2019年3月8日金曜日

T製薬、研究所の能力成果主義とは

先月、2月19日(火) 6年ぶりにもとの職場に行った。
昔を思い出し、敷地内建物の変遷をブログに書いた(→別ブログ)。

Y氏と約束の時間、9:00に早かったので、敷地の周囲を歩いてみた。
かつて2001年?まで正門はずっと東にあった。

道路を挟んで左の5階建てマンションもかつての敷地。
バスケット、テニスコートだった。

昔の正門の場所に行くと守衛所がまだ残っていた。
新しく作ったテニスコートの休憩所になっている。
かつて皆が毎朝歩いたアスファルトの通路は、芝生が植えられていた。


初出勤は1981年。
大阪での工場研修が終わった6月。

ここで朝晩タイムカードを打刻した。
全員のカードが手に取れたから、例えば、好きな人が朝何時に来るか、そっと見ることもできた。

この景色で、20年以上前の夕方を思い出した。

当時、人事異動(昇進、転勤)など大事なお知らせは、守衛所脇のタイムカードの横の掲示板に発表された。
1995年3月、例年通り各級への昇進者名簿が出た。

当時はまだ同期が一斉に昇級していったが、E3からE4になるはずのところ、私だけ名前がなかった。
翌年以降は珍しいことではなくなるのだが、当時は年功序列で進級した時代だった。
予想もしなかったことで、その時のショックは今でも覚えている。

なぜだ!?という思いもあったが、むしろみんなに見られることが恥ずかしかった。
次々と人が来る。
一刻も早く守衛所から離れたかった。
一緒に見た先輩は「なぜだろうな~」と、どう慰めたら良いか困っていた。
駅までの道は上の空だったにちがいない。

前年1994年から新人事制度が始まり、年功序列でなく業績を重視、メリハリのある評価をすることになった。
標準6点のところ、誰かにプラス評価の7点をつければ、同じ人数の人をマイナス評価の5点にしなくてはならない。
「成果を上げた人にそれなりに報いる」という美辞麗句に、組合さえ賛成した。

しかし皆別々のことをしている研究員の、半年であげる成果をどうやって測り、どうやって比較するのだろう?

突き当りは川向こうのマンション

ショックから半年後、ひとり敷地内の拓新研に移籍。
トップに天敵のいる薬理研(育成研)から離れた。
その天敵と仲の悪かった小松原さんが新しい上司になり7点をくれた。

しかし翌年も昇級しなかった。
私より1年下のものと、2年下の早いものが昇進した。

1997年4月、40歳。
やっとE4に進級、
ごく普通の(平凡な)人より2年、早い者より3年遅れていた。
それでも部下二人を持つグループリーダーとなり、仕事も進んだ。

働きぶりは全く変わらなかったが、小松原さんのおかげで、E4は標準で3年かかるところを2年で通過し、
1999年4月、S1(主任研究員)に進級した。皆より1年あるいは2年遅れまで短縮した。

秋には再び大規模な組織変更があり、4号館の薬理(薬効評価U)に戻る。
しかしそれまでの部下二人と引き離され、単独での移動、主任研究員付きのヒラ研究員扱いとなった。

昔から(良くも悪くも)あまり上から命令されることはなかった。
上司は何も指示してくれないから自分で仕事を作らねば食べていけない。
テーマをいくつも考え、提案会議で承認を受け、実験を開始した。

ところが移動して薬理にいる間、すなわち 1999年12月から2001年12月まで、半年間の査定が5回あり、そのうちなんと4回がマイナス評価の5点だった。
当時、大阪も含め研究本部にS1(主任研究員クラス)が20人いたが、トップ2割の4人が優秀者の7点以上、6割にあたる12人が標準の6点、残りの下から2割、4人が5点以下という配分だった。
毎回毎回「20人のうち君は17位以下ですよ。ダメ研究員ですよ」と、会社から宣言され続けたわけである。

マイナス評価というのは、
会社や上司に逆らっているとか、怠惰で勤務態度が悪いとかいうなら分かる。
あるいは会社よりも自分の業績となるような、つまり大学のように論文になるような仕事をしているなら、マイナス点になってもいいだろう。

しかし私が会社の仕事で論文を書いたのは、薬物代謝部門にいたときに上司に勧められた2本があるが、31歳で薬理に移動してからは、1992年にJap.J.Pharmacol.に書いたたった1本だけである。その論文さえも上司に命じられて書いたものだ。彼は一切何もしなかった(むしろ邪魔だった)のにラストネームで名前が入ることになった。
それ以降、つまり査定を受けるようになってから2013年退職するまで20年以上、論文は1本も書かず、研究員の中では稀有の存在だったと思う(本当は書きたかったが、私は企業での論文は公私の「私」だと思っている)。
ほとんど部下もいなかったから偉そうな共著者になることもなく、研究所では最も論文が少ない人間だったのではないか?

論文は一切書かず何をしていたかというと、所長、上司の見える範囲で、薬を作るために新テーマを立ち上げ、グループ内、研究所内できちんと進捗報告しながらアッセイ系をつくり、日々スクリーニングをしていた。
もし、そういう研究員が半年の評価でマイナス点になったとしたら、それは全部承知して半年働かせていた監督上司の責任ではないか?

4号館 

こんなにマイナス点をもらい続ければ、今の私ならふてくされて不良になってしまうが、当時はプライドもあったし真面目だった。
40過ぎても薬を作ろうというココロザシがあった。

酵素阻害薬や受容体拮抗薬は大手メガファーマに勝てない。
そこで自ら立ち上げるテーマは、当時ロボットが使いにくい標的、世界的にアンタゴニストがまだ得られていなかったイオンチャネル、トランスポーターに絞った。

 neuronal Ca channels(N,  P/Q,  R型)、
 glutamate transporter (EAAC1, GLT-1)
 aquaporine (水チャネル活性を分光学的に見る)
 Ca release activated Ca channel
 Ca activated Chloride channel,
 CFTR(forskolin-activated Cl channel)
 T-type Ca channel(世界初の選択的阻害薬に到達!)
 SK channel(停滞していたテーマの分光学的アッセイ系構築)
 TRPP8 for prostate cancer (=TRPM8)

多くは須藤、高木らの協力で組換え細胞を造ってもらい、私は分光学的にマイクロプレートで活性測定できるよう蛍光色素の選択、染色、刺激の条件検討などしてランダムスクリーニング系を作った。

10個のプロジェクトのうち、一つくらい最適化まで行けばいいだろう、
と思ったが、いかんせん人手がない。
半年、6か月では一つか二つのプロジェクトしか扱えない。
常にプロジェクトの多くが休眠状態となった。

査定会議では(一応主任研究員だったから2,3度だけ出席した)、かつては同じレベルだった上役に、「成果がない」と言われた。
5,6人いるグループと違って、こっちは一人なんだから当たり前だ。
そういうお前は毎日机に座っていて、「個人で」どういう成果をあげた? 
と怒鳴ったら、どんなに気持ち良かっただろう。

これらのテーマの中には後に提携したメガファーマのGSKが興味を持ち、協業プログラムになったものがある。(しかしGSKが関わるようになってチームができても、なぜか私は呼ばれなかった)。
また数年後、いまさらと思う時期に他の人が「新プロジェクト」として立ち上げたものが2つある。
しかし私が一人でstruggleしていた時、彼らはこれらテーマにマイナス評価を与え続けたのである。

・・・・・

どういう人が偉くなるか?

Sさんが言った。
「小林さん、偉くなるには自分で手を動かしちゃダメです。実験は若い人にさせるんです。」 その若者の上司までも巻き込んで目立つようにいっぱい会議をすればよいという。関係者が多ければ多いほどいいらしい。

すでにE4、S1クラスのグループリーダーは、実験は部下にやらせ、自分はグループ会議と上層部への報告会などの資料作りが主になり、オフィスで座りっぱなしの者ばかりになった。
しかし、いくら会議をしてもデータの数字が良くなるわけではない。

また、評価は半年ごとに書く目標設定シートの項目が達成できたかどうか、である。
だから目標は達成可能な小さいものでなくてはならない。
大事なのは絶対的な成果よりも人間関係と作文能力。

このあたりのことは『セレンディピティと近代医学』中央公論新社(2010)の「訳者あとがき」に書いた。

・・・・・・・

一時私の部下だったT君は、やはり5点ばかりもらっていた。
私が(昇級遅れを少しでも取り戻してあげようと)毎回7点つけても最終的に5点にされた。
熱心な研究員だったが、私と離れたあと東京支社に出された。
その後、目に見えて培養室が乱雑になる。
彼はクリーンベンチの切れたUVランプを交換したり、炭酸ガスボンベの補充、機械のメンテを頼まれもしないのにやっていた。

偉い人つまり会議に出て発言するだけの人の代わりはいくらでもいる。
部長、所長の代わりなら誰でもいるが、T君の代わりはいない。
一番近くで見ていた私には、彼が普通の人(6点)と比べ(優れているとは言えないまでも)劣っているとは思えなかった。

こういう変てこな人事評価なら自分もマイナス点で結構、
と啖呵を切りたいところだが、
さんざん5点をもらって2001年終わりに基盤Uに再び異動したときは、薬を作ろうというより、なんとか6点をもらおう、というケチ臭い意識に代わっていた。
情けないことだが、「能力成果主義・新人事制度」の思惑どおりの行動をするようになっていた。
 
4号館と新3号館

1999年に社交ダンスを始めたとき、友人は「このスケベ親父が~」と言った。
否定はしないが、気持ちを不愉快な研究所から離したかったことも動機である。

日々上達するダンスによって精神のバランスを保ち、基盤Uで上記創薬プログラムのどれかを動かしていたが、
さらに2年後の2003年、47才で安全性薬理課へ異動となった。
創薬研のユニットでなく、課である。

このとき自分のプロジェクトは全て放棄した。
50歳近くになり、一人でもがいていても無理だと悟ったからだ。
その後は他人のプロジェクトから上がってくる化合物のhergチャネル毒性を調べることになった。
つまり創薬研究ではなく、技術員として日常的に決まった手順で検査をする。

もはやお手伝いだから、自分のプロジェクトの進捗会議もなく、情報収集など勉強する必要もなく、毎日早く帰れる。
その結果ダンスはどんどん上達した。

そして驚くことに、安全性薬理課では
6点もらえるようになったのである。
「プラス点などいらない、平均点でいい」と憧れていた6点。
あれだけ苦労して5点、これだけ手を抜いても6点。

よく考えれば会社なんて大部分が支援部門なのだから、手伝いであっても6点もらわなければ、平均点という大多数の6点の行き場がない。
成果の表現型である点数とは、本来こんなものだ。

私はずっと、研究所に成果主義は似合わない、年功序列にするべきだ、と負け犬の遠吠えのように主張し続けていた。

上司などあまり怖くなかった80年代と比べて、95年以降の研究所の暗さの原因は人事制度にある。
報酬の差が拡大すれば、査定権を持つ人間の権限が増大する。
もし彼が尊敬される人なら良いが、普通は反対の人が多い。
上昇志向の強い者は、純粋なサイエンス以外の政治的振る舞いに気を配り、
下位のものは薬を目指すより、いかに平均点6点をもらうようにするか腐心する。

かつて年功序列のときは、給料や昇進には関心がなく、サイエンスと仕事の美しさだけに専念できた。
報酬の差を拡大させたら、関心は上司の顔色、給料などを含む俗事に行くのは明らかではないか。

いろんなことを諦めた私の頭の中は、仕事が小さくなってダンスの占める割合がどんどん高まり、2004年から競技会に出るようになる。
こちらは会社と違って、ノービス級からG級、 F級、 E級とスピード出世で昇級、2005年終わりにはD級となった。不思議な「能力成果主義」ではなく、上手いか下手かはすぐ分かる見たまんまの実力主義。 踊りで研究所のうっ憤を晴らした。

 
90年代?に建て替えられた戸田寮

今思えば、多くの5点は一人の上司ではなく、多数の上司から頂いた。
ほぼ毎回下さった人から短期で1,2回下さった人まで数えれば、6、7人の顔が浮かぶ。平均点の6点でとどめてくださったのは3人くらいか。

彼らはみな私より出世して優秀とされたから馬鹿ではない。
毎回20人中17位から20位という私の評価は、あの組織ではきっと正しかったのだろう。
特定の上司に合わなかったというより組織、制度に合わなかったといえる。

しかし、研究所がこの制度になって、新薬は無理でもせめて開発品が作れただろうか。
・・・・薬よりも評価を求める人々が、作れるわけがない。

気に入った誰かを褒めて7点あげるということは、普通に仕事している人から1点奪うことである。8点だったら2人が泣く。
この制度を導入した人、賛成、推進した人々は、5点などもらったことのない人たちだろう。そうでなければ、こんな益のないばかりか非人間的な制度を受け入れるわけがない。
 

退職して6年経った2019年2月、
昔の守衛所を見たことから、1995年の昇級者一覧表が見たことが思い出され、それ以降退職するまでの、しばらく忘れていたいろんな記憶がよみがえった。

95年以後の年2回、人事評価(業績査定)のたびにハラワタが煮えくり返る思いだったが、今となっては良かった。

研究、創薬の前線から離れたことで、ダンスは上達し続け、2018年ついにラテン、スタンダードとも(2005年D級の団体とは別だが)A級になった。

また、安全性薬理課以降、仕事が簡単すぎて楽チンだったから2007年から素人翻訳を始め、7冊上梓。うち6冊は朝日、日経など全国紙の書評欄に載った。2冊の文章は大学入試にも使われた。プロの翻訳家でもなかなか得られない成績だろう。

そして神社仏閣巡りをしているうちに終の棲家と人生を意識し始め、元気なうちに千駄木への転居、さらには転職に至った。

もし人並みに毎回平均点6点をもらえていたら、いくつかのテーマは(新薬は無理でも)有望な検体にぶつかったかもしれない。しかし研究所にどっぷりつかり、定年退職まで実験室を出られなかったか、あるいは順番でそれなりの地位に就いて日々会議で忙しくなったか、どちらかだろう。

いずれにしろ、きれいな女性と踊ることも、上野・本郷の歴史散策もなかっただろう。

・・・

偉くならなかったことで良かったことは、現場の若い人と仲良くできたことである。
とくに自分のプロジェクトを辞めて研究支援に回ってからは、データを出してあげた人々に感謝された。当たり前のことをしただけなのにね。
若者に講釈を垂れ、自分の技術を教えるのも楽しかった。

偉くなれば上司として彼等に嫌なことも言わねばならなかっただろう。
よっぽどでなければ(自分の信条だから)5点は付けないと思うが、転勤は命じたかもしれない。

最後の職場、スクリーニングセンターから退職記念に頂いたもの

戸田一か所に32年間。
もちろん良い思い出の方がずっと多い。
この日、居室や実験室だけでなく、エレベーター、階段、窓の景色までが懐かった。いっぱい写真を撮らせてもらったが、載せられないのが残念だ。


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