2025年1月22日水曜日

広島2 陸軍被服支厰跡、広大霞キャンパスと荻原氏

1月15日、クルーズ船「飛鳥II」が広島に入港し、軽く観光しようと下船した。
クルーズターミナルから広島電鉄(路面電車)の海岸通という駅まで歩いて電車に乗った。運賃は220円
9:53
「広大附属学校前」で下車
9:55
停留所の名前通り、広島大学付属の小学校、中学校、高等学校が一つの敷地にある。

ここは戦前、旧制広島高校だった。
広島は中国四国地方の中心都市でありながら、早くから官立(=国立)の広島高等師範学校、広島高等工業学校があったため、近隣の山口、松江、岡山(第六高校)、松山などに旧制高等学校ができても広島だけなかった。設立は1923年、姫路とともに最後の旧制高等学校になる。

敷地内には寄宿舎があったが、戦時中、学生は勤労動員され、運動場の一角に航空輸送隊、寮の一部には数人の通信兵が駐屯していた。昭和20年8月6日は、学生が20人ばかりいただけという。
原爆炸裂で爆心地から2.7キロの木造の建物は大きく損傷したが、1927年竣工・鉄筋コンクリートの講堂は、被害軽微であり、戦後広大教養部となった後も使われ、また校地交換で付属小、中、高校がこの皆実(みなみ)校地に移ってきた後も使われている。

校地には入れないようで、正門から講堂の写真を撮った。
1994年に広島市により被爆建物に指定された。被曝が軽微だからこそ(解体を免れ)指定される矛盾がある。1998年には登録有形文化財になった。

・・・・・

ここまで来ると広島陸軍被服支廠はすぐである。
広大附属の正門から北東のほうへ歩いて950メートル、13分。
10:07
陸軍被服支廠址、南西の角
南のフェンスの隙間から覗く。

旧広島陸軍被服支廠は、現在、出汐(でしお)倉庫とも呼ばれる。
かつては兵員の軍服や軍靴などを製造していた。

被服廠が取り扱っていた品目はほかに、下着、靴下、帽子、手袋、マント、背嚢や飯盒・水筒、ふとん・毛布、石鹸、鋏・小刀、軍人手帳等の雑貨まで含まれていた。大正・昭和になると、防寒服・防暑服、航空隊用、落下傘部隊・挺身隊用の被服、防毒服なども取り扱うようになった。
しかし被服廠では軍服の縫製と軍靴の製造が主であり、その他については民間工場に依託し、被服廠では発注、品質管理、貯蔵、配給などの業務を行っていた。また、中国、四国、九州における民間工場の管理指導も行った。
10:09
西の壁に沿って北へ歩いていく。

陸軍被服廠は、1890年(明治23年)東京本所に設置された。
1904年(明治37年)大阪に支廠ができ、さらに1905年広島にも支廠ができた。1944年札幌、仙台、東京(朝霞支廠)、名古屋、福岡に支廠ができるまで、当時は全国に3か所しかなかったから、広島の存在は大きかった。宇品線からの引き込み線もあった。

(ちなみに、本所の本廠は 1919年、王子区赤羽台に移転した。もともと赤羽には1891年から被服倉庫があり一体化する目的もあった。本所区の跡地は1922年に逓信省と東京市に払い下げられ、運動公園や学校が整備される予定で空き地となった。
しかし1923年9月、関東大震災で住民が避難したところに火災旋風が襲った。敷地内にいた人々は四方から火に囲まれ、逃げられず約4万人のうち約3万8千人が焼け死んだ。これは大震災全体の犠牲者の約1/3にも達する。「陸軍被服廠」という一般人にとって地味な単語は、本来の業務でなく跡地で起きたこの惨事のみで知っている人が多いのではないか?)

過去のブログ

鉄扉
倉庫の扉はガラスでなく鉄製である。
歪んで閉じられず、下のほうは錆びている。
鉄扉は閉じたら真っ暗になるが、ふつうの工場でこんな鉄扉は必要だろうか?

1945年8月6日に投下された原爆が落ちた時、被服支廠は爆心地から約2.7km離れていて、外壁の厚みが60cmと厚かったこともあり焼失や倒壊は免れた。ゆえに救護所として使用され、避難してきた多くの被爆者がここで息を引き取ったという。
10:10
戦後、被服支厰の建物は、1947年以降、一時、広島大学・広島高等師範学校の校舎、大蔵省中国財務局庁舎が入り、7万坪の敷地は現在、公務員宿舎、個人住宅、県立皆実高校、県立広島工業高校、国道2号線拡張用地、その他事業用地(テレビ新広島本社社屋など)などに転用されている。
その過程で建物は現在残されている4棟を残してすべて解体された。

その後、残った4棟のうち1棟が広島大学の学生寮「薫風寮」として使用され(広大キャンパスの東広島市移転で廃寮)、のこり3棟は日本通運に所有が移り倉庫として使用された。1995年日通も使用しなくなり、施設は県へ譲渡され、1997年以降は4棟とも完全に使われなくなった。
広島市は「旧日本通運出汐倉庫1-4号棟」として被爆建物台帳に登録した。

10:11
割れたガラスの窓があった。この外側に鉄扉があったのかもしれない。
安全対策工事は清水建設と共立の共同事業、発注者は広島県。

10:13
30年も使用しないと朽ち果てる一方である。
有名な原爆ドームはウクライナの通常爆弾での被害建物にも見られそうだが、むしろ歪んだ鉄製扉以外、建物が無事なこういう施設のほうが、中で多数の被爆者が息を引き取った物語を持っていて、被爆記念建物として貴重かもしれない。
10:15
倉庫の間の白いフェンスが開いていて、中をのぞこうと入っていくと、突然、軽自動車から警備の人が出てこられた。入ってはダメだという。一時雪がぱらついた寒い日で、誰も来ないから彼も車の中で休んでいたのだろう。私が来てからは車から出てずっと入り口で真面目に立っておられた。
広島市 1930年ころ

この陸軍被服支厰の東には軍用鉄道の宇品線が通っていて、それを挟んで東(斜め向かい)には広島兵器支廠があった。宇品線、宇品港を使って陸軍の武器弾薬の集積・補給を行っていた。
現在その敷地は広島大学霞キャンパスとなり、医療系学部が集まっている。
行ってみた。
10:25
広島大学霞キャンパス

1887年(明治30年)大阪砲兵工廠広島派出所が設置される。
1905年、広島陸軍兵器支廠に昇格。翌年、この現在地(霞町)移転。
1940年、広島陸軍兵器補給廠に改称。

比治山の陰になり原爆の被害は軽微であったため、救護所として被災者が集まり、戦後は1946年から1956年まで広島県庁舎として利用された(旧庁舎は中の島で壊滅した)。
そして1957年から広島大学医学部となった。

広島大学医学部は大戦末期、昭和20年3月設立の広島県立医学専門学校(広島市皆実町)を起源とする。
戦後呉市から市立病院、旧海軍徴用工員宿舎を移譲され、昭和23年、広島県立医科大学(旧制)が呉で開学した。
昭和27年、広島医科大学(新制、県立)が単科大学として開学したが、翌年広島大学(医学部)に合併されることになった。順次移管が始まり、昭和31年広島医大は閉鎖された。そして1957年2月、呉から現在地への移転も完了した。
10:26
広大医学部 医学資料館
入場無料。写真撮影は不可。

霞キャンパスの医学部、附属病院は陸軍兵器支廠(陸軍兵器補給廠)の赤レンガの建物を使っていたが、戦後次々と取り壊された。
そこで1978年医学部30周年記念事業として医学資料館を設置するにあたり、最後まで残った大正4年建築の11号館(旧第11兵器庫)を保存使用した。

その後1998年、附属病院建て替えのため、新築移転することになる。原爆被爆建物でもあり、被災者の臨時救護所となった歴史的意義から、旧資料館の外観を尊重し、痛みの少なかった東外壁を中心にできるだけ旧材を再利用したという。

実は1997年11月ここ霞キャンパスに来た。
第8回脳高次機能障害シンポジウムを聴講するためだった。
しかし当時は医学資料館にも気づかず、陸軍兵器補給廠の跡地であることも知らなかった。
10:32
歯学部
ここは医学部、附属病院のほか、歯学部、薬学部もある。

広大歯学部は1965年設立。
薬学部は国立大学としては遅く、1969年、医学部薬学科として発足した。当時すでに多くの医学部薬学科が薬学部として独立していたが、広大は2006年ようやく薬学部として独立した。だから、医療系学部が霞地区に集まったというより、ここで生まれたといったほうが良い。

歯学部前の地図をみながら、1997年のシンポジウムはどこだったのだろう?
ホワイエとか階段とか覚えているのだが、どの建物だったか分からない。

10:32
薬学部
シンポジウム会場はここでもなかった。
当時、ここにいらした代謝教室出身の太田茂さんがシンポジウムの世話人をされていた。彼は3年上で、のちに薬学会会頭になられた。
田辺三菱時代に数年同じ組織となった西尾さんもここの出身だった。
10:33
薬学部の南の霞会館
高いビル校舎に囲まれて古い二階建ての大学生協。
これは覚えている。

シンポジウム初日の1997年11月27日、前もって連絡しておいた荻原英雄さんが会いに来てくれ、この二階の生協食堂でお昼を食べた。
10:34
二階の生協食堂。
学内wifiはパスワードが分からないと使えなかった。

現在窓際は横一列に並んだ一人席であるが、1997年当時はファミレスのようなテーブル席だった。そこに座って11年ぶりの再会を喜んだ。

荻原さんはシンポジウムの要旨集をパラパラめくって、シンポジストの一人であった京大薬学部の赤池昭紀教授の名前に目を止めた。神奈川・栄光学園時代の同級生?同学年生?だったという。彼ら(栄光学園18期生)は東大紛争で入試(1969年3月)がなかったため、赤池先生は京大薬学部に、荻原さんは京大農学部に進学した。
校内のマラソン大会で荻原さんが1位、赤池さんが2位だった(順位の記憶あいまい)と話して、要旨集を閉じた。少し寂しそうだった。

彼は車で来ていて、午後も暇だというので、私もシンポジウムはさぼった。彼は原爆資料館などを案内してくれたあと、私のたっての希望で、市街から遠く離れた安佐北区、可部東の自宅(兼実験室)も見せてくれた。庭先の柿を土産にとってくれ、再びはるばる市の中止部まで送ってくれた。

彼とは田辺製薬の同年の入社(1981)である。
大学院は京大医学部生化学教室(早石修)にすすみ、のち群馬大医学部に転じた。修士課程修了の私よりさらに5歳上であった。
今まで私が出会った人の中で優秀さでは3本の指に入る。しかし知識、発想と実験の集中度をみてノーベル賞を取るのはこういう人かと思ったのは彼だけである。ところが彼に対してそう思う人は少なく(ほとんどおらず)、田辺の研究所では全く評価されなかった(田辺では平均より悪いマイナス評価だったのでないか?)。在籍した5年の間、入社したときの病理部門から生化学部門(高脂血症薬)に移動した後、失意のまま退職した。残念だったとしか言いようがない。

彼は田辺のたいていの人を良く言わなかったが、私のことは褒めてくれて、それが当時よく落ち込んでいた私の支え、励みにもなった。彼は職場の送別会は断ったが、退職の日、私の家に来てくれて夕食を共にした。

その後、三重県で伊藤ハムの子会社で肉の品質検査?をしたあと、広島の医療用具メーカー(手術用縫合糸?)に転じたが、10年ぶりに再会した時点ではパン屋、マツダの子会社、塾教師などのアルバイトをしていた。

じつはこのブログで5人まで書いた「忘れられない人」シリーズで一番目に書きたかった人だが、人間が大きすぎて未だ書けずにいる。しかし山が迫る広島市とは思えない田舎の中古住宅で飼われていたマウスをみた(たぶん唯一の)者として、いつかは書かねばならないと思っている。
天才は今どうされているか、もう連絡先も分からず、ネットにもヒットしない。

28年ぶりに、思いもかけずクルーズ船から陸軍施設の跡の広島大霞キャンパスに来て、いろんなことを思った。


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2025年1月20日月曜日

クルーズ4 名古屋、駿河湾、土佐沖、広島まで

初めてクルーズ船は、私的な旅行ではなく社交ダンスのアテンダントしての業務乗船だった。

横浜発着の飛鳥II、3泊4日の名古屋クルーズ。

1月8日、横浜出航、1月9日朝、目が覚めると名古屋港。

熱田神宮に行った後、船でおいしくて無料のお昼ご飯を食べようと、早めに名古屋観光を切り上げ帰って来た。
2025₋01₋09 12:29
12階デッキからみる名古屋港
名古屋港 金城ふ頭

飛鳥II は、1月9日夜、ダンスパーティをしている21:00に名古屋を出港。
夜、東に走り続けた。
2025₋01₋10 7:38
朝、目覚めると富士山が大きく見えた。
今まで見た中で一番きれい。

来るときは一晩で横浜から名古屋に来たのだから、本来なら朝、横浜についてしまう。
しかしこのクルーズは初春の富士山を見せることを売り物にしている。

10日朝、左舷の陸地から朝日が昇っている。てっきり静岡県の南を通っているから太陽は進行方向から上がると思っていたが、よく考えたら陸上と違って、静岡県の南海岸に沿って東に行けば駿河湾の奥で伊豆半島にぶつかる。だから、船はどうも伊豆半島の西岸を南下しているようで、朝日は伊豆の山から上がったのである。

アスカデイリー1月10日 
この日はどこも寄港しない。一日中、駿河湾と相模湾で富士山を見ながら食事と映画などで過ごす。全員が船にいるから午前と午後に45分ずつダンス講習会があり、夜はパーティ。我々は21時から2時間、お客さんのお相手をする。
それ以外はフリーなので、船内をうろうろした。

2025₋01₋10 9:11
11階 パームコートからの富士山。
ノートパソコンを持ってきたので景色を見ながらブログを書く。

それにしても、この富士は美しい。地上だとどうしても建物があって見える部分は途中から上だけだが、海上からだと海抜ゼロメートルからの稜線が見える。

そのうち、他のところにも座りたくなり、となりのビスタラウンジに引っ越した。
9:41
11階 ビスタラウンジ
ここでもネットをしていると、ウェイターが来てくれて、ホットココアを頼んだ。

飛鳥IIは午前中いっぱい駿河湾を10ノット(時速18キロ)でぐるぐる回り、右舷の人も左舷の人も、部屋にいる人もリドガーデンにいる人も、いながらにして色んな角度から富士山が見えるよう、飛鳥は大いにサービスしてくれた。

急いで目的地にいくのでなく、乗っていることを楽しむ。

そのうち昼には伊豆半島、石廊崎をまわり、今度は少し小さくはなるが、相模湾からの富士山を見せてくれた。午後のダンス講習会(16:00₋16:45)が終わったときも左舷に伊豆の山越しの富士が見えた。

この日は17時過ぎはドレスコードがカジュアルでなくてインフォーマル、すなわちおしゃれする。連日ダンスに来るご婦人をみていても全員がドレスを毎日変えていることが分かる。これでは荷物が増えるわけである。
2025₋01₋10 23:49
部屋のテレビにこの日の航路と現在地が出る。
飛鳥はこの日、南から駿河湾にはいり、左回りで二回転した後、今度は逆回りで1回転し、伊豆の西を南下した。
相模湾でも日付が変わるまでに複雑な運動をしている。

モニターに「フェリーしまんと」と「にっぽん丸」の位置がうつっている。
2025₋01₋11 7:22
夜が明けると横浜のすぐ近くまで来ていた。
にっぽん丸はまだ相模湾にいる。

三井オーシャンクルーズのにっぽん丸は、「新春のオペラクルーズ」と称し、1月10日17:00横浜出航、駿河湾までいき、12日9:00に横浜帰港の2泊3日ツアーである。
初日の飛鳥のように、まっすぐ行ったら駿河湾など簡単に通り過ぎてしまうから、夜通し相模湾でぐるぐる回ったのであろう。
7:24
富士山が見えた。
グーグルで現在地を見れば、根岸湾を過ぎ南本牧ふ頭の沖であった。
まだ横浜港には入っていない。

8:30 横浜入港
部屋の窓からみなとみらい地区が見える。
手前は海上保安庁船のヘリコプター2機搭載の巡視船「あきつしま」

2025₋01₋11 9:22下船

乗客は10階から順に放送で案内され、5階に降りてきて、クルーの笑顔の挨拶を受けながら下船していく。横のピアノバーの前では飛鳥乗船バンドの一つ、ラグーナトリオが音楽を奏でる。
大型モニターでは、オフィサー、マネージャークラスの乗務員が勤務場所でお別れ・乗船御礼のあいさつ文をスケッチブックに書いている姿が映し出されている。
ホテル部門、料理部門だけでなく、営繕、機関など、乗客の目に見えない部門のマネージャーも登場する。
最後に笑顔で掲げた手書きの文章がまた良く、生演奏の音楽と調和し、乗客は下船を忘れてソファで大画面を見入っていたりする。だから下船口が混雑することはなく、最後まで全体が優雅な空気になっている。
9:26
私は乗客全員がおりて、挨拶に並んだスタッフが解散するまで、7階のデッキで下船する乗客を見ながら時間をつぶした。
9:45
下船して桟橋側から飛鳥を見る。
こうして私の最初のクルーズが終わった。
大さん橋は鯨の背中をイメージして設計されたらしい。
10年前ダンス競技会に来たときは1回戦で負け、早く終わったのでここで芝生と板の境に座って(芝生は立入禁止)持参のお昼を食べたことを思い出す。
9:50
この日は横浜市役所で無料Wifiにつなげたり、懐かしいパシフィコ横浜などにいったあと、14時ころ船に戻り、夕方、2回目のクルーズに出発した。
今度は3連休を利用した1/11-13、
2泊3日の駿河湾クルーズ。
17:00出航はいつもと同じ。
天気は今一つで朝起きると曇っていた。
11階に上がると、夜雨が降ったのか、プールサイドの木のデッキが濡れていた。
2025₋01₋12 9:37
11階のパームコートから陸地が見えたが伊豆半島ではなさそう。
モニターを見ると船は相模湾から伊豆大島の東を通って南下していた。
スマホのグーグルマップで現在地を確認したら、右舷に見える陸地は新島だった。

この日は冬の太平洋側としては珍しく天気が悪く、駿河湾に入っても富士山は見えなかった。
19:21
夜のパームコート
我々のダンスパーティにも来てくれる5人組フィリピンバンド「ナマナ」が演奏していた。
しかし夕食時のせいか昼より人が少ない。

2025₋01₋12 23:53
駿河湾クルーズで飛鳥のここまでの航路
1月11日夕方横浜出航、夜通し相模湾で時間をつぶした後、12日朝、相模湾から南下、大島の東で旋回したあとさらに南下、式根島と神津島をとおって北上、駿河湾に入った。

そこで旋回を続けた後、モニターでは伊豆半島の南まで来たところである。

この季節、珍しく富士山が見えず、乗客にとっては残念なクルーズであった。
私はダンスで疲れ、日付が変わってすぐ眠りについた。
2025₋01₋13 7:17
朝目覚めると二回目の横浜入港
みなとみらいのビル群に朝日が当たっていて違和感を感じる。
太平洋側は海が南という先入観がなかなか抜けず、大さん橋やみなとみらいは南に飛び出ている感覚があるが、横浜は海が北東を向いている。

これで私の2回目のクルーズが終わった。

1月13日は下船して
山下公園の氷川丸(博物館)を見物した後、横浜市役所で無料wifiを使い、14時ころ船に戻った。

3回目のクルーズは、1/13₋18の5泊6日。

3回のクルーズのパンフレット価格を見ると、一番安い部屋で1泊あたり6~7万円(税込み)。高い部屋で1泊あたり31万~35万円のようだ。

13日、17:00横浜出航
14日は太平洋を終日航海。
2025₋01₋14 9:55
12階から。右舷にみえる陸地は紀伊半島

2025₋01₋14 13:23
11階 パームコート
ステージはフィリピンバンドの「ナマナ」
英語の歌はさすがに上手い。
飛鳥は室戸岬の東の沖。

14:14
みえる陸地は室戸岬。尖っている部分を少し過ぎたところ。
パームコートは南国をイメージするようヤシの木が真ん中にある。

その後、飛鳥は足摺岬をまわって豊後水道から瀬戸内海に入った。

2025₋01₋14 18:05
6階 ショーステージ「ギャラクシーラウンジ」
この日は由紀さおりショー
お客様ファーストなので我々は邪魔にならぬよう、最後列で鑑賞する。ウェイターが席のあいだを周り、飲み物をサービスしているが、もちろん我々は手を出さない。

最初の外国の歌2曲はフィリピン人バンドのボーカルのほうがうまいと思った。続く、りんごの唄、ここに幸あり、青い山脈の3曲は、乗客の年齢層を意識したものだろうが、カラオケの普及した現在は、歌の上手い人が増え、特に彼女の優越性は目立たない。

しかし自身のヒット3曲は良かった。懐かしくて口ずさみたくなった。
「手紙」1970:死んでもあなたと暮らしていたいと・・・
「生きがい」1970:今あなたは目ざめ煙草をくわえてる、早く起きてね・・・
「ルームライト」1973:あなたが運転手に道を教え始めたから私の家が近づいてしまった・・・この作詞岡本おさみ、作曲吉田拓郎のコンビは、翌年森進一の襟裳岬もヒットさせた。

そしてデビュー曲の「夜明けのスキャット」は素晴らしかった。
ちなみに、高嶋ちさ子の父、高嶋弘之はビートルズの日本での仕掛人として有名だが、夜明けのスキャットにも関わっていたらしい。この曲は歌の一番がルールールルルばっかりで歌詞がなく、ほとんどのレコード会社がキワモノとして躊躇したが、彼はちょうど、おらは死んじまっただーの「返って来た酔っ払い」をプロデュースしたあとで、面白いと言って、取り上げてくれたと、この日、由紀さおりが話した。タイトルは高嶋の命名という。
しかしまた、由紀は別の機会に、STVラジオディレクター竹田健二が札幌のラジオで連日流して大ヒットにつながったと言っている。

ちなみに、いずみたくのこの曲はサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」の盗作ではないかという騒動があったそうだが、田舎にいた子供はそんなことも知らず、素直にいい曲だと思っていた。

コメディアンとしての活動もあるから話も面白く、45分のコンサートはあっという間に終わった。

豊後水道の通過はいつだったか分からず。
2025₋01₋15 7:44
朝目覚めると(部屋は左舷)大きなホテルのようなビルが見えた。
スマホで確認すると宇品島のグランドプリンスホテル広島のようだ。

7:47
クルーズターミナルの宇品外貿第5バースが近づく
Berthは船が安全に停泊、円滑な操船、荷役が出来る水域を表す。似た意味の桟橋は陸上スペースをさす。
8:29
いつも朝食は5階のフォーシーズンズで和定食を食べていたのだが、この日は11階のリドガーデンに行く。サラダコーナーで椰子の新芽(パルミット)というのが珍しく、写真に撮った。英語でHeart of palmというからヤシの芯という意味か。ホワイトアスパラガスのような味がした。両方とも単子葉類ではあるが。
9:29
下船し、広島の観光に出かける。
港から出るとき、交通整理の係のように見える人から乗船証の提示を求められた。
入出国管理だろうか。
9:32
港ではたいていの建物より飛鳥のほうが大きい。

このあと広電(路面電車)の海岸通という駅まで歩き、広島市内に向かった。

(続く)

2025年1月17日金曜日

広島1 日清日露の戦役と宇品港

 1月15日、クルーズ船飛鳥IIが広島に入港し、軽く観光しようと下船した。

着岸したのは広島港クルーズターミナル外貿埠頭5号岸壁だが、いわゆる宇品港である。
20250-01-15 9:30
遠くの建物に「県営宇品外貿CFS」と書いてある。
明治の陸軍史に関心があれば、宇品という文字に反応するだろう。
うじなという重箱読みが珍しいから余計心に残る。
9:42
飛鳥の着岸したクルーズターミナルから広島電鉄(路面電車)の海岸通という駅まで歩いて電車に乗った。220円。
広島電鉄路線図
停留所の駅名をみれば、元宇品口、宇品五丁目、宇品四丁目、宇品三丁目と並び、うじなだらけである。

広島は中国四国地方を管轄する第五師団の司令部があり、多くの軍用地が集まる軍都だった。
しかし、それ以上に重要だったのは、日本内地から大陸に人馬、物資を送る拠点だったことである。

山陽本線の前身、山陽鉄道は1906年国有化されたが、日清戦争(1894年 - 1895年)では広島までしか開通していなかった。そのため、東京からの鉄道西端で、大型船が運用出来る宇品港をもつ広島は最も重要な兵站基地となった。
13:44
この日は陸軍被服廠跡から広大霞キャンパス、広島駅、広島城、原爆資料館を周って帰って来た。(別ブログ)

路面電車を降りて、飛鳥が着岸している広島港クルーズターミナル(宇品波止場公園)までくると、左手前に(交差点のはすむかい)宇品中央公園がある。
そこに様々な記念碑があった。
13:56
宇品凱旋館建設記念碑
皇紀二千六百年、昭和十五年二月十一日、陸軍中将 田尻昌次

出征軍人・戦傷病兵の歓送迎・慰安のために、宇品の陸軍運輸部(この公園にあった)構内に凱旋館の工事が起工され、翌1939年に竣工式、1941年6月落成式をあげた。
終戦時は厚生省が海外引揚者の事務所として使用。その後は第6管区海上保安本部になったが、1970年、海岸倉庫跡に広島港湾合同庁舎が新築され、保安本部は移転、1974年、宇品凱旋館は破却され宇品中央公園となった。
13:56
明治天皇御駐駅跡
駐駅とは駅ではなく滞留の意味である。

戦時中に陸海軍を統率するため置かれる大本営は、日清戦争のとき鉄道西端の広島に置かれた。文禄慶長の役で秀吉が前線に近い内地の基地として名護屋にいたように、大本営を統帥する天皇も広島に来た。その滞在期間は7か月にも及んだ。
その間、側近の勧めもあったろうが、宇品で出征兵士を見送ったのだろう。
旧蹟
陸軍運輸部
船舶司令部

宇品から大陸に出発する兵士、物資は全国から集まる。
そのため、日清戦争中の明治27年に山陽本線完成に合わせて陸軍の軍事専用線が建設され、広島₋宇品間5.9キロを着工からわずか16日で完成させたという。(同年8月4日着工、8月20日竣工、8月21日に開業)。そして終点には陸軍運輸部の宇品支部が置かれた。
宇品線のルートは、今の広電・路面電車の通りではなく、その東の、海岸通りを北上し被服支廠と比治山公園の東、兵器支廠(現・広大霞キャンパス)の西を通っていたようだ。

軍用地と宇品線(原爆資料館の展示から)
歌碑
「空も港も夜は晴れて・・」(港)
1896年(明治29年)に発行された新編教育唱歌集の第三集に収録されている。日本人が作曲した初めての三拍子の曲という。歌の作者及びモデルとなった地域は、1973年まで明らかになっていなかった。
しかし調査の結果、本土と宇品島を結んでいる暁橋(通称・めがね橋)から見た風景を歌っていることがわかった。

「月に数ます船のかげ、端艇(はしけ)の通い賑やかに・・・」
というのは1894年の日清戦争のころの光景かもしれない。
14:01
かつて陸軍の兵と物資の輸送でにぎわった宇品に平和の象徴ともいえる「飛鳥II」が停泊している。
14:03
宇品線のレールのモニュメント
太平洋戦争時は兵士や兵器、物資を積み込んだ軍用列車が夜昼なく30分に1本入ったという。宇品駅の専用ホームは迅速に船に移せるよう560メートルもあった。
原爆が投下された8月6日は宇品―南段原間を3往復し、3000人の負傷者を宇品凱旋館に輸送したらしい。
戦後は軍用から貿易港に変わった広島港の動脈として地域の復興に寄与したが、1972年に旅客輸送が廃止され、一日一往復の貨物線となり、1986年、それもなくなり92年の歴史に終止符をうった。
宇品島(元宇品)と倉庫
六管桟橋から見た倉庫
宇品港は明治22年に築港され、旧陸軍の軍用港として利用された。その中心的役割を果たしたのが、明治35年に軍用桟橋として作られたこの六管桟橋である。この桟橋は、多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国を迎えた。戦後は、海上保安庁の船舶の係留に利用されてきた(第6管区海上保安本部から桟橋名になった?)
しかし、現在はフェンスで囲まれ、クルーズターミナル(宇品波止場公園)西側の護岸としてその姿を残している。桟橋の石積みを当時の護岸として保存し一部を展示している。  
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クルーズ船「飛鳥」の写真を撮ろうと男性が乗っかっている台は、その六管桟橋の石組を展示したモニュメントである。戦争も遠い彼方になった象徴のような図である。
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かつては沖に向かってまっすぐ伸びる一すじの桟橋だった。
今や公園となり、反対側に飛鳥が泊っている。
2025₋01₋15 14:43
船に戻って12階のデッキから東を見る。
宇品港は広島港と名を変えた。
向かいの島は金輪島(かなわじま)
カキの筏が見える。
兵士たちはこの島を見ながら大陸に送られたことだろう。