2019年3月10日日曜日

啓蟄すぎて、ハコベを食べてみた

今日は3月10日だが、旧暦では2月4日。
仲春である。

啓蟄の虫は出てこないが、暖かい。
二週間前、小さくて取らなかったフキノトウ。
満開どころか首が伸びている。
2019-03-10
 雑草も元気になってきた。
いまはハコベ。

なぜ雑草かというと邪魔で役に立たないからで、もし食べられれば、おそらく見る目も優しくなるかもしれない。

ん? せりなずな、ごぎょうはこべら、ほとけのざ・・・
春の七草になっているくらいだから食べてみよう。

生で食べたら、しかめっ面になるくらい青臭い。

茹でてみた。
問題なく食べられた。

しかし、こんなもの食べる余裕があるなら、育ちすぎて困っている白菜、小松菜、大根などを消費しなくてはいけないのだが。

ここでウィキペディアを見た。
ナデシコ科ハコベ属は日本だけでも18種類あるという。
春の七草は「コハコベ」らしく、今日食べたのもこれだと思うのだが、ウシハコベの写真も似ている。写真が正しくないのではないか?
ミドリハコベの説明は読んでも分からない。
詳しい人に現物で教えてもらわないとダメだ。

再び庭に戻ると似たものが他に2種ある。
全体的に繊毛がある

茎が赤く、コハコベ?より短い。
本当に春。
キャベツも順調。

久しぶりの休日なので余っていたキャベツ苗も植えてみた。

昨年、 網戸張り替えで出た古い網を3枚張り合わせたネット。
お金があるのだからネットなんてネットで買えばいいのだが。

70センチx120センチ(支柱の穴位置)のなかに10本植えた。

貧乏性というのは致命的で、すでにキャベツは20本ほど別のところに植えてあり、食べきれるわけではないのに、苗を捨てるというのがもったいないというか、可哀想というか。
場所が余っていれば植えてしまう。
本当はアブラナ科の連作どころか二期作なんて許されず、肥料も農薬もやらないなら土をしっかり休ませなければいけないのに、けなげな苗をみると、あとさき考えずに植えたくなってしまう。
私の野菜の出来の悪さは、こういうことも影響している。

エシャロット(らっきょう)も元気。
しかし一本が細くて妻は面倒らしく、食べるあてなし。

結球した数少ない白菜も先端が開いてきた。
花芽が伸びているのか。

よく見ると大根もトウが立ち始めた。

小松菜もトウが立ち始めたものあり。
じつはこれは11月に日陰にまいて、日なたに移植したもの。
まだ小さいのに、花芽が伸びてきた。

その2か月前にまいた大きなものでもトウ立ちしていないものあり。
当たり前だが、トウたちは固体の大きさ、成長度ではなく、季節によるものらしい。


小松菜の間のほうれん草も大きくなりたがっている。


2019年3月8日金曜日

T製薬、研究所の能力成果主義とは

先月、2月19日(火) 6年ぶりにもとの職場に行った。
昔を思い出し、敷地内建物の変遷をブログに書いた(→別ブログ)。

Y氏と約束の時間、9:00に早かったので、敷地の周囲を歩いてみた。
かつて2001年?まで正門はずっと東にあった。

道路を挟んで左の5階建てマンションもかつての敷地。
バスケット、テニスコートだった。

昔の正門の場所に行くと守衛所がまだ残っていた。
新しく作ったテニスコートの休憩所になっている。
かつて皆が毎朝歩いたアスファルトの通路は、芝生が植えられていた。


初出勤は1981年。
大阪での工場研修が終わった6月。

ここで朝晩タイムカードを打刻した。
全員のカードが手に取れたから、例えば、好きな人が朝何時に来るか、そっと見ることもできた。

この景色で、20年以上前の夕方を思い出した。

当時、人事異動(昇進、転勤)など大事なお知らせは、守衛所脇のタイムカードの横の掲示板に発表された。
1995年3月、例年通り各級への昇進者名簿が出た。

当時はまだ同期が一斉に昇級していったが、E3からE4になるはずのところ、私だけ名前がなかった。
翌年以降は珍しいことではなくなるのだが、当時は年功序列で進級した時代だった。
予想もしなかったことで、その時のショックは今でも覚えている。

なぜだ!?という思いもあったが、むしろみんなに見られることが恥ずかしかった。
次々と人が来る。
一刻も早く守衛所から離れたかった。
一緒に見た先輩は「なぜだろうな~」と、どう慰めたら良いか困っていた。
駅までの道は上の空だったにちがいない。

前年1994年から新人事制度が始まり、年功序列でなく業績を重視、メリハリのある評価をすることになった。
標準6点のところ、誰かにプラス評価の7点をつければ、同じ人数の人をマイナス評価の5点にしなくてはならない。
「成果を上げた人にそれなりに報いる」という美辞麗句に、組合さえ賛成した。

しかし皆別々のことをしている研究員の、半年であげる成果をどうやって測り、どうやって比較するのだろう?

突き当りは川向こうのマンション

ショックから半年後、ひとり敷地内の拓新研に移籍。
トップに天敵のいる薬理研(育成研)から離れた。
その天敵と仲の悪かった小松原さんが新しい上司になり7点をくれた。

しかし翌年も昇級しなかった。
私より1年下のものと、2年下の早いものが昇進した。

1997年4月、40歳。
やっとE4に進級、
ごく普通の(平凡な)人より2年、早い者より3年遅れていた。
それでも部下二人を持つグループリーダーとなり、仕事も進んだ。

働きぶりは全く変わらなかったが、小松原さんのおかげで、E4は標準で3年かかるところを2年で通過し、
1999年4月、S1(主任研究員)に進級した。皆より1年あるいは2年遅れまで短縮した。

秋には再び大規模な組織変更があり、4号館の薬理(薬効評価U)に戻る。
しかしそれまでの部下二人と引き離され、単独での移動、主任研究員付きのヒラ研究員扱いとなった。

昔から(良くも悪くも)あまり上から命令されることはなかった。
上司は何も指示してくれないから自分で仕事を作らねば食べていけない。
テーマをいくつも考え、提案会議で承認を受け、実験を開始した。

ところが移動して薬理にいる間、すなわち 1999年12月から2001年12月まで、半年間の査定が5回あり、そのうちなんと4回がマイナス評価の5点だった。
当時、大阪も含め研究本部にS1(主任研究員クラス)が20人いたが、トップ2割の4人が優秀者の7点以上、6割にあたる12人が標準の6点、残りの下から2割、4人が5点以下という配分だった。
毎回毎回「20人のうち君は17位以下ですよ。ダメ研究員ですよ」と、会社から宣言され続けたわけである。

マイナス評価というのは、
会社や上司に逆らっているとか、怠惰で勤務態度が悪いとかいうなら分かる。
あるいは会社よりも自分の業績となるような、つまり大学のように論文になるような仕事をしているなら、マイナス点になってもいいだろう。

しかし私が会社の仕事で論文を書いたのは、薬物代謝部門にいたときに上司に勧められた2本があるが、31歳で薬理に移動してからは、1992年にJap.J.Pharmacol.に書いたたった1本だけである。その論文さえも上司に命じられて書いたものだ。彼は一切何もしなかった(むしろ邪魔だった)のにラストネームで名前が入ることになった。
それ以降、つまり査定を受けるようになってから2013年退職するまで20年以上、論文は1本も書かず、研究員の中では稀有の存在だったと思う(本当は書きたかったが、私は企業での論文は公私の「私」だと思っている)。
ほとんど部下もいなかったから偉そうな共著者になることもなく、研究所では最も論文が少ない人間だったのではないか?

論文は一切書かず何をしていたかというと、所長、上司の見える範囲で、薬を作るために新テーマを立ち上げ、グループ内、研究所内できちんと進捗報告しながらアッセイ系をつくり、日々スクリーニングをしていた。
もし、そういう研究員が半年の評価でマイナス点になったとしたら、それは全部承知して半年働かせていた監督上司の責任ではないか?

4号館 

こんなにマイナス点をもらい続ければ、今の私ならふてくされて不良になってしまうが、当時はプライドもあったし真面目だった。
40過ぎても薬を作ろうというココロザシがあった。

酵素阻害薬や受容体拮抗薬は大手メガファーマに勝てない。
そこで自ら立ち上げるテーマは、当時ロボットが使いにくい標的、世界的にアンタゴニストがまだ得られていなかったイオンチャネル、トランスポーターに絞った。

 neuronal Ca channels(N,  P/Q,  R型)、
 glutamate transporter (EAAC1, GLT-1)
 aquaporine (水チャネル活性を分光学的に見る)
 Ca release activated Ca channel
 Ca activated Chloride channel,
 CFTR(forskolin-activated Cl channel)
 T-type Ca channel(世界初の選択的阻害薬に到達!)
 SK channel(停滞していたテーマの分光学的アッセイ系構築)
 TRPP8 for prostate cancer (=TRPM8)

多くは須藤、高木らの協力で組換え細胞を造ってもらい、私は分光学的にマイクロプレートで活性測定できるよう蛍光色素の選択、染色、刺激の条件検討などしてランダムスクリーニング系を作った。

10個のプロジェクトのうち、一つくらい最適化まで行けばいいだろう、
と思ったが、いかんせん人手がない。
半年、6か月では一つか二つのプロジェクトしか扱えない。
常にプロジェクトの多くが休眠状態となった。

査定会議では(一応主任研究員だったから2,3度だけ出席した)、かつては同じレベルだった上役に、「成果がない」と言われた。
5,6人いるグループと違って、こっちは一人なんだから当たり前だ。
そういうお前は毎日机に座っていて、「個人で」どういう成果をあげた? 
と怒鳴ったら、どんなに気持ち良かっただろう。

これらのテーマの中には後に提携したメガファーマのGSKが興味を持ち、協業プログラムになったものがある。(しかしGSKが関わるようになってチームができても、なぜか私は呼ばれなかった)。
また数年後、いまさらと思う時期に他の人が「新プロジェクト」として立ち上げたものが2つある。
しかし私が一人でstruggleしていた時、彼らはこれらテーマにマイナス評価を与え続けたのである。

・・・・・

どういう人が偉くなるか?

Sさんが言った。
「小林さん、偉くなるには自分で手を動かしちゃダメです。実験は若い人にさせるんです。」 その若者の上司までも巻き込んで目立つようにいっぱい会議をすればよいという。関係者が多ければ多いほどいいらしい。

すでにE4、S1クラスのグループリーダーは、実験は部下にやらせ、自分はグループ会議と上層部への報告会などの資料作りが主になり、オフィスで座りっぱなしの者ばかりになった。
しかし、いくら会議をしてもデータの数字が良くなるわけではない。

また、評価は半年ごとに書く目標設定シートの項目が達成できたかどうか、である。
だから目標は達成可能な小さいものでなくてはならない。
大事なのは絶対的な成果よりも人間関係と作文能力。

このあたりのことは『セレンディピティと近代医学』中央公論新社(2010)の「訳者あとがき」に書いた。

・・・・・・・

一時私の部下だったT君は、やはり5点ばかりもらっていた。
私が(昇級遅れを少しでも取り戻してあげようと)毎回7点つけても最終的に5点にされた。
熱心な研究員だったが、私と離れたあと東京支社に出された。
その後、目に見えて培養室が乱雑になる。
彼はクリーンベンチの切れたUVランプを交換したり、炭酸ガスボンベの補充、機械のメンテを頼まれもしないのにやっていた。

偉い人つまり会議に出て発言するだけの人の代わりはいくらでもいる。
部長、所長の代わりなら誰でもいるが、T君の代わりはいない。
一番近くで見ていた私には、彼が普通の人(6点)と比べ(優れているとは言えないまでも)劣っているとは思えなかった。

こういう変てこな人事評価なら自分もマイナス点で結構、
と啖呵を切りたいところだが、
さんざん5点をもらって2001年終わりに基盤Uに再び異動したときは、薬を作ろうというより、なんとか6点をもらおう、というケチ臭い意識に代わっていた。
情けないことだが、「能力成果主義・新人事制度」の思惑どおりの行動をするようになっていた。
 
4号館と新3号館

1999年に社交ダンスを始めたとき、友人は「このスケベ親父が~」と言った。
否定はしないが、気持ちを不愉快な研究所から離したかったことも動機である。

日々上達するダンスによって精神のバランスを保ち、基盤Uで上記創薬プログラムのどれかを動かしていたが、
さらに2年後の2003年、47才で安全性薬理課へ異動となった。
創薬研のユニットでなく、課である。

このとき自分のプロジェクトは全て放棄した。
50歳近くになり、一人でもがいていても無理だと悟ったからだ。
その後は他人のプロジェクトから上がってくる化合物のhergチャネル毒性を調べることになった。
つまり創薬研究ではなく、技術員として日常的に決まった手順で検査をする。

もはやお手伝いだから、自分のプロジェクトの進捗会議もなく、情報収集など勉強する必要もなく、毎日早く帰れる。
その結果ダンスはどんどん上達した。

そして驚くことに、安全性薬理課では
6点もらえるようになったのである。
「プラス点などいらない、平均点でいい」と憧れていた6点。
あれだけ苦労して5点、これだけ手を抜いても6点。

よく考えれば会社なんて大部分が支援部門なのだから、手伝いであっても6点もらわなければ、平均点という大多数の6点の行き場がない。
成果の表現型である点数とは、本来こんなものだ。

私はずっと、研究所に成果主義は似合わない、年功序列にするべきだ、と負け犬の遠吠えのように主張し続けていた。

上司などあまり怖くなかった80年代と比べて、95年以降の研究所の暗さの原因は人事制度にある。
報酬の差が拡大すれば、査定権を持つ人間の権限が増大する。
もし彼が尊敬される人なら良いが、普通は反対の人が多い。
上昇志向の強い者は、純粋なサイエンス以外の政治的振る舞いに気を配り、
下位のものは薬を目指すより、いかに平均点6点をもらうようにするか腐心する。

かつて年功序列のときは、給料や昇進には関心がなく、サイエンスと仕事の美しさだけに専念できた。
報酬の差を拡大させたら、関心は上司の顔色、給料などを含む俗事に行くのは明らかではないか。

いろんなことを諦めた私の頭の中は、仕事が小さくなってダンスの占める割合がどんどん高まり、2004年から競技会に出るようになる。
こちらは会社と違って、ノービス級からG級、 F級、 E級とスピード出世で昇級、2005年終わりにはD級となった。不思議な「能力成果主義」ではなく、上手いか下手かはすぐ分かる見たまんまの実力主義。 踊りで研究所のうっ憤を晴らした。

 
90年代?に建て替えられた戸田寮

今思えば、多くの5点は一人の上司ではなく、多数の上司から頂いた。
ほぼ毎回下さった人から短期で1,2回下さった人まで数えれば、6、7人の顔が浮かぶ。平均点の6点でとどめてくださったのは3人くらいか。

彼らはみな私より出世して優秀とされたから馬鹿ではない。
毎回20人中17位から20位という私の評価は、あの組織ではきっと正しかったのだろう。
特定の上司に合わなかったというより組織、制度に合わなかったといえる。

しかし、研究所がこの制度になって、新薬は無理でもせめて開発品が作れただろうか。
・・・・薬よりも評価を求める人々が、作れるわけがない。

気に入った誰かを褒めて7点あげるということは、普通に仕事している人から1点奪うことである。8点だったら2人が泣く。
この制度を導入した人、賛成、推進した人々は、5点などもらったことのない人たちだろう。そうでなければ、こんな益のないばかりか非人間的な制度を受け入れるわけがない。
 

退職して6年経った2019年2月、
昔の守衛所を見たことから、1995年の昇級者一覧表が見たことが思い出され、それ以降退職するまでの、しばらく忘れていたいろんな記憶がよみがえった。

95年以後の年2回、人事評価(業績査定)のたびにハラワタが煮えくり返る思いだったが、今となっては良かった。

研究、創薬の前線から離れたことで、ダンスは上達し続け、2018年ついにラテン、スタンダードとも(2005年D級の団体とは別だが)A級になった。

また、安全性薬理課以降、仕事が簡単すぎて楽チンだったから2007年から素人翻訳を始め、7冊上梓。うち6冊は朝日、日経など全国紙の書評欄に載った。2冊の文章は大学入試にも使われた。プロの翻訳家でもなかなか得られない成績だろう。

そして神社仏閣巡りをしているうちに終の棲家と人生を意識し始め、元気なうちに千駄木への転居、さらには転職に至った。

もし人並みに毎回平均点6点をもらえていたら、いくつかのテーマは(新薬は無理でも)有望な検体にぶつかったかもしれない。しかし研究所にどっぷりつかり、定年退職まで実験室を出られなかったか、あるいは順番でそれなりの地位に就いて日々会議で忙しくなったか、どちらかだろう。

いずれにしろ、きれいな女性と踊ることも、上野・本郷の歴史散策もなかっただろう。

・・・

偉くならなかったことで良かったことは、現場の若い人と仲良くできたことである。
とくに自分のプロジェクトを辞めて研究支援に回ってからは、データを出してあげた人々に感謝された。当たり前のことをしただけなのにね。
若者に講釈を垂れ、自分の技術を教えるのも楽しかった。

偉くなれば上司として彼等に嫌なことも言わねばならなかっただろう。
よっぽどでなければ(自分の信条だから)5点は付けないと思うが、転勤は命じたかもしれない。

最後の職場、スクリーニングセンターから退職記念に頂いたもの

戸田一か所に32年間。
もちろん良い思い出の方がずっと多い。
この日、居室や実験室だけでなく、エレベーター、階段、窓の景色までが懐かった。いっぱい写真を撮らせてもらったが、載せられないのが残念だ。


2019年3月6日水曜日

田辺三菱製薬 戸田の変わりよう

2月19日(火)9:00 田辺三菱製薬戸田事業所に行った。
6年ぶり。
出勤してくる人に知った顔はいない。
寂しいような、ほっとしたような。

戸田事業所 正門

左に見える一番立派なビルは、田辺三菱ではない。
旧研究所2号館、3号館などの跡にできたマンション「ビィオルド戸田公園」。
私が退社する10年前の2003年7月にできた。
14階建て、総戸数366戸。

このときの敷地売却で全体の4割ほど土地を失い、正門がこの場所に移った。

ここで戸田事業所の変遷を整理する。

1960(昭和35) 埼玉県戸田に東京工場建設。
世田谷区代田(小田急梅が丘)にあった東京研究所もここに移転。
戸田ボート場が作られ会場となった東京オリンピックの4年前である。
「田辺製薬330年通史」から
本館(研究所)、工場2棟、道の手前は戸田寮?

荒川と菖蒲川が流れ、周囲はほとんど何もない。
鉄道もなく土地は安かったであろう。
本館はあるが研究2号館はまだない。

水害で道路が水没したこと、
スモン訴訟問題で原告側が守衛所に押しかけ、出社時に玉子を投げつけられたこと、
など、先輩が教えてくださった。

1981年、入社した。
ちょうどスモン問題が、キノホルムの因果関係が明らかでないまま、政治的決着で「和解」しつつあるころである。

データで考える研究者たちは悔しい思いをしたであろう。
サイエンスを主張すれば新聞、メディアに叩かれ、会社がつぶれるという状況だった。
患者(=弱者)こそ正義、白と信じているものを自ら黒と言わねば極悪人とされた。

しかし和解が済んでも因果関係の欠如を主張してきた田辺はしぶとかった。
入社したころの社内報は、社長が海外の薬局に行って笑顔で箱を手に「キノホルムはこんなに安全でいい薬です」というシリーズものが掲載されていた。

あれだけ論争があって何も解決しなかったのに、今はどんな教科書、サイトを見ても「スモン=キノホルム」が「事実として」確定している。
当初反論していた科学者たちが世間的に形勢不利と見るや、全員口をつぐんだからである。

事実は科学でなく多数決で決まり、多数決はムードで決まる。

私は薬害に少しは興味があり、雑誌『諸君』の大論文、宮田親平『田辺製薬の抵抗』などを読んでいた。中立の大学院生の立場からデータを見れば、田辺に同情こそすれ反感はなく、就職に迷いはなかった。

「田辺製薬三百五年史」から

私が入った1981年はほぼこんな感じ。
配属先の2号館は右(東)の端、北にグランド、東は戸田第二小学校だった。
昭和35年から20年で周囲はびっしり工場と住宅で埋まったわけだ。
しかしまだ工場、小学校など以外は木造二階建て一般住宅。

「田辺製薬三百五年史」から

薬理研と微生物研がはいった研究2号館の2階北側は動物室であったが、それでは足りず、アニパックというプレハブの動物小屋がグランドとの境に並んでいた。

私は研究所の野球チーム、Beaglesに入った。
まだのどかな時代で、例えば数人で順にノックを受けていても、午後の始業合図の音楽が鳴ってから「ラスト~」となり、エラーすると「もう一丁~」となるから、なかなか終わらない。終わったら実験室で泥だらけのTシャツを洗ったりする。残業手当というものがない代わりに時間管理が緩かった。

ちょうど自社製品のホパテ、ヘルベッサーが売れているころで、研究所の拡大が進められた。
まず、
1983、 アニパックでは足りず、本格的な動物舎(研究3号館)を作った。その結果、グランドがなくなる。そこで西の端にあった駐車場を食堂側に移動し、そこを新たなグランドとした。野球でレフトに打つと商品管理部の壁に当たった。

1984(85?)、 研究1号館竣工。
それまで有機化学研究所は、本館に図書室、工場総務課などと同居していたが、独立して入った。
ちょうど下の写真である。
「田辺製薬330年通史」から

このころが一番明るかったころだろうか。
古い食堂はまだある。
道路を挟んだ戸田寮と軟式テニスコートもある。

1991 西(上の写真左)のグランドの場所に研究4号館竣工。
   薬理研(生物研)が2号館から4号館に移動。
   グランドは北に移動し、古い食堂はなくなり、駐車場は縮小された。
  
1994 能力成果主義の新人事制度導入。
   このころから暗くなっていく(少なくとも私は)
   東京工場閉鎖。

2000年ころ?
工場閉鎖のため敷地の一部売却決定。
東の半分近くを売却することが決まっていたので記念のテレカが配られた。
このあと2号館、3号館、液剤工場などを解体
2号館は入社以来1981-1991、1995-1999と最も重要な時期を過ごした。

道路を挟んだ北側のテニスコートも売却された。

2001 研究2号館竣工。(工場跡地、4号館の東に旧2号館のスクリーニング部移動)
   研究3号館竣工。(4号館の北、グランドに旧3号館から動物飼育、実験施設移動)
   グランド消滅、土地売却、

2003 会社の敷地ぎりぎりに迫る14階建て巨大マンション立つ。
   洗濯物を落とせば、風がなくともテニスコート、あるいは草地に着地するだろう。
   建蔽率、容積率さえクリアすれば、こんな建て方が許されるのか、と思ったものだ。

2007 三菱ウェルファーマと合併


2018 今。

 
一番古い建物、昭和35年以来の本館
2階北側の図書室で「化学」や「ファルマシア」でセミナーのネタを探したな。

数年前から横浜青葉区、旧三菱化成の敷地で横浜研究所と移転統合の話がある。
実際少しずつ動いており、研究所内は人が少なかった。
さまざまな田辺の歴史は消え、この地もマンションになるのだろう。


千駄木菜園 総目次

2019年3月3日日曜日

モミジの根を掘ったら石が

2月15日にモミジを根元から切ってもらった。(→別ブログ)
狭いところに根が張っていたので、それらを取り除いてささやかでも栽培用地を作ろうと思った。

しかし難航。
根を取るには掘らねばならず、
掘るためには根を除かねばならず、
作業場も狭い。
2年前ザクロの切り株を取り除いた時と同じ(→別ブログ)

2019-02-18
3日間ほど苦闘したが、中断。
新しいノコギリを買ってきた。
土交じりの根を切ったら刃が傷むな、と根を裸にして雨を待った。

弥生2日、暖かい土曜日、作業再開。
2019-03-02
ノコギリ新しくても切れない。刃が両脇から挟まれすぐ止まる。
何とか切断。
根をどかして掘ると大きな石。
周囲の土をどかしているとぽっかり穴。
え? 下水管でもぶち破ってしまったか?
戦前の家ではあるまいし、今はプラスチック管だろうとは思うが、土が入り込まないようビニールをかぶせて作業続行。

そのうち覗けば、がれきを埋めた感じ。
大きな石は直方体。
2014年ころ庭を畑にしようと掘り返していたころ出てきた石柱に似ている。
周囲のがれきは瓦やレンガ、陶製下水管の破片など。茶碗もある。
このあたり鷹匠屋敷の南だが、植木ヤ多シと切絵図にあるから、古いものはないだろう。
石柱のまわりをきれいにして動かそうとしたがびくともせず。
すでに服は泥だらけ。

なおも掘り進むと
石柱にかぶさっている板状コンクリート片は、ブロック塀の土台になっていた。
コンクリート片を取り除けば塀が倒れるかもしれない。
かといって、ここまで苦労して掘り進んできたのに埋めなおすのは悔しい。

セメントで固定されてはおらず動いたので取り出した。
あとでまた戻せばいいや。

石柱は、押さえつけているのは何もないのに全力でもびくともしない。

人間らしく知恵とテコを使ってようやく動く。
しかし、もろくて破片がこぼれる。緑鮮やか。
大谷石だろうか。
凝灰岩だから水を吸ったらもろくなる。
緑色なのは、長年の湿気で、水分子が内部に入り込み、鉄やマンガンイオンに配位しているのかもしれない。
白い硫酸銅に水を含ませると青くなるのと同じ。

取り出したが穴から出ない。
もう全身泥だらけ。
取り残した石柱のかけらが緑片として見える。

何とか石柱を出したら下にまた石。
今度は丸みある川原石。
これも庭の踏み石に使える。
2019-03-03

川原石を出したら根株の下に空洞ができた。
根は石たちを避けて曲がっていた。
え? 
これって、親の根株も抜けるんじゃないだろうか?

できるだろうか?
2年前苦労したザクロと比べはるかに難作業と思われたので最初から諦めていたが。

高所での作業、例えば桜の剪定では道具と専門技術がいるが、地べたに這う作業なら、まじめさとノコギリさえあれば素人でもできる気がする。
毎朝少しずつ、少しずつ。
何日かかるか分からぬが。
1日1歩、三日で三歩、三歩進んで、二歩は下がらない。


千駄木菜園 総目次

2019年3月1日金曜日

日本医師会館に入ってみた:医師会の歴史

国際医薬品情報という雑誌を見たかった。
東大はじめほとんどの大学にはない。
製薬企業ならたいてい購読しているが、企業に入るのはとても面倒。
ciniiで調べたら、家の近く、本駒込、日本医師会の医学図書館にあることが分かった。

2月28日、雨。
10時開館に合わせて家を出る。徒歩15分。
六義園の南側、東洋文庫の西隣。
このあたりは理研の移転、科研製薬の敷地再開発で文京グリーンコートや警察署、学校などになった。(→別ブログ


何回か前を素通りしてきたが、日本医師会館って、権威のかたまりのよう。
だって武見太郎が25年会長を務めたところのお城ではないか。
(当時はここではなかったが)

「関係者以外立入禁止」の立て札が、ここではひときわ目立つ。

普通なら入れないが、今日はちゃんと用事がある。
推薦状もあるし。

入ると大きくて怖そうな男の人(守衛さん?)が聳え立ち、入館者を威圧している。
目を合わせないようにして受付へ。
こちらは女性二人。やさしい。
受付の後ろには巨大なシロクマ。
寄贈北海道医師会 平成2年 とある。
多分本物の剥製なのだろうが、ぬいぐるみに見えてしまう。

会館の模型をみれば、間口より奥行きが長く、平成2年(1990)竣工とあった。
戦前に有名個人病院が集中していた御茶ノ水、山の上ホテルのそばから29年前移転してきた。

図書室に行く前に、守衛さんの後ろを過ぎてロビーを見物。
この時間、受付嬢と彼と私の4人しかいなかった。

どこかの階に会長室などもあるのだろうが、デパートのような館内フロア案内図などない。うろうろしてはいけないのである。
北島多一(第2代会長)と初代会長北里柴三郎

北里は、内務省伝染病研究所が文部省、東大に移管されるとき反対して伝研を辞任、慶応に移り、右腕だった北島も辞任、慶応で北里を支えた。
二人が初期の会長として担がれたのは、日本医師会が国立大学や陸海軍の病院の医師を除いた開業医の集団として出発したことと関係するだろう。

ロビーの突き当りの扉が開いていて、講堂の中が見えた。
明かりがついていたが誰もいなかった。
ここは日本医学会の公開シンポジウムがよく開かれている。
先月もあったようで「AIと医療の現状と課題」というから聴きに来ればよかった。
先着500名とあったから、立派そうな椅子はそれ以上あるのだろう。

エレベーターで地下に降りたら、受付から連絡を受けた図書の係の方が待っていらした。
ロビーの写真はささっと撮ったから時間はそれほど経っていないはずだが、恐縮した。

書庫の蔵書は思ったより多そう。

雑誌を探してもらう。
コピーは1枚60円という。
高いですね、というと、申し訳なさそうに
「そうなんです。ですから頁数だけ控えて国会図書館に頼んで送ってもらえばもっと安くなります」
と親切に教えてくれた。



ひとり調べていると別の図書館員の人がたまにいらした。
会員医師の依頼などによる文献送付サービスだろうか?

国際医薬品情報は年24冊、1989年から11年分調べた。
6冊ごとに索引があったからそれでも簡単なのだが、時計を見たら2時間以上経っていた。

打ち切って図書館事務室に行くと、皆さん昼食に出られたのか、お一人しかいらっしゃらなかった。
年配のとても上品な方で、
天井のステンドグラスは御茶の水時代の図書室から29年前持ってきたのだと教えてくださった。

ここの(女性)職員の丁寧さは、出版社の医学書院を思わせた。
医師を相手にする人というのはこういう対応を求められるのかもしれない。
また、ステンドグラスのことを話してくださった方は、東郷会事務局の女性(もし海軍士官の未亡人がいれば、こんな感じだろうと私が勝手に思った人)と雰囲気が似ていらした。

ロビーに上がるとまだ雨が降っていた。
外にはガレノス、ヒポクラテスの像が濡れていた。
左の方に埴輪があったが、由来は不明。

日本医師会は1947年に設立されたが、前身は1916(大正5)誕生の大日本医師会。
そのあたりを記した日本医師会創立記念誌がPDFになっていてホームページから読める。
その最初、前史を読んで驚いた。

設立のきっかけは日本薬剤師会(1893設立)による医薬分業運動への対抗だったというのである (→ 別ブログ)。

それまで各地でばらばらの親ぼく団体であったが、1906年ごろから各県で医師会が設立された。薬剤師会は全国組織ができる前、明治24年ごろから運動していたが、大正時代に入り再び、医薬分業となる薬律改正案が議会に提出され、それに危機感を持った全国の医師会長が1916年東京に集まり大日本医師会の設立が合意されたという。

薬律改正案は審議未了となったが、今後のことも考え、薬剤師会に対抗しようと、翌年1917年総選挙では医師会から14人の議員を当選させ、政治活動にもかかわっていく。

さらには運動が実り医師法が改正され、官公立病院の勤務医も含め強制加入となった。
1942年には国家総動員体制に組み込まれ、医師会役員は官選となり終戦。

戦後、新生日本医師会がつくられ、任意設立、任意加入の民主的な団体に生まれ変わったのは、GHQの指導による。

2019-02-28 小雨の朝、巨大化した小松菜

なお、日本医学会は日本医師会の下にある。
日本医学会は1902年に第一回が開かれ、会の意味はsociety ではなくmeetingであった。
それが戦後、常設・恒久化され、1948年に新生・日本医師会と合体、日本医師会定款第10章第40条に「日本医師会に日本医学会を置く」とされる。

「医学に関する科学および技術の研究促進を図り、医学および医療の水準の向上に寄与する」ためにできた日本医学会が医師会の下にあるというのは理想の形である。

いっぽう、日本薬剤師会と日本薬学会は全く別物で、前者が職業集団であるのに対し、後者は大学、企業などの創薬研究者の会であり、構成員は全く異なる。

薬学部が6年制に移行、私立薬科大学が研究から薬剤師準備教育(臨床知識)に特化するようになった。両者の間はますます離れつつある。

今の薬剤師の日常業務では薬学会で扱うような学問は必要ない。
今の薬学会自体も必要ないと思われる。日常の創薬研究というのは、分解すれば物理、化学、生物学、あるいは理学農学工学の混合であって医薬品とは関係なく、関連学会はいくらでもある。

薬剤師会と薬学会が完全分離していることも、薬学が医学と比べて貧弱である理由の一つであろう。
誰のせいというわけではないが。

1975(昭和50)まだ医師会館はない。
理研は移転したが、科研製薬や土木研(昭和小の南)などはある。

・・・・・

傘をさして不忍通りに出た。
医師会館に食堂はあったのだろうか?
だれか一緒なら並びの東洋文庫オリエントカフェでランチというのもあるが、一人なので家に帰るかどうか迷い、結局駒込から電車に乗って職場に向かった。


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