2019年3月1日金曜日

日本医師会館に入ってみた:医師会の歴史

国際医薬品情報という雑誌を見たかった。
東大はじめほとんどの大学にはない。
製薬企業ならたいてい購読しているが、企業に入るのはとても面倒。
ciniiで調べたら、家の近く、本駒込、日本医師会の医学図書館にあることが分かった。

2月28日、雨。
10時開館に合わせて家を出る。徒歩15分。
六義園の南側、東洋文庫の西隣。
このあたりは理研の移転、科研製薬の敷地再開発で文京グリーンコートや警察署、学校などになった。(→別ブログ


何回か前を素通りしてきたが、日本医師会館って、権威のかたまりのよう。
だって武見太郎が25年会長を務めたところのお城ではないか。
(当時はここではなかったが)

「関係者以外立入禁止」の立て札が、ここではひときわ目立つ。

普通なら入れないが、今日はちゃんと用事がある。
推薦状もあるし。

入ると大きくて怖そうな男の人(守衛さん?)が聳え立ち、入館者を威圧している。
目を合わせないようにして受付へ。
こちらは女性二人。やさしい。
受付の後ろには巨大なシロクマ。
寄贈北海道医師会 平成2年 とある。
多分本物の剥製なのだろうが、ぬいぐるみに見えてしまう。

会館の模型をみれば、間口より奥行きが長く、平成2年(1990)竣工とあった。
戦前に有名個人病院が集中していた御茶ノ水、山の上ホテルのそばから29年前移転してきた。

図書室に行く前に、守衛さんの後ろを過ぎてロビーを見物。
この時間、受付嬢と彼と私の4人しかいなかった。

どこかの階に会長室などもあるのだろうが、デパートのような館内フロア案内図などない。うろうろしてはいけないのである。
北島多一(第2代会長)と初代会長北里柴三郎

北里は、内務省伝染病研究所が文部省、東大に移管されるとき反対して伝研を辞任、慶応に移り、右腕だった北島も辞任、慶応で北里を支えた。
二人が初期の会長として担がれたのは、日本医師会が国立大学や陸海軍の病院の医師を除いた開業医の集団として出発したことと関係するだろう。

ロビーの突き当りの扉が開いていて、講堂の中が見えた。
明かりがついていたが誰もいなかった。
ここは日本医学会の公開シンポジウムがよく開かれている。
先月もあったようで「AIと医療の現状と課題」というから聴きに来ればよかった。
先着500名とあったから、立派そうな椅子はそれ以上あるのだろう。

エレベーターで地下に降りたら、受付から連絡を受けた図書の係の方が待っていらした。
ロビーの写真はささっと撮ったから時間はそれほど経っていないはずだが、恐縮した。

書庫の蔵書は思ったより多そう。

雑誌を探してもらう。
コピーは1枚60円という。
高いですね、というと、申し訳なさそうに
「そうなんです。ですから頁数だけ控えて国会図書館に頼んで送ってもらえばもっと安くなります」
と親切に教えてくれた。



ひとり調べていると別の図書館員の人がたまにいらした。
会員医師の依頼などによる文献送付サービスだろうか?

国際医薬品情報は年24冊、1989年から11年分調べた。
6冊ごとに索引があったからそれでも簡単なのだが、時計を見たら2時間以上経っていた。

打ち切って図書館事務室に行くと、皆さん昼食に出られたのか、お一人しかいらっしゃらなかった。
年配のとても上品な方で、
天井のステンドグラスは御茶の水時代の図書室から29年前持ってきたのだと教えてくださった。

ここの(女性)職員の丁寧さは、出版社の医学書院を思わせた。
医師を相手にする人というのはこういう対応を求められるのかもしれない。
また、ステンドグラスのことを話してくださった方は、東郷会事務局の女性(もし海軍士官の未亡人がいれば、こんな感じだろうと私が勝手に思った人)と雰囲気が似ていらした。

ロビーに上がるとまだ雨が降っていた。
外にはガレノス、ヒポクラテスの像が濡れていた。
左の方に埴輪があったが、由来は不明。

日本医師会は1947年に設立されたが、前身は1916(大正5)誕生の大日本医師会。
そのあたりを記した日本医師会創立記念誌がPDFになっていてホームページから読める。
その最初、前史を読んで驚いた。

設立のきっかけは日本薬剤師会(1893設立)による医薬分業運動への対抗だったというのである (→ 別ブログ)。

それまで各地でばらばらの親ぼく団体であったが、1906年ごろから各県で医師会が設立された。薬剤師会は全国組織ができる前、明治24年ごろから運動していたが、大正時代に入り再び、医薬分業となる薬律改正案が議会に提出され、それに危機感を持った全国の医師会長が1916年東京に集まり大日本医師会の設立が合意されたという。

薬律改正案は審議未了となったが、今後のことも考え、薬剤師会に対抗しようと、翌年1917年総選挙では医師会から14人の議員を当選させ、政治活動にもかかわっていく。

さらには運動が実り医師法が改正され、官公立病院の勤務医も含め強制加入となった。
1942年には国家総動員体制に組み込まれ、医師会役員は官選となり終戦。

戦後、新生日本医師会がつくられ、任意設立、任意加入の民主的な団体に生まれ変わったのは、GHQの指導による。

2019-02-28 小雨の朝、巨大化した小松菜

なお、日本医学会は日本医師会の下にある。
日本医学会は1902年に第一回が開かれ、会の意味はsociety ではなくmeetingであった。
それが戦後、常設・恒久化され、1948年に新生・日本医師会と合体、日本医師会定款第10章第40条に「日本医師会に日本医学会を置く」とされる。

「医学に関する科学および技術の研究促進を図り、医学および医療の水準の向上に寄与する」ためにできた日本医学会が医師会の下にあるというのは理想の形である。

いっぽう、日本薬剤師会と日本薬学会は全く別物で、前者が職業集団であるのに対し、後者は大学、企業などの創薬研究者の会であり、構成員は全く異なる。

薬学部が6年制に移行、私立薬科大学が研究から薬剤師準備教育(臨床知識)に特化するようになった。両者の間はますます離れつつある。

今の薬剤師の日常業務では薬学会で扱うような学問は必要ない。
今の薬学会自体も必要ないと思われる。日常の創薬研究というのは、分解すれば物理、化学、生物学、あるいは理学農学工学の混合であって医薬品とは関係なく、関連学会はいくらでもある。

薬剤師会と薬学会が完全分離していることも、薬学が医学と比べて貧弱である理由の一つであろう。
誰のせいというわけではないが。

1975(昭和50)まだ医師会館はない。
理研は移転したが、科研製薬や土木研(昭和小の南)などはある。

・・・・・

傘をさして不忍通りに出た。
医師会館に食堂はあったのだろうか?
だれか一緒なら並びの東洋文庫オリエントカフェでランチというのもあるが、一人なので家に帰るかどうか迷い、結局駒込から電車に乗って職場に向かった。


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