2025年10月28日火曜日

平塚の海軍火薬廠、園芸試験場の跡、中原街道の終点

10月20日、藤沢に40分ほど立ち寄った後、辻堂、茅ケ崎を通過して平塚に来た。

11:49 駅前地図

駅前でレンタサイクルを借り、初めての町を自転車で走った。
平塚に来た目的だった平塚の塚、要法寺を後にして、二番目の目的地に向かう。
要法寺北方の国道1号線に出た。中央分離帯もある広い道だが思ったより車は少ない。

この平塚の道路の広さについては、前のブログで、軍事施設を狙った平塚大空襲で全市が焦土となったことが関係することを書いた。平塚は市街地の近くに海軍火薬廠や陸軍四式戦闘機「疾風」を作っていた日本国際航空工業(中島飛行機製作所の系列工場、のちの日産車体)、横須賀海軍工廠造機部などがあった。

広い歩道を東に向かうと左手に崇善小学校がある。ここも広い。戦前は軍の施設だったのだろうか。
小学校の角を北に曲がる。
右手に緑地が見えた。
12:28
左:平塚郵便局、右:八幡山公園
八幡山公園には家康も参拝したという平塚八幡宮のほか、海軍火薬廠時代の洋館(旧横浜ゴム記念館を移設)、平和慰霊塔などもあるらしいが、立ち寄らなかった。

平塚駅からきた人と思われる平塚ベルマーレのユニフォームを着た応援団の人がいっぱい北に向かって歩いていた。これから試合があるのだろう。(2000年からチーム名を「ベルマーレ平塚」から「湘南ベルマーレ」に改称。ホームタウンを平塚1市から神奈川県7市3町へ変更・広域化した)

この交差点から北は、東も西も工場や学校、市役所、博物館などである。
左に公園があり、目的地の平塚市総合公園かと思ったら浅間緑地。スマホで地図を見たらまだ先(北方)のほうに比べ物にならないくらい広大な緑地があった。
左手、海軍火薬廠跡地に建つ広い横浜ゴムの工場をすぎると、ようやく総合公園に到着。
12:36
総合公園(右)前の松並木
これは戦前のものか、しかし空襲があったからな。
12:38
平塚市総合公園
とにかく広い。ほんの入り口だけしか行かなかった。
幸い、そこに平塚に来た目的の記念碑があった。
農林省園芸試験場は、農事試験場園芸部として明治33年静岡県興津町(静岡市清水区)に開かれた。大正時代に園芸試験場として独立、
戦後は園芸産業振興の必要性から昭和22年海軍火薬廠のあったこの地に移転した。1977年つくば市に移転するまで、職員二百余名が、野菜・花きと果樹の研究に従事、780名の研修生を送り出したという。

ところで1年前にネットでネクタリンの苗を買った。品種はヒラツカレッドという。
2025₋10₋23
千駄木菜園のヒラツカレッド
ハダニにやられ葉が白っぽい。

この品種は1961年、平塚で「興津」と「NJN17」を交配し、1964年初結実、66年一次選抜、71年から「モモ平塚68号」として各地で試験され、1981年にヒラツカレッドとして登録、公表された。

このネクタリンが生まれた場所を見るのが今回の平塚訪問2番目の目的だった。

しかし、園芸試験場が移転して50年近く。海軍の施設などを試験場が転用し、さらにその一部が公園事務所や売店にでもなっていれば最高だったが、親子連れやサッカーファンが歩いている公園にそんなものはなさそうだった。

総合公園を出ると、向かいの道路を挟んだ東側は、広大な空き地になっていた。
まさか海軍の敷地がそのままになっているわけじゃないだろうな。
12:43
総合公園の東の道路(県道606号)
調べたら、もとは海軍の敷地で、戦後1946年に第一製薬が工場をたてたようだ。2007年に第一製薬が三共と合併した後は第一三共ケミカルファーマの平塚工場として2017年まで操業、その年に閉鎖されたようだ。8年もたつのに更地のままである。
地図を見れば総合公園の北方、平塚市新町、四ノ宮にも第一三共ファーマの工場がある。

自転車で総合公園に沿って北にいくと、また門があった。
12:44
野球場入り口
ナイター設備もあるようだ。
その西には湘南ベルマーレの本拠地、レモンガススタジアムがあった。
このように、海軍火薬廠、のち園芸試験場は非常に広かった。

さて、ネクタリン平塚レッドのふるさとのほか、平塚ではもう一つ見たいものがあった。
中原街道の語源となった中原御殿の跡地である。
中原街道は大山街道(現・玉川通り、国道246)と東海道のあいだにある。桜田通りから五反田をへて、都道2号で昭和大学病院、洗足池を通り、丸子橋で多摩川をわたり、県道2号となり武蔵小杉を過ぎ、日吉、綱島など東横線の東側を南下していく。いまもかなり重要な幹線道路であり、車で綱島の叔母のところに行くとき何回か通った。
この街道は中世以前からあり、鎌倉時代に本格的に整備され、日蓮も利用した。
1590年、家康が関東に入るときも五街道整備前であるから、この道を通ったとされる。

東海道が整備された江戸時代は東海道の脇街道となり、途中の小杉、下川井、中原に御殿が作られ、家康の駿府往還や鷹狩などにも利用された。その中原が平塚にあり、平塚で東海道に合流した。
12:54
中原御殿跡地
現在は平塚市立中原小学校になっている。
住所は平塚市御殿二丁目である。
約7000坪、周囲には幅10メートルの堀がめぐらされていた。
造営から60余年後の1657年、明暦の大火のあと、解体された。

いっぽう、付随して御殿の周囲に作られた127ヘクタールにも及ぶ中原御林は、その後も厳重に保護され、その木材は江戸城修復や、東海道線平塚駅の駅舎建造などに使われた。御林は全部で16か所あり、今の平塚市総合公園もそっくり入る。明治になって官有地となり、海軍火薬廠などになった。

(ちなみに北区滝野川にあった海軍下瀬火薬製造所は明治33年に開庁したが、明治38年設立の日本火薬製造株式会社平塚工場が大正8年に海軍火薬廠になると、その製造部第5工場となり、製造部から爆薬部門が独立、昭和4年(1929)に爆薬部が舞鶴に移転すると、滝野川も閉鎖、移転した)

雨が降りそうな天気の中、平塚サイクリングはやめ、駅に向かった
途中、どこかで聞いたことがある平塚江南高校があったが寄らず。
大学2年のときの学園祭で古典ギター部が教室を会場として演奏会をした。そのとき他大学から来ている女子部員の友人が聴きに来て、その子が平塚江南だったか平塚在住だったか。女子部員に彼女の名前も電話番号も聞いたが、連絡しなかったのか連絡しても断られたのか記憶にない。
13:10
自転車を無事返却。
来るときは中央改札、北口からぐるっと回ってきたが、駐輪場から見ればすぐそばに駅の西口があった。
13:12
平塚駅西口改札は駅ビルなどの商業施設もなく、あまり人がいない。

ホームは島型2面4本あることから、終点、始発の駅になれる。
駅メロは「たなばたさま」。
1941年発表の文部省唱歌である。この年、太平洋戦争が始まり、4年後に平塚は焦土となった。その復興過程で始まった七夕祭りからJRが採用したメロディだが、もちろん関係ない。
 
約1時間半の忙しい平塚見物だった。

過去のブログ

2025年10月27日月曜日

平塚宿の江戸見附と広い道路、平な塚と要法寺

  10月20日、藤沢に40分ほど立ち寄った後、辻堂、茅ケ崎を通過して平塚に来た。

上野東京ラインや湘南新宿ラインで平塚行きという電車に乗ることがあるが、平塚はほとんど知識がない。七夕が有名だと聞いてもどんなものか知らない。
初めて降りる駅は今どきのふつうの賑やかな、おしゃれな駅ビルだった。
11:49
平塚駅の北口
駅ビルはラスカ平塚という。

平塚は1932年、横浜、川崎、横須賀に次いで4番目に市制を施行した。湘南地域および相模川より西では初めて市となった。現在人口は県下6番目の25万7千人。藤沢44万、横須賀37万人より少ないが、湘南の中心都市である。
11:49 駅前地図
平塚市は相模の国一の大河、相模川(馬入川)西岸にある。
江戸幕府は東海道に橋をかけさせなかったから、馬入の渡しがあり、大雨の後などは「水待ち」という足止めがあった。
当然宿場ができた。
平塚宿は江戸から品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢と来て7つ目の16里(62.4キロ)。東の藤沢宿からは3里半(13.8キロ)だが西の大磯宿までは27町(2.9キロ)しかない。相模川がなければ大磯まで歩いてしまったであろう。
(ちなみに、当時は1日30~40キロ歩き、江戸を出ると1泊目は戸塚か藤沢、2泊目は平塚か大磯に泊ったが、平塚は休憩の人が多かったようだ。平塚に泊る人は上方から下ってきた人が多かったか)

藤沢と大磯の間に宿場を作る場合、宿間の間隔を考えれば藤沢側の相模川東岸のほうが合理的だが、相模川はよく氾濫し、東側は湿地帯で、宿場を作れるほどの村がなかったからという。

駅前地図を見て西のほうに「平塚の塚緑地」というのがある。
ちょっと離れているのでレンタサイクルを借りることにした。
平塚市まちづくり財団が1回200円で貸している。グーグル地図では駅からすぐ西の線路際にあるようだったが、入口がずっと離れた場所のため探すのに時間がかかった。駅直結の駐輪場と一体となっていた。

北に向かって走り始めてすぐ、東海道に出た。藤沢と違って近い。
広い歩道を西に向かっていくと塚のようなものがあった。
12:09
平塚宿の江戸見附
藤沢宿京見附で述べたように、ここから西が平塚の宿場町だったということだ。つまり平塚宿は今の駅前からだいぶ西にあった。
見附は一里塚のように街道の両側に設置され、明治時代の写真では土台部は石垣、上に竹矢来を組まれていたようだが、それが再現されていた。
そばの説明板を読めばすぐ東に加宿平塚新宿というものがあったそうだ。

宿場というのは一般人を対象とする旅籠、木賃宿、茶屋、商店などが建ち並び、それで利益を上げた。しかし、地子(じし。農村の年貢に相当)免除などの特典もあったが、公用のための人馬、問屋場、本陣、脇本陣などを常備する義務を負った。1601年に開かれた平塚宿では利用者の増加によって、1651年、東の八幡村が助郷さらには加宿となり、平塚宿に加えられた。
ここと相模川の間に平塚八幡があり、そのあたりだろうか。
つまり、東海道線の平塚駅は加宿平塚新宿の前にできたということだ。平塚宿と今のJR駅の離れている理由が分かった。

なおも自転車で旧東海道を西に走る。相変わらず歩道まで広い。しかし他の街道筋ならわずかばかり残るような古い建物が一つもない。
途中で右(北)の住宅街に入った。その道も広い。
何の知識もなく平塚に行ったら、道路の広さを一番感じるだろう。

他に類を見ない道路の広さは1945年7月16日深夜の平塚大空襲が関係する。
戦前、平塚には海軍火薬廠(現在の横浜ゴム周辺)のほか、横須賀海軍工廠造機部(現在の平塚競輪場あたり)、第二海軍航空廠補給部(JT平塚工場のあと、アークスクエア湘南平塚)、日本国際航空工業(のちの日産車体、相模川西岸)などがあった。
投下された焼夷弾447,716本、1,173トンは一夜に投下された量としては八王子空襲に次ぎ国内2番目の多さと言われ、死者は300~363人だったが、当時の市域10,419戸中の8,263戸が全焼、消失した。

戦後始まり、日本七夕三大祭り(仙台、平塚のほかは安城または愛知一宮)の一つとなった平塚七夕も、焼け野原からの復興祭りが始まりと言われる。

そうこうするうちに、今回一番の目的地、平塚の塚についた。
12:16
平塚の塚緑地
日曜だが誰もいなかった。

ふつう地名には歴史がある。
歴史もない小さな字が合併でも生き残り大きな地名になることもあるが、平塚は違う。

桓武平氏の祖といわれる高見王の娘、すなわち高望王の妹、平真砂子が857年、都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で長旅の疲れからか急な病を得て亡くなったという。土地の人々は平氏の高貴な娘の塚、また風化して平らになった塚として平塚と呼んだという。江戸時代の文書にも現れている。
12:17
たしかに平らな塚である。
立派な玉垣のような柵で囲んでおかないと、油断するとただの地面になってしまう。

この公園の東隣にお寺があった。
12:19
日蓮大聖人ご一泊・要法寺

寺の縁起を読めば、ここは隣の平塚の塚も含め、北条泰時の次男で、この地の地頭をしていた北条泰知の屋敷だった。彼は日蓮に深く帰依していて、弘安5年(1282)9月16日に日蓮がここに一泊し法華経の「四句要法」の一説を説法したのに感動し、この屋敷地を献上、要法寺としたという。
(しかし、承久の乱を平定したあと第3代執権となり御成敗式目を制定した北条泰時は、弘安年間よりずっと前の人で、親子というのはあり得ない。北条泰知という人物も他では出てこず、歴史的事実というより、寺伝である。)
ちなみに、弘安5年9月というのは、60歳の日蓮が病気のため身延山を下り、療養のため常陸にむかったときで、平塚、鎌倉を経て、途中、武蔵の荏原郡池上郷の池上宗仲邸まで来たとき、動けなくなり10月に亡くなった。そこがのちの池上本門寺となった。

平塚の塚、要法寺を後にして、自転車を走らす。
北方の国道1号線に出た。中央分離帯もある広い道だが思ったより車は少ない。
快適に歩道を走りながら、2番目の目的地、園芸試験場跡地の平塚市総合公園に向かった。
(続く)

2025年10月24日金曜日

藤沢宿の見附と湘南高校、武田湘南研究所のこと

就職した職場が埼玉県戸田市にあり、32年間埼玉に住んだ。都内に引っ越して再就職も埼玉、実家も長野だったから、神奈川県は土地勘がない。
とくに横浜から先は疎く、小田原、横須賀、鎌倉以外は最近になって大磯などに降りたものの、駅順も定かでない。

東海道線は横浜を過ぎると、保土ヶ谷、東戸塚(この2駅は横須賀線のみ停車)、戸塚、大船、藤沢、辻堂、茅ケ崎、平塚、大磯、二宮、国府津、鴨宮、小田原である。

このうち東海道の宿場だったのは、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚、大磯、小田原である。

土地勘がないから保土ヶ谷、戸塚は何も思い浮かばず、横浜とは別の市として発展した藤沢、平塚に行ってみることにした。

地図を見ると東海道は内陸の保土ヶ谷、戸塚から南下して藤沢に来る。しかし藤沢宿すなわち歴史的中心地はJR藤沢駅から遠い。地図を見れば内陸側の小田急江ノ島線にその名もずばり、藤沢本町駅があった。

10月20日、千代田線千駄木駅を9:24に出て、代々木上原で小田急の急行藤沢行きに、大和で各駅停車に乗り換え、1時間27分で着いた。
2025₋10₋20 10:53
藤沢本町駅
東京、横浜から大分離れているのに電車は日中でも1時間に6本ほどあった。この点、埼玉より便利だ。

藤沢市についてはほとんど知識がない。地図を見たら駅のそばを旧東海道が通り伊勢山橋がある。箱根駅伝(3区、戸塚―平塚)で聞く地名だ。
10:55 伊勢山橋
むこうは伊勢山と藤沢本町の駅
伊勢山は、かつて伊勢神宮が祀られていたからこう呼ばれる。
昭和2年(1927)に遊園地が設置されたという。1951年には藤沢市第1号の公園となり、1957年には周辺4.3ヘクタールを含め、伊勢山緑地として保全されている。
西南戦争以降の戦没者慰霊碑が4つ立っているらしい。(関東大震災以降に集められた?)
しかし時間がないので行かない。
10:55
伊勢山橋を渡った向こうに浄土宗真源寺。
とくに有名でもないようだ。
10:57
東海道・藤沢宿京見附跡
地図でこう書いてあったが、説明板だけであった。
見附というのは、江戸城外堀に設置された赤坂見附や四谷見附などで分かるように、見張りをする場所という意味だが、宿場町でも両端に設置された。街道の江戸側は江戸見附、京都側は京見附、上方見附などと呼ばれた。
ということはこの西への下り坂の手前(東)側に宿場町があったということだ。

地図を見れば東のほうには藤沢宿本陣跡がある。また藤沢は宿場町だけでなく時宗総本山の清浄光寺(遊行寺)の門前町でもあるが、その寺まで歩くにはちょっと距離がある。

地図ではすぐ近くに湘南高校があった。
名前からして平塚とか茅ケ崎など海のほうにあるかと思っていたが、ここにあった。
いってみた。
11:07
湘南高校
私立高校と比べると開放的である。
正門から入るとすぐに「甲子園優勝」の記念説明板があった。
1949年、創部4年目、初出場で全国優勝してしまった。世間はまだ野球どころでない戦後間もないころとしても、奇跡、快挙と言ってよい。(東大も六大学リーグで1946年2位になった)。湘南高校は1951年、54年の選抜にも出場したが、こちらは1回戦で惜敗した。
11:09
校舎は新しい。
湘南高校は、大正10年(1921)、神奈川県下6番目の旧制中学校として県立湘南中学校が開校した。
一中(1897、のち横浜一中、現・希望ヶ丘)
二中(1900、小田原)
三中(1902、厚木)
四中(1907、横須賀)
横浜二中(1914、横浜翠嵐)
7番目以降は横浜三中(1923、緑ヶ丘)、川崎中学(1927)と続く。

湘南出身ですぐ浮かぶのは鏑木美奈子さんと吉野諒三氏。もっと居らっしゃると思うが、他人の出身高校などはほとんど忘れてしまった。
正門から入って右側奥に湘南高校歴史館があった。
もちろん日曜だから開いていない。
こういうものがあるのは、よほど卒業生が母校を誇りに思っているのだろう。

じっさい、かつて湘南高校は神奈川県だけでなく、全国県立高校随一の東大合格者数を誇り、1972/1973年に78人(同数)をはじめ、常時70人前後を合格させる名門進学校だった。
6番目の旧制中学であったのに神奈川県一番になったのは、湘南地方には戦前から高級官僚や文化人、海軍士官が多く居住していて一高、海軍兵学校入学者が多く、それが戦後も続いたからだ。

古さでは負けない名門、旧四中の横須賀高校との違いは面白い。
横須賀は、下士官や工員層が多く、また湘南地方が東京、横浜と交流できたのに対し、横須賀は軍港都市で閉鎖的であった。校風もリベラルに対し、規律・保守的だったことが進学実績の差になったとも考えられる。
昔の校舎をほんの少しでも残しておけばよかったのに、コンクリートで新しい。
銅像があった。創立以来戦後の学制改革まで27年間の長きにわたって校長を務めた赤木愛太郎だろうか。

湘南高校というと、かつて県立高校として同じく全国的に有名だった浦和高校との交流がある。
1956年に始まり、2002年まで定期戦が行われた。1970年代の浦高出身の荻本和彦氏から京浜東北線で延々と電車に乗っていった、と聞いたことがある。東京から東海道線に乗っても2時間くらいかかったらしい。

その湘南高校も1981年の学区細分化により、進学実績は落ちていき、県が2005年に学区を撤廃しても、栄光学園、聖光学園に流れた生徒層は戻ってきていない。

そんなことを思っているとクラブ活動を終えたのか女子生徒が二人、道具を運んできた。賢そうな顔をしていた。1950年に男女共学となり、現在男女比は7:3などではなく、1:1である。そういえば宮崎緑、黒田あゆみ(NHK)、柔道の山下夫人、三浦瑠麗も湘南だった。
11:11
ラグビー部だろうか。グラウンドを雑巾がけのような格好で重い古タイヤを押していた。いかにも体が鍛えられそうな苦行である。
スポーツをやらないものから見れば、ずいぶんエネルギーの無駄遣いに見える。なにか発電装置とトレーニング装置が合体したものが作れないだろうか。

湘南高校からは藤沢本町が近いが、藤沢市をもう少し歩いてみようと、一本道をJR藤沢駅まで歩いた。
しかし道中、写真を撮るようなものはなかった。
11:27
JR藤沢駅到着。
標準20分のところを16分で歩いた。

藤沢は1940年10月に市制施行だから、市の格としてはまずまずである。
藤沢駅はJR、小田急、江ノ電が集まり、市域の周縁部には横浜地下鉄、相鉄、湘南モノレールも来ていて、人口44万人は、横浜・川崎・相模原の政令指定都市に次ぎ県内4位。
地図を見れば片瀬・鵠沼・辻堂海岸、江の島も藤沢市である。

地図をなおも見ていると東隣の大船駅(鎌倉市)方面の東海道線沿い、鎌倉市との境付近に湘南アイパークがあった。
こんなところにあったのか。これも湘南という名から茅ケ崎、平塚のほうかと思っていた。

かつては武田薬品の工場であり、2006年まで医薬品を製造していた。武田では90年代から手狭になった大阪十三の中央研究所とつくばの研究所を統合する構想があった。当時は最後の創業家社長の武田國男氏のもと、世界売上高10億ドル以上のブロックバスターが4つも育ち、黄金時代であったが、それらの特許がきれる2010年前後に次の大型医薬品を作らねばならないという危機感があった。

新研究所の立地に対し、茨木市・彩都への誘致をめざす大阪府と神奈川県が200億円規模の助成を用意して誘致合戦を行った。そして湘南工場跡地に決定し、2009年着工、2011年竣工、約1200人の研究者が移動した。

ところが、武田社長の後を2003年についだ長谷川閑史社長が連れてきたクリストフ・ウェバーが2014年社長に就任、国際化を加速させた(2025年現在取締役17人中14人が外国人)。2011年のナイコメッドに次ぎ、2019年ほぼ武田と同規模のシャイアーを買収、世界8位のメガファーマになったのはいいとしても、研究開発の領域を絞り、さらにボストン郊外ケンブリッジの同社研究所など海外に研究の軸足をうつし、また新薬は自社で作るより海外のものをベンチャー企業ごと買う、あるいは有望品目を海外から導入するようになるなど、研究開発の方針が大きく変わった。

こうして最先端の我が国最高だった湘南研究所は無用の長物となり、2017年には建物や研究機器を社外の研究者やバイオベンチャーに開放する「湘南ヘルスイノベーションパーク」の構想を発表。そして武田の100%出資によるアクセリードドラッグディスカバリーパートナーズに創薬研究事業の一部を移し、1000人以上いた武田の研究者はリストラによって2018年3月には522人にまで減少した。あれから7年経った今は何人いるか知らない。

2008年にダイヤモンド社から訳本「新薬誕生」を上梓してから製薬企業の研究開発組織に関する講演を何回かして、当時はかなり詳しかった。しかし2013年に業界から離れて12年、この間に、同年代の友人が退職しただけでなく、製薬業界の研究開発は激変した。元いた田辺三菱製薬などは親会社の三菱ケミカルが投資ファアンド・ベインキャピタルに売却し、研究所は事実上消滅、リストラを経て知人の何人かは湘南アイパークにいるはずだが、会社名は知らない。

グーグル航空写真で場所と威容は見たものの、行ってみようという気にはならず、わずか40分の藤沢滞在を終えた。
11:34の下り東海道線で平塚に向かった。

(続く)

2025年10月7日火曜日

千鳥屋、古河庭園は陸奥廣吉が相続したが

 10月1日、都民の日。都立の公園や動物園、美術館などが無料になる。

何十年ぶりかで近くの六義園にいったが(別ブログ)、帰り際に都立9公園のチラシを手にした。
入ったことがあるのは浜離宮、六義園、岩崎邸、古河庭園、小石川後楽園の5つ。もともと庭園そのものにはあまり興味がないので、向島百花苑、殿ヶ谷戸庭園、芝離宮は前を通ったが入らず、清澄庭園は行ったこともない。

久しぶりに自転車に空気を入れて来たので、抜けないうちにもう少し乗ってみたい。自転車で行けるところは後楽園と古河庭園。特に行きたくもないが近いほうに行ってみる。家に帰れば何もないが、外を動けば何かあるかもしれない。
9:48
六義園から本郷通りに出ると古河庭園まで1230メートルと書いてある。
9:51
JR駒込駅
1977年大学3年生の時の最寄り駅。
アパートは坂下の東口のほうが近かったのでこちらはあまり使わなかったが、外装などは新しくなっても当時と構造は変わっていない。

かつて、駅前の、通りの西側にチロリアンの千鳥屋があり、歩道からも中がよく見えた。
(実際買い物もしたかもしれない)

千鳥屋は1630年、竜造寺氏の家臣だった原田氏が九州佐賀で菓子屋・松月堂を始めたことを創始とする。(竜造寺は島津に敗れた後も秀吉から肥前31万石を安堵されたが、のち鍋島氏に領地を禅譲した)

千鳥屋は昭和2年に福岡で開店、千鳥饅頭を発売した。
1962年に千鳥餡に音が似たチロリアンを販売した後、経営者原田ツユの息子たちが次々と独立し、千鳥屋宗家(大阪)・千鳥屋総本家(東京)・千鳥屋本家(福岡飯塚)・千鳥饅頭総本舗(福岡博多)の4社に分かれた。
しかし、2016年、東京の千鳥屋総本家は民事再生法の適用を申請、千駄木に来てから長野への土産を買ったこともある、西日暮里駅の店舗とともに駒込駅前店も2018年ころ閉店した。

はて千鳥屋のビルはどれだったか、と横を見ながら妙義坂をおりる。

千駄木に来て付近を探検したころは、坂下に銭湯があった。
ブログを始めたのは2016年12月だから、前を通っても写真を撮らなかった。
千鳥屋とともに写真を撮っておけばよかったと思う場所。
9:53
銭湯の土地は、奥のほうにある香川栄養学園・女子栄養大学が取得したが、いまはコインパーキングになっている。大学の看板にはレストラン松柏軒の文字もあり、奥の大学ビルに入っているのだろうか。

本郷菊坂の旧伊勢屋質店を跡見女子大が買って集会施設として保存したように、女子栄養大も銭湯を保存できなかったものか。浴槽に魚を飼って鮮魚レストランとか料理教室とか。今や貴重になった銭湯の建物を壊した結果が、このあたりで最も殺風景なコインパーキングとは。
などと思っていると自転車が近づいてきた。
乗っているのが外国人というのが今風である。白人だからわかったが、中国人だったら分からない。
9:56
岩槻街道の霜降り橋跡をすぎ、坂をやっとこさ漕ぎ上がると到着。
国指定名勝 旧古河庭園
六義園や浜離宮などと違って、ここは「旧」の字がつく。なぜか?
庭単独で名前があるとき旧は不要で、旧岩崎庭園のように個人の庭だったという場合は旧があるのか?つまり旧は庭園ではなくかつての所有者につくと考えたが、浜離宮と旧芝離宮となると分からない。
9:57
前回来たのは2002年5月19日だから六義園よりもずっと最近である。
当時は川越線指扇に住んでいた。
柏瀬さんと来たのだが、ダンスの練習にでも行くついでだった気がする。
9:58
六義園との大きな違いは邸宅が残っていることだ。
大正8年(1919)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として建てられた。
戦後国有財産となり、敷地は東京都が借り受け1956年に都市公園として開放された。

若いころ、地図を見てコガ庭園だかフルカワ庭園だかどっちだか分からなかった。
古河財閥との関係も知らなかったし、それ以前に、古河電工だけでなく富士通や朝日生命なども生んだ古河財閥についても大して知らなかったと思う。学校で習った財閥は住友安田までだったから。
9:58
湯島の旧岩崎庭園と違って、建物見学は有料である。
入館には1階のみで500円、二階も行くガイドツアーは予約制800円。
喫茶室のケーキセットは1400円。

建物は(財)大谷美術館が1983年から6年をかけ東京都の助成を受けながら修復、1989年に公開した。現在大谷美術館が管理運営しているから庭園とは別なのだろう。
大谷美術館は大谷重工などを起業した大谷米太郎が計画し、死後実現した。彼についてはニューオータニのブログで少し書いた。
9:59
洋館の周りは様々なバラが植えてあるが、私は野菜のほうが好きだ。

9:59
バラ園のほうにはいかず、日本庭園のほうに行こうとすると途中に売店があり、店員さんが二人きちんと姿勢よく並んで立ちこちらを見ている。他に誰もおらず、何も買うつもりもないからちょっと気まずく会釈して通り過ぎた。彼らが直立不動で立っていたのは店がキッチンカーのように小さく中に入る場所がないからだった。
公式パンフレット

江戸時代から明治初めまで、ここは駒込六義園と違って西ヶ原という原っぱ、畑などだった。
明治20年代になって陸奥宗光がこの地を取得した。

陸奥宗光は紀州藩士の父が浪人したため、若いころは困窮を極めた。しかし神戸海軍塾に入り塾頭の坂本龍馬に見いだされ、以後、竜馬の片腕として亀山社中、海援隊で行動を共にした。維新後は新政府に仕え、投獄、留学を経て明治19年外務省に出仕、カミソリのような頭の切れと仕事ぶりで外交問題に活躍、不平等条約の改正や日清戦争のときの外務大臣として知られる。

陸奥は最初、摂津、兵庫県知事のころは大坂の紀州藩屋敷に逗留していたが、明治5年ころから10年ころまで深川清澄(都立公園とは別の場所)に居を構え、明治16年ころに下谷根岸に屋敷を取得したとされる。そして外務省時代の明治20年代に西ヶ原の土地を取得、本邸とした。陸奥は、大磯に別邸も持ったが、持病の肺結核が悪化し、明治30年、この西ヶ原の地で死去している。

宗光の死後、子のいなかった古河市兵衛の養子となっていた宗光の二男・潤吉が西ヶ原に住んだ。古河市兵衛は足尾銅山を取得(のちの古河鉱業)、さらに銅加工品の生産など多角化をめざし、のちの古河電工を中心とする古河財閥の基礎をきずいた。

2代目当主となった養子・古河潤吉は病弱で生涯独身を通し、明治38年、35歳のとき父と同じく西ヶ原で死去した。古河の事業は市兵衛が晩年(明治20年)にできた実子、虎之助が3代目当主として引き継いだ。西ヶ原は質素な屋敷であったため、彼は財閥当主の本邸にふさわしく敷地を1万坪に拡張、斜面の上に豪邸を立てた。それが今に残る。

樹木に覆われた細い道を池のほうに降りて行った。
10:01
10:02
崩石積(くずれいしづみ)
京都で生まれた伝統的工法で、「石と石が嚙み合って崩れそうで崩れない美しさ」というが、アーチでも作れば別だが、私にはただ積んだだけのものと大差ないように思われた。
10:03
大滝
斜面をさらに削って滝の高さを出した。こういうものは一生に何回か本物を山に見にいけば良く、わざわざ庭に作ることもないと思うが、自然を再現したいという庭師とお金はたっぷりあって丸投げした施主のなせる作品に見える。
10:04
路傍に曼殊沙華が2本。
大滝や石組より、こういうものが好きだ。
山ぶどうや栗、アケビなどを植えたほうが散歩も楽しいのではなかろうか。

10:04
邸宅の前に広がる西洋庭園。最初からあったかどうか知らないが、海外からの賓客だけでなく、園遊会での日本人客をもてなすのに都合が良い。

立派な洋館は護国寺に墓があるジョサイア・コンドル設計。延べ414坪。地上2階・地下1階。煉瓦造りの躯体を、黒々とした真鶴産の本小松石(安山岩)が覆っている。
10:06
スマホ撮影の時以外は立ち止まらず、戻って来た。
六義園よりさらに短い10分間の見学だった。
無料だと見学も雑である。

この日は小雨が降ったりやんだり。
六義園からずっと、半数くらいの人が傘をさす天気。
ところが、ここで雨が強くなった。傘を持っていなかったが、野良着のせいか、知っている人が誰もいないせいか、それとも暇なせいか、あるいは年を取ったからか、ずぶ濡れでも平気だった。

自転車を走らせて帰宅後、昔から疑問に思っていたことが頭に浮かんだ。
陸奥宗光の次男が古河家の養子になり、陸奥の西ヶ原の屋敷が古河家のものになったことはあちこちに当たり前のように書いてある。
しかし陸奥宗光には長男・廣吉がいた。家督と伯爵位を相続した。一番の財産である西ヶ原も相続すべきだろう。 実子とはいえ他家の人になった古河潤吉がなぜ住んだのだろう?
簡単には分からなかった。
調べているうちに、陸奥の遺言書には西ヶ原の本邸は長男に、大磯の別邸は夫人に残すと書いてあったことがわかった。
(奈良岡聰智、https://www.kokudo.or.jp/grant/pdf/2021/naraoka.pdf?utm_source=chatgpt.com)

西ヶ原が古河邸になったのは、潤吉あるいは虎之助が、廣吉から買ったのかもしれない。廣吉は外交官であり、霞が関からこんな遠いところに大邸宅は必要なかった(のちに高輪に住んでいる)。彼は父の死の翌明治31年からサンフランシスコ領事となり、その後在英日本大使館、北京、ローマ、マルセイユなど海外勤務が多く、西ヶ原などもらっても持て余しただろう。
そういえば、後妻の亮子に残された大磯別邸も、昨年訪ねると古河電工の保養所になっていた。年をとると色んな記憶がつながってくる。

2025年10月5日日曜日

都民の日の六義園。柳沢吉保と48年前の私

10月1日、朝テレビを見ていたら、今日は都民の日です、都立公園などが無料になりますという。

2,3年に一度、こういうニュースを聞くが毎年どこにもいかなかった。
思いついたのは六義園。
歩いて15分くらいだからいつでも行けると思っていたが、この年齢になると死ぬまで行かないような気もする。

どうせ家でぶらぶらしているわけだからと、自転車で行ってみた。
レンガの重厚な塀が長く続く正門の前に駐輪するわけにいかない。隣の六義公園の自転車置き場へ。
9:16
「六義」は柳沢吉保がつくった庭園に対して付けた言葉である。この区立公園は六義園ゆかりの公園だから、六義公園ではなく六義園公園が正しいと思う。
1977年に都から文京区に移管された。
六義園の空気が伝わっていて普通の区立公園より落ち着いている。大和郷に隣接しているというのもあるかもしれない。
9:18
正門前に戻ってくるとバスガイドさんだけがいっぱい。
制服とマークからハトバスのようだ。
一人だけ年配の方がいて「ここは門が二つありますが、北の染井門は普段開いておらず、この門だけが開いています」と話し、残りの人はメモを取っている。新人研修だろうか。
9:18
4月のみどりの日と年2回の無料開放日なのに思ったより空いている。
平日で小雨模様だとこんなものか。
9:20
入ってすぐ、六義園の概略が記されている。
周知のごとく、5代将軍徳川綱吉の側近だった柳沢吉保が元禄15年(1702)ころ築庭し、明治後に三菱弥太郎の別邸となった。

順路の矢印に従って進むとすぐ、その歴史について展示パネルがあった。
9:20
江戸時代前期の地図
このあたり、今は山手線の内側でも昔は「畠」の文字があってあまり開けていない。
「イハツキ道」が切れる地図の右端に「土井スワウ」とある。六義園の南にあった古河7万石土井周防守の下屋敷である。つまり、六義園は地図に載っていない。
地図をよく見れば根津神社のところが甲府中納言(後述)とあり、根津神社が千駄木から現在地に移ったのが1706年と言われるからちょうど築庭のころの図であることが分かる。
9:22
柳沢文庫所蔵の屋敷図を初めて見た。
柳沢家下屋敷は、たいていの絵図では正方形に描かれる。しかしこれは南のほうに突出して長屋などが描いてある。城郭のように周囲を堀で囲まれていたのも初めて知った。

柳沢吉保についてはテレビドラマ元禄太平記などの記憶からか、生類憐みの令の5代綱吉の側用人で、地名では舘林、川越、甲府、大和郡山、といった単語が浮かぶが、詳しくは知らなかった。六義園に入ったついでに書いておく。

柳沢吉保(1659₋1714)は武田遺臣を祖に持つ柳沢安忠(1602₋1687)の長男(庶子)として生まれた。保忠は大坂夏の陣で活躍し、旗本であったが将軍家光の第4子徳松(後の徳川綱吉)付きを命じられ、徳松が上野国館林15万石に封じられると安忠も館林藩士(直参旗本ではない)となった。(もっとも綱吉は基本的に江戸在住であって家臣のほとんどは神田の御殿に詰めていた)

保忠の子・のちの柳沢吉保は
1664年、5歳にして綱吉(1646₋1709)に謁見。
1675年、家督を相続
1680年、綱吉が5代将軍となると直参幕臣となり、小納戸役。530石。
1683年、1030石
1688年(元禄元年)、1万2000石、大名となる。
1692年、武蔵川越、7万石の藩主、老中格
1695年(元禄8年)、駒込の旧加賀前田家の屋敷を拝領
1698年、大老格
1701年、将軍綱吉から松平姓と「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保となる。(それまでは
保明といった)
1702年、駒込拝領屋敷に庭園が完成。
1704年、綱吉の後継が甲府徳川家の綱豊(甲府中納言、のちの家宣)に決まると、綱豊の後任として祖先の地・甲斐に所領を与えられ、15万石となった。もっとも幕政などもあったから甲斐に行くことはなかった。
1709年、綱吉死去。吉保も隠居し、この駒込の地に住んだ。
1714年、死去、甲斐の恵林寺に葬られた。

嫡男・吉里は幕府の甲斐一国直轄化に伴い、1724年、大和郡山15万石に転封された。
9:23
この地は幕末まで柳沢家の下屋敷(別邸)であったが、明治11年、荒れていた屋敷(4万5千坪)を岩崎弥太郎が別邸として購入した。パネルによれば隣接する藤堂、前田、安藤家などの敷地を合わせて12万坪の土地を手に入れたという。
(安藤家とは紀州田辺の大名(紀伊家付家老)のようだが、私が調べたところ幕末の絵図に屋敷はない)

三菱2代目の弥之助(弥太郎の弟)は荒れた庭園を明治19年以降、完成時の姿に復元した。しかし3代目久弥(弥太郎の長男)の代に、庭園部分2万6千坪だけを別邸として残し(幕末の柳沢家屋敷は正方形だが4万坪)、大部分を売却した。北は山手線敷設、本郷学園、西は大和郷住宅地、南は理研、東洋文庫などになった。
昭和13年、岩崎家から六義園が東京市に寄付された。
9:24
内庭大門をくぐると庭にはいる。
おそらくここらあたりまで岩崎家別邸の家屋があったのだろう。

門をくぐるとまた説明パネルがあった。
9:25
六義園は紀州・和歌の浦の景勝や、古今和歌集などに詠まれた名勝、中国古典の景観などを88景として再現したものらしい。これは初めて知った。
柳沢吉保は王朝文化にあこがれた文化人でもあり、作庭にも力が入った。
9:26
一見西洋庭園のように広々した芝生が広がり、禅宗の枯山水、室町時代の書院造りの庭とは違う。

前回来たのは約40年前の1986年5月。
前年に理科大から入社した中原美香さんが駒込・都立臨床研の山本一夫氏のもとで卒業研究をしたという。山本氏は私の薬学時代の同級生だから、一緒に訪ねることになった。
都立臨床研は美濃部時代の1976年に開所し、1999年財団法人化、2009年上北沢に移転するまで駒込病院の中にあった。(2011年、都立神経研、都立精神研と統合された)

あたりは1977年に暮らして懐かしい土地だからあちこち立ち寄ろうと思ったのだろう、早めに駒込駅に集合し、六義園に立ち寄った。
9:27
この場所である。
中原さんとここまで来ると、むかし流行ったミドリガメが歩道を歩いていた。
私が池に戻してあげようと拾って投げた。
ところが、小さくてしっかり掴めず、そっと握ったまま強く投げたが水面に届かなかった。カメは芝生に叩きつけられ、あー可哀そう、と彼女は言った。

この後ゆっくり園内を歩いて、たぶん時間的に、不忍通りの勤労福祉会館にあったレストランでランチをしてから、山本氏を訪問した気がする。
(このレストランはこの近辺で一番お洒落だったが、同じ建物内に介護センター若駒の里を開所したときだろうか、大改築が行われ、今レストランはなく、その場所は会議室になっている)
9:28
池の向こうに本郷通りのマンションが見える。
最後に来た40年前、あるいは暮らしていた約50年前は、こんなマンションがあったかどうか。
池を中心とした回遊式築山泉水の大名庭園である。

9:29
滝見茶屋
相変わらず人がいない。
無料だから来たというケチな人は私くらいかもしれない。
9:30
滝見茶屋と小さい滝

六義園は50年前から知っているが、この日まで六義の意味を知らなかった。
六義は、儒教の5徳・仁義礼智信のひとつ「義」を6つに細分化したというのではなかった。中国の詩の分類法、あるいは詩の体裁(詩の六義)をいうらしい。すなわち、賦、比、興、風、雅、頌である。つまり義は義理・義務の義ではなく意義の義であった。
武士道の7徳目にも「義」「忠義」が入っているが、それとは全く関係なく、元禄時代に生きた柳沢吉保の文人ぶりが分かる。
9:33
桜の老木。
十分丁寧に育てられていたはずだが、3年前に伐採した我が家の保護樹木より小さかった。
桜はこの大きさが限界なのだろうか。

桜のそばに吹上茶屋がある。
抹茶と上生菓子が1000円という看板が出ていた。ここでも英語表記が添えられていた。
(上生菓子というのは生菓子の中でもとくに四季の移り変わりや自然を美しく表現した手作りのものをいい、茶道などで出される。では生菓子であって上生菓子でないものは何か。どら焼きや草餅などか)
吹上茶屋では池を見ながら休めるだけでなく、箱に六義園の文字が入った人形焼きや瓦せんべいなどの土産も買える。

山のほうに登りかけたが、やっぱりやめたと元の道まで戻ったら、はとバス研修グループが追いついていた。彼女らは意外と足が早い。
9:36
相変わらずメモを取る新人たち。
企業の研修など、わざわざ混雑する無料開放日にしなくても良いかと思ったが、こんなに空いているなら関係ない。むしろ大人数の入場料が節約できる。もっとも20人なら6,000円だが。

はとバスは皇居、東京タワー、浅草などが定番で、地味な六義園などは対象外と思っていたが、近年のインバウンド客に合わせて行き先の一つになったのかもしれない。

引率する先輩社員の説明をなんとなく聞いていると「決して山のほうに行ってはいけません。足の悪い方もいらっしゃいます。池の周りのコースだけにしてください」
なるほど、園内最高点の藤代峠へ団体で行ったら大変だ。庭全部を満喫させてはいけない。

ちなみに藤代峠も吹上茶屋の前の吹上浜も紀州、和歌の浦付近にある地名である。
園内88か所の名所には石柱が建てられていたらしいが(現存32か所)、見逃した。
白鴎橋
救命具が置いてあるが、溺れるほど深くはなく、投げたら滑稽でさえある。お役所仕事か。
むこうに文京グリーンコートのオフィスビルが見えた。あそこもかつては岩崎家の土地だった。
9:40
渡月橋
渡月は和歌浦を歌った和歌から採っている。
注意書きのように雨のあとは滑って落ちる人がいるかもしれない。溺れることはないが、浅いから打撲のけがをするかも。
「まっすぐな橋ではありません」
どうしてこんなことを書くのだろう? 文京区公園課の上司はやめろと言わなかったのか?
呆れ果て、危うくフリガナが「とげつけう」というせっかくのこだわりも見落とすところだった。

こうして池を一周した。

1977年、大学3年のとき、ここから歩いて数分の本駒込5-37-4 二葉荘に住んでいた。
当時、六義園は無料だったから、何度か入った。夏はアパートが暑いから文庫本などもって涼みに来たが、蚊がいて長時間はいられなかった。

あるとき老紳士がいて昔話をしてくれた。
不忍通りの坂(たぶん神明坂)の上から下を見ると一面、田んぼだったというのである。当時の私は、それが戦前の話、彼の幼児の記憶のように受け取ったのだが、今思えば、彼の親や書物から得た知識を話された気がする。すでに団子坂下から南は江戸時代から人家が並んでいた。動坂下まで不忍通りができたのが明治43年(1910)、上野からの都電が開通したのが大正6年(1917)だが、彼が私より50年上の1906年生まれとしても、子供のころはすっかり宅地化されていたはずである。
彼は写真が趣味で、私がたまたま持って行ったカメラで21歳になったばかりの私を撮ってくれた。
1977年夏
サンダル履きである

むかし六義園に入ってから39年、48年経った。
私は老人になった。樹木も幼木が老木になるはずだが、庭はあまり変わっていない。
9:41
入ってから23分間の散歩、見学だった。

天気も怪しかったが、久しぶりに自転車に空気を入れて乗ったので、ついでに古河庭園も行ってみることにした。
9:48
本郷通りに出ると古河庭園は六義園から1230メートルと書いてある。

ふと前を見たらはとバスが止まっていた。運転手が一人座っていらした。
よく考えると彼女たちがあの制服で電車に乗ってくるのは恥ずかしい。このバスで来たのだろう。
9:50
六義園染井門
この日は都民の日だから特別に開いていた。丁寧に係の人も二人、暇そうに立っていらした。

六義園はいつから有料になったのだろうと思って調べたら、9つの都立公園は革新系知事だった美濃部亮吉都政の政策で1972年4月から無料になり、しかしと財政の悪化や無料化による公園の荒廃などから1978年11月以降、順次、再度有料化されていったようだ。
つまり、私が住んでいた1977年はちょうど無料の時期で、中原さんと来た1986年は有料化されていたことになる。入場料は私が誘ったから私が払ったのだろう。


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