
中山住宅100軒のうち、床下浸水は6軒。
家を建ててから盛り土したのか、床下より庭のほうが高く、入った水は出ていかない。
このままだと家が傷んでしまうが、住宅内で工務店を営む猪狩さんが1万円で床をはがし、水を抜いてくれた。

田辺製薬戸田事業所500世帯はほとんど埼玉県だったが、床下浸水は我が家を入れて2軒。
労働組合がお見舞いとして小さなタオルをくれた。

11:13 住宅中心部から北側入口方面を見る

我が家の1軒おいて隣の清水さんの家は、二軒分の敷地で、蔵のような離れがあった。ある日、中に入れてもらうと書斎になっていて、万葉集の研究書を見せてくれ、「神田なら1万、2万するけど、5千円で買ったんだよ」と自慢された。
30年後の今回、前を通ると新しい家が3件建っていた。
11:14
住宅内を自転車で回り、わずか3分間後に南入り口に戻ってきた。
右側に沢田宅、斎藤宅がある。
左の手前はグラウンドになっていて、かつては夏祭り、子どもたちの野球、サッカーなどに使われていたのだろう。道路をはさんで奥は滑り台、ブランコ、鉄棒がある。
普通日のせいか誰もいなかった。

1996年6月、大宮の西、指扇のプラザに引っ越した。

2022年、最後の日々から26年も経ったのに建て替えも少なく、信じられないほど、ほとんど変わっていない。
このあと小室小学校、氷川神社、図書館、町役場、伊奈病院など回り、志久駅をへて大学に向かう道路に戻ってきた。
ゆるやかな坂を下りると左に、北から中山住宅に入っていく道がある。
12:30
最後にもう一度、中山住宅をみようと、北側入り口までいってみた。

右前方にあった中央保育所という町営保育園が更地となり、道の反対側にきむら伊奈保育園ができていた。
左はかつてブドウ畑だった。
植えてあった巨峰を見た父が、ここは夜の温度が高いから色がしっかりつかないだろう、といった。1989年、彼は59歳、私は33歳だった。
伊奈町の中山住宅は家族が3人から5人に増えた場所である。

レンタサイクル忠次号は300円で夜8時まで借りられる。
自転車のまま大学に戻った。

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