2018年2月3日土曜日

谷根千エリアの豆まき・諏訪神社、富士神社

今日は節分。

ふと豆まきを見に行こうと思った。
忙しいといって何もしないと、ただ年だけ取っていく。
ありふれたことでも、今まで見たことがないものを見に行く。

近くの豆まきを調べると
 日暮里・諏方神社 15:30
 根津神社  14時から16時まで 20分おき
 駒込・天祖神社 15,16,17時の3回
 音羽・護国寺 15:30
 湯島天神 15:30
 神田明神 14:00

下3つは自転車でないと行けない。土曜とはいえ、出勤なので、職場から都内に戻ってすぐ行けるところ、西日暮里駅からすぐ、ホームから社殿も見える諏訪神社にした。
現在、公式には「諏方」だそうだが、記録には混在しているらしい。
駅に降りると、塾の腕章の人がいる。ああ、開成の合格発表か。

15:11
撒く予定の20分前、まだ人はいない。
諏訪神社の境内からは東北線の線路がよく見える。
いつか孫ができたなら連れて来たいものだ。

本殿では、大勢の人がお祓いを受けていた。
この人たちが豆をまくようだ。
15:18
このあと弓矢を放つ儀式があったが、下で豆まきを待つ人々からは見えない。

15:27
寄付した人々だろうか。
順不同と書いてあるが、有名な野池幸三氏(谷中のアナゴ寿司)が最初にあるからには、ランダムではないと思う。

15:30
豆まき開始時刻になっても始まらない。人はどんどん増える。

15:47
ようやく鬼が登場。赤い髪、青い服。
そのあとを神主が豆を投げつける演出。
そのあと裃をつけた年男年女のひとびとが続く。

放り投げるけれど、ほとんど前のほうに落ちる。
袋に入っていて軽くて飛びにくいということもあるが、一番の理由は、遠くの人にも投げてあげようという気がないことである。
彼らは、まるで鯉のえさを上げるように、ただ群がるのを面白がって近くに撒く。
10人くらいずつやってきて、撒き終ると次の投げ組と交代する。

始まる前、小さな子供を肩車するお父さんや抱っこするお母さんが結構いて、これでは豆を取れないし、何より危険だと思っていたが、ほとんど豆は飛んでこず、いらぬ心配だった。
15:49
全然こちらまで飛んでこないので、写真を撮りに現場を離れた。
投げられるのは紙の袋に入った豆と、お菓子、それからビニールのカラーボール。
しかしみなキャッチボールをやったことがないのか、投げるのへたくそ。
遠くに飛ばそうとオーバーハンドで投げると、庇にあてたり、真下になげたり。
ひとり張り切って投げるオバサンがいて、カラーボールを思い切り強く投げていたが、コントロールが悪く、水平に飛ぶので近くの人は怖い。

取った人も、その後なかなか取れないから、帰っていき、その隙間に入って、だんだん前に進出。とうとう前から2、3列目まで行った。さあ、取れるぞ、と思ったら、今度は頭の上を通過していった。
16:03
豆がまかれたのは、実質20分くらいか。

結局、1時間近くいて、取れたのは豆ではなく写真だけだった。

16:20に境内を出て、道灌山通りに下りると、開成の前ではまだ大勢の小学生や親がいた。ついでに入ってみたら、合格者の最後の受験番号が1220番くらいだった。定員300人だから倍率4倍くらいか。
どこかの塾が合格者を集めて記念写真を撮っていた。

一つも取れないのは悔しいので、駒込天祖神社に行くことにした。
3回のうち最後は17時からだ。
家に寄らず、そのまま歩いた。
豆まきは天祖神社でなく、ちかくの富士神社で行われる。
ここは駒込駅から家まで帰るときに境内を突っ切るから、何度も来ている。
16:43
富士山信仰の名残である。
もとは本郷にあったという。
前田家が一帯を上屋敷として拝領したので、ここに移ってきた。
ところで、かつて竜岡門を出たあたりは本富士町といい、いまも元富士警察署がある。
学生のころ、地名などに興味がなかったから、なぜ元富士というか考えても見なかった。
(まして1977年にはこの富士神社のすぐ近くのアパートにいたというのに)

ところで、富士浅間神社がここに移ってくる前、すでに、この場所には大きな塚があったという。前方後円墳だったらしいが、何もない平地に富士山をつくるより、ずっと簡単だろうから、納得する話だ。
16:43
まだ17時までには間があるとはいえ、諏訪神社と比べると、何という人の少なさ。
これなら大量に取れそう。
集まる人も皆大きな袋を持ってきている。
私もリックから常備しているレジ袋を出して、そっとポケットに忍ばせた。
16:47
撒く人、年男年女?うんと寄付をした人?が宮司に率いられ、出てきた。

豆まきの前に、山の上の本殿でお祓いを受ける。


16:49
私も右の女坂から上がってみた。

本殿の裏にはぐるっと火口をまわるように、遊歩道がある。
・・・・
下に降りると、時間正確に人が集まってきて、競争率が高くなった。
白髪混じる老人が子供と争うわけにはいかない、と見栄が邪魔して、前のほうに行くことが躊躇され、戦意が高まらない。
山のほうを見ると、木立の間から、宮司の指導で撒く練習をしている人々が見えた。

結局、最後方にいたまま、豆まきが始まった。
今度は真剣だから写真を撮る暇がない。
しかしキャッチするのは意外と難しい。
大人げなく大きくジャンプしたり、横に動いて掴むわけにはいかない。
全然取れず、子供の戦術みたいに、人々の足の間にかがみ、辛うじて落ちたものを拾っただけだった。

17:08
あっという間に、終わった。
結局ゲットしたのは泥がついた以下の5つ。
17:12

17:18
家に帰る途中、駒込天祖神社(神明社)を突っ切った。

ちょうど本殿の扉を閉めているところで、富士神社との関係を聞くと、同じ社域だし、こちらの宮司が富士神社の宮司を兼ねているとのこと。
富士神社には投げやすい二階建て社務所があるのでを会場にしたのだろう。

今の家は、昔、駒込動坂町だったから天祖神社の社域になる。
秋祭りには神輿が家の前を通るし、下の写真のように、お札と菓子とお神酒が来る。

ちなみに我が家の二軒隣は千駄木林町になり根津神社、坂を降りて谷中よみせ通りを越えれば、谷中日暮里の総鎮守・諏方神社の社域になる。
不忍通りや道灌山通りが境になっていないところが面白い。

はっ!!!
こんなの書いていて、自分の家の豆まきを忘れた。
せっかく夕方から用意して、10時ころまで覚えていたのに、妻が風呂に入って私が書いているうちに二人とも忘れてしまった。
一人で撒く気はしない。
3年に一回くらい忘れる。そういう年は翌日、小さな声でそっとまく。

我が家は長野方式で殻つき落花生をまく。
子供のころは、庭や土蔵、鳥小屋、牛小屋にも撒いた。
雪の上に撒かれた落花生を、翌朝拾う。
湿気ていておいしくなかったが、まぶしく晴れた長野の冬は美しかった。

節分は春の始まりの前日。つまり冬の終わり。

立春はある瞬間(春分点まで45度)を示すが、節分は1日という期間を示す。1日くらい遅れても季節の変わり目に変わりはない。
あと46日でお彼岸中日か。


2018年2月1日木曜日

岩船の母、柳沢の叔母

書かないでおこうと思ったが、忘れっぽい自分の記録のために。
・・・

1月29日、朝早く、いとこの葬儀に長野へ行った。
この時間の新幹線は8年前、がんの父親のところへ通っていたころ以来。
新幹線が北陸まで伸びたからか、昔より自由席は混んでいた。

雪の残る飯山線立ヶ花駅に、会社を休んだ弟が迎えにきてくれた。
今から柳沢へ直行すれば、焼き場へ行く前のいとこに会えるかもしれない。
しかし口には出さなかった。
どうせ間に合わないかもしれないし、雪道を無理に運転してもらうのも悪いし。
もう死んだのだから会っても仕方がない、と自分に言い聞かせ・・・

実家に着くと弟の嫁さんはパートにでかけ、11月に脳梗塞になった岩船の母は、ひとり炬燵にあたってテレビを見ていた。玄関から部屋、トイレまでの廊下には新たに手すりが付いていた。

長野駅でドーナツを買って持って行ったのだが、弟がインスタントラーメンを作ってくれた。ちゃんとネギと白菜、ソーセージが入っている。旨い麺だなと聞いたら丸ちゃん正麺だという。

告別式は13時から始まるが、それに合わせて行ったらバタバタしていて叔母さんたちと話ができないから12時半ごろに行こう、と弟が提案。いい考え。

車で10分の会場に行くとまだほとんど人はいなかった。
弟が受付の人に死因などを聞いていると、たかえ叔母(母の弟の嫁さん)が来た。焼き場に行かなかったのか、行っても自家用車で早めに戻って来たのか、よく分からないが、私を見るなり「おー、よくきたなー」と駆け寄ってきた。

「おまえたち、子供のころ双子みたいに、ずっと一緒だったものなぁ」
と言われると涙が一気に出てきた。
目をそらしてごまかしながら手で拭ってもどんどん出てくる中、たかえ叔母は見ぬふりをして話しを続けてくれた。

1月2日、いとこは例年のごとく、家族と、自分の妹一家、弟一家を引き連れ、斑尾の旅館で新年会をしたらしい。翌3日、帰って雪かきをしているうちに具合が悪くなり、寝込んだ。夕方になってもよくならず彼の弟が病院に連れて行って、そのままICU、意識が戻らなかった。奥さんは、面会もできないからと知人には知らせず、すぐ近くの母の実家でさえ、死ぬまで知らなかったという。

そうこうするうちに、焼き場からマイクロバスが着いた。
お骨、位牌、遺影などを持つ息子、娘、奥さん、彼の弟が式場に入っていった。そのあと娘(彼の妹)に支えられた叔母がよたよたと歩いてきた。叔母は目と足が不自由だ。
「力ちゃんが来ているよ」と教えられた叔母と私は同時に近づき、
「おー、おー、遠いとこ、よく来てくれたなぁ」
と彼女は私に抱えられ支えてもらいながら、強い力で私の手を握った。

私は言葉を発する前に、顔がゆがんでしまった。
悲しいとか、そういう感情によるのでなく、何かスイッチが入って顔中の筋肉が収縮し、口から上の、顔の中のすべての水が絞り出されて、たまたま目が出口だった感じ。
あの会場で一番ひどい、醜い顔をしていたのではないか。
顔の筋肉と涙が自分でコントロールできなくなっていた。

叔母は私の手を放そうとせず、ますます力を入れた。
少したって私も落ち着くと、叔母を座らせたほうがいいと思い、係りの人に案内され、誰もいない式場の一番前の席に2人して座った。
正面には彼がいた。このために撮ったような立派な写真。
私は「立ち悔やみ」のつもりだから式には参列せずに帰る予定だったが、叔母の手は、しっかり私から離れなかった。

実の娘でも息子でもなく、私だったのは、叔母にとって彼の代わりに見えたのではないか。

親と子。
薄情な私でも、わが子の幼いときのことはよく覚えている。
抱きついてきたときの感触。
彼らの腹に顔を埋めゴリゴリやってくすぐったときの匂い。
すべらかで柔らかい肌に可愛らしい笑顔。
30年も経ってこの年齢になっても覚えているということは死ぬまで忘れないということだ。
男親でさえ覚えているのだ。
ずっと一緒にいる母親の記憶は一生鮮やかだろう。

叔母は彼の生まれた直後からの記憶をしっかり持っている。
その一部に双子のようだった私がいるのだろう。

式が始まるので、彼の妹と交代し、私は弟と一緒に立ち悔みの列に並んだ。
焼香でもう一度叔母を見て、退出した。
私と彼を結ぶものは、彼の奥さんや子供たちではなく叔母だということがよく分かった。

式のあとは宴席が始まる。
その前に叔母ともう一度話したかったけど、弟に促され、会場を出た。

会場の並びに、物産品直売所がある。
弟に、お土産にきのこでも買っていくか?と聞かれ立ち寄った。
野菜、果物、加工食品が中心だが、素人が作った植木などのほかに、農家の主婦が作った手作りパンや手芸品まで並んでいる。
さっきまで涙でぐしゃぐしゃだったのに、すぐ立ち直ってしまった。
彼の家族や叔母たちと比べ、私たちは何と薄情で、幸せなんだろう。

岩船に戻ると、母は一人で相変わらずテレビを見ていた。
自分の妹の息子の葬儀の様子を話したが、とくに関心があるようでもなかった。

・・・・

母は秋に脳梗塞になった。
11月18日、妻と息子の運転で松代見物の後、実家に帰省すると、庭にいた弟が母に聞こえぬよう小さな声で「おふくろ、今朝からちょっとおかしいんだよ」という。
会うと表情があまりなく、しゃべらない。話しかけると返事をするのだが、自分からはしゃべらず、こちらの言うことを繰り返すような返答。
そのまま外食に出た。
帰宅してお茶を飲みながら母の様子をうかがう。
「昨日は普通だったのに突然、」ということから脳梗塞が疑われた。
10年以上前、軽い脳梗塞を起こしたことがあり、飲んでいる薬をチェックしようと
「薬はどこ?」と聞くと、血圧ノートを指す。何回も同じことを聞く私に、彼女は異常を感じたのか、戸惑いながらも何回も血圧ノートを指した。「薬」という単語が、冊子を表すものに変わったというより、「薬」がなんだか分からなくなり、なんとなく関係ありそうな冊子を示したのではないか。

血圧ノートを見ると、昨日の夜から文字になっていない。何とか数字を書こうとしたのか、同じ場所に何回も意味不明な文字を重ねている。
しかし悪化していく様子は見られず、命に別状はなさそう。昼も一人前を食べたし。土曜日で病院が休みであったことなどから、急いで連れて行くべきだ、とは誰も主張しなかった。我々がすぐ帰ることで忙しいということもあった。
月曜、弟の嫁さんが病院に連れて行ったらやはり脳梗塞だったという。もちろん入院。
左脳に大きな梗塞巣ができた。私が強く主張して急患で連れていけば、もっと軽かったかもしれない。

・・・・・・
入院は2週間ほど。正月が過ぎ、だいぶ元気になってきた。
電話でも普通に話せるようになったが言葉はなかなか出てこない。「あれ」「それ」ということが多い。リモコンとエアコンの単語が区別できない。炬燵のスイッチの切り方が分からなくなってしまった。弟は毎晩寝る前に点検する。

梗塞前との一番の違いは意欲がなくなったことだ。
「忘れっぽい、覚えていられない、というならメモするべきだ。」
「テレビを見て後で話そうと思ったら紙に書けばいい」といっても、
「もう、だめさ~」といって炬燵から手を出そうとしない。
全く動かず、チャネルさえ変えない。
絵や工作が好きで農作業の合間に作ったものを、見たくもない私にいつも見せていたほど、まめだったのに。

彼女も私が生まれたときの記憶は鮮やかにもっていたと思う。
帰省するたび、何を食べたいか、いつも聞かれた。帰るときはお菓子を持たせ、また帰っても私一人だと知ると、おにぎりを握ってくれた。もちろん具は何が好きか、しつこく聞いた。彼女にとって私はいつまでも子供だった。

しかし今回、私に何かを持たせることもしなかった。食べろ食べろと、漬物を切ってすすめることもなくなってしまった。

・・・・・・

叔母は61年前の我が子の記憶を鮮やかに覚えている。
しかし私の母はどうだろう。
私が今死んだとき、叔母のように悲しむだろうか。

2018年1月28日日曜日

3日違いに生まれた従兄のこと

1956年7月22日にいとこの彼は生まれた。
母の妹の長男。
その三日後に私が母の長男として生まれ、柳沢の祖父母はこの夏、健康な二人の初孫に恵まれた。

叔母の嫁ぎ先は実家と同じ柳沢だったから、母の実家に行けば、必ず近くの彼の家に行ったり彼が祖父母の家に来たりして、いつも布団を二つ並べて寝た。
まるで双子のようだったらしい。

平坦で畑と田んぼしかなかった岩船と比べ、柳沢は高社山の西側斜面にあり、大きな木々と坂道と石垣、池の多い部落で、すぐ近くに夜間瀬川と千曲川の合流点があり、子供にとって天国のような場所だった。

小学生時代は休みがあると長期滞在した。
母の実家も、彼の家も叔父叔母は優しく、2人して小遣いをもらっては、狭くて急な石段を、苔むした石段に両手をつきながら登って右にあった駄菓子屋?よろずや?でいろんなものを買った。チューブに入った練チョコとか、ベビーラーメン、ストローに入った薄荷、(あのピンクの甘い)でんぷ、味付けイカ、風船ガム、虫取り網とか・・・パラソルチョコは、取っ手のところに円盤がついていて吹くと回る。たとえば表に鳥、裏に鳥かごが描いてあって、吹くと鳥が中に入るものとか。
ラーメンにチューブのチョコを入れたとき、彼に、もったいないと怒られた。

夜間瀬川には木の橋がかかっていて、二人でぶらさがって懸垂の練習をした。
たまに通る自動車は、横板をガタガタ音をさせながら過ぎ、板の端に置いていた釣り道具が振動ではねて川に落ちてしまった。河原では珍しい石を探し、ところどころにある水たまりで小魚をつかまえた。塩辛トンボとアゲハが飛び、巨大な蛇が日向ぼっこしていた。

近くを長野電鉄木島線が通っていて(2002年廃線)、忍者のようにレールに耳をつけて電車の音を聞こうとした。

柳沢のお宮は岩船より大きく、大きなケヤキが鬱蒼と何本もあった。
お宮からの坂道は下に向かって走ると止まらなくて、二人で止まれないほど速く走る競争をした。

祖父母の家は北の部屋の裏にも池があって、涼しい風が入った。ユキノシタが生え、モミジの葉が浮かんでいた。昼寝のとき蝉がうるさかった。
かつて蚕を飼っていた二階は物置になっていて、母親たちが書いた絵や作文を二人で見た。

冬は寒かった。
信州中野の北から飯山、信越国境にかけては、一里一尺と言い、4キロ北へ行くと雪が30センチ増える。岩船と柳沢は6.7㎞離れている。
彼の家に泊まった朝、出された生玉子を割ったら凍っていた。
スキーもよくした。
急斜面も緩斜面もいたるところにあり、二人して滑っては登り、登ってはすべる。

私の弟は4歳下、彼の弟は10歳も下。
彼と私は、明らかに実の兄弟よりも近かった。

彼は定期購読してもらっていたのか家にマンガが一杯あって、少年画報だったか冒険王だったか少年マガジンだったか。
ゼロ戦のテレビアニメを二人で見たな。今調べたら、『大空のちかい』『紫電改のタカ』『ゼロ戦レッド』『あかつき戦闘隊』などはアニメ化されていないので、『0戦はやと』である。砂浜で長靴に水が入るのを見て、敵艦の煙突に爆弾を落とす作戦を考えた場面が、彼と共に思い出される。主題歌は記憶の彼方から出そうで出てこない。

茶の間でよく彼と相撲を取った。力いっぱい投げて、投げられた。
「ツトムは岩船でもこんなことをするのか」とあきれた祖母に言われた。
岩船の祖父母は怖くて、とてもそんなことはできなかった。彼が私の家に泊まりに来ることはなかった。

中学になると、お互い自分の学校の友達と遊ぶようになり、長期滞在はなくなった。
彼は勉強だけでなく、スキーも得意だった。牧の入りスキー場で行われた中野市の大会で優勝したのではなかったか。一人で志賀高原に行くこともあり、柳沢から電車で中野駅まできてバスに乗り換えるとき、叔母から私の母宛に預かった手作り「やしょうま」を私が駅で受け取ったこともあった。彼が板や靴を新しいものに買い替えると、お下がりをもらった。小学校の時は大して差はなかったと思うのだが、スポーツはかなわなくなった。

当時、北信の普通科高校は、長野、須坂、飯山にあった。
彼は成績は良かったのだが、中学サッカー部の仲間と一緒にいく、と飯山北高校に進んだ。
冬の雪に苦しむ柳沢の人々は、就職も進学も
「上(カミ)のほうに行かなくちゃだめだ」
という。それに逆らって下(シモ)の飯山に行った彼は、よほど中学、サッカー部が楽しかったのだろう。
もう一つの理由は、高校になって久しぶりに彼の家で並んで寝たときに分かった。
アルバムには、ガールフレンドと一緒の写真が一杯あった。卒業式のあと中学の校門や並木のところで学生服とセーラー服の二人は、ポスターのように遠くを指さすポーズなんかとっちゃって。彼女は飯山北ではなくて女子高のほうの飯山南高校だったかもしれない。

高校3年になると二人の関心(心配)ごとは、異性の問題(私は誰もいないことが問題)と大学入試だった。
長野高校と違い、飯山北は旧制中学の後身とはいえ、進学実績はいまひとつ。
夏休みに泊まりに行くと(母の実家に行くのだが、結局彼の家に行ってしまう)、彼は英語のノートを見せてくれた。飯山北から信州大学に進んだサッカー部の先輩に心酔していた彼は、見開き左ページに旺文社「英文標準問題精講」の全文をきれいに書き、色鉛筆で線を引いて、右ページに訳や注意事項を書いていく。
私はおなじ「英標」を使っていたが、横着で、先に訳文を読んでから英文を見るだけ。ノートなんて書かない。きわめて不真面目な、怠け者の勉強方法だったが、私のほうがすぐれていると思った。
彼のやり方ではなかなか進まないから飽きてしまうだろう。つまらない受験勉強はいかに飽きないようにするかが重要だ、と彼と議論した。

私は現役で合格し、彼は浪人が決まった。
二人とも東京に出るまえの3月、また彼の家に泊まりに行った。
このときは飯山北高の友人たちも来て、一緒に夜通し話しこんだ。彼らは一人異分子の私でも気持ち良く受け入れてくれた。青春とか親友とか、彼の周囲にそういったものを感じた夜だった。彼は中学に続いて幸せな高校時代を過ごしたことが明らかだった。

この滞在中、私は彼の家から、中野高校を卒業する畑さんに電話をかけた。彼女は秋の文化祭で知り合い、やはり東京に進学することになっていた。家が洋品店だったから電話番号はすぐわかり、東京での住所を聞いた。
その夜、柳沢で火事があり、二人していったらまだ消防団が来ておらず、初めてホースをもった。水浸しの斜面で滑ってころび、合格祝いに中野で一番オシャレな春日(カスガ)洋品店で買ってもらった服が泥だらけになった。

翌月、私は駒場寮に入り、いっぽう早稲田にあこがれる彼は早稲田予備校に決め、京王線代田橋のアパートに入った。二人とも落ち着いた5月ころ、彼のアパートを訪ねた。改札を出るといきなりごちゃごちゃした路地。そこを抜け、甲州街道を渡って、車の入らないような細い道の住宅街を行くと、アパートがあった。
部屋にはセミヌードのポスター。
ぎざぎざのあるスプーンがあった。グレープフルーツを食べるためのものというが、未開封でまだ使われていなかった。リンゴ・桃・ブドウ、果樹園農家に育った私も彼も、グレープフルーツを食べたことがなかった。
その日の夕食は近くの肉屋でとんかつを買ってきてご飯を炊いた。
1975年である。

久しぶりに二人並んだ寝物語で驚いたのは、私が高校通学時に、電車でかわいいなぁと憧れていた須坂東高校の壇原さんが、彼と付き合っていたというのだ。湯田中から南へ須坂まで通う彼女と、柳沢から北へ飯山まで通う彼にまったく接点はない。いったどうやって仲良くなったのだろう? 聞いたはずだが、今思い出せない。

彼が駒場寮に来た時もあった。
冬だった。なぜか私の友人と一緒に麻雀がはじまり、すでに予備校仲間と始めて面白くなっていた彼は、受験直前というのに徹マンした。

1976年、彼は再び早稲田に落ち、明治に行った。
田畑はあったが、父上が土建会社をおこしていたこともあり、建築科だった。
あるとき電話がかかってきて勉強教えてくれ、という。代田橋のアパートに行くと線形代数だった。定期試験の前に大学で初めて出てきた行列式の意味や使い方が分からないという。

私も1年前に苦しんだ。大学の先生は「分からないほうが悪い」という教え方だったから、独学して適当なところで自分を納得させていた。
そのとき苦労して私なりに理解していたことを教えたら、非常に感謝された。

翌年彼は生田の大学キャンパス近くに引っ越した。
狛江のアパートにも一度行ったが、代田橋のときと違ってまったく部屋の記憶がない。
お互い、長野を離れ、別々の世界を進み始めていた。
彼は卒業後、長谷川工務店に就職、社会勉強した後、柳沢に帰り、父親の会社に入った。

その後、私が帰省したとき、柳沢で泊まったのは1回くらいだろうか。
車が運転できるようになって、わずか10分くらいだから泊まる必然性がない。
大人になるということはつまらないものだ。

そのうち二人とも家庭を持って、家族中心に動くようになってからは数十年も経つのに2,3度しか会っていない。彼からは毎年家族旅行の年賀状が来た。私は書かないからメールで近況を送るのだが、田舎の人らしくメールに返事が来ることはなかった。

父上の後を継いだ高社建設はオリンピックのあと景気が悪くなった。それでも、二人の子供を東京の大学に出した。都会からお嫁に来た奥さんも苦労しただろう。叔母が畑をやっていたから、慣れない野良仕事も手伝っていたようだ。

一昨年暮れ、つまり13カ月前に久しぶりに会った。
柳沢は岩船よりはるかに多い雪の中だった。
彼は元気だった。

どうして死んだのだろう。

第一報は、1月26日金曜の夜。岩船の母から妻が受けた。
死因も、通夜、告別式の日程も、詳しい様子は分からず、「その日は雪下ろしをしていたのに」とだけ聞いた。
翌土曜、岩船に電話しても、何も情報入らず。
脳梗塞で少しぼけた母からの誤報ではないか、とちらりと思う。

その間、あまり悲しい感情は湧いてこず、私は仕事をし、日曜、ダンスの競技会に出た。
終わったらすぐ行けるよう礼服を持って行くことも考えたが、持たずに行ったのは薄情な人間なのだろうか。
競技会場にいるとき、岩船の弟から告別式は月曜13時という連絡がきた。
やっぱり本当だったか。

急いで家に帰った。
しかし冷静に考えれば、今晩行くのは弟夫婦の迷惑になる。
記録的大寒波の中、食事や布団の用意、母が不自由になってから弟の嫁さんに負担はかけられない。
明日の朝一番の新幹線に乗れば、岩船に10時前につくだろう。焼き場へ行く前の顔を見ることはあきらめた。

迷った末、明日行くと決まったらすっかり落ち着いて、妻に彼の話をしてあげた。
そうしたら突然涙がわっとあふれそうになって、慌ててごまかして、話すのを止めた。

あす、彼の母や、柳沢の叔父叔母たちと会う。
私が知らないこと、忘れている彼とのエピソード、一緒だった昔のころをもっと話してくれるだろう。
でもそうしたら書けなくなるかもしれないから今書いた。





第77 長井長義、静岡での講演録

薬物工業学に就いて:理学博士長井長義君述
薬学雑誌1897年度10月号別冊

時代劇を観ていて,ホントはどんな言葉をしゃべっていたのかな,なんて思うことがある.明治の頃はどうだったか? 
幸いなことに薬誌には講演録がいくつか載っている.
これが本当に話された言葉かどうか?
講演録は、繰り返しが多かったり,余計な接続語なども書いてあるから,比較的忠実に話し言葉を文章にしてあると思われる.テープレコーダーのない時代は有能な速記者が多くいた。言文不一致の時代の話し言葉をある程度推測できる.

紹介するのは,長井会頭が明治30年8月,静岡で行ったもの.
薬物展覧会出席のため,平山常議員,西崎,永井,大島各学士とともに熊本に行く途中立ち寄った.当時は,長井会頭らが出張すると聞けば,各地の関係者が歓迎の宴席を設け,講演を依頼した.

「満堂の諸君,不肖長義はじめ今回,日本薬学会を代表して一同九州に参る途次,昨日ご当地に到着いたしまして以来,ご当地の学芸に関係ある文武の貴顕紳士医師薬業家その他有志諸君より望外の御待遇に与り,且つ今日は我が薬学の発達を計るがため,公会演説を設けられましたるに付き,この大暑の砌(みぎり),またご多用にも拘わらず,如此(かくのごと)き御大勢ご出席下さりまして,我が薬学の発達にご賛同下されたるご好意に対し,失礼でございますが此の席より御礼申し上げます」.

こう始まった講演は,日清戦争の大勝利を引用し,維新以後30年で日本が東洋の強国になったのは,西洋諸国の文物を輸入したことによって成し遂げたからだと説く.
しかし,小銃や軍艦,大砲を買うために,我が同胞の農,商,工で儲けた金を外国に出さねばならなかったと彼は述べた.

「旧きを廃するとともに新規なことを輸入するには,それに連帯して輸入するものが年々多くなってくる(略).
そこで何を日本で輸出するかと云ふのに,そのうち金額の主座を占めておりますものは、申すまでもなく,当県で製せらるる処のもの,すなわち茶または絹,これが主座を占めまして (略),私は静岡を通過するごとに茶業の発達を喜ぶのです」.

「薬業家も御当県下の茶業者諸君の如く,薬草を培養し,あるいは薬品を製造して新国産を興さねばならぬ.ところが日本はドウ云ふ訳でございましたか,大学薬学科の内には薬品を工業的に製造する方法を教授する道がございませぬ.大学の内には工業化学の部門がございまして,これには化学に関するところの工芸を教えております.それでもって薬品製造のことを教えておることと思っておりましたが,これは丸で別なのである」.

意外と現代語に近い.
博士はこのとき会頭に就任して10年目,52歳であった.肖像画を思い浮かべれば,肉声が聞こえてくるようである.

北海道の安い魚油魚臘を輸出して,代わりに高価なろうそくを輸入している現状を嘆き,今後は天産物に学理を応用し人工を加えたものを輸出しなければならないと話を継ぐ.
明治28年の医薬品輸入高は460万円だった.

「この考えを薬物の工業にも応用されましたならば,現に460万円のうちの大部分は日本に残ることになり,後にはまたわが国から外国に輸出するようになりますれば,彼方の金を此方に取ることができる訳合いになるのでございます.」
と,薬物工業学なるものが国家の利益になる学問であると訴える.

当時,大学の薬学は、
「ただ医薬に使ひまする処の薬物の良否を鑑別し,あるいは調剤する技術あるいは飲食物の分析を教ふると云ふことのみに」留まっており,学生少なく,就職先もあまりなかったが,
「繰り返して申せば,薬学も工業化学と同様に,直接営利的の効力のある学科でございますから,子弟に学問を修めさせるに当たり,その方へ御奨励になっても決してご心配ないことでございまする」.

1897年は19世紀末,エールリヒのサルバルサンやバイエル社のサルファ剤が登場する前である.つまり,医薬品とは新規有機化合物ではなく,海草からとるヨード剤など無機化合物,コールタールからとる石炭酸,あるいはキニーネなど植物抽出物が多かった.
この種の医薬品の国産化はまもなく可能となり,長井博士の期待通りにはなった.

しかし第二次大戦後から,世界はサルファ剤など新規有機化合物の医薬品を作り始める.
日本は再び引き離されたが,皮肉なことに,日本の薬学における有機合成化学は大発展した.特許は物質でなく製法であったから外国医薬品の新合成法を探すためだ.

そして今日では,国産の優れた医薬品も増えてきた.
今長井博士が存命なら,どのような講演をされるだろう.
お褒めになるだろうか,ご苦言を呈されるだろうか.

2018年1月27日土曜日

大寒の、雪の下から巨大根

大寒は1月22日。
二十四節気の一つだから、1月下旬という期間ではなく、冬至と同じように瞬間(太陽黄経が300度)をいう。
その大寒を過ぎたころが一番寒いのだが、本当にそうなった(今後もっと寒くなるかもしれないけど)。東京都心の最高、最低気温は

22 大雪 5.3  -0.5
23 晴れ 10.0  -0.7
24 晴れ 7.3  -1.8
25 晴れ 4.0  -4.0
26 晴れ 5.1  -3.1
27 晴れ 7.3  -1.8

25日のマイナス4.0度は、48年ぶりという。(この日府中はマイナス8.4度だった)

ちなみに観測地点は、平成26年12月、大手町から北の丸公園へ移転した。移転前に同時測定して気温に有意差があったため過去データを補正するという。(最低気温は北の丸公園のほうが年平均で 1.4度低いらしい)
千駄木は山手線内側だがビルはあまりないので、北の丸でとるデータに近いと思う。

参考までにさいたま市のデータ。熊谷ではなく浦和である。
22  4.3 -0.7
23  5.8 -5.9
24  5.8 -8.6
25  2.5 -6.3
26  3.2 -9.8
27  6.0  -4.3

随分違うものだ。
確かに2013年、指扇から千駄木に来たとき、朝があったかいと思ったもの。

しかし本当に寒い。
さすがに水道は凍っていなかったが、バケツの氷は日中に融けきらず、日に日に厚みを増す。
雪も融けない。
そんな朝、大根を取った。
葉っぱを除いて 1210 g
ようやく八百屋さんなみのものが取れた。
昨年(2017)は900g、2016年は800gが最大だったから、千駄木菜園を始めて最高の記録。
しかしこれは特別で、他はもっと小さい。今年が豊作というわけではない。


野沢菜は日当たりが悪く、大きくならなかったが、ここは雪が早く融けた。
葉っぱが凍みた感じ。

白菜は大丈夫か?
結球しているものさえ凍みないように先端をしばるのに、我が家の白菜は開いたままで雪に埋まった。何日もこのままで葉の細胞は壊死しているのではなかろうか?
もし全滅していたら、ヒョウにあった大豆以来である。

2018年1月25日木曜日

ニューシャトルと大雪、伊奈町の記憶

ニューシャトルの高架に電車は見えない(1/23)

1月22日の大雪の後遺症も解消しつつある中、
さいたま大宮から出るニューシャトルだけは、混乱が続いた。
22日当日は、首都圏がすべてマヒしたから夕方の大混乱は仕方ないとして、
23日は、すっかりいい天気のもと、午前中停電で全面運休、午後は復旧するも、本数減らして徐行、夕方大宮駅は入場規制。
24日は、朝、まだ入場規制で大宮駅は大混雑。終日ダイヤ乱れる。
25日は、入場規制を避けるべく早めに出ると、7:30ころ通常運転。しかしその後凍結の影響で遅延、解消は10:10。
1月25日、志久駅19:39
ダイヤは正常になり、すなわち38分が行ったばかり。
この写真を撮るために一本見送った。

さて、23日以来、Yahoo路線情報のつぶやきにはニューシャトルに関して多くの人が情報、感想を寄せていたが、「天候不順に強い最強路線がつぶれた」という類のものが多かった。

確かにニューシャトルは今まで運休がほとんどなかったが、それは
川越線、武蔵野線などで見られる、線路の冠水や踏切事故がなく、荒川を渡らないため強風徐行もなく、宇都宮、高崎線などによくある湘南との乗り入れによる遅延の連鎖がなかったからである。

しかしこのニューシャトルこそ、雪に最も弱い路線なのだ。
今つぶやく人は若い人が多かったり、新しく越してきた人が多いから知らないだろうが、
ゴムタイヤで走り、丸山駅、大宮駅などでは坂になっているから、スリップしやすく、雪が積もったらもうお手上げ。融けるまで待つしかない。

私は身をもって知っている。
28年前の1990年2月2日、ニューシャトルは完全運休した。
89年に引っ越して3年目、初めての大雪でニューシャトルの弱さを知った。
当時Ca拮抗薬と神経細胞について論文を書いていて、出勤はあきらめ伊奈町図書館に出かけた。真っ青な空、屋根からぽたぽた落ちる雪解け水。
結局終日、週刊誌や文芸春秋、今はないマルコポーロなどの雑誌を読んだりして仕事はしなかったが。

当時の伊奈町を知る資料を持っている。
町民に配られたパンフレット。裏が地図。
伊奈町1992

これを持っている人はあまりいないだろう。
航空写真を見れば佐藤栄学園(自動車大学校、栄北高)はなく、日本薬科大学はKDDの研修所で鉄塔が立っている。
まだ伊奈学園、県民活動センターの周りは田んぼで、ニューシャトルは1時間に2本だけ(現在は6本)。
本数が少ないのに空いていて、毎朝出勤は座って大宮まで出ていた。
混雑する高崎線や宇都宮線より地価も安く、
「北足立郡」に家を買って正解と思ったものだ。

さて、今回の大雪、ニューシャトルは頑張った。
「徐行のため遅れが出ています」と言いながら、氷でごつごつした路面で、振動でねじが緩むのではないかと心配になるほど速度を上げ(定時運行を目指した)、ときおり氷塊が跳ねて当たるのか、避けられずに乗り上げるのか、底にガツンという衝撃が来る。
JRの「異音の影響で点検します」どころでなく、床が壊れるかと思うほどである。
28年前と違って大寒波の影響で氷塊の融けるのが遅い。
数日にわたる遅延は仕方がない。

ついでに書くと、ニューシャトルは雪に加え、犬にも弱い。
大宮以外フリーパスに近い各駅の改札を犬が通過して、ひとたび走行路に降りてしまえば、周りは壁の延々続く高架。脇に逃げることもできず、電車の動きは犬次第、そろそろ付いていくしかない。
昔住んでいたころ
「ただいま犬が電車の下に潜り込んでしまい、出てこないので走行できません・・・」
という車内放送を聞いたとき、急いでいるにもかかわらず楽しかった。
ユリカモメや日暮里舎人ライナーも似たような構造だが、雪の量、野良犬の少なさでニューシャトルより心配はない。

その後1996年に指扇に引っ越したが、2013年に転職すると、17年ぶりにニューシャトルで通うことになった。かつて7年過ごし、子ども二人がここで生まれ、KDDの森でカブトムシを探し、親子田植え体験、床下浸水、102軒の中山住宅自治会長、など思い出も多い伊奈町。
引っ越した時は二度と来る用事はないと思っていたが、不思議な縁を感じる。

一本見送って寒さで震えながら待っていたら曇りガラスのようなニューシャトルが来た。
泥水が跳ねた汚れかと思ったら、水蒸気がガラス面に凝結、結晶化したものだった。
恐るべき寒波。もちろん何十年のっていて初めて見た。


2018年1月23日火曜日

大雪の翌朝 2018年1月

1月22日、月曜、本当に天気予報通り雪が降った。
雨の予報は西の天気を見れば予測がつくが、都心でも大雪になるとはっきり予報して当てるのはお見事。
激しくなり積もり始めたので早めに仕事をやめる。
高校生から深夜に帰るサラリーマンまで同時に駅に殺到したから大宮駅は人だらけ。バスが来ないのか西口バス乗り場はそごうにいくデッキの上まで列ができていた。

京浜東北線はいつもより混んでいたものの逆方向なので無事帰宅。
こたつでテレビを見る。
渋谷や新宿など入場規制、タクシー、バス乗り場に長い行列。大変。
雪が降ると部屋が寒い気がする。

翌朝23日はいい天気。
庭に出てみた。
白菜も大根もまったく見えない。
積雪20㎝位だろうか。
問題は雪かき。

7時前に玄関を出てみるとまだやられていない。
私としては雪かきなどしなくて、自然に融けるのを待てばいいと思っている。
よたよた歩いたり、滑るのも楽しいではないか。
落ち葉掃きもそうだけど、道はそういうものだと思えば、大したことはない。

しかし他の家はやったようである。
こうなると、やらざるを得ない。
放っておけば自然と融けるのに、と思いながら始める。
お隣さんは我が宅地の地主さんでもあり、また80代後半の高齢ご夫婦なので、そちらも合わせて雪かきした。

私のやったところ。写っているのは3分の一くらい。

振り向くと我が家の向こうに駒込病院に朝日が当たっている。
今年の夏以来すっかり身近になった。

家の南に回ると、向かいの方々が既に雪かきしてくださっていた。
私のやったところと比べて随分きれいなので、もう一度やり直す。

大雪は楽しいのだが、家、特に雨どいが心配である。
重い雪が積もり、さらに屋根の雪が滑って直撃すると壊れるのではないか。
2014年の大雪では、雨どいが曲がってしまった。

雪かき何とか終了。
職場に向かう。
千駄木小学校

キツネ坂、ここは怖い。

途中まで降りて振り返る。

やっと不忍通りが見えてきたが、まだ油断は禁物

不忍通りを渡り、キツネ坂を振り返る。

道灌山通り

車が少ないので、横断した。
いい天気。

大宮まで来たらまさかのニューシャトル運休。
昨日なら分かるけど、なんで今日?
聞くと停電だという。
入場規制で行列がニューシャトル改札からJR改札近くまで来て、そこで折り返し、またニューシャトル入口まで続いていた。

 高崎線で上尾まで来てバスで行こうと思ったらここでも行列。
バス停から駅のデッキの階段までつながっている。

昨日の帰宅難民と同じことを、翌朝自分が経験するとは思わなかった。
もともと本数が少ない路線、乗れるわけがない。
職場まで50分歩いた。