密林のよう。
誰かのお屋敷だろうかと思いながら歩くと
やはり聖心女学院だった。
小、中、高がここで、大学は別に広尾の方にある。
蜀江坂
蜀という字は三国時代の蜀、四川省の成都付近と学び、それしか知らない。
実際そのようで、蜀江は、その付近を流れる川、またその地で織られた蜀江錦のことを言うらしい。この坂上のモミジが美しく、蜀江台と呼んだことから、この名前になったとか。明治11年の文部省地図にもある。
文京区の団子坂、狸坂、稲荷坂などと比べるとなんと高尚な坂名であろうか。
聖心の通用門だが、相変わらず建物が見えない。
大通りに下りると北里大学の正面。
通りは都道305号線。別名、芝新宿王子線というが、誰もこうは呼ばないだろう。
通称、白金北里通り。
なお、305号は恵比寿通りと名をかえ、恵比寿駅の東で渋谷橋を渡ると明治通りになる。
大学正門から少し入ったところから蜀江坂を振り返る。
聖心の緑がみえる。
北里柴三郎が伝染病研究所を追われてこの地に来たとき、何度か見上げただろう。
坂を見上げたら古巣の建物は見えただろうか。
千駄木転居の5か月後、地下鉄で来られて便利さを実感した。
このときは雑誌『東京人』北里研100年記念増刊号でセレンディピティについての鼎談に呼ばれた。
終了後、お忙しいJAXA川口淳一郎氏はすぐ帰られたが、私は山田陽城・北里名誉教授に北里柴三郎記念館を案内していただいた。
その2013年以来、キャンパスが大きく変わっていてびっくり。
入ってすぐ左、喫茶室や柴三郎記念館などが入っていた北里本館はなく、プラチナタワーなるビルができていた。
この機会に、北里大、北里研について整理しておく。
記念誌『Kitasato 100x50』2015から
北里研 2014年100周年
北里大 2012年50周年
東大医科研 2017年125周年
慶応医学部 2017年100周年
これらはすべて柴三郎に源がある。
上図でもう一つ注目すべきことは、北里大学は北里研究所によって作られ、逆ではないということだ。ふつう研究所は大学や企業が作るもの。
ここは反対で、いまも「学校法人・北里研究所」である。
明治以来、多くの学校が作られたが、ワクチン、血清なども製造できる研究所は北里柴三郎でないと作れなかった。柴三郎は学校など作らないだろう。
北里大が「実学」を重視するのは伝統ともいえる。
さて、北里は2014年不本意ながら白金台の伝染病研究所を退所した。
(伝研騒動)
北里柴三郎記念室でいただいたパンフレットから
そしてすぐ、蜀江坂下の養生園の空き地に北里研究所を作った。
昭和20年、都電が走っている。
手前に目黒通りと伝染病研究所、上の方に北里研究所、その北に養生園、養生園診療所、北西の隅に慶応幼稚舎の文字が見える。
養生園の土地はもともと福沢諭吉(1835- 1901)が老後に住もうとして購入したもの。内務省移管前の私立伝染病研究所の資金源として結核療養所を作り、福澤が土筆が岡・養生園と命名した。
北里が白金台を追われたとき福澤はいなかったが、芝公園、愛宕以来援助してきた森村市左衛門がひきつづき支援した。また、養生園設立当初から非常時のために資金を蓄えてきた事務長・田端重晟の才覚も大きい。
1966年
記念誌『Kitasato 100x50』2015から
1981年には地上4階、地下1階の北里本館となった。
2014年4月
2013年に来たとき、記念館を見学したあと一人になり、同じ北里本館にあるレストラン?で食事しようとしたら、同級生だった伊藤智夫がいた。彼はすぐに同僚と食事が終わると、コーヒーを頼んで私の席に来て、久しぶりの会話を楽しんだ。翻訳本を買ってくれていてうれしかった。
彼はそのご2014年に副学長、2016年学長、再任され現在2期目。世間のイメージだと、ここの学長は医学部出身者だろう。
しかし北里は研究所から出発した。1962年、北里研は大学をつくり、衛生学部を設置。1964薬学部、1966畜産学部、1970医学部と、むしろ医学部が後発の、総合大学に近い。
しかし彼が秦藤樹(佐八郎養子)からつづく歴代北里大学学長の一人になると思わなかった。
仙台一高、駒場、薬学と野球少年。
2年の冬、薬学進学予定者だけの講義があったとき、寮生だった彼は綿入れ半纏のままコーヒーカップを片手に授業に来たのを覚えている。
2013年、バス停の近くにあったコッホ神社、北里神社は東のほうに移動していた。
薬学部2号館も新しい。学生食堂。
前の建物も古くはなかったのに、金持ちな大学だ。
北里柴三郎記念室はプラチナタワー裏に移転
2013年との大きな違いは大村智記念コーナーができたこと。
北里大学が柴三郎由来の東大医科研、慶応医学部とGreater Kitasato Familyを形成すると提唱しても、医科学での成果で見劣りしてたが、2015年のノーベル賞で大きな一矢を報いることができた。
午後からの会議の行われる生命科学研究所に行くと入口に像があった。
失明した親を子が棒で連れていく。
アフリカの風土病、失明するオンコセルカ症の原因ミクロフィラリアは、大村智が発見したエバーメクチンで駆除された。この物質は静岡川名の土壌から得た放線菌が産生した。
2013年きたとき、この像はすでにあったから、大村の業績はきちんと学内では顕彰されていた。
そのうえで2015年、大村がノーベル賞を受賞したものだから、そのときは薬学部コンベンションホールが大村記念ホールと改称された。
会議まで時間があったのでプラチナタワーに行ってみた。
2017年8月竣工
外から階数を数えるのが困難なデザイン。
中に入ってエレベーター脇のパネルを見ると地上14階、地下2階。
プラチナタワーという名前であっても、一般企業にレンタルしているわけでもなく、すべて北里だった。薬学部の研究室が入っている。上層階に法人本部とあり、伊藤氏がいるかもしれないと思ったが、多忙だろうから遠慮した。
7階の西端芳彦を訪ねると運よく在室。
2つある入り口の一つは、パソコン修理、相談室みたいな看板がかけてあった。
講義や研究、管理運営する教員はいくらでもいるが、こういう先生は学生にとって一番ありがたいだろう。
廊下の窓から左に恵比寿ガーデンプレイス、右に渋谷駅がみえた。
もっと高いところから周囲を見渡したいが、会議開始の時間。
14階の代わりに1階のボタンを押した。
20190901 伝染病研究所と東大医科研
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