2025年7月22日火曜日

明石城と県立舞子公園、海峡大橋

先日、赤穂、姫路という播州の名城2つをブログに書いた。

日本百名城の一つ、明石城の写真も数枚あるので書いておく。

訪ねたのは姫路城にいった2015年3月27日の早朝。
神戸で開催された日本薬学会に来たのだが、神戸に宿が取れず、西明石から通った。

25日の夜に来て、26日の朝、車中から明石城を見てその近さに驚き、この日、早起きしたのである。
2015₋03₋27 6:53
ホームから見えるというのは備後の福山城を思わせる。
山陽道は海の近くを通り、明石城はそれを塞ぐような位置にある。
姫路城とともに西国大名の東進を抑える役目があった。
駅から来て濠を渡ると三の丸
その北の高地に西から本丸、二の丸、東の丸が連郭式に並ぶ。
7:01
三の丸から本丸上の乾櫓、巽櫓をのぞむ。
巽櫓は辰巳(南東)であっているが、乾櫓は戌亥だから北西、ここではない。
本来なら坤(未申)である。
明石城は西国の抑えとして幕府が援助して築城されたが、天守が建てられなかった。二つの櫓は天守の代用としてシンボル的な存在であり、南側に並べられた。櫓の名で多いのは巽と乾で、縁起も良いとされる。そのことから実際の方角とは関係なく命名されたのだろう。

平日朝だから観光客はいないが、城内を近道に突っ切る通勤の人が少しいる。坂を二の丸に上がり、空堀を渡って本丸に入った。
7:09
巽櫓ごしに朝日を浴びる明石大橋がくっきり見えた。

明石城と明石藩の始まりをかいておく。
江戸時代初期は姫路池田家の領地であったが、1617年池田光政が鳥取に移った。すると信州松本藩8万石の2代目、信頼厚い譜代大名の小笠原忠真が明石10万石に国替えされ、明石川西岸の船上城に入った。すぐに幕府から築城を命じられ、現在地に着工、1620年正月には藩主が移り住んだ。城下町の町割りは、当時小笠原忠真の客分だった宮本武蔵が指導したとされる。

しかし1632年、小笠原忠真は豊前小倉15万石に移封され、この家は九州外様大名と対岸の毛利家の監視役として、幕末まで続く。

ちなみに小笠原氏というのは武田氏と同じく甲斐源氏の一流とされ、戦国時代は信濃の国の守護をつとめた。しかし武田信玄に敗れ、以後は武田氏に従属した。武田氏滅亡後、信濃は空白地帯となり上杉、織田、徳川の草刈り場となったが、地侍たちが旧主小笠原長時の息子貞慶を迎え、貞慶は家康についた。

秀吉政権となっても貞慶は嫡男秀政を家康に人質としてだし、信州松本平の所領を安堵された。しかし天正18年(1590)の小田原征伐で北条氏が滅亡、家康が関東に移封されると、秀政も家康に従って関東に移り、下総古河に3万石を与えられた。
(このあと松本に入ったのが家康の重臣でありながら秀吉に走った石川数正である。)

古河の小笠原秀政は関ヶ原の後、1601年、故郷に加増されて戻され、秀政は信濃飯田藩5万石を経て、松本藩8万石の藩主となった。しかし秀政と嫡男忠脩は1615年の大坂夏の陣で戦死し、あとは次男の忠真が継いだ。彼が1617年、松本から明石に入封した初代である。

本丸の縁に立つと絶景である。
7:10
南方に駅、電車、海、淡路島

小笠原氏が小倉に移った後は、翌1633年信濃松本藩より 松平庸直(戸田氏)が後を追うように7万石で入城した。(この家は大垣の戸田氏とは別系統で、三河以来の譜代だが、家康の異父妹をめとった戸田康長以来、松平姓と三つ葉葵の家紋を授けられた。)

しかし戸田松平氏は5年で美濃に移封、以後、明石藩は次々と様々な譜代大名が入る。しかし1682年、越前大野藩より松平直明が6万石にて入封した。
彼は結城秀康の孫にあたり、以後この家は明石松平家と称し、10代目が廃藩置県を迎えた。親藩大名であり、明石8代目の斉宣は11代将軍・家斉の二十五男で、この時2万石の加増を受け、8万石(10万石格)となった。

本丸の北側に行ってみた。
7:13
平山城だから本丸、二の丸などは南の三の丸より高く、本丸北側は崖になっている。
日本100名城にふさわしい石垣、保存状態である。
駅前にこれだけのものがあるとは、明石も大きな財産をもっている。

本丸の南側石垣の上でみた明石海峡大橋に行ってみたくなった。
明石から上り電車に乗って朝霧のつぎ、2つ目の舞子駅で降りるとすぐ。
7:45
明石海峡大橋
つい「明石大橋」と言いたくなるが、それは明石の西側、明石川にかかる国道2号線の橋である。また、ここは明石市ではなく神戸市垂水区になることからも「海峡」の文字は必要である。

一帯は県立舞子公園。
架橋工事と埋め立てでできた土地を、大橋の完成とともに公園にしたものだと思ったら違った。
ここは舞子浜といって、源氏物語ゆかりの須磨、明石や高砂などともに、播州海岸において古くから風光明媚とされる景勝地であった。(須磨は摂津だが)
播磨の舞子は江戸時代から白砂青松の美しい海岸として知られ、明治時代に入ると明治天皇や有栖川宮が訪れ、政財界人の別邸が近隣に建設されるようになった。1900年(明治33年)に全国的にも珍しい県立公園として「舞子公園」が開設された。
戦後、排ガスなどの影響か多くの松が枯れたが、関係者の努力で松林が復活しつつあった。しかし明石海峡大橋の工事で松の移植を余儀なくされ、橋の完成後は南の埋め立て地が公園となり松が300本植えられたそうだ。

さて、明石海峡大橋は、瀬戸大橋(1988開通)より新しく、
着工: 1988年(昭和63年)5月
供用: 1998年(平成10年)4月
主塔高: 298.3 m(海面上)
中央径間(支間): 1,991 m
(2022年3月まで世界最長のつり橋だった)
全長: 3,911 m
桁下65メートル、この下を2025年1月、飛鳥IIでくぐった。
7:46
淡路島
そういえば、1990年7月淡路島の病院で神経外科の医師たちのセミナーの講師に呼ばれ、そのときは神戸からフェリーだった。

2015年、この日は慌ただしく明石海峡大橋を後にして、学会会場の神戸ポートアイランド、神戸学院大学に向かった。そして午後になって学会会場を抜け出し、姫路城の見物に行ったのだから、濃い1日だった。


2025年7月20日日曜日

柏の葉キャンパス:陸軍飛行場の航空写真


国土地理院の航空写真
撮影日1947₋10₋23(米軍)
7:48
つくばエクスプレス(TX)北千住駅。
北千住は、北関東から常磐、千代田、東武、TXが集まって、さらに都心に向けて分散していくという結節点にあたる。便利だろうが、電車は満員、ホームは混雑。

7月15日、高校生を対象とした薬物乱用防止講演で柏の葉キャンパスに行った。
つくばエクスプレスの駅名でもある。
北千住から快速で5駅目21分。576円。
千駄木からだと36分、754円。
東大のある根津からも遠くない。
8:10
柏の葉キャンパス駅
階段がなくエスカレーターしかないから渋滞する。
本来階段が第一で、エスカレーターは補助的なものだと思うが。
8:12
駅の地図を見れば、大学や病院、公園、省庁の研究所、研修所などが並び、普通の町ではないことが分かる。

新しく造成されたような広くまっすぐな道を通って高校まで着いた。
約束の8:30まで数分あったので校門を通り過ぎ、周辺を歩いてみた。
8:26
東大柏Ⅱキャンパス
IIというのは奥のほうにメインの柏Ⅰキャンパスがあるからだ。
産総研柏センターと国立情報科学研究所も同居する。

8:27
その向かいは県立柏の葉公園。
1979年米軍から一帯が返還され、1981年国と千葉県、柏市の間で跡地利用について合意がなされた。このとき県と市の所有分の大部分がこの公園となった。
面積45ヘクタール。
8:28
東大柏Ⅱの南隣は千葉大環境健康フィールド科学センター
長いばかりであまりいい名前ではない。
千葉大園芸学部(松戸)の付属農場と言えば、ずっとわかりやすい。
農産物直営所もあるらしい。

中から高校生たちがひっきりなしに歩いてくる。
ここは裏門で、TXの駅から、千葉大構内を突っ切ってくるのが近道らしい。

ちょうど登校時間なのかな、と時計を見たら約束の時間となったので、隣の県立柏の葉高校に入った。

講演が終わり、世話人のW先生が駅まで車で送ってくださるという。
「いえ、初めて来て、周りをちょっと見たいので歩いて帰ります」
「じゃ、そちららのほうをぐるっと回り道してお送りしましょう」
天気も不安定なのでお言葉に甘えて車に乗せてもらった。
東大柏II  と県立公園の間の広い道を北上する。
10:04
左は県立柏の葉公園
かなり広そうで道路からは何も見えない。
野球場、総合(陸上)競技場もあるらしい。総合競技場はかつて柏レイソルの本拠地になる予定もあったことから2万人収容という。
10:06
右は財務省研修センターや三井ガーデンホテル、国立がんセンター東病院などが並ぶ。
広すぎて軒を並べるという単語は使えない。

突き当りが東大柏第一キャンパスである。
「やっぱり中を見たいので歩いて帰りますから、ここでいいです」
「じゃ、中に入ってみましょう」
と車をそのまま進めてくださった。
10:07
「以前、中に寿司屋があって、いちど入ったことがあるんですよ」
と、どんどん入って行かれる。
10:07
同級生の宮本有正氏、山本一夫氏はここの教授だった。
「東京大学大学院 新領域創成科学研究科 先端生命科学」という肩書、所属では、何をやっているかさっぱりわからなかったし、明治以来各学部、学科に分かれていた本郷の感覚からするとイメージがわかなかった。しかし、ここに来ても大学らしい学食周辺にたむろする学生の姿などもなく、相変わらず分からない。

10:08
宮本、山本両氏も定年退職しているから訪ねることもなく、ただ助手席に座ってゆっくりドライブしながら建物をみた。

宮本氏は半年前の同窓会で会ったとき「異常なほど」顔が若々しかった。
聞けば自身が活性酸素の吸着剤として研究した不老長寿?の金のナノコロイドを毎朝飲んでいるという。こういうものを信じない私でさえ、詳しく内容を聞いてしまうほど、肌が「尋常でなく」つやつやしていた。定年後に事業化するため信州伊那に工場用地を買ったというが、東大らしからぬ怪しい異端の研究は、本郷でなく、人目につかない柏でこそ可能だったのではないか? なぜなら学会の仲間や教授会などから離れ、つまり背を向けるという勇気が必要だからだ。
彼は決してハンサムではないが、しかし「あの顔であの年齢であれだけ若いなら俺だって」と皆は思うだろうから、美男美女を使うよりも優れた広告塔だと思った。

山本氏は、我が家のすぐ近所の駒込病院にあった都立臨床研以来、細胞膜上の糖鎖について研究していたらしいが、これも柏らしく、私にはよく分からない。

さて、W先生の話された寿司屋というのは「お魚倶楽部はま」。
東大大気海洋研究所が移転する際に一緒に東京中野から来たという。
海洋研で使った魚を利用しているわけではないだろうが。

その寿司屋は西の角にあり、そこを右折して裏に回る。
10:10
キャンパス内の西側
W先生も奥まで入ったことはないらしく「広いですね」を連発される。
10:12
線路のレールのようなものもあり、AIを使った新交通システムの研究でもしているのか?

ここでこの土地の歴史をみておこう。
野田 撮影日1946₋02₋13
左江戸川、右利根川
国土地理院の公式サイトから得られる最古のものは戦後米軍が撮影したものだった。

次が冒頭にのせた1947年の航空写真である。
この地には陸軍の飛行場があった。
昭和13年(1938)開設の柏陸軍飛行場(東部第105部隊)である。
総面積 264 ha(終戦時)
周辺に人家や障害物がなかったことから我が国初のロケット戦闘機・秋水の基地に指定された。
3枚目は撮影日1948₋07₋25
敗戦のため1945年10月にアメリカ軍によって占領されたが、11月には食糧増産緊急事業として農地転用が決定された。これによって、周辺に居住していた旧小作農や引揚者、旧軍人・軍属などが入植して開拓が始まり、間もなく米軍は撤退した。その後、この土地は1949年、農地として柏地区開拓農業協同組合に売り渡された。

しかし、翌1950年に朝鮮戦争が勃発したことから、アメリカ軍は開拓農地のほぼ全域を接収した。これらの接収財産は事実上使用されない状態が続いていたが、1952年政府間協定により、無期限使用施設として旧柏飛行場総面積約264haのうち、中心部分約188haが柏通信所として提供されることになった。

とうぜん土地所有者はこのような措置に反対し、結局オペレーションエリア(通信作業地区)敷地だけ買収し、アンテナフィールドは賃貸借契約とすることになり、立入禁止地区以外は従来通りの農耕・居住・通行を認めることになった。
撮影日1979₋10₋01
その後、首都圏における米軍の空軍施設機能が横田飛行場へ集約統合される一方で、柏通信所は他の施設と離れていたため、1975年柏の閉鎖が決定、1976年2月正式に運用を停止した。
1977年には188haの半分の93haが返還され、1979年8月に全面返還された。
撮影日 1989₋10₋21
ところで、つくばエクスプレスは1978年、常磐新線として構想が発表され、1985年ルート検討に入った。茨城県案は筑波学園都市が、千葉県案は安孫子が終点だった。
1991年第3セクターが設立され、1994年秋葉原で起工式、当初は2000年の開業を目指したが、予定はくるって2005年8月に開通した。
撮影日 2013₋02₋10

返還された188ヘクタールの主なものを、面積と開設時期とを合わせて書くと
 東大柏Ⅰ 40ヘクタール 1995年土地取得開始、2000年各部局の移転開始
 東大柏 Ⅱ 8ヘクタール 2001~2006年に順次移転開設
 千葉大 17ヘクタール 2004年開設
 県立柏の葉公園 45ヘクタール 2005年以降順次一般開放
 他は財務省とか、国立がんセンター病院とか、県立高校、科学警察研究所、一般住宅など。

つくばエクスプレスの開業とほぼ時期を同じくする。

さて、東大柏キャンパスに戻る。
10:15
本郷はあれだけ狭いのにここは土地を使いあぐねているほど広々している。
本郷も56ヘクタール(駒場は25ヘクタール)あるが、窮屈なのは人口密度が高いことを示す。大学人は都会が好きで、柏には来たくなかったようだ。

そういえば、昔、立川基地が返還されたときも東大の移転問題が出た。しかし+文系や医学部(病院)など学内の反対にあって流れた。
その時移転に前向きだったのは工学部で、柏も工学部出身の教員、研究室が多い。(もっとも工学部は講座数が多く、薬学部の11倍、理学部、農学部の3倍以上と圧倒的に大きいから自然とそうなる)
10:16
閑散としているのは研究室が少ないこともあるが、学部生がおらず、外国人を中心とした大学院生(研究室に閉じこもる)のキャンパスであることも一因か。

東大を出ると正面の県立公園に野球場が見えた。
体育の教員でもあるW先生はこの一帯が陸軍飛行場であったことをご存知なく、車中、私のマニアックな話を聞かされていたが、ここでようやく話題を変えられて、すでに高校野球の予選が始まっていて、ここが主要会場の一つだということを教えてくださった。

駅までの道は広くて真っすぐ、無人運転の交通システムの話もあるそうだ。
「このビルはつい最近できたんですよ。どんどん変わっていきます」
なんて話をしているうちに駅に着いた。
大変有意義なドライブであり、W先生には深くお礼をしてドアを閉めた。
10:32
柏の葉キャンパス駅。
ららぽーとのある、暮らしやすそうな新しい町だ。
ボロ家、つぶれそうな個人商店ばかりの谷中根津千駄木とは対照的である。

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2025年7月18日金曜日

里芋、サツマイモ植付け、スイカ、網戸

たまに庭の写真を撮っているが、撮りっぱなしになってすぐ1月2月経つ。

何年かたって、あの時あの場所で何を作っていたか知りたくなることもあるので、記録として残しておく。

2025₋06₋09
イチジク
葉っぱがないのに実がついた。

2025₋06₋10
里芋の芽が伸びてきたので定植。
一か月前(5/10)、ハナマサで小粒の芋14個で258円だった。昨年は生協で発芽しかけたものが見切り品として40%オフだったが今年はなかった。
ジャガイモのあとに10株植えた。

6月15日、母の日父の日をまとめて息子夫婦と次女夫婦が巣鴨の隠れ家的レストランでごちそうしてくれた。

06₋19
6/18に収穫した玉ねぎ。
風通しの良い日陰でネットに入れて吊るすのが本当だが、面倒なので放置。ダメになる前に食べきればよい。
ジャガイモはタマネギの下にボロ布をかぶせて遮光。
06₋22 8:08
5番畝、6番畝に続き、玉ねぎのあと3番畝(左下)もサツマイモ。
日差しが強くなってきたので遮光。

この日、6/22はこの後牧野富太郎記念庭園に行った(別ブログ)

06-24 
7番畝のナス、トマト
今年のナスは例年と違う。
一つは夏野菜の王様として一番条件の良い1番畝、2番畝に植えてきたが、今年そこはスイカ、メロン、里芋を植えたため、柿の木の日影になる7番畝にもってきたこと。
もう一つは種まきをやめたことである。ダイソーでナスの種を買うと何年も使えたが、育つまで日数がかかり、収穫も著しく悪いからだ。今年から市販される苗だけにした。

06-24
7番畝の上から見た西方の畝
3番5番6番畝は6/14に植えたサツマイモ
4番はニンジンとトウモロコシ

6月28日、神奈川鶴見でダンス競技会(サルビア杯)
6月29日、石川さんに彼のダンスサークルの責任者になってくれと頼まれる。
7月2日、千葉市の高校で薬物乱用防止講演
07-03
今年初めて作ったアピオスの花

07-03

07-03
5番6番畝
サツマイモを高畝にしたため、その裾が空いていた。
そこで6/21にエダマメを蒔いた。高温のせいか、成長が早く、サツマイモよりも大きくなってきた。

07-03
西瓜の花にちょうちょ。
蜂や蝶よりアリがよく来ている。受粉にはアリの貢献のほうが大きいかも。
07₋03
この日の収穫
フキは年に一度食べればいいので、その6倍くらいは人に差し上げている。
最初に煮て皮をむき二回目に味付けして煮るという面倒な調理のため、欲しいという人にしか上げられない。こどもたちも生では欲しがらず、妻が調理してタッパーに入れて持っていく。
07₋03
2番畝は里芋とエダマメ
07₋10
4番畝のトウモロコシ
あまり関心がないせいか、育ちもよくない。

07₋10
3番、4番から5,6,7番方向を見る

07₋10
1番畝にスイカが2つ生っている

07₋10
この日の収穫
トウモロコシはいまいち。

07₋11
網戸の張替え
ふすまの張替えほど大変とは思わなかったが、アルミの枠を外したり面倒な作業だと思っていた。それゆえ2013年のリフォームのとき業者に頼んだ。
そのとき、ケチって破れていないものは頼まなかった。その後、張り替えなかった網戸は日光で劣化して破れてきた。
2年くらい我慢してきたのだが、先日、数年前に家を出た息子が昔の自室を片付けに来て、ガラクタの中から網が出てきた。簡単だというので自分でやってみた。アルミ枠を外す必要もなかった。

息子は自転車など自分で修理するし、スポーツを含めいろんなことに能力が高いと思うのだが、二階の自室から勉強机を下ろすのに業者を頼むという。これには仰天した。
そんなもの大人二人で朝飯前と思うのだが、階段でけがをするのを心配している。

彼はコロナワクチンや熱中症アラートなども信用しちゃって、私の子供とは思えない。もっとひねくれてワイルドに育ってほしかった。

2025年7月17日木曜日

千葉大亥鼻キャンパスと薬学部の移転

7月2日、薬物乱用防止講演で千葉市に来て、終わってから市内を歩き、38年ぶりに亥鼻城をみた。 (別ブログ)

亥鼻城のすぐそばに千葉大医学部がある(と書くと同じキャンパスにある看護学部、薬学部に怒られるか)
医学部だけあえて取り上げたのは、亥鼻は明治以来、千葉大医学部(という名前ではなかったが)の代名詞であったからだ。

亥鼻城址の北のバス通り(旧東金街道)の坂を上がってすぐ、通用門みたいなものがあったのでキャンパスに入った。
2025₋07₋02 16:53 看護学部前
通勤通学用の自家用車が自由に停められている。
まだ千葉大はふんだんに土地がある。

少し歩くと旧正門があった。
千葉大は西千葉キャンパスのほうがなじみ深いが、亥鼻のほうも最低3回は来ている。
最初は大学院生だった1980年ころ、生物活性研究所の山崎幹夫先生のところにアフラトキシンを産するカビのスラントをもらいに来た。
2回目は1987年3月、薬理学会を初めて聴講に。
3回目は2003年5月、シンシナチ大シュワルツ教授を常宿のオークラで内藤一秋氏とピックアップしブランチを食べたあと、医学部薬理学教室の中谷晴昭先生のところまで連れてきた。中谷教授は私より12年ほど前にシュワルツ研に留学されていて、シュワルツは来日すると会いたがられ、他にも1度食事会をセッティングしたことがある。
16:55 千葉大医学部 旧本館
旧正門からまっすぐ右斜めにある。
最後に来てから20年以上たっているがまだ残っていてうれしかった。

16:57 医学部正面玄関
かなり大きな建物だが現在は使われていないようだ。
1987年、2003年のときはこの中に入った。入れば何か思い出すかと思ったが
鍵がかかっていて無人のようだ。
16:59
奥に進むとミルフィーユのような建物があった。
ゐのはな同窓会館とあった。
左の向こうは旧医学部本館

ゐはW・Iと入れれば変換される。たしかにウィであるが、13世紀には音は「い」と一緒になり文書では大いに混同された。しかし明治以降の学校教育で復活し、井、位、為、猪はこのように書かれた。ただし人々が「うぃど」「うぃのしし」と発音したわけではない。
同窓会は過去とのつながりが大事だからこの字を用いるのであろう。実際「亥鼻会」、「いのはなかい」よりも良いと思う。
17:00
中を覗くと講演会場にもなるようだが、四方ガラス張りでエネルギー効率が悪そう。

17:02
旧医学部本館の裏に古びた建物があった。
このあたりは亥鼻台地の北縁に当たり、北に向かって崖のようになっている。
この古い建物は何だろう、と思って近くの案内図を見たが、書いてない。
代わりに5号塚、6号塚、などが目に留まった。
その一つの6号塚にはいってみた。
17:03 七天王塚
塚というが高さはほとんどない。7つの塚はいずれも径10mの円ないし類円形、高さは0.5mから1.5mほどの小円墳という。疫病除けとして牛頭天王をまつり、亥鼻城の大手口に北斗七星の形で並んでいるという。

しかし7つの塚をつなげても北斗七星の形に見えない。ただ千葉氏の家紋が月星紋・九曜紋という天体から採ったもので、北斗七星というのもあながち嘘ではないかもしれない。
(ちなみに千葉周作も千葉氏の末裔を名乗り、紋は月星紋、剣は北極星にちなむ北辰一刀流である。)
17:06
七天王塚をみたあと、さっきの古い建物が気になったので戻って中に入ってみた。
17:07
山岳部、軽音楽部、
学生のクラブ活動の部室だった。
敷地に余裕があるから歴史的建物も保存できる。

17:10
薬学部
薬学部は昭和41年(1966)以来、他の教育学部や工学部などと一緒に西千葉キャンパスにあったが、2004年と2011年に半分ずつ(新校舎の完成に合わせて)亥鼻に移転してきた。

ところで、我が国の薬学部は2006年度の入学生から6年制になった。
これは1999年に厚生省が「薬学教育のあり方に関する調査研究協力者会議」を設置、2002年には文部省と厚生省が合同で「薬学教育モデル・コアカリキュラム」を策定、薬学教育6年制の具体的検討を進めた結果である。これには薬科大学や薬剤師会の意向が入っている。

この変更は薬学教育を従来の有機化学主体の製薬化学から臨床薬学に大きく舵を切るもので、増えた2年間を臨床薬学の教育に充てることになった。
臨床薬学というのは生命倫理とか、薬局実習、病院実習などで、東大などは従来大学院修士課程で2年間実験していた学生が(将来あまり役に立つとは思えない)調剤実習に行ってしまうことで我が国の基礎薬学(有機化学、生命科学)が衰退してしまうことから大反対した。
しかし多くの私学や薬剤師会は2年間分の学費の収入が増えることと、医師と同じ6年になることで薬剤師の地位が上がるのではないかという期待から強く後押しした。

(ちなみに地位向上の期待は裏切られた。なぜなら6年制は学費収入が1.5倍になるということで新設薬科大が乱立、薬剤師が過剰となったからである。さらに6年制薬学部の学生は研究をほとんどしなくなってしまったため、製薬会社の研究所には就職できなくなるなど、ライフサイエンスの分野では理学部、農学部の学生(4年制プラス修士2年)に太刀打ちできなくなった)

さて、6年制になると医療現場と薬学はぐっと近くなる。千葉大薬学部の亥鼻移転はこうした流れと時期が重なることからそれに合わせたものかと思ったが、どうだろう?
よく分からないが、とにかく亥鼻に医学部、薬学部、看護学部が集まった。

千葉大薬学部は戦前の千葉医科大学附属薬学専門部から続いている。当時は薬剤師になるものが多かったが、戦後、国内での製薬業の興隆とともに基礎科学である製薬化学が重視されるようになり、1966年工学部や理学部(当初は文理学部)などのある西千葉に移転した。

すなわち、亥鼻(矢作町)→西千葉→亥鼻という校地の変遷は、薬剤師→創薬研究者→薬剤師という養成すべき人材の変遷と一致する。

薬学部の新しい2つのビルを見た後、奥(東)にすすむと真新しい大きなビルがあった。
亥鼻の主・医学部である。
この大きなビルを見れば、先に見た旧医学部本館が空っぽになったのもうなづける。
17:12
遠く離れていても大きく見える医学部。

千葉大医学部の前身については、20年近く前、ファルマシアのコラム「薬学むかしむかし」に何回か書いた。
すなわち、明治15年亥鼻城址の一角に創立された県立千葉医学校が、明治20年官立(国立)第一高等中学の医学部になったのが始まりである。第一高等中学というのは本郷弥生に本部があり、明治27年には第一高等学校となった。

当時の5つの官立高等学校は学部を持ち、二高(仙台)、四高(金沢)の医学部はそれぞれ本部の地にあったが、三高(京都)は岡山に、五高(熊本)は長崎に医学部を置いた。その後、二高、三高は帝国大学に昇格、他の官立高等学校は帝国大学の予科となり、付属の医学部は官立医学専門学校として独立した。
大正の終わりにはこれら官立医専は官立医科大学に昇格する。
岡山、長崎、千葉が戦後、入試制度で国立一期校に割り振られたのは、その設立母体の一部にこれら戦前の官立大学が入っていたからである。

ちなみに、これら高等学校附属の医学部には薬学科が付設されていた。
千葉も明治23年薬学科が附設され、卒業生は薬学得業士の称号が与えられ、試験免除で薬剤師免許が得られた。大正時代に薬学科は千葉医科大学附属薬学専門部と改称した。 
ちなみに、千葉は薬学部としての独立が早かった。東大は京都帝大ができるまで日本で唯一、学士を輩出する大学の薬学科であったが、薬学部として医学部から独立したのは昭和33年である。しかし千葉は戦後新制大学となったと同時に薬学部として独立している。
医学部の前の道
北は崖である。
ここで再び、初めて亥鼻に来たときのことを思い出した。
1980年、修士課程の2年目、生物活性研究所にきたとき、やはり左側が崖だった。秋の夕方だった気がする。それまでうまくいかなかったペニシリン、セファロスポリンの生合成に関する研究をやめ、アフラトキシン類の生合成研究に切り替えようとしていた。
亥鼻台の地形
生物活性研究所は戦後すぐの1946年 9月、千葉医科大学に付設された腐敗研究所が前身であった。いまは改組され真菌医学研究センターとなっている。場所はどこだったか分からない。もちろん地形図を見ても分からない。

地形図では県庁の横で渡った都川が北を流れている。亥鼻の崖は川が作ったというより太古は海が入っていて波が斜面を洗って削ったのだろう。
17:14
医学部正面
威圧感があり、入りたい気も起きず素通り。
17:14
医学部の向こうに附属病院が見えた。
空も広いが、敷地も広い。
17:16
外来診療棟ロビー
 2014年夏に竣工。
ドラマでよく見ている。調べたらドクターX(大門未知子)、ブラックペアンなど数多くのロケに使われている。
17:17
二階に上がってみた。
この時間だと診療時間でないから人は少ない。
17:26
旧正門
薬学部、医学部、病院、みな東のほうに新築して正門も東に移ったが、歩きの人はこちらのほうが使いやすい。
17:30
旧東金街道を下る。
昔の道は尾根を通った。千葉氏がいたころからこの道はあったか。

17:32
亥鼻台の東、北、西を流れてきた都川まで降りて亥鼻城をみる。
近世の城であれば、このあたり家臣などの住んだ武家町であろうが、あれは城ではなく郷土博物館だから、ここに城下町の雰囲気はない。
17:43
県庁前に向かうモノレール。
亥鼻に行くとき通った地点に戻って来た。

歩いてくる途中、かつての千葉町の中心に、通りの名前にもなっている官民共同複合ビル「きぼーる」があった。中央区役所、千葉市科学館、子育て支援館、保健福祉センターなどが入居する。その前に「公立千葉病院の跡」という碑があった。

明治7年創立の共立病院は、
明治9年にこの地で公立千葉病院と改称し、医学教場を付設した。
それが明治15年に県立千葉医学校と附属病院、明治21年に第一高等中学医学部となり、
明治23年9月、亥鼻台に移転したと、記されていた。
すなわち、県立千葉医学校は、多くの人が信じているように亥鼻城址の一角にあったのではなかった。

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