2022年3月7日月曜日

島薗邸、和館破却前の最後の公開

家から保健所通りを南に歩いて5分、最寄の千駄木駅あるいは図書館に行く途中、常に眺めていたおしゃれな洋館、島薗邸。

島薗家の人々がいなくなられたあとは、たまに音楽会やら茶道、華道の会が行われているようで、和服姿のご婦人が入られるのを目にしたことがある。

第1・第3土曜に公開されていたが(入館料300円)、一度も入ったことがなく、いつか見学しようと思っていた。
ところが、2年前の3月、和館部分を壊すというお知らせがネットに出た。
最後の公開が2020年4月に予定されたがコロナで中止。
ああ、もう見れないのかな、と思いながら2年間、横を毎回歩いていた。

それが公開されるという。

2022‐03‐06 


玄関入る前に庭のほうを覗く

壁にバラが這わせてある

玄関
左手に、ちょっと座れるよう小さい作り付けのベンチがあった。

竣工年:1932(昭和7)年
1941(昭和16)年 2階増築
設計:矢部又吉(増築部 古賀一郎)
敷地面積:約485 ㎡
延床面積: 242.88㎡ (1階:175.50㎡ 2階:67.38㎡)

書斎兼応接間
多数の本を見て島薗文庫を思い出した。
東大医学図書館を入ってすぐ左の部屋は、いまPCが並び情報検索の部屋になっているが、昔は島薗文庫という表札がかかり、大きな机がいくつか並ぶ自習室だった。壁一面の書籍は島薗家から寄贈されたものだった。当時、私はシマゾノと読めたかな?もちろん島薗先生が誰かは知らなかった。

島薗家は島薗順次郎(1877 - 1937)が最も有名。
脚気とビタミンの研究で知られる。1924年内科教授、33年付属病院長。

顕微鏡の横に「ヴィタミンと栄養」(緒方知三郎、栗山重信、島薗順次郎)などの論文別刷りが置いてあった。

脚気は緒方正規、森林太郎らの東大医学部、陸軍の権威者側が伝染病説を出したのに対し、在野の北里は疑問を呈し、高木兼寛は栄養説を提唱した。帝大農科大の古在らが米ぬかに予防物質ありとするも、東大医学部,陸軍は無視、伝染病説にこだわる。鈴木梅太郎教授らが1911年オリザニンに到達したあと1914年になってもまだ東大医学部は脚気菌に固執した。

しかし海外では1912年にフンクが栄養欠乏説を提唱、国内でも1917年以降ビタミン説の支持が増えはじめ,1921年には慶應の大森らが臨床試験から脚気ビタミン欠乏説を主張した。

島薗順次郎は、須藤家から和歌山藩医島薗家の養子に入った。一高、東大を経てドイツ留学から1913年帰国後、岡山医専、京都帝大にいて、1924年東大医学部教授に就任した。1919年にビタミン欠乏説を発表している。
ずっと東大にいたら伝染病説に染まり、いったん染まったらメンツもあって簡単にはビタミン欠乏説に行けなかったであろう。

緒方知三郎は洪庵の孫、東大の病理学教室で最初は伝染病説を唱えていた。
栗山重信は大正・昭和期の小児科医学者 東大教授、国立東京第一病院院長。西片に栗山という表札があり、ひょっとしたらと思っている。


順次郎氏は千駄木町(今の1丁目)に家を建てたが、結婚した長男順雄(のりお)氏、昭子夫人(医学者三宅鉱一の娘)のために昭和7年、この家を建てた。

・長男・順雄は52年医学部教授、64年医学部長、
・次男・平雄は元宮崎大学教授。
・三男・安雄は東大医学部助教授から金沢大教授、国立武蔵療養所長

谷根千61号に島薗久子さんの談話がある。彼女は安雄氏の妻で、
それによれば、昭和12年に順次郎氏がなくなってから、長男・順雄氏夫妻が親代わりとなり、二階を増築して独身だった平雄氏、安雄氏を住まわせた。
久子氏は田宮猛雄の娘、昭和20年に安雄氏と結婚してこの家に嫁いでくる。当時長兄は軍医で千葉、次兄は兵隊に行っていた。その後、島薗安雄、久子夫妻は昭和28年まで住み、金沢へ行ったが、子供たちは、子のいない長兄夫婦の世話になり、この家から大学に行ったという。
その子というのは角南蓉子氏と島薗進氏。
お二人が今この家を守っているそうだ。

安雄の長男・島薗進氏は理三に入られたが、転学し宗教学者となった。今東大医学部は文系含めた全科類からもわずかだが進学枠があり、その分、医学部以外に進学する人も少しずつ出てきたが、当時は非常に珍しかったであろう。

サンルームと居間(食堂)
この日、受け付け、案内、監視?やらで5人ほどボランチア(建物応援団?)の女性がいらした。
居間のところにそのお一人が立っておられて、山崎範子さんだった。
森まゆみ、仰木ひろみ氏とともに地域雑誌谷根千を発行し続けた3人のお一人である。
今まで2回ほどイベントでお目にかかっているが、ちゃんと話をしたことがなかった。話をしていないのだから彼女は私のことは知らない。しかし私は書いてあるものをいっぱい読んでいたのでよく知っていた。
「川口の女子高生だった時、毎週のように団子坂を上がり鷗外図書館に行かれたんですよね?」「あら、よくご存じで」といった話から、解体前の鴎外記念図書館のことを二人で懐かしがったり、最近の汐見坂の変わりようを残念がったりした。ほぼ同年代だから記憶が重なっている。
次回お会いした時、私のことを覚えていてくださるかな?
サンルームから庭越しに和館がみえる

和館


今回敷地の東半分が売却され、小さなマンションになるらしい。
(売却ではなく分筆という話もある)
いずれにせよ、和館部分が解体され、この庭もすべて破却される。
公的支援がなければ、やはり維持は不可能である。遺族が住んでもいないのに高い固定資産税を払い続けるわけにもいかない。
台東区などはわりと残しているような気もするが、文京区というのは全く文化に関心がない。
例えば利用頻度の少ない動坂の集会所などは売ってここに移転、本郷図書館にある区役所の分室などもここに移すなどして、建物を維持できなかっただろうか? 
もっとも保存の気がないのだから面倒なことは考えもしないだろう。
和室前の縁側からサンルームを望む
藤棚に見えるのはバラだった。

昔の家らしく、台所やふろなど水回りは北のほうに集められている。
台所から廊下を挟んだ居間に料理を運ぶのに、窓が作らていた。
注文設計という感じ。

階段も天井が高い
便所4か所、ふろ2つのうち、二階の便所は新しかった。

二階洋間のステンドグラスは軍艦

二階和室
人間国宝平田郷陽作の市松人形だろうか?
窓側の仏壇のようなところには大きな観音立像があった。

洋間から東を見る
遠くに小さく見える木は須藤公園だろう。
かつてはもっと木々が見えたに違いない。

南は保健所通りが見える。

まわりはすべて低層マンションになった。

東側半分がマンションになるとこの板塀もなくなる。
ふと、樹木に合わせて塀の板を切っている箇所があった。
優しいな。
我が家は塀のほうが大事でどんどん樹木を伐採している。

内藤家、須藤家、島薗家が並ぶ保健所通り
かつては岡本銀行頭取邸、松平子爵邸、中條邸などが並んでいたが、皆なくなってしまった。

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2022年3月6日日曜日

私と薬学7 薬物代謝、フラン環の開裂とアシル基転移

 (前回からの続き)

田辺製薬の薬理研究所代謝部門でホパテ誘導体を研究している、と言っても実際は、毎日血液あるいは脳サンプルからホパテを抽出して、GC-MSの試料入り口にシリンジで注入しているだけだった。暇だから抽出法の改良とか、測定値処理ルーチンのプログラミングとかしていたが、いずれにしても些細なことだった。

要するに飽きてしまった。
学生時代に実験していたのと違って給料もらっているのだから文句を言ってはいけないのだが、そこまで考えが回らない。日払いアルバイトならいくら単純作業でも全力でやるが、銀行振り込みだと給料もらっているという意識がない。有難味がないから、ただ毎日の仕事内容で判断してしまう。1年も経つと会社を辞めたいと思うようになり、いろんな人に相談した。しかし誰もが、もう少し考えろ、という。
1982秋の社内旅行 山梨県
山口由美子、遠藤洋、菅原洋一、大野木由美、大橋元明の諸氏
私が一番まとも

退職せずに他の仕事をさせてもらうことを考えた。

所属する体内動態部門は、標識体を合成して、投与し、体内分布をオートラジオグラム(ARG)や組織定量でみたり、尿に排出されるまでの時間、量をはかったり、代謝物の構造決定、定量などをする。1日GC-MSの前に座っているのでなく、周りの人がやっているこういうこともしたかった。いろんなことをすれば飽きずに会社勤めができるのではなかろうか。

1983年、ちょうど大橋研の中で杉原重孝リーダーがアメリカ留学から戻られ主任研究員となって独立することになった。
他の仕事もやりたいと希望を出すと、それが通り、2年ほどお世話になった菅原洋一リーダーのもとから杉原研に移籍した。その1年前に臼木さんが菅原グループに入られ、私のやっていた仕事はすべてマスターされていたので、特に問題はなかった。

以前から杉原さんの下にいた中野さんは、上司の留学中から学位論文の仕事をするため一人で実験されており、杉原研は安藤英広さん、長栄操さんと私の4人で出発した。
杉原さんは毎日五時半になるとラケットをもって液剤工場の卓球場に急がれた。
東北大の農芸化学で大学院まで脂質代謝を研究なされ、入社してからも脂質と薬物のリンパ管輸送を会社業務の間に、あるいは業務が終わってから実験されていた。とにかく仕事をまじめにされ、また実験しながら掃除機を率先してかけていらした。

安藤さんはわざと頭が悪いふりをしていたのか、「金がないなら知恵を出せ、知恵がないなら汗を出せ」と自分に言い聞かせているのか、動物ケージ洗いなど肉体労働を率先してやっていらした。

さて、最初の仕事はコレステロール低下薬のTA-1801だった。
東大の獣医学科を出られた1年先輩の安藤さんはARG、組織内濃度定量など動物実験を担当され、標識化合物の合成、代謝物の精製単離構造決定など化学関係は私が担当した。



ラットにC-14の放射性薬物を投与して尿を集め、酢酸エチルで抽出、TLCで展開、フィルムで感光させると黒いスポットが4つあった。それを見て杉原さんは「うーん、ちょうどいいな~」と東北弁(花巻?)で仰った。4つより多いと手間が多いし、少ないと物足りないということらしい。

4つのうち1つ(M1)はTA-1801(エステル体)が予想通り加水分解されたものだから実質は3つである。代謝物の数が杉原さんの言うような、「ちょうど良い」というどころではなかった。この3つは奇跡のようにすべて興味深い代謝物だったのである。

まずM4。
これはM1のカルボン酸がグルクロン酸抱合されたものだった。
GC-MSですぐ分かったが、これは当時結構珍しかった。
グルクロン酸抱合自体はよくある代謝物で、多くはフェノール、アルコールのOHやアミンのNHにグルクロン酸が結合する。当時、カルボン酸のOHにグルクロン酸が付くことは理論的には考えられるのだが、実際はあまりなかった。おそらく抱合体が加水分解されやすく、室温で尿を採取したり、無神経に精製したりすると分解してしまったのだろう。

もっと大きな(興味深い)問題は、TLCで分離したと思われるM4のGC-MSをとると、単一物質でなく、ピークがいくつかあり、どれも分子量が同じだったことである。TLCでの挙動も一緒であることを考えられると、これらはM4の異性体であろう。すなわち、M4のカルボン酸がグルクロン酸抱合されることでアシル基が活性化され、グルクロン酸のOHに順番に転移していったものと考えられた。これは大発見だと思ったのだが、論文を書く段階になって調べたら、前年1982年に報告例があった。

これは分子内転移だが、もし生体高分子のOH,NH,SHなどが近くにあれは、アシル基はそこに結合することになる。M4は胆汁排泄されることもわかっていた。つまり胆のうがある種は、胆のうが危ない。当時ラット、ウサギ、犬の3種類で動態を調べることが標準プロトコールであったが、ウサギは胆のうがある。そしてヒトもある。


研究者というのは自分の仕事をなるべく意味のある、立派なようにする癖があり、私も声高に言いたいところだが、公式には言わなかった。可能性の段階で懸念を言えば、大げさになり、異常に慎重な人を心配させることになる。

そもそも大企業は石橋をたたきすぎて潰してしまう傾向がある。熱意をもってプロジェクトを進めるより会議で批判するほうが簡単だからだ。会議で評論家然とする人のほうが出世する。

TA-1801の場合も実際、しっかり見ている毒性部門から報告があってから言えばよいと思った。結局この化合物は開発中止になったが、その原因が何であったか、私は知らない。

またM2,M3は、M1のフラン環が開いた化合物だった。
フラン環はベンゼンと同じように芳香環で安定と考えられていた。
どうやって開いたのだろう?
ベンゼンは酸化代謝されるとエポキサイドができて、その三角が開けば水酸化体(フェノール)ができる。その経路をフランもたどれば、自然と酸化されM2(カルボン酸)ができる。(下図左)しかしこの経路でM3(アルコール)を作るにはM2を還元せねばならない。

そこで水酸化体でなくアルデヒドを通る経路(下図右)を考えた。
これを証明するにはフラン環5位の水素が保持されるか、抜けるか証明すればよい。




TA-1801を重水素硫酸D2SO4で加熱した。もちろん溶媒のメタノールも重水素化していなくてはならないから、そこそこ金がかかった。すると奇跡的に5位のみの水素が重水素置換された。そしてこれを投与するとM3に重水素が保持されていたのである(GC-MS, NMRのC-Dカップリング)。これはM3がM2より先にできたことを示す。

ここでアルデヒドの生成は有毒かもしれない。
アシル基転移といい、アルデヒドといい、薬物代謝は解毒機構と知られていたが、逆に有毒である可能性が強く示された例である。

こうしてM4のアシル基転移と、フラン環の新しい代謝経路ということで、TA-1801の代謝で論文を2本もかけた。
第一著者として自分で書いた初めての論文だった。

論文を書くことは業務とは関係ない。しかし製薬会社の研究所というのは製造業としては珍しく、研究者が論文発表をしていくことが伝統となっているありがたい職場だった。

1983年2月 薬理研3部
(この写真で思い出した。高橋主任は退職間際に免許を取られた。この階段から荷物を入れるときに業者の車が邪魔になった。ドアが開いていたので数メートル動かそうとされたらブレーキとアクセルを間違えられ、建物に暖房スチームを送る管に激突してしまった。優しい方であったが、お元気でいられるだろうか)

(続く)次回は東大の薬理に内地留学




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2022年2月26日土曜日

私と薬学6 田辺製薬・薬理研とホパテ誘導体、GC-MS

1981年4月6日、田辺製薬入社式。
この年採用した新人は空前絶後の232人。
大学院17、大卒125、短大20、高校66、中学4。

当時は男女雇用機会均等法もなく、女子はそのまま配属され(短期の研修はあったのかな?)、大卒以上の男子は「紀北青年の家」で5日間の新入社員研修を受けた。そのあと大阪工場のとなり加島寮に滞在し、2か月近く工場実習をした。

5月末、関東に移動、大宮の独身寮に入る。
6月1日、埼玉県戸田市の東京工場に併設された薬理研究所に配属された。
1981-06-05

田辺製薬は本社が大阪、生産拠点は西日本にあったが、1937年世田谷区代田、梅ヶ丘駅近くに放射能化学研究所ができ、1941年それが東京研究所となる。
1958年埼玉県戸田橋近くに工場用地を取得、1960年に東京研究所が世田谷から移転してきた。
1964年には東京研究所を、有機化学研究所、生物研究所、発酵化学研究所に改組する。
1973年、生物研究所を廃止し、薬理研究所、RIセンター、安全性研究所(大阪)を新設した。

RIセンターは佐藤善重氏を中心に、放射性物質の生物学研究への応用としては国内最高レベルを誇った。そのため、皮肉にも、スモンキノホルム説を唱える東大白木教授らがキノホルムの脳内移行を調べたいという、敵方の実験を担当せねばならなかった。

その後、発酵化学研、RIセンター(代謝研)が廃止され、微生物研究所が新設された。
発酵研の廃止は、1975年から78年にかけてのどこかである。
廃止理由は、合成の有機研、薬効評価の薬理研が車の両輪になり、気管支拡張薬イノリン(トリメトキノール)、鎮咳薬アスベリン(チペピジン)、鎮痙薬セスデン(チメピジウム)、冠血管拡張薬ヘルベッサー(ジルチアゼム)など独創的医薬品を出したのに対し、新薬開発に貢献しなかったから、と聞いた。発酵研は奥田朝晴、鈴木真言、矢島毅彦ら、名の知られた研究者も多く、その分、基礎研究に過ぎたのだろうか。

さて、1981年私が入ったときの薬理研究所は
阿部久二前所長が専務で戸田にはいらっしゃらず、所長が清本昭夫、副所長・中島宏通氏であった。

阿部さんは昭和16年3月(この後は戦時下、繰り上げ卒業となっていく)東大薬学を出たあと海軍短期現役士官の薬剤官として戦艦日向に乗り込んだ。戦後、海軍の医官、薬剤官の親睦会である桜医会の役員としても活動された。田辺在職中は雲の上の人だったからお話しする機会もなかったが、引退されて久しい1995年、思い切って電話した。誰の紹介もなく、面識もなかったからしどろもどろに田辺の社員であること、海軍に興味を持っていることなどを受話器越しに伝えた。その結果、荻窪のご自宅にお邪魔してお話を伺うことができた。彼はのちに桜医会の会長となられたが、元医官でなく薬剤官がトップに立つとは異例のことである。

清本さんは私が入社して1年ほどで大阪の研究企画室に移られたから、ごく短期間であったが、よく若者にも声を掛けられた。堂々たる体躯で海外研究者とも渡り合い、一方で昼休みのバレーボールもどきの遊びにも加わって、カリスマ性のあるリーダーだった。月例報告会で、上司がホパテ誘導体研究の進捗が遅れているのはGC-MSの限界だと言い訳されたら、「ホパテはいま1日1億円くらい売れている。数千万円なら新しい装置を買いなさい」とその席で(予算も立てていなかったのに)ゴーサインを出されたのには驚いた。大阪では取締役となられたが応用生化研の千畑一郎氏とライバル関係だったのだろうか、苦労されたようである。力を発揮されずに途中退社されてしまった。

清本さんの後を継いだ中島さんは、阪大の助手から途中入社された学者肌の方だった。確か奥様が華岡青洲のご子孫だったとかで、青洲の使った手術道具をお持ちという話を聞いたことがある。粘菌の世界的研究者で学術雑誌の表紙を飾ったこともある。後年私が江橋・遠藤研に内地留学することになったとき挨拶に伺ったら研究計画を聞いて、「いやー、私が代わりに行きたいですねー」と羨ましがられた。

1981年の薬理研は
1部(部長 佐藤匡徳) 循環、呼吸、消化器、腎などの内臓疾患を対象
2部(竹山茂之)糖尿病、高脂血、血液、免疫・アレルギーなど生化学的疾患を対象
3部(針谷祥一)代謝など薬物の体内動態を調べる
4部(藤田哲雄?岡庭梓?)毒性、病理部門
敬称略
となっていて、私は第3部に配属された。

一般に薬理と言えば、薬効薬理だから、所内でも1部のことを薬理、2部は生化学、3部はADME、と通称で呼んでいた。
3部の主な業務は、1部2部で見つかった有望化合物の体内動態を明らかにすること。
重要な仕事であるが、受け身的な部門であることは否めない。

しかし有機研から東大江橋研、アメリカ留学を経て3部の主任研究員になられた大橋元明さんは、カルシウムとカルモジュリンに関わる新しい創薬を始めようとされていた。それはもちろんADMEの仕事ではない。部下の我々にも3部でしかできない技術(RIや分析など)を使って創薬を始めることをすすめられた。
チームリーダーの菅原さんはホパテのプロドラッグを探索されており、入社したばかりの私は彼の下で働くことになった。菅原さんも大橋さんも東北大理学部中西香爾研の出身である。

ホパテというのは商品名で、一般名はホパンテン酸hopantenic acidである。
この名前は、ビタミンの一つでもあるパントテン酸より炭素が一つ多いこと(homopantothenic acid)から来ている。スモン問題で倒産寸前までいった田辺製薬をヘルベッサーとともに救ったドル箱医薬品だった。

1978年に、軽い知恵遅れのこどもの言語障害やぼんやりを改善する薬として承認された。ところが、治療薬のなかった老人の認知症にも使われ始めると、大きな利益を生むようになった。私が入社した1981年で年商360億、1日1億円売れるという大型医薬品だった。

本来この化合物はγアミノ酪酸(GABA)の誘導体として、阪大小児科の西沢義人教授が考えた。GABAは1950年代に慶応生理学教室の林髞(はやし たかし)教授らによって哺乳類脳内で抑制性物質として働くことが示されていた。しかしGABAは神経伝達物質であるから、血中に入っても脳まではいかない。
そこで西沢は1957年、ビタミンであるパントテン酸がGABAより炭素が一つ小さいβアラニンとパント酸がアミド結合したものであることに着目し、GABAをパント酸に結合させた。すなわちGABAをパントテン酸に似た誘導体、すなわちホモパントテン酸にして、パントテン酸輸送体に乗せて脳に運ぼうとしたのである。

パントテン酸

ホパンテン酸

1964年から田辺製薬は西沢教授と共同研究を開始した。その結果、予想と異なりホパンテン酸は脳に入ってもGABAを遊離せず(プロテアーゼでアミド結合は切れず)、その脳神経系に対する作用メカニズムは全く謎となった。

とはいえ、ホパテの売り上げは伸びている。
(1983年2月には小児だけでなく成人脳卒中後遺症への適応も追加承認された)
そんな中、会社はさらに誘導体を作ろうとした。
すなわち、経口投与で血中、脳内のホパンテン酸濃度を高めようとした。

ホパンテン酸もパントテン酸も水溶性であるから、腸内の輸送体によって血中に入る。そこでプロドラッグを作りたい。すなわちホパンテン酸の2つのOHをアシル化、COOHをエステル化し、脂溶性を高め受動輸送で血中に入れることを計画した。血管内で加水分解されホパンテン酸に戻れば血中濃度が上がるだろう。ただしあまり脂溶性を高めてしまうと消化管で溶けなくなり吸収されない。

そこで様々な誘導体を合成してもらい、ラットに投与して脳内と血中のホパンテン酸濃度を定量した。測定はガスクロマトグラフィー(GC)で分離したあと質量分析計(MS)に導くGC-MSを使った。

内部標準物質としてパントテン酸を使ったが、もともとパントテン酸は血中にもあるし、GCにおける保持時間がホパンテン酸と異なり、検量線を書くと低濃度のホパンテン酸がうまく測れない。そこで重水素ラベルのホパンテン酸を合成し内部標準とした。これなら生体サンプルからMSに入るまで、全く同じ挙動を示す。
この時点で私が入社、プロジェクトに参加した。




d2ラベル体を標準物質に使う場合、マススペクトルのm/zでMとM+2のピークの高さを比較する。しかし検量線を書くと、やはり低濃度でずれてしまった。
低濃度では吸着の影響で低く出るのだと一般には考えられていた。
しかし日々の業務は単純だったから、頭が考えることを欲していて、なぜずれるか、考えてみた。






計算してみると、このずれは、ホパンテン酸の炭素に同位体、C-13が含まれ、これが2つ入ったものが内部標品のd2と重なるためであると予想した。直線だと思っているものは双曲線ではないか?
今ならパソコンで理論式をフィッティングさせることもできるだろうが、当時のGC-MSは直線に最小二乗法でフィッティングさせることしかできなかった。

そこで私は検量線を完全な直線とするため、完全に重ならないように重水素を6つ入れたホパンテン酸を内部標準物質とするべく、ラベル体の合成を試みた


その結果、d6-ホパンテン酸を標品に使うと、理論通りきれいな直線ができた。
今見ても見事である。

・誰も気が付かないところに問題点(テーマ)を探す
・仮説を立てる
・実験で証明する

私は研究者として最低限の資質はあったようだ。

・・・しかし何かが足りなかった。
まだ若かったせいもあるが、大局観というか、野心がなく、のちには指導者としての資質もなかった。

そもそも、検量線が直線にならなかったら、低濃度用と高濃度用の2本の検量線を作ればいい。高価な重水素ラベル体など必要ない。
もっと、ホパンテン酸の脳内結合たんぱく質を探索するとか、大きなテーマに向かうべきなのに、目の前の重箱をつついていた。

(続く)
次回は薬物代謝研究について


2022年2月25日金曜日

サツマイモは畑で冬越しできない~最終講演の翌朝


2021‐12‐19
霜柱という言葉が分かるような細長い氷が伸びている。
キャベツの苗が浮き上がってしまった。

この年の12月は寒かった。
この寒波でパプリカが葉の青いまま立ち枯れた。
アジサイも霜焼けだろうか、茶色になった。
2021‐12‐28 10:20
年末に来てさらに強い寒波。
北陸、北日本は記録的な大雪で交通が混乱。
東京も28日まで冬日(最低気温が氷点下)が3日続き、12月としては45年ぶりという。

ところがサツマイモが年末でも枯れなかった。
2021‐12‐28
サツマイモは南方の植物で、根(芋)でさえ屋外での越冬は無理と言われるほどだから、まだ生きているのは意外だった。
2021‐12‐28  10:17
朝氷点下になっても、日中の日差しで傷害が回復するのかもしれない。
ひょっとしたら常識は間違っていて春までもつのでは?と期待する。

しかし1月6日の積雪など、寒波は何度も襲来する。
2022‐01‐07

2022‐01‐15
さすがに葉っぱに緑の部分が少なくなってきて元気がない。
ビニールやガラス容器をかぶせて保護してみた。
2022‐01‐15
それでも結局枯れてしまった。
種芋は家の中で保管している。昨年発芽したので、今年も行けるだろう。

2022-02-16 
2月16日、モミジの切り株を掘る。
放置してシロアリが来たらいやだから。

朝9時過ぎから始めるも難航。
すこし掘ってはのこぎりで根を切り、さらに掘る。
途中であきらめかけた。
しかし鉄筋のビルを壊すとか、泳いで東京湾を渡るとか、絶対不可能というものでもなく、少しずつ掘ればいつかは掘り出せるという作業である。
何日かかってもいいと言い聞かせ続けた。

お隣さんから子供と父親の食事の声が聞こえた。
ずいぶん遅い朝食だな、と思った。
狭いところで変な格好で作業しているから腰が痛くなり、休憩、家に入ったら午後二時になっていた。作業がきついと空腹にもならない。

モミジは3年前の2019年2月15日に伐採した。
3年も経つと下のほうが腐っていて、のこぎりがなくても切れる根もある。
一時、人力では不可能と思われた株掘りも、意外とはかどる。

2022‐02‐16 15:03
日が陰り寒くなってきたころ、真下の最後の太い根が切れた。
しかし重くて取り出せない。
のこぎりで切るにも太すぎる。
暗くなってきて結局土に埋めてさらに腐るのを待つことにした。

2022‐02‐17
前日の穴掘りによる筋肉痛を感じながら庭を歩く。
ミカンは結局64個なった。味もまあまあ。
11月14日に最初の1つを食べて以来、部屋で何日保存できるか、木に生らして何日持つか、いつまでおいしく食べられるか観察していた。
ところがこの日、ふと見たら鳥が食べていた。
経日観察はあきらめて、最後の3つを収穫した。
相変わらず皮は厚かったが、うまかった。


2022‐02‐17
手前は大根3次。11月2日にまいたもの。やはり成長遅い。
大なる根になる前にトウがたってしまうかもしれない。
スナップエンドウは順調。

今年は白菜がよくない。
球を巻いたのは18個中3個だけ。
まあ、食べられることは食べられるが、開いてしまうと土が間に入るから人にあげられない。

2022‐02‐17
左はホウレンソウとレタス
右は玉ねぎを植えたが失敗

昨日、2月24日、退職に先だち学内で最終講義(特別講演)を行った。
オンラインであったから自室から配信するのだが、1時間ほど前に茅野先生が花束をもってきてくれた。田辺時代、循環から中枢に移るときは、希望して花束でなく鉢植えの花をもらった。スクリーニングセンターから退職するときは、これも希望して「城の作り方事典」など城郭の本2冊をもらった。今回は何も言わなかったら初めての花束となった。
職業人生の終わりらしくなった。
2022‐02‐25
今日は暖かい。
元気になってきたホウレンソウ(手前)を見ながら昨日の講演を反省する。
相変わらず雑談のようで、言い忘れた大事なことがいっぱいあって終わってから後悔した。原稿を作ればこういう失敗はないだろうが、面倒くさい。若い時から常に、発表したあと悔やんでいる。しかしそういう後悔もこれが最後となった。

退職まであと1か月あるのだが、最終講演が終わるとすっかり終わった気分になった。
庭も急に春になった気がする。
65歳からの出発。来月くらいには仕事を決めたいものだ。


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