2025年12月12日金曜日

伊勢3 松阪城と三井発祥の地

12月3日、伊勢に来た。
名古屋から近鉄で伊勢市まで南下し、伊勢神宮外宮の入口をちらりとみて、すぐJR参宮線で少し戻って続日本100名城の一つ田丸城にいった。
慌ただしく見て9:02 再び列車に乗って9:34 松坂に到着。
9:36
松阪駅
駅名を見れば大阪と同じく、坂でなく阪である。
MATSUSAKAと濁らないことも分かる。
カルイサワのように世間と地元の読みが違うのはそれだけ知名度が高いということか。(軽井沢は今は地元でも公式にザワになっている)

2001年に伊勢神宮に来たとき、松坂に降りたようなメモがある。
「右わかやま道、左さんぐう道の石柱」「道はまっすぐでない」と古い手帳に書いてあるが記憶にない。乗り換え時間に少し外に出たくらいだったのだろう。

ここは田丸と違って都会であり観光案内所があった。
地図をもらいに行くと女性二人のうち、一人が熱心に案内してくれた。
「今日は水曜だからみんな休みなんですよ」
と、小津清左衛門家、長谷川治郎兵衛家など松阪商人の旧宅、原田二郎旧宅などに赤鉛筆でバツ印をつけていく。みんな知らない人だし、立ち寄る時間もないので気にならない。

三井家発祥の地だけ見たいと思って歩き始めた。
9:44
大きな寺が多い。城の防備の為に集めたのだろうか。
道も所々で曲がっている。
9:46 伊勢街道に出た。
電柱などはなく、道は広いが古い建物も残っている。
この道は参宮道ともいうが、地図によいほモールと書いてある。四五百商店街と書くらしい。お城のある丘を四五百森(よいほのもり)といったらしいが、語源は知らない。
9:50
この旧伊勢街道を駅から離れるように西北にすすみ(名古屋の方向)、商店がなくなって昔ながらの道幅になったところに「三井家発祥の地」という記念碑があった。
9:50
三井高利にはじまる三越(三井越後屋)、また三井財閥についてはこのブログでも何度か書いた。

松阪は伊勢商人、松坂商人のふるさと。
伊勢神宮の巨大な需要だけでなく、全国からの参拝者で情報が集まるのが商いに向いていたこと、また江戸開府と同時に進出し、同郷のものを番頭や丁稚などとして引っ張り、のれん分けしたことが松阪商人の発展を促したか。

松坂屋は1707年に伊勢松坂出身の太田利兵衛が江戸上野に開いた呉服店が始まりだが、1768年名古屋発祥のいとうや呉服店が買収、名前だけ残した。

かつおぶしの「にんべん」の商標である“イ”の文字は創業時の屋号である「伊勢屋伊兵衛」に因む。江戸川柳「江戸名物は伊勢屋、稲荷に犬の糞」も伊勢商人の繁栄ぶりを表しているだろう。
9:52
三井家旧宅の手前の交差点に豪商ポケットパークという無料休憩所。
きれいに掃除が行き届いていた。
その前に「左 大手筋、右 さんぐう道」の石標柱。

ちなみに、2001年のメモに「右わかやま道、左さんぐう道」とあった石道標の場所は今地図を見ればこのさんぐう道を南西(神宮寄り)に行った先の、駅前通りとの交差点と思われる。24年前は時間がなくて駅からまっすぐその場所に来ただけだったのだろう。

大手筋をお城に向かうと右に松阪市役所。
ちなみにデパートや野球選手のようにマツザカといれると松坂に変換され、駅名のように濁らないマツサカといれると松阪になる。こんなこと知っても今後役に立つことはないが。
9:54
松阪市役所。
人口は15万人で三重県4位。国道166号に沿って奈良県境まで細長く市域となっていて
面積は県内2位である。
9:55
表門前に到着
想像以上に立派な石垣に期待が膨らみわくわくする。
日本100名城の一つである。三重県ではここだけ。
9:56
これほど立派な城でありながら城主が頭に浮かんでこない。
この城は蒲生氏郷(1556-1595)が築いたのが始まりという。
彼は上杉景勝が120万石で入る前の会津90万石の大大名だったことが知られるが、その前はここ伊勢松坂にいた。
近江の名門六角氏の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれ、六角氏が衰退すると、信長に人質として出され、父子ともに信長に仕えた。武功を重ね、本能寺のあとは秀吉に仕え、小牧長久手のあと、1584年、故地の近江日野から伊勢松ヶ島に12万石で加増転封した。
松が島は交通の要衝だったが海が近くて城下町としての発展に限界があった。そこで1588年、氏郷は4キロメートルほど南の四五百森の丘に松坂城を築き、松ヶ島の家臣や商人を移住させ城下町を作った。
しかし小田原征伐の後、1590年、奥州の伊達抑えのため、会津42万石に加増転封(のちの検地で91万石)となった。
大大名となったが、文禄の役のあと、享年40で没し、子は宇都宮12万石に減封された。
氏郷の去った松坂城は服部氏、1595年からは古田氏が入った。古田氏は幕藩体制で5万4千石だったが、1619年、石見浜田に転封し、松阪を含む南伊勢は紀州徳川家の領地となった。
9:57
以後、本城のある和歌山から松阪まで藩士が行き来するようになる。そのとき整備された道こそ、2001年のとき石柱を見た和歌山街道である。今の国道166号を通って奈良県境の高見峠を越え、大和に入って紀伊半島内部を東西に横断する形で紀ノ川流域に入る。ここでは当然この名で呼ばれず、伊勢街道と呼ばれた。伊勢参宮や熊野詣で、大和への海産物の輸送にも使われ大和街道とも呼ばれた。

石垣を見上げながら城内を上がっていく。
9:57
松阪市歴史民俗資料館(展示替えで休館中)
ここは明治44年から1978年まで飯南郡立、松阪市立図書館だったらしい。
二階が小津安二郎松阪記念館。
小津は東京深川生まれだが、父親が子供は環境のいいところで育てたい、と父の故郷の松阪に一家転居、小津は2歳から19歳までここで過ごし、この城址の図書館に通ったという。彼の東京物語や晩春などしっとりした感じは、東京でなく松阪の影響を受けているだろう。

9:58
伊勢の紀州藩領は18万石程度で、
・田丸6~7万石は、代々久野氏を田丸城代にして管理させ、
・白子3~4万石は、現鈴鹿市の白子・寺家、鈴鹿川流域の宿場町・港町・農村地帯を含んだ大きな領域で、白子代官所(のち奉行所)が支配、管理した。
・松坂7~8万石は、和歌山からくる松坂城代が管理支配した。

(ちなみに松坂から松阪に変わったのは大阪と同じ明治になってからで、それまでのことは松坂と書いても間違いではない。)
9:59
本丸跡
田丸と同じように石垣以外何もないのがいい。

1982年に市民から天守閣を再建してほしいとの要望もあったが反対する意見も多く、「天守閣問題」は取り止めとなったという。ないほうが良い。

天守閣は落雷の火事で焼失することが多いが、この天守は1644年に台風で倒壊したという。どうも、和歌山から派遣されてきた城代と家来衆にとって、この城は持て余し気味だったらしく、天守以下の櫓や門などの建物は手入れされず放置されていたらしい。倒壊後、もちろん再建されず、その必要もなかった。
10:01
天守台のそばに鳥かごのような網があった。
鯉でも飼っていて鳥よけかと思って覗いたら深い井戸だった。
網は平らなほうが作るのが簡単だと思うが、このドーム型は意味があるのか。

井戸にしてももっと低いところに作ればいいのに、山の頂上で掘るのはさぞかし難儀だっただろう。
10:02
時間がないのですぐに下城し始める。
10:03
土の斜面がほとんどなく、すなわち樹木が少なく石垣が目立つところは安土城(の下のほう、大手道あたり)に似ている。
蒲生氏郷は安土城の築城にもかかわった。自分の出身地近江には石垣積みの技術者集団、穴太衆がおり、彼らの力も大きかったであろう。

時間がないので急いで二の丸を経て裏門から出た。
10:03
裏門を出たところに便所があり、その前に「松阪開府の祖・蒲生氏郷」と書かれた幟が立っていた。
築城開始して2年で会津に去ってしまった人を顕彰することには違和感があるが、観光地にするには誰か英雄が必要なのだろう。まあ、築城したのは彼だし、城下町を作ったのも彼である。

ところで列車は10:15に出る。
しかし駅まで15分かかる。

左に石垣、右に民家を見ながら歩みを速め、来るとき入った表門にむかう。
すぐ近くに本居宣長記念館、文久3年に建てられた紀州藩士の御城番屋敷、明治41年築の旧三重県立工業学校製図室などもあったが、それどころではなくなった。
10:05
ところが立派な石垣を見ると立ち止まって写真を撮りたくなる。
車が続いて通り過ぎるのを待っていたら時間をロスした。

これは列車に間に合わないかも。
いい爺さんが走り始めた。

汗だくになって力を使い果たし、なんとか駅に到着。
ぎりぎり1分あり、改札を通ったが電光掲示板に津新町に行く10:15分発の電車がない。田丸から津へ行く上り列車は改札に一番近い1番線だったから、そこから乗ると思っていたが、電光掲示板にない。
もう行ってしまったのかと駅員に聞いたら、それは近鉄だからずっと向こうの6番、7番線だという。
慌てて階段を駆け上がるも、階段を下りときにドアが閉まった。田舎の列車は余裕があるから時間が正確である。

呆然自失。
この瞬間に以後の計画が狂った。
津新町ー(歩き)ー津城ー(歩き)ー津ー(列車)ー鈴鹿ー(列車)ー四日市ー桑名、という計画だったが、鈴鹿(神戸城)は諦めねばならない。

次の列車を見たら1時間近く先だった。
松坂城の石垣に見とれすぎた。
これは鈴鹿どころか、さらに加えて四日市、津のどちらか1つも諦めねばならないかもしれない。
わずかなミスから大ピンチだ。
10:26
ふとホームから駅の外をみると、倉庫の壁にツタが張っていて、きれいに紅葉していた。
ツタの蔓は見事なほど等間隔ですべて平行に伸びていた。左右に曲がったら隣の蔓に当たって交差すれば壁と接着できなくなる。だからこの何本もの平行線は隣にぶつからないよう間隔を懸命に守った結果だった。
これを見て少し落ち着いた。

頭を久しぶりに使った。急ぎながらも落ち着いて考える。
近鉄の有料特急が間もなく鳥羽のほうからくる。それに乗れば城の最寄りの津新町は止まらないが津には止まる。そこから戻るようにして津城をみて、津新町駅から列車に乗って四日市に行けばよい。
10:32
特急券520円は余計にかかったが、車両にほとんど乗客はおらず、貸し切り状態。
おかげでパンを食べることができた。この日は今後ゆっくり食べる暇があるかどうか分からないから助かった。
千駄木でとれたミカンも食べていたら、県庁所在地の津に到着した。

(続く)

20251208 伊勢2 田丸城と付家老、万石陪臣

伊勢松阪
地図は上が南西、ずっと行けば吉野の山々に行く。
つまり大手門は北東の伊勢湾を向いていて、前を通る伊勢街道は、左(北西)が津、名古屋方面、右(南東)が田丸、神宮方面である。

2025年12月11日木曜日

山芋、里芋、大和芋を掘る。ヒキガエル発見

一か月、庭について柿以外は書いてなかった。
2025₋11₋08
落花生収穫。
左はオオマサリ。
10月29日抜根、その畝に株を逆さまにして10日ほど乾燥した。途中1回雨が降る。
この日、鞘だけとる。
節分の豆まき分は確保した。
2025-11-18
山芋を掘ろうと思って久しぶりに自転車置き場のほうに行くと枯れた山芋の葉っぱの中に、青々とした蔓と葉がある。よく見るとインゲンだった。昨年同様、暑い夏には実が付かず、今になって生っている。もったいないからとって食べた。
2025-11-18
インゲンを抜いて掘っていくと山芋が出てくる。
しかし掘るのが面倒。
塀際の日陰、他の野菜が作られない場所だから、狭くて作業環境が悪いこともあり、ほとんど途中で諦めてぽきんと折ってしまう。

私はそれほど好きではないし、掘るのが面倒だが、妻がスーパーで買ってくるのが悔しいこと、他に野菜が作られない場所でも育つこと、この2つの理由から10年くらい作っている。

2025-11-18
この日は大和芋を掘った。
こちらは収穫が簡単。
重さは1.8キロもあった。

しかしいつ植えたものか(何年ものか)、由来(長野からか市販品か)が思い出せない。
2025-11-18
来年からは山芋をやめて大和芋にしよう。
ムカゴと今回の芋、皮の一部から来年、幼苗をつくれば、それを秋に植え、再来年から収穫できる。

現在、我が家の山芋は野生化し、来年春もムカゴや掘り残した芋から芽が出てくるだろう。
それらを全て雑草として芽のうちに抜いて、来年夏以降、何もなくなったところに発芽した大和芋の苗を植える。再来年にはすべて大和芋に置き換わるはず。

里芋も掘った。
スーパーで買った食用芋を種芋にした。
2025-11-19
この2番畝には8株、自転車置き場のほうに2株育てた。
2025-11-19
里芋はジャガイモより生産性(面積当たり収量)が悪い。
そうはいっても一度には食べきれないので、2番畝の端にまとめて埋めなおした。
こうすれば、畝が空いて他のものを育てられるし、食べるときに掘り出すのも簡単である。
2025₋11₋24
柿が終わるころミカンが色づく。
柿ほどでないが食べ物が少なくなった鳥がやってくる。

11月30日、山芋ほりを再開した。
落ち葉の中からヒキガエルが出てきた。
最近見なかったから絶えたと思っていた。

2022年4月、様々な生物の住処だった桜を伐採。
2022年7月、少なくとも2匹を毎晩のように見た。
  ブログ20220705 キャベツのコナガ被害、ヒキガエルの糞
2023年8月にはサツマイモの葉っぱの下に1匹涼んでいた。
以後、カエルの記録はない。
2024年6月、桜の切り株も掘り出し、耕作スペースを広げた。
つまり2年見ていなかった。
2025₋11₋30
同じ顔(当たり前だが)をしているからここ数年同一個体と思っていた。野生では寿命3~5年だという。(条件よく飼育すれば10年)。どこかで繁殖しているのだろうか。しかし、産卵、オタマジャクシが育つような池はない。割れた茶碗の水たまりでも産卵する蚊と違い、繁殖にはかなりの水場が必要だが、どぶの水たまりも含め、思い当たるものはない。繁殖期には遠いところまで遠征するのだろうか?

数年間、前の空き家が壊されてから生息地もせばまった。こいつが死んだら終わりかもしれない。お隣がまだ木造の古い家だから、ひょっとすると、そこに繁殖相手を含む仲間がいるかもしれないが、コンクリートブロックの塀があるから、玄関まで回らなくてはならず雨の日でも行き来は難しい。捕まえてそちらに放してやろうかな。

山芋ほりを再開した。
2025₋12₋01
2025₋12₋01
大量にあるが市販品と違って細くて曲がっており、使いづらい。
2025-12-11
ビニール肥料袋で栽培していたものを持ち上げ、逆さにして土をぶちまけたら中から芋のほかに、しなびたひも状の残骸が出てきた。
このことから山芋は年々大きくなるのではなく、前年の芋の栄養分を使って新たに芋を作り出すことが分かる。よく考えればサツマイモもジャガイモも、埋める種イモは「種」であり、それが大きくなるわけではない。しかし山芋は何年も放置すればするほど大きくなるから、芋自体が成長するという錯覚が生まれる。
2025-12-11
移植ごては30センチ。
もう雑に掘っているから途中で折れたり痛々しくスコップで切断されたものばかり。
まだ(面積からして)この倍くらい土に埋まっているはずだが掘る気にならない。
もう土に返して、来年以降、大和芋に切り替えていく。


2025年12月8日月曜日

伊勢2 田丸城と付家老、万石陪臣

夜行バスで三重県に来た。
12月3日、名古屋から近鉄に乗り、伊勢市駅での乗り換え時間で神宮外宮の入口を見たことは前のブログで書いた。

次に、伊勢市駅からJRで戻る形で、今回の目的地の一つである田丸に来た。
この地名は2年前まで知らなかった。

2年前、和歌山城に行ったとき、紀州徳川家の55万5千石はいったいどこから穫れたのだろうと考えた。
紀州は木の国、ミカンのとれる斜面はあっても、米作の適地は多くない。一番の穀倉地帯、紀ノ川流域4郡では24~30万石と推定されている。有田、田辺などを含む紀州全体でも37~38万石程度とされる。残りは遠く離れた伊勢の松坂、田丸、白子だという。
紀州藩領

そして今年の1月、クルーズ船が三重・和歌山の県境、新宮に寄ったとき、新宮城(丹鶴城)を訪ねた。ここは紀州藩の付家老・水野氏3万五千石の居城だった。
付け家老というのは家康の晩年の子たちが御三家として独立するにあたり、後見役として付けた譜代大名のことで、大名でありながら家臣として仕えた。
紀州徳川家では、水野氏のほかに安藤、三浦、久野氏がいた。この久野氏が伊勢の田丸1万石の城主だったということで田丸城を知る。1万石というのは陣屋程度しか持たないものだが、田丸城は続日本100名城の一つになっている。
そして今回、伊勢に来るにあたり、その田丸城を見に来たのである。

伊勢市駅を8:17に出発、
JR参宮線で田丸駅着 8:28
8:31
田丸駅。
駅の表札、扁額だけ古いが駅舎は新しい。
もちろん無人駅。
8:32
田丸は田丸城しかないと思っていたが、地元が一番の観光目玉として売り出しているのは、すなわち小さな駅前ロータリーに設置されたモニュメントは「熊野街道出発の地」であった。熊野からはずいぶん離れているが世界遺産の威力は大きい。

真面目に書くと、田丸は伊勢神宮の西に位置し、神宮を参拝した人がついでに熊野に行くとき、ここを通って紀伊半島の東側の海沿いを南下した。この道を熊野街道・伊勢路といった。しかし道路はつながっているから、熊野に通じるからと言って「出発の地」というのは無理がないか。
また大和から伊勢神宮に向かう初瀬街道は、名張、津、松坂を経てここ田丸で熊野街道伊勢路とぶつかる。今と違って昔は交通の要衝だった。

モニュメントは熊野古道の世界遺産登録の3年後に建てられたが、人形に独特の味わいがある。
しかし当然のことながら駅前の道案内に「熊野」あるいは「熊野街道」の方向を指す案内板はなく、田丸城址、村山龍平生誕地、玄甲舎の3つのプレートがあった。

プレートの指し示す向きに歩くとすぐ城山の森がみえた。
8:35
外堀の中に保育園があった。
よく城内に高校がある場合があるが、戦前に旧制中学を置くほど田丸は明治以降発展しなかった。
ここまで駅から3分。
そもそも駅が近いということは、城の周りに大した城下町がなかったことを示す。
あるいは武家屋敷、宿場町は反対側にあったか。
8:36
保育園の隣に残る内堀

8:37
内堀に沿って歩くと城の入口
8:38
これを見ると内堀はごく一部しかなく、山をめぐる外堀の一重だったようだ。
山上に本丸、二の丸、北の丸がある平山城である。

8:40
上がっていくと学校らしき建物があるが、ひと気がない。
この先は上がれないのでいったん坂を下がると本丸への道は続いていた。
8:41
蓮池という。
濠の役はなく、庭園にしては石がない。
籠城したときのために鯉を養殖できるか。

池を回り込むと本丸、北の丸の立派な石垣が見えた。
8:43

 田丸城は南北朝時代、北畠親房がここ玉丸山に城を築いたのを始まりとする。北畠親房は「神皇正統記」しか学校では習わなかったが、源氏の長者でもあった。

源氏長者というのはのちの足利時代以降の武家の棟梁という意味は全くなく、源氏の中でいちばん位が高いものがなった。本来は皇族から臣籍降下したものだから当然公家であり、村上源氏の流れをくむ名門、親房も清華家の公卿(正二位・大納言)であった。

ところが親房はまったく公家らしくなく後世の武家の棟梁のように政治的、行動的で、南朝の司令官として働いた。吉野から脱出しやすく、また皇統の正当性の支柱となる伊勢神宮を擁する伊勢、玉丸に後醍醐天皇を迎えようとしたのである。

室町時代は北畠氏(庶流)が伊勢国司をつとめ、ここを本拠地として田丸氏を名乗った。しかし織田信長の伊勢侵攻で、次男の織田信雄が伊勢北畠氏の養子となり、その田丸城を大改築した。
その後、蒲生氏郷、稲葉氏、藤堂氏の支配下になるが、1619年、駿府から紀州に移った徳川頼宣の領地となった。紀州徳川家の付け家老として駿府からついてきた久野氏は1万石を与えられ、居城ではなく城代として田丸城に入った。そして代々、田丸領6万石を管理し、明治まで続いた。
8:43
石垣の反対側、山の中腹は三の丸。
坂を上がってくるときに見えたのは玉城町立玉城中学の裏側だった。
しかしこの先に道路があるわけでなく、なぜ正門を坂を上がったすぐの東側に作らなかったのか、理解できない。

ちなみに田丸は明治22年の町村制施行のとき、村ではなく最初から田丸町として発足した。城下町、宿場町として栄えていたのだろう。ただしその後は発展しなかったようだ。
そして1955年東外城田村、有田村と合併したときに玉城町(たまきちょう)と改称した。玉城は田丸城の別名、玉丸城からとったものかもしれないが、こじつけのように苦しい。そのうえ、城も駅も、役場の所在地も江戸時代の地域名もすべて田丸である。田丸町のままのほうが町の実態を表していて自然である。
田丸城

紀州藩は一国一城令の例外で、紀伊、伊勢の二国で
 和歌山城、
 松坂城(紀州家伊勢領18万石を統括)、
 田辺城(安藤氏、3万8千石)、
 新宮城(水野氏、3万5千石)、
 田丸城(久野氏、1万石)の5城を保持した。

ここに安藤、水野、久野は付け家老である。付け家老は本来は1万石以上の大名であるのに、御三家の家老すなわち陪臣のようになってしまった。明治維新ではこれが問題となる。しかし水野、安藤、また尾張徳川家の成瀬、竹腰、水戸徳川家の中山の計5家は明治政府から独立大名として認められ、廃藩置県でも独立県となり、明治17年の華族令で男爵になった。

しかし、他の付け家老は、万石以上陪臣が男爵という内規があったにもかかわらず、最終的には授爵されず、紀州の三浦家(紀伊貴志1万5千石)も田丸城代1万石だった久野家も士族のままだった。三浦家は明治33年に男爵となったが、久野家はついに士族のままだった。

ちなみに、久野氏は遠州の国人で、家康が関東に移ったとき下総佐倉に1万3千石を与えられたが、刃傷沙汰から1000石まで改易された。関ヶ原で功あり、田丸城代となる前に8500石まで復した。
8:44
三の丸から本丸に上がっていく。
建造物が何もなく高い石垣だけが目立つ正面入り口は安土城址を思わせる。

8:45 本丸。
織田信雄の時代に三層あった天守台の石垣が残る
当時の立派な石垣のほかはすべて喪失した。
今はベンチすらない。観光地化、金儲けしようとしていない点は、なかなか良い城である。
8:46
本丸からの眺め
交通の要衝として初瀬街道、伊勢街道(熊野道)がよく見える。

本丸から三の丸を見下ろす。
玉城中学校がみえる。
8:48
年に一回の歴史講演会の演者の記念植樹。
天皇陛下や大統領が来町して植樹したなら分かるが、講演しただけで城跡に記念が残るのは演者として嬉しいだろう。同時に玉城町の素朴さも感じられる。
何の木か知らないが、ミカンでも植えたら良かった。三の丸の中学生に管理させ、年に一度の郷土学習の日に講演を聴きながら食べさせたら良い。
8:49
二の丸(左)と本丸の間の空堀。
二の丸から帰り道に降りることはできないので、ここで引き返す。
8:55
大手門跡から外堀と町役場をみる。
登城前に保育園から内堀に沿って歩いた道は、玉城町役場の裏だった。
役場は紀州藩同心屋敷跡に建つ。

大手門跡の右には駅前の案内プレートにもあった村山龍平記念館がある。
朝日新聞の創刊に参加し、のち社主、社長。
田丸城の敷地は玉城町有であるが、村山龍平の寄付金をもって旧・田丸町が払い下げを受けたものらしい。時間がないので寄らず、急いで駅に向かう。
8:59
駅について上りホームへの跨線橋を渡る。
田丸の城山が見えた。
予定通り、9:02発の列車で松坂に向かう。
(続く)

20230708 和歌山2 伏虎城の楠と野面積み