2025年9月6日土曜日

青森湾花火大会と金華山、鋸山

飛鳥IIで青森に来ている。

8月7日
16:00のダンス講習会まで仕事がないので午前中市内を歩いた。(前のブログ)
昼食は船内だと無料だし美味しいため、戻って来て、そのあとは出かけなかった。

この日は6日間続いたねぶた祭りの最終日。
運行は夜ではなく昼13時からで、夕方からは青森夏祭りの最後を締めくくる花火大会がある。
飛鳥での旅も終わりに近づいた。

クルーズターミナルのある新中央ふ頭は花火見物の有料特別席となる。
目の前にビルのようなクルーズ船があっては何も見えないから、飛鳥は早い夕食が始まった17時に岸壁を離れ、沖合に移動した。
私も食後、12階のデッキに上がった。
18:25
対岸(沖館ふ頭)にダイヤモンドプリンセスが見えた。
今朝入港し、深夜に出港するようだ。
18:53
花火の始まる前、薄暮の中を海上運行のねぶたが4台、太鼓の音とらっせらっせの掛け声とともにやってきた。何も障害物がないと音は遠くまで聞こえるものだ。
18:55
しかし、大きさの関係から、こちらからねぶた船を見るより、向こうから飛鳥を見るほうが壮観だろう。
18:55
三角形の青森物産館(アスパム)の周りがラッセランド(ねぶた格納庫)である。
18:56
ダイヤモンドプリンセスはさすがに大きい。
イギリス船籍だが長崎で建造され、近年は日本人向けにほとんどが日本発着である。11万5千トンは飛鳥IIの2倍、乗客定員2700人は3倍。
2020年2月のコロナ騒動で有名になった。

18:57
岩木山。
左のほうには八甲田山も見えた。

青森海上保安部の巡視船「おいらせ」が定位置の岸壁を離れ沖にやってきた。
やはり花火見物の邪魔になるからだろうか。

19時過ぎると花火が上がり始めた。
19:15
19:16
(撮っているときはわからなかったが、映像は爆発の瞬間だった。
スマホカメラのシャッタースピードに感心する一方、散開した小花火の形が面白い。
なぜか球ではなく皿のような形をしている。物理的に考えれば爆発の瞬間の光点は球になるはずだ。写真のようになる理由を考えたがわからない。地上の光点も似たような形をしているから手振れのようなartifactだろうか。他の写真を見ても似たような現象がみられる。)
19:16

一人で見ているのも飽きて、肌寒くもなって来たので11階に降りてみた。
19:39
プールサイドでも見ている人がいた。
ここは屋外だがガラス越しになってしまう。
おなじ11階にはブッフェレストランのリドガーデンと、パームコートがある。
19:43
パームコートの窓辺
室内なので音は聞こえないが、ほとんど無人の空間でゆったりと座れ、ドリンクのサービスもある。
海上ねぶたがまだ見えた。
19:51
パームコート
若者なら混雑する土手でデートする花火がいいだろうが、老いたらこういう一人優雅な花火が良い。彼は何を思い出しているのだろう?

このあと21時からのダンスパーティで仕事をして、寝た。
船は花火が終わると青森港を出たはず。

8月8日
この日は朝から晩まで東北地方の太平洋側を南下する。
9:49
大船渡、陸前高田の沖。
町は深い入り江の奥のため見えない。

11:00から45分のダンス講習会が終わり、部屋に戻った。
右舷側だから寝ていてもずっと陸が見える。
12:02
金華山沖
よく天気予報や漁場名、ときには海難事故のニュースなどで出てくる地名だが、私はずっと牡鹿半島の先端の山だと思っていた。今回スマホの地図を見て、半島先端にある島の名前だと初めて知った。
しかし金華山島とは言わず、島の最高峰もまた金華山という。自治体は石巻市だが一般住民はいないらしい。

やがて日は暮れ、夕食後、最後のダンスパーティ。
スタッフ4人にお客さんが6,7人。
日中の講習会は30人くらい集まるが、パーティはいつも少なかった。

8月9日

夜のうちに鹿島灘、房総半島を過ぎたのか、目が覚めると東京湾に入っていた。
起きたらすぐ12階に上がって、周りの景色を見て、朝食時間まで11階のEスクエアかパームコートでアイスカフェラテを飲んでくつろぐのが日課になっていたが、それも最後。
6:03
右前方に鋸山
ということは館山は過ぎたか。
6:06
鋸山
すでに浦賀水道であるが、富津岬や観音崎の南である。
このあたり土地勘がない。地上を知っていれば海からの景色ももっと楽しめただろう。
いや、地上を知っても関係ないかも。
農民と漁民は互いに相手の見る景色に関心がないだろう。

6:07
右後方を見ると多数の船。
右側通行だから皆東京湾に入っていく。

6泊7日のクルーズが終わった。
しばらくクルーズ船のアルバイトはやめようと思う。
1月、3月、8月と3シリーズで6つの航海を体験したが、何もしないで船上1週間というのは優雅、悠長すぎる。やはり自分のペースで忙しくいろんなものを見るほうが性に合う。

(終わり)

2025年9月4日木曜日

青森の名前と県庁、善知鳥神社

飛鳥IIで青森に来ている。

ねぶた祭りを見た翌日、8月7日は16:00のダンス講習会まで仕事がない。
せっかくなので市内を歩いてみる。
10:37
ベイブリッジとねぶたの家「ら・わっせ」(右)は2022年に来たとき無料部分だけ入った。
ベイブリッジの向こうには海の中の遊歩道、ラブリッジがある。VとBが同音ならではのネーミング。しかし一人で歩いても良い。向こうには青函連絡船の博物館となった八甲田丸などもあるが、行かない。
10:38
2022年のときは工事中だった青森駅はすっかりきれいになっていた(駅ビルは2024年7月完成)。場所といい、構造といい青函連絡船のための駅であったが、それが廃止になって地元民、青森県民のための駅となり、どう発展するか。

ここの駅ビルで南部せんべいなどのお土産を買った。
ちなみに青森は南部ではない。たしかに「青森銘菓・渋川せんべい」としか書いていなかった。全く同じものが津軽では「津軽せんべい」というらしい。南部と津軽の仲の悪さというより、岩手県南部煎餅協同組合が「南部せんべい」の名で商標登録しているせいかもしれないが。

せっかく本州最北端の県庁所在地に来たのだから県庁に行ってみた。
連絡橋で結ばれた県庁の各庁舎を1枚に収めるために、向かいの公園に入った。
11:16
青い森公園から県庁をみる。
この公園は1987年開園だから古くはない。それ以前は青森県立中央病院、戦前は小学校だった。
公園名はもちろん青森からだが、青森公園というと名前が大きすぎるから、これが良い。

明治維新で県名というのは(愛媛、埼玉をのぞけば)県庁所在地付近の地名から採った。その地名は県ができる前に、ごく狭い範囲の土地について地元の人がつけた名前だから、もともと県全体のイメージを表すものではない。だから福島、長野、山口、千葉など、その語感からくるイメージは小さい。(その点、信濃や日向、甲斐、紀伊など令制国の旧国名は、ちゃんと広い範囲を表す言葉だから、違和感がない。)

青森県はもちろん青森市(町、村?)という狭い地名から採ったものだが、他県と違って広さを感じさせる。青い森とは、森林資源に富むこの県にふさわしい、良い名前である。

このハイカラな地名は他県と同様、江戸時代に生まれていた。
弘前の津軽藩は江戸との海運を目的とし、鯵ヶ沢とともに、寛永年間(1624~)善知鳥村(うとうむら)に港を開いた。このとき海岸付近に常緑針葉樹のハイネズが繁茂する高さ3メートルほどの小丘があり、「青森」と呼ばれて漁船が帰るときの目標物になっていたことから、その名を採って青森村と改称したという。その後、津軽藩では弘前に次ぐ町となり、明治後は弘前県、八戸県、斗南県などがいっしょになったとき県域の中央に位置する青森の町が県庁所在地となった。
11:19
県庁は近くに寄れば、壁に板が横にして貼られている。
いま日本中にある隈研吾風の建物はみな板が縦だから、かえって新鮮である。ガラスでカバーされているから隈式と違って板が風雪で傷むこともない。
これは青い森を表すために県木の青森ヒバでも貼ったのだろうか?
11:21
板材の種類を聞くため県庁に入った。受付案内状に聞いたが「ちょっと分かりません」と言われた。地元民は当たり前の景色として壁の板などに関心ないのかもしれない。

このあたり道路が広い。
1945年7月28日の青森大空襲は市外の9割が消失し、罹災者8万人、死者1017人という。
7/14には青函連絡船12隻が被害を受け、米軍の目的は補給基地であった北海道と本州を分断することにあったと一般に思われているが、このときは青森操車場などは無事だった。むしろ市外の周囲を先に爆撃し住民を逃げられなくした後、中心に焼夷弾を落とし、無差別殺戮、戦意喪失を狙ったものだったという。

ねぶた運行に便利なほど道路が広いというほか、古い建物がないというのも青森市の特徴である。
飛鳥に帰る途中、善知鳥神社があり、裏門から入った。
11:34
善知鳥(うとう)とは北方に生息する海鳥の一種。
嘴の根元に白い突起がある。アイヌ語で「突起」を意味する「ウトウ」が語源とされる。
いかにも古い神社名である。
11:37
空襲で焼けたのか、社殿は新しい。
11:39
允恭天皇の時代に善知鳥中納言安方という者が勅勘を受けて外ヶ浜に蟄居していた時に、干潟に小さな祠をつくり、宗像三神を祀ったのが神社の起こりと伝わる。

允恭天皇と言えば仁徳天皇の息子、第19代であるが、古墳時代。大和の影響が及ぶのはせいぜい関東地方まで。外ヶ浜(陸奥湾に面した一帯の呼称)は鬼の住む日本の果て、「外」と思われていた。流される場所としては良いが、中納言という官職はおかしいだろう。もっとも後世に作られた伝承なら何でもアリである。
いずれにしろウトウなどという鳥の名を人名、神社名にするのは古さを感じさせる。

善知鳥村の寒村に弘前藩の外港が開かれ、その後大いに発展したのは前述のとおり。
11:43
今年は出陣57回目のマルハニチロ佞武多会が善知鳥中納言安方と龍神をねぶたにした。プログラムを見れば、前夜、三菱Gのあとに目の前を横切ったはずだが記憶にない。ねぶたというのは誰を題材にしても同じ顔、同じ表情、似たポーズとなるから気づかない。もう少し「型」から外れた自由なねぶたがみたいものだ。

青森は開港後数年で戸数1000戸ほどの町となり、江戸時代中期以降は弘前藩最大の港および城下弘前に次ぐ町となった。
明治2年の人口は10,750人。市制を施行した1898年(明治31年)には27,991人。
旧制中学の設置は弘前、八戸についで3番目であったが、現在は県下最大人口の25万人(2025年推定)を数える中核都市である。

上尾市の人口が23万人(2025)であることを考えると、青函連絡船や三内丸山遺跡、自衛隊の資料館から、県立だが運動公園、美術館なども充実していて、さらにねぶた祭りという無形文化財も健在で、大したものである。

(続く)

2025年8月31日日曜日

青森ねぶた祭を見物した

8月6日、クルーズ船飛鳥で青森に来た。
昼はひとりで三内丸山遺跡、自衛隊青森駐屯地を見物した。
この日は昼も夜も珍しくダンスの仕事がない。しかし、おいしい夕食を食べるためだけに飛鳥に戻った。
もどる途中、アスパム(青森県観光物産館)を通った。
15:41
ここはねぶたの格納庫が並んでいる。
一帯は青森湾に面した青い海公園の一部で、らっせランド(ねぶた小屋)といい、毎年ここで大型ねぶた二十数台が製作され、祭りの期間が終わるまで待機場所となる。
15:42
夜の出陣を待つ各ねぶた。
今年は8月2日から6日の夜5回と7日の昼、合計6回市内を練り歩く。
我々が見るのは最後の夜ということになる。

船内に戻り、少しベッドで寝転んだあと、ダンス講師仲間4人で早めの夕食をとった。
ふつう飛鳥の夕食は和食も洋食も1品ずつ供されるフルコースなのだが、竿灯まつり、ねぶた祭り、青森湾花火大会の日は、イベントに間に合うように17時くらいから大きなお盆に全部載せて出される。この日はうな重だったかステーキ重だったか。うな重と言っても重箱のほかに肝吸い、漬物だけの町のうな重ではない。刺身など、いくつもの小鉢、フルーツまでついた豪勢なもので、それほど空腹でなくても美味しいから全部食べてしまう。

食後、のんびり薄暮の中、歩いて出かけた。
会場は飛鳥のいる新中央ふ頭クルーズターミナルから南にまっすぐ柳町通を歩くと着く。
ねぶたは柳町通と新町通りの交差点、柳町通と国道4号の交差点の2か所から出発し、反時計回りに練り歩く。

我々の席は遠くはないが、4人で歩くこと、だんだん人が増えたことなどから、遅々として進まず、そのうち動き始めたねぶたに遭遇するとますます歩みが遅れ、暗くなってきてしまった。
18:45
柳町通り
最初に見たのは金魚のねぶた。

ねぶたには大型の武者ねぶたと子供ねぶたがある。子供のねぶたの題材によく使われるのが金魚。江戸時代弘前城下では武士による金魚の養殖がおこなわれ「津軽錦」として知られた。そして子どもたちが夏祭りの宵に金魚の形をした灯籠を持ち歩く「金魚ねぷた」が風物詩になっていた。青森は弘前津軽藩の外港であったからねぷた祭りも行われ(同じ青森の主要都市八戸は盛岡南部氏の一族の藩だからねぶたはない)、子供たちも楽しめるように大人の武者ねぶたのほかに金魚ねぶたも普及した。

だんだん人が多くなり歩みも進まない。
18:50
柳町通と新町通りの交差点。ねぶたの出発点の一つである。

今年は何台作られたか知らないが、日によって(各ねぶたの都合により?)出陣台数は違う。大型ねぶたに限って言えば、8/3は14台だし、我々が見る8/6は23台である。つまり6回全部出るねぶたもあれば、登場4回のねぶたもある。目当てのねぶたを見たいなら町中に置いてあるプログラムをみなくてはならない。
18:53
この日は雨予報のため、和紙でできたねぶたが濡れないようにビニールをかぶっているものが多い。ビニールは巨大な袋で継ぎ目がなく、特注のように見える。
中の電球は10~100Wのもの1000個以上という。
19:02
やはりビニールがないほうが迫力ある。
ねぶた運行は18:45から始まっているのだが、我々の席はここではない。

人込みを抜け、ようやく国道4号沿いの飛鳥乗客用の指定席についた。
19:07
飛鳥の乗客は出不精なのか、席はガラガラ。
公式サイトでは一人3500円という。指定席設置場所以外は自由に観覧できる。
19:09
こちらのほうから来るはずだが、まだ来ない。
ねぶたは新町通りを西にいき、八甲通りを南に練り歩き、県庁の角で曲がって国道4号(我々の席がある)を東に進む。
(どうでも良いことだが、この道路は西から国道7号、東から国道4号が来る。どこが境か、それぞれの終点はどこかと調べたら、青森駅でも青森港でも県庁でもなく、県庁の東の青い森公園の南側だった。碑もあるらしい)
19:22
ようやく最初のねぶたが来た。
最初は青森市PTA連合会。
三菱グループの青森菱友会のねぶたが続く。
19:28
飛鳥の乗客が混じっていたようだ。
ちなみに、はねと(跳人)衣装を着れば誰でも行列に参加できる。
事前登録も受付もなく、ただ運行スタート前に好きなねぶたの待機場所に行き、そこから参加すればいいらしい。行列が終われば自由解散。
19:29
跳人で参加するならラッセー、ラッセー、ラッセーラと叫びながら乱雑なほうが楽しいだろうが、見るほうとしては整然としたパレードのほうが目を引く。
とくに笛の集団は、楽器の性質から全員が体をひねった状態で固定して歩くから美しい。

ねぶた祭りは台車に乗ったねぶたが中心となるが、前後を固める跳人と囃子方も重要である。囃子方は笛のほか、太鼓と手振り鉦(てぶりかね)の行列が祭りを盛り上げる。

青森菱友会のあとは、マルハニチロ佞武多会。
19:37
ショッピングセンター・サンロード青森の太鼓。
19:49
東北電力ねぶた愛好会、日本通運ねぶた実行委員会、プログレアねぶた実行プロジェクト、日立連合ねぶた委員会、と続く。一台2000万とも3000万ともいわれる制作、運行費用を出せるのは町内会というより大企業ということだ。

日立連合の行列は、大提灯を先頭に、小提灯(多数)、小ねぶた、のぼり隊、跳人集団、大ねぶた、大太鼓、笛隊、跳人集団2次、という布陣だった。(ふつうは手振り鉦組も含め囃子隊は大ねぶたの前らしい)

日立は8月1日の前夜祭、ねぶたラッセランド の特設ステージで行われた、ねぶた囃子コンクールで9年連続の囃子賞を受賞した。

行列は続く。
しかし、雨が激しくなってきたので席を立った。
昼間行った自衛隊の「後藤伍長ねぶた」を見たかったが、プログラムでは行列のだいぶ後ろだったので諦めた。
20:02
会場を後にして4人で飲みに行った。
飛鳥では毎晩ダンスパーティがあるから、スタッフ4人で飲むことなど普通はあり得ず、もちろん今回が初めて。理由は分からないまま、とにかく青森で飲みに行けることが乗船前から話題になっていた。
そのとき誰かが「青森は刺身が旨いでしょうね。大間のマグロとか」と言っていたが、私は黙っていた。

しかしねぶたの帰りにリーダーのM先生が「ここ、はいりましょう」と指さしたのは、たまたま前を通った串カツ田中だった。
正解である。
もうさんざん飛鳥で旨いものを食べてきている。どんな店に入っても出てくる料理は飛鳥に及ばない。初めての4人で飲むことに意義がある。ごちゃごちゃした店でジョッキを傾けながら安っぽい皿の串カツとお通しの生キャベツも美味しい。M先生が飛鳥のエンタメ部門と専属契約を結んだばかりのころの失敗談などを面白く聞いた。

そのうちガラガラだった店内が混んできて、我々の隣にも20歳くらいのねぶた衣装の女性2人組が座った。どこのねぶただったの?と聞くと「ヤマト運輸で跳ねてました」と元気に答え、その後、田中名物チンチロリンのサイコロを振ったりして盛り上がっていた。
夏休みに(久しぶりに会ったかもしれない)友人と二人でふらりと参加し、終わって串カツを食べて飲む。自由でいいお祭りだと思った。これは観光資源というよりも、青森市民にとっても大きな財産なのではなかろうか。

店を出て歩く途中、ねぶた小屋に帰るのか、青森山田学園のねぶたが1台いた。
21:43
逆さ富士ならぬ逆さ飛鳥
もちろん船内の電気は自家発電。

夕食が早い日は21:00からブッフェスタイルで夜食が用意されているが、さすがに満腹、時間も22時過ぎ。ゆったりと大風呂に入ってそのまま寝た。

翌日8月7日は16:00の講習会まで自由時間。
せっかくなので天気は悪かったが市内を歩いてみた。

10時過ぎに船を出て、歩いて青森駅まで行き、お土産に南部せんべい(津軽せんべい?)を買った。そのあと県庁、善知鳥(うとう)神社をみて、飛鳥がみえる青い海公園まで来たら向こうからトミーさんが歩いてきた。ヨーヨー元世界チャンピョンのエンターティナーとして船内でショーやヨーヨー教室をやっている。

秋田竿灯まつり以来、会っていなかったので、青森市内でどこに行ったかという話になった。自衛隊駐屯地の八甲田山資料館に行ったのだが、昨夜は残念ながらそれを題材にした自衛隊ねぶたを見られなかったというと、「私見ましたよ。近くにありますよ」と、公園内ねぶた村の自衛隊の陣地まで連れて行ってくれた。
12:02
後藤房之助伍長が戦っているのは手と口から吹雪を吹き出す白魔(しろま)だという。
兵士が二人いるが、ひとりが後藤伍長、もうひとりは仲間・亡くなった兵士たちの象徴 として配置されたらしい。
12:03
12:12
ねぶた祭はこの日が最終日。
最終日は夜に花火があるため、運行は13:00~15:30である。
出陣の時間が近づき、みな集まって来た。カップ麺を食べている人もいる。
市中の会場よりもここで見るのが一番いいのではないか?
私は運行行列を見に行かず、美味しい昼食を楽しみに船に戻った。

(続く)

2025年8月26日火曜日

食べた種からカボチャ、スイカ、メロン

秋田竿灯祭り、青森ねぶた祭りをみる6泊7日の飛鳥クルーズから帰って来たら、我が家のカボチャが外に飛び出していた。
2025₋08₋09
脱走している最中か? 
植物も意思のある動物のようである。
2025₋08₋09 13:57
この日の収穫。
板の幅は18センチ。
私がいない6日間、妻は何回か収穫したらしいが、ヘチマのようなお化けキウリがあった。ナスも大きくなりすぎ。まともなのはスイカ、枝豆、キウリ1本、くらいか。
彼女は自分の花には毎朝水をやるが、野菜のほうには来ない。慣れない人にはよく見えないのだろうか?

8月14日、長野の実家に日帰りでいってきた。
東京産のスイカと枝豆をお土産にしようと思ったが、向こうにもありそうなのでやめた。
08₋18
カボチャの塀の内側部分
雌花はいっぱいつくが、ほとんどの実は途中で腐ってしまう。
受粉しなかったからとよく言われるが、本当だろうか?
受粉してもこうなるのではないか?
常識やテレビ、新聞に常に疑いの目を向け、自分で体験するまで信用しないというのは、研究所時代に培われた職業病かもしれないが、生まれつきの性格のような気もする。これが良いこともあれば悪いこともある。
08₋18
一つ大きなカボチャが生っていた。
千駄木菜園では2013年の開園以来、2015年に続き2つ目である。
もっとも、毎年生ごみから発芽するがほとんど草のように抜いてしまい、育てたのは4回くらいしかないが。
妻にかぼちゃを見つけたと話すと「ほら、自分だって気づかないこともあるでしょ」と反撃された。

08₋18
スイカ(ピノガール)。
去年食べた小玉スイカの種を冷蔵保存しておき今年まいた。

08₋18
こちらはメロン「イバラキング」
これも昨年食べた後の種を保存していた。
4株植えたが、2つしか生っていない

8月24日、バイト先農園の同僚、田中さんから種なし黒スイカを頂いた。
ご自分の畑で大量にとれたそうだ。出勤日が違うので「物置の前に置いておきました。それなりに重いので準備万端できてください」と伝言をもらっていたが、実際見るとその大きさにびっくり。
2025₋08₋24
田中さんのスイカと我が家のスイカ。
板の幅は18センチ。横のナスは取り忘れ、市販品よりかなり大きい。

田中さんのスイカは何と重さ7.4キロ。
2025₋08₋26
メロンは巻きひげどころか株自体が枯れてきた。
まだ縞模様が十分入っていないが収穫する。

2025₋08₋26 6:14
昨日大丈夫だったスイカが割れた。
ピノガールとしては普通の975グラム。
収穫の目安として、巻きひげが枯れてきたころ、というのがある。
(受粉してから35日というのは陽気で変動するからダメ。また、叩いて音を聞くというのは迷信だと思っている)
このスイカの巻きひげはまだ青かったから大丈夫だと思っていたのに。

しかし、なぜ割れたのだろう?
教科書的には、水不足のあと雨が降って急に膨張したときに割れるというが、毎日ずっと猛暑だから、この説も怪しい。割れる理由は何だろう?

巻きひげが青いということは熟す前に割れたということか?
しかし食べてみて甘く熟していれば、巻きひげの法則も嘘ということになる。
さっそく冷やして食べようと冷蔵庫をあけたら、田中さんの巨大スイカがあった。
24日から食べ続けているが、まだ大きな半球と4半球1つ、つまり6キログラム近くが残っている。

私は早くもスイカの食べ過ぎで体調が今一つ(食事時になっても食欲がない)。
我が家にはピノガール7個分が冷蔵庫にあることになるが、人に差し上げることもできない。