2023年5月3日水曜日

教場ロケ地、日大文理学部の一号館に入ってみた


昔からクイズ番組が好きだった。
しかし近年はタレントが回答するバラエティ番組となり、問題もくだらない。

そこで、代わりに、ドラマで出てくる場所(ロケ地)を当てるという「クイズ」を自分一人で勝手にやっている。
都内の坂道や踏切、神社、建物、商店街など近場から地方有名観光地まで、すなわち、行ったことのある場所から、映像でしか知らない場所まで、割と知っているほうだと思う。

退職してから、見たくもないテレビを見ている。
4月24日の月9ドラマ、木村拓哉主演の『風間公親-教場0-』もみた。

あらすじ:愁明医科大学の法医学研究室の教授(佐々木蔵之介)は、次期医学科長に決まる。そんな矢先、服毒自殺を図った遺体の司法解剖を依頼された。彼は助教に胃の切開を頼むが、助教はマスクを付けずに胃内の青酸ガスを吸い、数日間寝込んだ。彼はこの不祥事を大学に報告すると教授に告げる。しかし教授は、自分の昇進に影響することを恐れ、助教を自殺に見せかけて青酸塩で殺害してしまう。

この愁明医科大学の校舎が戦前の鉄筋コンクリートの校舎だった。しかしどこだか分からない。瞬間的に現れ、消えてしまうエンドロールのロケ地一覧を必死に見て、その中に日大文理学部の文字を捉えた。

ちょうど一週間後すなわち翌週の月曜に、その近くの都立松原高校(定時制)で薬物乱用防止講演を頼まれていた。

2023‐05‐01 16:46
京王線下高井戸駅 西口の踏切。
大学に入ったころは代田橋、明大前とともになぜかよく聞いた駅だったが、降りるのは初めて。
駅前広場がなく商店街が賑やかで、いかにも都内の私鉄沿線らしい。
16:47
駅西口から斜めに続く商店街は日大通りという。
道路の幅が商店街にちょうど良い。
事前にネットで見ると日大文理学部の資料館が17時まで開いているようなので急いで歩いた。

16:53
速足で入門、まっしぐらに資料館のある図書館棟に向かう。
間に合った。
見学は5分もあれば十分。

しかし休館。なぜだ!?
どうも黄金週間中は、休校らしい。
どうりで正門もキャンパス内も学生がいないわけだ。

敷地が隣接する松原高校には17:30に行けばいいのでまだ時間がある。
17:01
本館、一号館のほうに行ってみよう。

本館とあるから古いと思ったら新しい。
全体的に1号館以外、すべて新しい。
17:03
キャンパス内のシンボル、今回の目的でもある文理学部一号館が開いているので図書館側の入口から入ってみた。
懐かしい感じ。
一号館は昭和12年、1937年に竣工した。
神奈川県庁本庁舎(1928)と似ているが、同じ設計事務所である。

日大は、1889年(明治22)の日本法律学校を起源とする。
1920(大正9)に大学令による大学となった。日大に進学する学生のために予科があり、予科は文科(神田三崎町)、理科(駿河台)に分かれていた。理科はのちに甲類(工学、世田谷)、乙類(医科、板橋)、丙類(農科、藤沢)に分かれる。

さて、日大は1935年、ここ世田谷に土地を購入。建物完成を待って予科文科が移転。
2年後の1939年には予科理科も神田から移転、このキャンパスを日本大学予科と改称した。

過去ブログ
階段をどんどん上がっていく

ちなみに、1937年は、この文理学部1号館竣工(12月)に先立って3月、板橋に医学科校舎(現医学部本館)が竣工した。日大医学部40年史によれば、4月13日、学生600人が駿河台校舎前に整列、ゲートルで足固めをし、鉄砲を担ぎ、萌黄色の校旗を先頭に4列隊伍で、医学科歌を大合唱して板橋まで徒歩行進したらしい。世田谷への移転もこのようなものであったのではあるまいか。

17:06
5階建ての4階、5階は中央を塔にしたようなデザインなので、50人くらい座れる教室が一つだけ配置されている。
5階の教室には学生が2,3人いておしゃべりしていた。
西に見える塔は蘆花公園そばの世田谷区千歳清掃工場であろう。

階段を下りてくる。
柱時計の振り子の窓は鏡になっていた。

17:07
正面入り口から出て振り返る。
近年、夜間や休日は校舎内に入れない大学が多いが、ここは非常にオープンだった。

17:08
テレビでみた構図でパチリ
守衛さんにあいさつして道路に出る。

日大文理学部
文理学部とは変わった名前だ。戦後、予科が東大のように教養部となり、1949年に法文学部文学科から独立した文学部が1958年教養部を吸収、文理学部とした。だから日大には文学部が存在しない。(もっとも今は従来の文学部がもっと実用的な名称に変更され減少傾向にある)

文理学部と聞いて思い出すのは、戦前の東京文理大学と広島文理大学である。
大学には文科と理科しかないのだから、両方ですべてを包含するなら、あえて書く必要もないのだが、東京には東京大学があったから、苦肉の策か。

東京文理大学は東京高等師範学校が大学令による大学昇格を目指したとき、高等師範卒業生を対象をした専門部を母体にした。だから文理大学は高等師範の付属のようなものであった。戦後、両者の後身である東京教育大(現筑波大)が国立一期校になったのは、文理大が大学令による大学であったからだ。しかし高等師範の教員のほうが立場が強かったから、校名が教育大学となったのである。

過去ブログ
20200524 智香寺の引っ越し、東京教育大と文理大
17:09
木村拓哉のドラマではこの門柱に「愁明医科大学」と書いてあった。

さて、まだ時間が15分ほどあるので、道路を挟んで正門の向かいにある日大百周年記念館に入ってみた。
17:10
根っこのようなオブジェがある

百周年記念館というのは、中はたいていホールや講堂になっているものだ。
しかしなにやらがやがや声がする。

17:12
戸が開いていたので覗くと高校生のような女子学生が集団創作ダンスの練習をしていた。
講堂ではなく、体育館だった。
まあ、世田谷だから講堂より学内学生の使用を優先した体育館のほうが理にかなっている。
あまり見ると変質者に思われるのですぐ退散した。
ロビーの椅子に座り、資料館入口からもらってきたパンフレットを眺めて少し休憩した。
17:21
帰り際、体育館のロビーの展示ケースにフジヤマの飛び魚・古橋広之進(1928‐2009)が顕彰されていた。彼が小学校時代に学童新記録をだしたとき、戦雲迫る時代の新聞は「浜名湖の豆魚雷」と異名をつけた。
1946年に日大進学。世界新記録を連発したが敗戦国日本は世界大会参加を認められず、記録も公認されなかった。ようやく1949年、世界選手権出場が認められ、400、800、1500で世界新記録で優勝。しかし初めて出場を許された1952年五輪、ヘルシンキでは最盛期を過ぎていたこと、2年前アメーバ赤痢にかかったことなどが響き、メダルは取れなかった。

1966年日大講師、1975~1998年日大教授。
1990年から1999年まではJOC会長を務めたから、長野オリンピック(1998)の誘致から開催まで、彼の顔はよくテレビに出た。

ちなみに日大水泳部同期(生年月日が4日違い)の橋爪四郎はつい先日亡くなった(2023年3月9日、94歳)。彼は11回も世界新記録を出し、日本が復帰した1952年ヘルシンキ五輪1500m自由形でも銀メダルをとったが、常に古橋の陰に隠れ、ここ日大でも目立っていない。

この日、古橋のパネルの下に並ぶ靴(写真)はダンスを練習していた彼女たちのものだろう。
かれらは日大の学生ではなく近隣の高校生が借りていたのかもしれないが、もう一度確かめる気はなかった。


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