3月7日、京大工学部のM教授の退官記念最終講義に来た。
めったにない遠出なので前日は長浜、安土、近江八幡を歩き、この日も午前中は嵯峨野渡月橋から松尾大社を見物してきた。
阪急電車の松尾大社前から桂に来る。
11:56
阪急・桂駅
嵐山線と京都線の分岐駅で、私鉄だが線路が多い。
ここから路線バスで京大桂キャンパスに向かった。
京大桂は20年ほど前、何度も訪ねたことがあるが、つねにKRPから五条通りを西に走る市バスで「国道三の宮」のバス停で降り、坂道を上がっていった。当時はキャンパスができたばかりで、中まで行くバスがなかった。
阪急桂駅からのバスが本当にキャンパスまで行くのかどうか心配だったが、京大生らしき学生が何人か乗っていたので安心した。
桂キャンパスは緩やかな丘陵地を切り開いて2003年10月にオープン。工学部が吉田キャンパスから移転してきた。
バスを降りて昼食をとれるところを探す。
春休みのせいか開いている学生食堂がどこにあるか分からず、歩いていると福利棟の一階に小さな食堂があった。名前はCrews(クルーズ)という。
12:36
メニューを見ると旨そうだが、学生700円、教職員900円、一般1000円とある。
ふつう大学の食堂は学生も一般も区別できないから同一料金であるが、学生証が磁気カードになって食券購入の際に提示することで区別が可能になったのだろう。学生証を銀行口座などに紐づければキャッシュレスでも食べられるのかもしれない。
12:42
食券を配膳口に出してテーブルで待ち、料理ができるとモニターにレシートの番号が表示されるから、自分で取りに行く。食堂側は作り置きの必要もないし人出もかからない。客のほうも出来立てが食べられ、行列もできにくいから良いシステムである。
食べながら思い出した。
このクルーズという店の場所は昔、別のレストランだった。
そのときのテーブル、いすなどの調度品は今とは違い、その配列、内装も異なっていたから雰囲気が全然違っていた。ランチが2500円か3000円したから学生などはいなかった。森さんが奢ってくれたのだが、隣のテーブルは近所の有閑マダムが優雅なおしゃべりランチを楽しんでいらした。2007年から2014年の年別キャンパス地図にはレストラン「ラ・コリーヌ」として載っている。もちろん今の店のように食券を買うとか食べ終わると下膳口まで食器を運ぶとかはなく、フルサービスの高級店であり、京大もお洒落だな、と思った記憶がある。
食べ終わると息子からラインが来た。
彼は子供のころから森氏が好きなので午後の最終講義だけ聞きたいと、日帰りで東京から来て、今、キャンパス行きのバスに乗ったという。彼は夜の懇親会に出ないから森さんに挨拶して少し話をしたいというので、森研のラボで待ち合わせることにした。
13:17
森研究室
森泰生氏は2001年に岡崎生理学研究所で教授になったあと2003年6月、京都大学大学院工学研究科の合成・生物化学専攻、分子生物化学講座の教授に就任した。1960年の早生まれで最年少の教授だったらしい。そして桂キャンパスがその年の10月にオープンする。
私は2003年11月から2005年10月まで京都リサーチパーク(KRP)に月2回ほど通ったから、ちょうど森氏がこの研究室を立ち上げた時期に重なる。
恵美子さんも含め私たちは30代のころの若さを40代になっても引きずっていて、夜までおしゃべりするために何度か彼の新居(桂キャンパスの西に造成された住宅地にあるお洒落なマンション)に泊めてもらった。
そういう時は夕方KRPでの仕事が終わるとバスで国道三之宮まできて坂道を上がってこの研究室に来る。夕食はおばんざいの定食屋だったり、ドライブインのようなファミレスだったり、長岡京のほうだったかタケノコ懐石料理の店にもいった。泊めてもらった翌朝、またKRPにいくか東京に戻った。
KRPは2年間通ったのでそのたびに森研に行くのは申し訳ないし、ひとりのんびり様々な宿に泊まるのもそれはそれで面白く気楽でもあるので、いつしか森研を訪ねることはなくなった。それ以来20年、このラボを見ると前と全く変わらず懐かしい。
13:21
結局森夫妻は研究室にはおらず、学生さんに聞くとすでに最終講義の会場である船井講堂のほうに行っているという。講演は14:00からだが、まあそうだな、我々と違ってお客様をお迎えしなくちゃいけないからな。
我々も会場に行く。
同じ工学部出身の息子は初めての京大桂キャンパスの広大さに感心しきり。
13:27
講演会場・船井哲良記念講堂
中に入ると既に受付が始まっていて、森夫妻がいろんな人と話していた。
懐かしい顔がたくさん。
ところが親しく声をかけられて顔は見たことはあっても誰だかわからない人がいた。別れてから、恵美子さんに「あの人、誰だったっけ」とこっそり聞いたりした。20年ぶりだから風貌が変わり、かつこちらの脳の記憶が薄れている。
やがて最終講義が始まった。
タイトルは『分子に導かれて「月影」MoonLightを探究する』
森さんは1983年に京大工学部合成化学科を卒業後、大学院に進んだ。
このころの研究は
Shono T, Kashimura S, Mori Y, Hayashi T, Soejima T & Yamaguchi Y.
Electroreductive intermolecular coupling of ketones with olefins.
J. Org. Chem. 54, 6001-6003 (1989).
になっている。
14:13
最終講義は彼の研究半生を振り返るもの
スライドは沼研の集合写真。
しかし1985年に修士課程を終えると博士課程は医学部生化学教室、世界的に有名だった沼正作研究室にうつる。
論文リストをみれば、その翌年からNatureの論文に名を連ね始めるから、沼研に入ってすぐトップスピードで活躍し続けたことが分かる。
1
Imoto K, Methfessel C, Sakmann B, Mishina M, Mori Y, Konno T, Fukuda K, Kurasaki M, Bujo H, Fujita Y & Numa S.
Location of a δ-subunit region determining ion transport through the acetylcholine receptor channel.
Nature 324, 670-674 (1986).
(この間の2報は略)
4
Imoto K, Busch C, Sakmann B, Mishina M, Konno T, Nakai J, Bujo H, Mori Y, Fukuda K & Numa S.
Rings of negatively charged amino acids determine the acetylcholine receptor channel conductance.
Nature 335, 645-648 (1988).
5
Mikami A, Imoto K, Tanabe T, Niidome T, Mori Y, Takeshima H, Narumiya S & Numa S.
Primary structure and functional expression of the cardiac dihydropyridine-sensitive calcium channel.
Nature 340, 230-233 (1989).
しかし彼の名を一気に世界的にしたのは、脳内のCaチャネルをクローニング、アミノ酸配列を決め、機能するイオンチャネルとして発現させた次の論文である。
7
Mori Y, Friedrich T, Kim M-S, Mikami A, Nakai J, Ruth P, Bosse E, Hofmann F, FlockerziV, Furuichi T, Mikoshiba K, ImotoK, Tanabe T & Numa S.
Primary structure and functional expression from complementary DNA of a brain calcium channel.
Nature (Article) 350, 398-402 (1991).
当時、Natureは今のようにNature Chemistry, Nature Medicineなどと20以上に細分化されていたわけでなく、天文学、地質学、進化から医学までたった1冊の雑誌だったから、そこに掲載されるのは大変なことであった。論文はふつうLettersという短い要約された形で投稿、掲載される。しかし、この論文はEditorが画期的と判断し、LettersでなくArticleという特別論文として掲載された。
イオンチャネルというのは細胞膜に存在し細胞機能に決定的であるため生物学者の長年の大きな研究テーマだった。またチャネルというたんぱく質のゆらぎがゲートの開閉に相当し、そこを流れる電流が膜電位変化に通じるから物理学の面でも興味がもたれた。ところが膜タンパクというのは巨大かつ精製が難しいため化学的構造(アミノ酸配列)の決定が遅れ、生化学の面でも大きなチャレンジ目標だった。そして1980年代というのはCa拮抗薬というイオンチャネル阻害薬が高血圧領域で爆発的に使われ、医学の面でも大きな興味の対象だった。そして近年の脳科学、神経生理学である。神経活動(刺激の受容、計算・統合、次の神経への情報の伝達)はイオンチャネルによって行われる。
こうしたことから、彼が神経のCaチャネルをクローニング、発現させたことは世界中の研究者を驚かせかつ興奮させ、この分野の研究を一気に進めることになった。
1992年2月、沼先生が、おそらく確実だったノーベル賞を取る前、63歳になったばかりで急逝されたあと、 森さんは世界中のライバル研究室から引っ張りだことなった。本人の能力はもちろん、イオンチャネルのクローンという貴重な物的財産、また沼研のノウハウなどがついてくるから、彼を獲得するのは研究者10人分以上の価値があったのではないか。
結局彼は1992年12月、アメリカシンシナチ大学のシュワルツ研にうつった。
その翌月、93年1月に沼先生メモリアルシンポジウムが早大であり、私は初めて彼の講演を聴いた。
シュワルツは昔から田辺製薬と関係があり、シュワルツが電気生理学の研究者が欲しいということでその年の8月、私はシンシナチに留学し、森さんに出会う。
イオンチャネルのクローンを持っているというのは、この分野での決定的な強みであり、森さんと親交のあったエーザイと田辺は彼の全面協力のもとイオンチャネル創薬に関して欧米メガファーマに先行した。1億円もしたMolecular Devices社のパッチクランプロボットのIonWoksの9台目を買ったのが世界から見たら弱小メーカーの田辺製薬であり、エーザイもこのロボットを同時期かそれより早く買っているはずである。
メガファーマから見たらベンチャーのように小さくても田辺のイオンチャネル例えばT型Caチャネル創薬に関する世界的先行性は、のちにグラクソ社とプロジェクトテーマの情報交換をした時にも明らかになった。もっとも田辺もエーザイも医薬品までは到達しなかった。しかし医薬品の研究開発というのはそういうものである。
それにしても貴重なCaチャネルのクローンを4つももらったのに、田辺から彼には研究協力費など一切払わなかった。会社からの命令でなく私が自発的に始めたプロジェクトだったからだ。まさに公私混同だった。
森さんはその後、謎が多かったストア作動性チャネルに未知の大陸のような魅力を感じたのか、第一人者であった電位依存性Caチャネルから、こちらのほうに軸足をうつし、のちにTRPチャネルという大きな分野に発展したイオンチャネルの第一人者となった。
ここでTRPチャネルについて説明すると
細胞膜のイオンチャネルは3つに大別される。
1.受容体作動性チャネル
沼研が初期に初めてクローニングしたアセチルコリン受容体作動性チャネルのように、細胞外の液性情報を細胞内に伝えるチャネル
2.電位依存性チャネル
沼研が世界で初めてクローニング、発現させたNaチャネルや骨格筋Caチャネル(田辺勉氏)、神経Caチャネル(森泰生氏)など、細胞膜の局所興奮を細胞のほかの部位に伝えるもの。
3.外部刺激作動性チャネル
膜が引っ張られることで開くとか、温度を感知して開くなど、細胞外部からの物理的刺激、情報で開くチャネル。
TRPはこの3番目に相当するもので、機械的(浸透圧、触覚)刺激で開くTRPV4チャネル、熱さ(唐辛子でも)で開くTRPV1、冷たさ(メントール、わさび)で開くTRPM8、TRPA1などが知られる。
森研ではこれらTRPチャネルを網羅的にクローニングし、これらの刺激だけでなく、H2O2などのROSによってTRPM2が、一酸化窒素(NO)によりTRPC5が活性化され、さらにはTRPA1が高酸素または低酸素で活性化されるなど、TRPチャネルが生物にとって極めて重要なレドックス感受性にも関わっていることを示した。
熱い最終講義の後、ステージに椅子が並べられパネルディスカッションが行われた。ふつう退官記念行事は講演と花束贈呈くらいだから、これは珍しい。
パネルディスカッション
『登山は人気があるが、なぜ科学研究は人気が無いのか?』
退官に当たり、沼研でのご自身の体験をふまえ、自分が研究室を主宰してからの学生の気質と社会情勢の変化から、日本の科学の将来について不安があったのだろう。
この後休憩。
ここでようやく若森実氏と話ができた。
シンシナチで実験面だけでなく日本食に使えそうな食材が見つかるジャングルジム(スーパー)に連れて行ってもらったり、人のいない森林のような公園でバーベキューをしたり、シカゴに旅行したり、世話になった。彼は生理研、京大で森さんのプロジェクトの電気生理学方面を引き受けて支え、東北大歯学部教授として独立された。
今回の退官記念行事には我が家と同様、家族で参加されている。
16:58
花束贈呈
人が減ったのは、講義だけ聞きに来た学生が帰ったためか。
あるいは休憩に行った人が話が弾んで戻ってこないせいかもしれない。
集まった人々は、森さんを中心にして同じ分野で研究していた仲間である。私のように引退して長い人は会う人、会う人が懐かしい。
私の場合、薬科大の退職は3年前だが、田辺製薬の研究所を退職した12年前に、この分野の研究はもちろん、サイエンスの現場から完全に離れてしまった。もう最新の研究の話は分からず、思い出話くらいしかできない。
17:13
晩さん会前。31年ぶりの人、その時生まれた人と。
晩さん会は退官記念パーティでよくあるブッフェ形式でなく、結婚式のような正餐であった。
発起人代表、主賓、乾杯音頭の人々の挨拶、思い出のスライドショー、海外からのビデオメッセージ、記念品披露などが続く。何人かの卒業生がでてきて研究室での思い出話に皆が笑う。
17:59
歩き回れる時間があり、梅田真郷氏とは45年前、応用微生物研究所の投手をされていたときにバッターボックスから立ち向かって以来、初めてお話しした。金子周司氏、加藤健一氏、西田基宏氏、森誠之氏とも、ほんの少しだけ話せた。
しかし、話すチャンスがなかった人も多かった。たとえば森さんとは関係なくグルタミン酸トランスポーターで世話になった金井好克氏、生理研に何回か行ったときまだ大学院生だった岡田峯陽氏、京大桂で研究室が始まったときの助手で信州下伊那郡上村出身の原雄二氏、田辺製薬研究所に見学に来た加藤賢太氏などは遠くから顔だけ拝見した。
宴が終わり森夫妻は会場出口で挨拶している。
退出する人々の歩みは自然と緩やかになり、おかげで石井正和氏、清水俊一氏、またシンシナチ以来の鰐渕博氏とは、このときにようやく言葉を交わせた。
18:47
もっとこの場に居たかったが、新幹線に乗り遅れないようにと、森夫妻との挨拶の行列には並ばず、手だけ振って船井哲良記念講堂をでた。
しかしキャンパスからJR桂川駅行きのバスに乗り遅れ、結局後から出てきた人々と一緒になった。おかげで清中茂樹氏と隣になり、20年ぶりに話ができた。
桂川駅から妻と二人だけになった。
今回集まった人々はみな森さんを中心にして知り合った。
あちこちで話の輪が咲き、皆がいい顔をしていた。皆がいい思い出を持っているのだろう。
それらの思い出ができたのは彼の人徳か。
京都駅の新幹線改札に入り、妻はお土産をいくつか買った。
発車時刻が近づきホームに上がって歩いていると、晩さん会のときに見た顔があり、先方も私に気が付いた。初対面だったが、晩さん会のとき卒業生として厳しくも楽しかった森研究室時代のエピソードを面白く話してくれた新見大輔氏だった。京都での最後の瞬間まで森教授退官記念パーティの余韻を味わった。
(京都終わり)
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