2025年4月16日水曜日

京都25 京大桂キャンパスとM氏の退官最終講義

3月7日、京大工学部のM教授の退官記念最終講義に来た。

めったにない遠出なので前日は長浜、安土、近江八幡を歩き、この日も午前中は嵯峨野渡月橋から松尾大社を見物してきた。
阪急電車の松尾大社前から桂に来る。
11:56
阪急・桂駅
嵐山線と京都線の分岐駅で、私鉄だが線路が多い。

ここから路線バスで京大桂キャンパスに向かった。
京大桂は20年ほど前、何度も訪ねたことがあるが、つねにKRPから五条通りを西に走る市バスで「国道三の宮」のバス停で降り、坂道を上がっていった。当時はキャンパスができたばかりで、中まで行くバスがなかった。

阪急桂駅からのバスが本当にキャンパスまで行くのかどうか心配だったが、京大生らしき学生が何人か乗っていたので安心した。
2013年4月のキャンパス

桂キャンパスは緩やかな丘陵地を切り開いて2003年10月にオープン。工学部が吉田キャンパスから移転してきた。

バスを降りて昼食をとれるところを探す。
春休みのせいか開いている学生食堂がどこにあるか分からず、歩いていると福利棟の一階に小さな食堂があった。名前はCrews(クルーズ)という。
12:36
メニューを見ると旨そうだが、学生700円、教職員900円、一般1000円とある。
ふつう大学の食堂は学生も一般も区別できないから同一料金であるが、学生証が磁気カードになって食券購入の際に提示することで区別が可能になったのだろう。学生証を銀行口座などに紐づければキャッシュレスでも食べられるのかもしれない。
12:42
食券を配膳口に出してテーブルで待ち、料理ができるとモニターにレシートの番号が表示されるから、自分で取りに行く。食堂側は作り置きの必要もないし人出もかからない。客のほうも出来立てが食べられ、行列もできにくいから良いシステムである。

食べながら思い出した。
このクルーズという店の場所は昔、別のレストランだった。
そのときのテーブル、いすなどの調度品は今とは違い、その配列、内装も異なっていたから雰囲気が全然違っていた。ランチが2500円か3000円したから学生などはいなかった。森さんが奢ってくれたのだが、隣のテーブルは近所の有閑マダムが優雅なおしゃべりランチを楽しんでいらした。2007年から2014年の年別キャンパス地図にはレストラン「ラ・コリーヌ」として載っている。もちろん今の店のように食券を買うとか食べ終わると下膳口まで食器を運ぶとかはなく、フルサービスの高級店であり、京大もお洒落だな、と思った記憶がある。

食べ終わると息子からラインが来た。
彼は子供のころから森氏が好きなので午後の最終講義だけ聞きたいと、日帰りで東京から来て、今、キャンパス行きのバスに乗ったという。彼は夜の懇親会に出ないから森さんに挨拶して少し話をしたいというので、森研のラボで待ち合わせることにした。
13:17
森研究室

森泰生氏は2001年に岡崎生理学研究所で教授になったあと2003年6月、京都大学大学院工学研究科の合成・生物化学専攻、分子生物化学講座の教授に就任した。1960年の早生まれで最年少の教授だったらしい。そして桂キャンパスがその年の10月にオープンする。
私は2003年11月から2005年10月まで京都リサーチパーク(KRP)に月2回ほど通ったから、ちょうど森氏がこの研究室を立ち上げた時期に重なる。

恵美子さんも含め私たちは30代のころの若さを40代になっても引きずっていて、夜までおしゃべりするために何度か彼の新居(桂キャンパスの西に造成された住宅地にあるお洒落なマンション)に泊めてもらった。
そういう時は夕方KRPでの仕事が終わるとバスで国道三之宮まできて坂道を上がってこの研究室に来る。夕食はおばんざいの定食屋だったり、ドライブインのようなファミレスだったり、長岡京のほうだったかタケノコ懐石料理の店にもいった。泊めてもらった翌朝、またKRPにいくか東京に戻った。

KRPは2年間通ったのでそのたびに森研に行くのは申し訳ないし、ひとりのんびり様々な宿に泊まるのもそれはそれで面白く気楽でもあるので、いつしか森研を訪ねることはなくなった。それ以来20年、このラボを見ると前と全く変わらず懐かしい。
13:21
森さんが9歳のころから尊敬していたというゴルゴ13の一コマが貼ってあった。
「長話は無用だ。イエスかノーで答えろ」
また、「森訓」という研究人生訓のようなものが内部から貼ってあり、裏文字で読めた。真面目に書いてあった。
13:21
結局森夫妻は研究室にはおらず、学生さんに聞くとすでに最終講義の会場である船井講堂のほうに行っているという。講演は14:00からだが、まあそうだな、我々と違ってお客様をお迎えしなくちゃいけないからな。

我々も会場に行く。
同じ工学部出身の息子は初めての京大桂キャンパスの広大さに感心しきり。
13:27
講演会場・船井哲良記念講堂
中に入ると既に受付が始まっていて、森夫妻がいろんな人と話していた。
懐かしい顔がたくさん。
ところが親しく声をかけられて顔は見たことはあっても誰だかわからない人がいた。別れてから、恵美子さんに「あの人、誰だったっけ」とこっそり聞いたりした。20年ぶりだから風貌が変わり、かつこちらの脳の記憶が薄れている。

やがて最終講義が始まった。
タイトルは『分子に導かれて「月影」MoonLightを探究する』

森さんは1983年に京大工学部合成化学科を卒業後、大学院に進んだ。
このころの研究は
Shono T, Kashimura S, Mori Y, Hayashi T, Soejima T & Yamaguchi Y.
Electroreductive intermolecular coupling of ketones with olefins.
J. Org. Chem. 54, 6001-6003 (1989).
になっている。
14:13
最終講義は彼の研究半生を振り返るもの
スライドは沼研の集合写真。

しかし1985年に修士課程を終えると博士課程は医学部生化学教室、世界的に有名だった沼正作研究室にうつる。

論文リストをみれば、その翌年からNatureの論文に名を連ね始めるから、沼研に入ってすぐトップスピードで活躍し続けたことが分かる。
1
Imoto K, Methfessel C, Sakmann B, Mishina M, Mori Y, Konno T, Fukuda K, Kurasaki M, Bujo H, Fujita Y & Numa S.
Location of a δ-subunit region determining ion transport through the acetylcholine receptor channel.
Nature 324, 670-674 (1986).

(この間の2報は略)
4
Imoto K, Busch C, Sakmann B, Mishina M, Konno T, Nakai J, Bujo H, Mori Y, Fukuda K & Numa S.
Rings of negatively charged amino acids determine the acetylcholine receptor channel conductance.
Nature 335, 645-648 (1988).
5
Mikami A, Imoto K, Tanabe T, Niidome T, Mori Y, Takeshima H, Narumiya S & Numa S.
Primary structure and functional expression of the cardiac dihydropyridine-sensitive calcium channel.
Nature 340, 230-233 (1989).

しかし彼の名を一気に世界的にしたのは、脳内のCaチャネルをクローニング、アミノ酸配列を決め、機能するイオンチャネルとして発現させた次の論文である。

7
Mori Y, Friedrich T, Kim M-S, Mikami A, Nakai J, Ruth P, Bosse E, Hofmann F, FlockerziV, Furuichi T, Mikoshiba K, ImotoK, Tanabe T & Numa S.
Primary structure and functional expression from complementary DNA of a brain calcium channel.
Nature (Article) 350, 398-402 (1991).

当時、Natureは今のようにNature Chemistry, Nature Medicineなどと20以上に細分化されていたわけでなく、天文学、地質学、進化から医学までたった1冊の雑誌だったから、そこに掲載されるのは大変なことであった。論文はふつうLettersという短い要約された形で投稿、掲載される。しかし、この論文はEditorが画期的と判断し、LettersでなくArticleという特別論文として掲載された。

イオンチャネルというのは細胞膜に存在し細胞機能に決定的であるため生物学者の長年の大きな研究テーマだった。またチャネルというたんぱく質のゆらぎがゲートの開閉に相当し、そこを流れる電流が膜電位変化に通じるから物理学の面でも興味がもたれた。ところが膜タンパクというのは巨大かつ精製が難しいため化学的構造(アミノ酸配列)の決定が遅れ、生化学の面でも大きなチャレンジ目標だった。そして1980年代というのはCa拮抗薬というイオンチャネル阻害薬が高血圧領域で爆発的に使われ、医学の面でも大きな興味の対象だった。そして近年の脳科学、神経生理学である。神経活動(刺激の受容、計算・統合、次の神経への情報の伝達)はイオンチャネルによって行われる。
こうしたことから、彼が神経のCaチャネルをクローニング、発現させたことは世界中の研究者を驚かせかつ興奮させ、この分野の研究を一気に進めることになった。

1992年2月、沼先生が、おそらく確実だったノーベル賞を取る前、63歳になったばかりで急逝されたあと、 森さんは世界中のライバル研究室から引っ張りだことなった。本人の能力はもちろん、イオンチャネルのクローンという貴重な物的財産、また沼研のノウハウなどがついてくるから、彼を獲得するのは研究者10人分以上の価値があったのではないか。
結局彼は1992年12月、アメリカシンシナチ大学のシュワルツ研にうつった。
その翌月、93年1月に沼先生メモリアルシンポジウムが早大であり、私は初めて彼の講演を聴いた。
シュワルツは昔から田辺製薬と関係があり、シュワルツが電気生理学の研究者が欲しいということでその年の8月、私はシンシナチに留学し、森さんに出会う。

イオンチャネルのクローンを持っているというのは、この分野での決定的な強みであり、森さんと親交のあったエーザイと田辺は彼の全面協力のもとイオンチャネル創薬に関して欧米メガファーマに先行した。1億円もしたMolecular Devices社のパッチクランプロボットのIonWoksの9台目を買ったのが世界から見たら弱小メーカーの田辺製薬であり、エーザイもこのロボットを同時期かそれより早く買っているはずである。
メガファーマから見たらベンチャーのように小さくても田辺のイオンチャネル例えばT型Caチャネル創薬に関する世界的先行性は、のちにグラクソ社とプロジェクトテーマの情報交換をした時にも明らかになった。もっとも田辺もエーザイも医薬品までは到達しなかった。しかし医薬品の研究開発というのはそういうものである。

それにしても貴重なCaチャネルのクローンを4つももらったのに、田辺から彼には研究協力費など一切払わなかった。会社からの命令でなく私が自発的に始めたプロジェクトだったからだ。まさに公私混同だった。

森さんはその後、謎が多かったストア作動性チャネルに未知の大陸のような魅力を感じたのか、第一人者であった電位依存性Caチャネルから、こちらのほうに軸足をうつし、のちにTRPチャネルという大きな分野に発展したイオンチャネルの第一人者となった。

ここでTRPチャネルについて説明すると
細胞膜のイオンチャネルは3つに大別される。
1.受容体作動性チャネル
沼研が初期に初めてクローニングしたアセチルコリン受容体作動性チャネルのように、細胞外の液性情報を細胞内に伝えるチャネル
2.電位依存性チャネル
沼研が世界で初めてクローニング、発現させたNaチャネルや骨格筋Caチャネル(田辺勉氏)、神経Caチャネル(森泰生氏)など、細胞膜の局所興奮を細胞のほかの部位に伝えるもの。
3.外部刺激作動性チャネル
膜が引っ張られることで開くとか、温度を感知して開くなど、細胞外部からの物理的刺激、情報で開くチャネル。

TRPはこの3番目に相当するもので、機械的(浸透圧、触覚)刺激で開くTRPV4チャネル、熱さ(唐辛子でも)で開くTRPV1、冷たさ(メントール、わさび)で開くTRPM8、TRPA1などが知られる。
森研ではこれらTRPチャネルを網羅的にクローニングし、これらの刺激だけでなく、H2O2などのROSによってTRPM2が、一酸化窒素(NO)によりTRPC5が活性化され、さらにはTRPA1が高酸素または低酸素で活性化されるなど、TRPチャネルが生物にとって極めて重要なレドックス感受性にも関わっていることを示した。

熱い最終講義の後、ステージに椅子が並べられパネルディスカッションが行われた。ふつう退官記念行事は講演と花束贈呈くらいだから、これは珍しい。
パネルディスカッション
『登山は人気があるが、なぜ科学研究は人気が無いのか?』

退官に当たり、沼研でのご自身の体験をふまえ、自分が研究室を主宰してからの学生の気質と社会情勢の変化から、日本の科学の将来について不安があったのだろう。

この後休憩。
ここでようやく若森実氏と話ができた。
シンシナチで実験面だけでなく日本食に使えそうな食材が見つかるジャングルジム(スーパー)に連れて行ってもらったり、人のいない森林のような公園でバーベキューをしたり、シカゴに旅行したり、世話になった。彼は生理研、京大で森さんのプロジェクトの電気生理学方面を引き受けて支え、東北大歯学部教授として独立された。
今回の退官記念行事には我が家と同様、家族で参加されている。
16:58
花束贈呈
人が減ったのは、講義だけ聞きに来た学生が帰ったためか。

あるいは休憩に行った人が話が弾んで戻ってこないせいかもしれない。
集まった人々は、森さんを中心にして同じ分野で研究していた仲間である。私のように引退して長い人は会う人、会う人が懐かしい。
私の場合、薬科大の退職は3年前だが、田辺製薬の研究所を退職した12年前に、この分野の研究はもちろん、サイエンスの現場から完全に離れてしまった。もう最新の研究の話は分からず、思い出話くらいしかできない。
17:13
晩さん会前。31年ぶりの人、その時生まれた人と。

晩さん会は退官記念パーティでよくあるブッフェ形式でなく、結婚式のような正餐であった。
発起人代表、主賓、乾杯音頭の人々の挨拶、思い出のスライドショー、海外からのビデオメッセージ、記念品披露などが続く。何人かの卒業生がでてきて研究室での思い出話に皆が笑う。
となりの永田龍氏は京大山岳部で森さんとの関係を聞く暇がないほどヒマラヤの話が面白かった。前に座っていた妻は、全く私のほうを見ないほど、32年ぶりの若森千代子さんとの話に夢中だった。
17:59
歩き回れる時間があり、梅田真郷氏とは45年前、応用微生物研究所の投手をされていたときにバッターボックスから立ち向かって以来、初めてお話しした。金子周司氏、加藤健一氏、西田基宏氏、森誠之氏とも、ほんの少しだけ話せた。
しかし、話すチャンスがなかった人も多かった。たとえば森さんとは関係なくグルタミン酸トランスポーターで世話になった金井好克氏、生理研に何回か行ったときまだ大学院生だった岡田峯陽氏、京大桂で研究室が始まったときの助手で信州下伊那郡上村出身の原雄二氏、田辺製薬研究所に見学に来た加藤賢太氏などは遠くから顔だけ拝見した。

宴が終わり森夫妻は会場出口で挨拶している。
退出する人々の歩みは自然と緩やかになり、おかげで石井正和氏、清水俊一氏、またシンシナチ以来の鰐渕博氏とは、このときにようやく言葉を交わせた。
18:47
もっとこの場に居たかったが、新幹線に乗り遅れないようにと、森夫妻との挨拶の行列には並ばず、手だけ振って船井哲良記念講堂をでた。
しかしキャンパスからJR桂川駅行きのバスに乗り遅れ、結局後から出てきた人々と一緒になった。おかげで清中茂樹氏と隣になり、20年ぶりに話ができた。

桂川駅から妻と二人だけになった。

今回集まった人々はみな森さんを中心にして知り合った。
あちこちで話の輪が咲き、皆がいい顔をしていた。皆がいい思い出を持っているのだろう。
それらの思い出ができたのは彼の人徳か。

京都駅の新幹線改札に入り、妻はお土産をいくつか買った。
発車時刻が近づきホームに上がって歩いていると、晩さん会のときに見た顔があり、先方も私に気が付いた。初対面だったが、晩さん会のとき卒業生として厳しくも楽しかった森研究室時代のエピソードを面白く話してくれた新見大輔氏だった。京都での最後の瞬間まで森教授退官記念パーティの余韻を味わった。

(京都終わり)

前のブログ

2025年4月7日月曜日

クルーズ6 二度目の飛鳥IIと前川清ショー

1月以来、再び飛鳥に乗った。
前回は連続3つの航海だったが、今回も2泊3日の駿河湾クルーズと6泊7日姫路・高知・日向の2航海が連続した8泊9日。
前回全部で10泊したから豪華客船飛鳥IIに対して物珍しさはなく、食事が一番の楽しみになっている。

3月21日、横浜で乗船。
最初の2泊は部屋が空いているということでツインの部屋に一人。もちろんオーシャンビュー。
部屋で荷を解いて簡単な避難訓練のあと、さっそく11階で2か月ぶりのビーフハンバーガーを食べた。フルコースディナーも勿論おいしいのだが毎晩だとありがたみがなく印象に残らない。むしろハンバーガーとか朝食のアンパン、夜食のお茶漬けの旨さのほうが頭に残っていたりする。

3月21日乗船日のイベント表
食事メニュー 3/21夕食、3/22昼食、3/22夕食

3/22夕食のゲスト・シェフの片岡護氏はイタリアンの巨匠として有名らしいが、毎日豪華だから皮肉にもあまり違いが分からない。

2025‐03‐22 12:42
昼御膳(メニューは一つ前の写真)
料理は他でも見るものだが(もちろん私は普段こんな豪華ランチは食べないが)、咲く直前の桜の枝が添えられているのが飛鳥IIである。7~800本も用意したのだろうか。部屋に持ち帰ってコップに差している人もいた。
2025‐03‐22 14:05
3/21夕刻に横浜を出港、3/22目が覚めると駿河湾。
午前中湾内を一周してから三保の松原の沖を御前崎のほうまで南下し、午後になって伊豆半島を周り相模湾を目指す。

富士山は海抜ゼロメートルから見えるから地上からよりずっと大きい。しかし前回より霞んでいた。春霞なのか黄砂なのか。
そもそも日本古来の春霞自体も黄砂がメインだったのかもしれない。
3/22は1日クルージング
この日は別所哲也のステージもあったが、特に興味がなかったので見に行かなかった。
毎晩ダンスパーティがあるが、上陸せずクルージングだけの日は午前と午後に45分ずつ講習会もある。

3月23日朝、横浜入港
乗客は下船するが、我々は夕方から次のクルージングがあるので一日中船内にいる。
のんびり11階で朝食をとった。下船・乗船日は昼食はないので美味しいものをいっぱい食べた。こうすれば15時にリドカフェが再開するまでお腹が減らない。

誰もいなくなった食堂の窓から外を見ると大さん橋の反対側に大型客船が入っていた。

2025-03-23 8:59
大さん橋の向こうに大型客船 Norwegian Spirit。
この船は正装不要のカジュアルシップで、豪華さはそれほどないがその分値段を抑えている。
75,904トンだから飛鳥II(50,444トン)より大きい。
乗客定員/乗組員数=サービスレシオは2,018名/912名=2.21(飛鳥は872名/490名=1.78)


夕方、横浜出航。
ここから6泊7日、2回目のクルーズ。
この日下船したWさんの代わりに乗船したIさんと同室。

3/24 
西に向かって一日クルージング。
ダンスの仕事以外の時間は、11階のEスクエアで先日の近江見物のブログ書き。
PCを打っているとウェイトレスが「お飲み物はいかがですか?」と毎回笑顔で聞きに来てくれるが、普段からお茶は飲まない体質なので、笑顔でお礼を言って、断る。
2025‐03‐24 17:24
右が本州最南端、潮岬
ここから紀伊半島を周るように大阪湾に入っていく。

この日の夜は春野恵子の浪曲ステージがあったが、見に行かなかった。
21:00₋23:00のダンスの仕事のあと、11階の大風呂に行った。
体重測ると増えていたが、食べ物というより競技ダンスの練習をしないことが大きい。ふだんはレッスン受講2日、練習3日、週5回かなりエネルギーを使って運動しているが、船のダンスは穏やかな社交ダンスだから運動にはならない。しかし床の硬さと波による揺れとで、足は痛くなり脚は疲れる。

3/25 
朝、姫路入港。飾磨4号岸壁。
上陸する人と船内でのんびり過ごす人といろいろ。
上陸する人はほぼ全員が飛鳥が用意した無料バスでJR姫路駅までいき、そこから姫路城の見物に行く。
しかし私はこの名城を一度見たことがあるので、ひとり姫路駅から電車に乗って播州赤穂にいった。
(別ブログに書く予定)

03‐25 17:05
夕方、姫路出航にあわせ、姫路市立琴丘高校吹奏楽部がお見送り演奏をしてくれることになった。船内放送を聞いて7階のプロムナードデッキに行く。
17:07
高校生が演奏準備中に反対の海側の舷で港内消防船が噴水のお見送りをするというので行ってみた。観客がほとんどおらず、また噴水船が飛鳥に比べて小さすぎるので「お見送り」のセレモニーらしくない。

ちなみに、7階デッキの頭上救命ボートはテンダーボートといい、緊急避難用のボートよりも大型で設備が充実しており、接岸できない港との行き来に使われる。
第二次大戦前、水雷艇や潜水艦など長距離自走能力が不十分なころ、これらは母船の支援を受けながら活動した。これら母艦をtenderといい、保守、支援を行う付属船をtender boatといった。
17:12
演奏中の高校生。おそらく技術はまだまだだろうが、選曲がいいのか生演奏がいいのか、ちょっと涙が出るくらい感動した。
毎回思うのだが、デッキまで出てくる乗客はごく一部なため、感謝の気持ちを伝えられないのがもどかしい。もっとも乗客はそれぞれ自分のペースで過ごしたいのは当然であるが。

夜は前川清ショーがあった。
姫路で乗り込み、船内1泊だけで翌朝高知で下船するらしい。

メガネを持ってきていないので部屋のテレビで見ようかと思ったが、それでは茶の間のテレビと同じになってしまうので生ステージを見に行った。
18:52
前回の由紀さおりは全く年齢を感じさせず昔通りの歌声だったが、彼の喉はさすがに衰えを感じた。1948年生まれだから今年77歳である。

しかし歌の合間のトークは面白かった。
歌手時代は(今も歌手だろうが)、ほとんど表情を変えずまったく喋らないと言う冷たい二枚目キャラクターであったが、途中で「欽ちゃんのドンとやってみよう!」に起用されると笑いの才能も認められるようになった。のちに、初期の無口キャラも「欽ドン!」時代の朴訥な大ボケキャラも「演技だった」と告白している。
ふつう本性とは別のキャラを演じる場合、一つであるが、彼のように両極端を演ずる場合、むしろバランスがいいかもしれない。

今回も歌よりトークで盛り上げていた。
終盤になって
「ここに来る前、観客の皆さんがどういう人か不安でした。でも拝見しまして若い人はほとんどいらっしゃらず、皆さま私と同じような方がたで安心しました」「年をとると記憶があやふやになり、今日のステージも実際にあったのか夢だったのか、はたまた船に乗ったかどうかも分からなくなります。幕が開く前に「録画、撮影はご遠慮ください」と注意がありましたが、写真があったほうが思い出しやすいでしょう。どうぞ、お写真、録画、ご自由にお撮りください」(大意)
といって、ステージを下りて観客席のあいだを歌いながら歩き始めた。
18:59
あちこちでスマホに向かってピースサインをしたり、握手したり。
ああいうサービスをしながら歌詞を間違えない(あるいは間違えてもそう思わせない)のがプロなのだろう。
19:00
長崎の高校を2年で中退、フランスベッドやダスキンなど転職しながら長崎市内のキャバレーで歌っているところを見出された。最初は内山田洋とクール・ファイブの楽器運びなどのバンドボーイとして付いていたが、のちリード・ヴォーカルとして起用され、1969年2月「長崎は今日も雨だった」でメジャーデビュー。

1971年に藤圭子(1951‐2013)と結婚したが翌年に離婚。
(ちなみに藤圭子は1982年に音楽プロデューサー宇多田照實と再婚、宇多田ヒカルを産むが2013年死去。精神疾患を患い自死という)
19:01
一番後ろのほうにいた我々のほうまで来てくれ、会場全体を盛り上げた。

我々はこの後夕食、21:00からダンスの仕事。
その間、船は夜通し走った。

同室のIさんは浪曲が好きで、今回のクルーズで春野恵子のステージが24日と27日の2回あったこと(彼女は東大卒、俳優から転じた異色の女流浪曲師)、また私がこの日25日の昼に播州赤穂城に行ったこと、夜の前川清が藤圭子と結婚していたこと、などから、私に藤圭子の「刃傷松の廊下」の動画を送ってくださった。ちなみに藤圭子の両親は全国を行脚する浪曲師だった。ベッドに寝ころびながら再生すると、Iさんは一緒に歌いだした。春野恵子のステージもぜひ行くべきだと勧められたが辞退した。

3/26 
朝、高知新港入港。
03‐26 9:02
第7ふ頭2号岸壁。
向こうにはオランダ船籍の客船・ノールダムNordamも停泊していた。82,500トン。
Holland America Line社の船はすべてdamの語尾で終わる。
03‐26 9:03
海側は浦戸湾の入口にかかる浦戸大橋がみえる。
橋の先の島のような森が桂浜。
浦戸湾は入り口幅140m・奥行き6kmの縦長の湾である。太平洋の荒波がもろに押し寄せる土佐湾とちがい、その深い支湾として、古くから天然の良港であったが、近年は大型船が入れず、湾の外に高知新港ができている。

1月の飛鳥クルーズで上陸した名古屋、広島、新宮は、岸壁から歩いて交通機関の駅に行けたが、今回の姫路、高知、細島はいずれも歩ける範囲に駅、バス停はなく、飛鳥IIのシャトルバスを利用せざるを得ない。無料であるが、時間が限られる。

高知新港から飛鳥の用意したバスで桂浜に行き、そこから路線バスに乗り換え、高知市内にいった。高知城、桂浜の様子は別のブログで書く。

午後、船に戻ってきてからランドリーでせんたく。 
16時すぎに11階で軽食をとり、外を見たら岸壁でよさこい踊りのパフォーマンスをしていた。出航時のお見送りイベントとして和太鼓やひょっとこ踊りもあったらしい。向こう側からノールダムが出航していったが、そちらはイベントがなかったように見える。
地元物産の出店やイベントは船の運航会社と、地方自治体(観光協会)との連携によるものだから、これは外国籍と日本籍の客船の違いかもしれない。

夜、風呂に入る日だがさぼる。
高知城や浦土城跡の石段、坂道を登り、さらにダンスで疲れたのか、夜中に足がつる。

3/27 
九州に向けて夜通し走り、宮崎県の細島に入港。
天気は雨が降ったりやんだり。
飛鳥のシャトルバスで日向市駅まで送ってもらう。
天気が悪いこともあり大半の人はそこの「道の駅」で買い物をして帰ったようだが、私はひとり電車に乗って延岡に行った。(別ブログの予定)

17時ころ細島港を出港。
この日は船が揺れた。
ダンスタイムの遅番で24時を過ぎ、疲れていたので風呂は翌朝入ることにしてこの日も即眠る。

3/28 
朝食後、風呂に入る。露天風呂は誰もおらず、天気も良かったが海だけ見ている習慣もないので普通の大風呂に戻り頭を洗って出た。昨日以来、船はまだ揺れていて、体重計に乗るも数字が一定しない。
この日は太平洋をひたすら東に向かう。

3/29 
朝、横浜入港。

(続く)

前回のクルーズ

2025年4月2日水曜日

京都24 嵯峨野と松尾大社の秦氏

たぶんこれが最後の京都となる3月7日、新しくできた梅小路京都西駅から嵯峨野線にのった。車中はインバウンド客でごったがえしていた。

高架線で景色はつまらぬが、各駅に記憶がある。
1.2年間通ったKRPのある丹波口、
2.そのころ常宿のあった二条、
3.たまに降りた円町、
4.2004年仁和寺、2017年の双ヶ岡や2022年妙心寺・仁和寺に泊ったときの花園、
5.(たぶん)降りたことのない太秦
の5つの駅を過ぎて嵯峨嵐山駅でおりた。

嵯峨嵐山の駅は少なくとも一度2004年3月17日に降りたことがある。
当時はダンス競技は始めていないが踊るのが楽しく、KRPに滞在中、何度か京都のダンスパーティや練習場を訪ねた。あるときダンス雑誌で嵐山の公共施設でパーティがあることを知り、訪ねたのだが踊れる人がほとんどいなくて帰って来た記憶がある。
しかし2008年に橋上駅となり今や昔の面影は全くない。

さて、どこに行くか。
じっさい嵯峨野を歩いたのは
1973年10月高校の修学旅行、
1978年3月関西製薬会社研究所見学の帰り
1981年5月大阪での研修中、長野の両親が京大阪を見物に来たとき、
1984年10月山田夫妻との京都旅行、
と4回は確実にある。

大覚寺、あだし野念仏寺や落柿舎など記憶にあるが、何度も歩いて今や特に行きたいとも思わないので真っすぐ桂川の渡月橋を目指した。
10:17
線路の北側にテレビでよく見る竹林があった。
道の両側が竹林というのは昔からあったが、竹林の公園の中に遊歩道が作られているのは記憶にない。もちろんインバウンド客でいっぱい。
この日は雨が降ったりして非常に寒く、マフラーで耳を覆った。

踏切を渡るとすぐ、人が集まっている。
10:21
野宮神社
かつて、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王(未婚の皇女)が伊勢に赴く前に身を清める場所であったが、今はどうなのだろう?
10:22
主祭神は野宮大神(天照皇大神)だが、境内に摂社が多く、それぞれに学問・恋愛成就・子宝安産等を願う人が参拝する。我々は中に入らず通り過ぎた。
10:24
再び両側が竹林となる。

10:26
嵯峨野のメインストリート、渡月橋から続く府道、長辻通にちかづくと両側が竹林から商店となる。まるで原宿のような様相を呈し観光客が一気に増える。

10:29
長辻通。右は天龍寺。
10:30
天龍寺
臨済宗天龍寺派の大本山。開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。尊氏が征夷大将軍となった翌年、対立していた後醍醐天皇が吉野で崩御した。このとき
武家からも尊敬されていた禅僧・夢窓疎石が、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧め、尊氏が離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。
建立の費用を捻出するのに元との交易を期待し貿易船を出した(天竜寺船)。

足利義満の時代に臨済宗は寺の格を決めた。
南禅寺が別格で、京都の天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺、鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺をそれぞれ五山に決定した。
天龍寺は京都五山の第一位とされ、いまよりずっと広大な敷地に子院150を数えたという。しかし度重なる火災で古い建物はほとんど焼失したらしい。
10:32

10:33
観光バスが何台も来ている。
連れてこられた乗客は京都に行ってみようとは思っていただろうが、ぜひ天龍寺を見たいと思う人はどれだけいるのだろう?

10:36
大方丈(左)と庫裡(右)
両方とも明治32年(1899)の再建。
ここまでで、中には入らなかった。
天龍寺は1973年の修学旅行、1981年就職して大阪での研修時代に長野の両親を案内したときの2回は来ている。ほかに嵯峨野に2回来ているが、天龍寺に来たかどうかは不明。
庭と池の記憶はあるから1,2回は入っている。
10:37
しかし中は入らず、引き返して喧騒の通りに戻った。

10:43
昔はなかったモールのような複合施設。
各店が囲む中庭にテーブルが出ている。
歩き疲れた妻が餡バターのたい焼きを食べたのは嵯峨野らしい。
私は朝食を食べ過ぎたので見ていた。
嵯峨嵐山マップ
40年以上前、大覚寺、二尊院なども行ったな、としばし眺める。
変わらない寺社の場所を見て懐かしみ、そして大いに変わった観光客と飲食店を確認できたので嵯峨に来た目的を達した。
10:57
嵐山グルメ横丁
観光客が喜びそう。
10:58
昔はソフトクリームなどがメインで唐揚げやメンチカツなどは記憶にない。

10:58
10:58
和牛ひつまぶし豆富食べ比べ御膳3300円、和牛炙り焼き御膳5000円などは明らかにインバウンド客を意識したメニューだろう。

桂川に出た。
11:00
渡月橋北詰
修学旅行生が信号のため橋の上で渋滞している。
文字通りのオーバーツーリズムである。
そもそも高校生などは京都奈良でなくてもよい。私は古臭い寺社など全く興味がなかった。班別自由行動の日は、班員の誰かが決めた、似たようなお寺に入るたびに入場料200円、300円払うのが馬鹿らしかった。古都は大人になって興味と知識をためてから個人で来るべきである。
それまではスキーとか海水浴の合宿みたいなものが良いと思う。
11:00
平日でもこの混雑。
11:01
橋には大堰川と書いてある。
渡月橋から下流は桂川でよいが、渡月橋から上流を大堰川という。この大堰川のうち、保津峡から亀岡の間を保津川と呼び、さらに遡ると園部辺りで再び桂川となるらしい。
11:01
対岸が嵐山。しかしJRの駅や地域名の嵐山は桂川左岸(北)にある。
左岸は小倉山である。

11:05
中の島まで来ると人は減る。

11:11
右岸を大悲閣千光寺あたりまで歩くのも良いが行かない。

渡月橋を渡るとあれほどいた観光客がまったくいなくなった。
11:13
渡月橋からわずか2分。桂川の南岸は北岸と違ってほとんど人がいない。
嵐山のいちばん山裾の道を辿る。
11:16
尾根伝いに苔寺への抜け道がハイキングコースになっているらしい。
11:24
このあたり川と山に挟まれた民家が一列に並び、各家は専用の橋をもっている。
11:25

渡月橋から20分かからずに松尾大社に到着。
名前だけはよく聞くが来たのは初めて。
実はここが今回の嵯峨野行きの目的地だった。
喜多門と書かれた北門から入る。
11:31
松尾大社 左:授与所、正面:拝殿

この神社は平安京より古く、背後の松尾山にある磐座を神体としている。
平安遷都以前にこの盆地を優れた農業土木技術で開拓した帰化人の秦氏が祀って氏神とした。
秦氏は雄略天皇の時代、絹を「うず高く積んだ」ことから「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てた地名ができた。太秦にある広隆寺は秦氏の氏寺である。

京都盆地の歴史を知るうえで秦氏は極めて重要であり、いつかは来てみたいと思っていた神社である。
11:32
神輿倉
前面に積み上げられた菰樽
11:32
中門と拝殿(右)
松尾大社は戦前に65あった官幣大社のうちの一つ。
もちろん延喜式にもあり、平安時代に定めた「二十二社」のうちの一つでもある。

11:33
中門の前が参拝所になっている。
社寺で手を合わせなくなって久しい。
神仏に願う習慣がない。目をつぶるより建物の配置や地形を見る。

松尾大社は東を向いているが、ちょうど四条通の西の延長にあり、東の延長には八坂神社が西をむいている。平安京造営のときの目印(東西軸)になったかどうか。
一般には北の船岡山を基準に、西の双ヶ岡と東の吉田山が東西軸になったとされるが。
11:35
(参拝は逆順になったが)楼門
インバウンド客でごった返す京都にあるとは思えないほど閑散としている。

同じ渡来系の漢氏が陶部・鞍作部・工人等の技術者集団から成ったのに対して、秦氏は倭人も含む農民集団で構成されていた。古くは大和国葛城に定住、5世紀末頃になると山背(のちの山城国)に本拠を移した。山背地方のうち特に宇治川に近い紀伊郡深草と桂川の葛野郡嵯峨野を開き、紀伊郡(昭和6年消滅)のほうでは現在も氏社として伏見稲荷大社がある。
伏見の稲荷はイネが生るということでいかにも農業集団の秦氏らしいが、松尾大社のほうは酒がある。
11:36
お酒の資料館
11:36
11:37
渡来系で稲作に優れた秦氏が酒造の技術にも長じていたことは想像に難くない。日本書紀などに秦酒公(はたのさけのきみ)という豪族も出てくるらしい。松尾の神が酒神とする確実な史料は中世後期の狂言「福の神」あたりからで、江戸時代には社殿背後にある霊泉「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないといい、醸造家がこれを持ち帰る風習が始まった。

11:38
11:41
通常の参拝路とは反対から入って赤鳥居を出た。

出るとすぐ阪急嵐山線の松尾大社駅があり、そこから京大桂キャンパスに向かった。

(続く)