2016年12月26日月曜日

第2話 丹波敬三の海外出張

 平安時代の丹波康頼につながるという日本最古の医家、丹波家。
蘭方医・元礼の三男、東大薬学の第1回卒業生(1878)である丹波敬三は、1887ドイツ留学を終え、帝大教授に就任した。柴田教授の後、長井、下山、丹羽博士らとともに草創期の薬学をリードした。博士は、19049月、2度目の洋行、モンゴリヤ号にて米国に出発する。


 「新橋停車場は混雑を極め見送人は無慮六百人なり。重なる人は正親町伯爵(注、初代薬剤師会会長)、石黒男爵(軍医総監)、長井薬博、(略、以下23人書いてあった)。正午十二時発車に横浜に同乗せしは下山、田原、丹羽、(以下21人の名前)、其他選科及び模範薬局員等十数名なり」 
薬学雑誌271804頁(1904
http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN00241525/ISS0000180579_ja.html

 その後長井薬学会会頭宛に「米国通信」「欧州通信」を頻繁に送り、薬誌各号に掲載されている。阿蘭陀の医師は転地療法、温泉など薬物を使わないため、薬剤師の収入が少なく結果、女性の薬剤師が増えてきたとか、普仏戦後ドイツの脅威を感じている仏蘭西では政府が人口減少につながる避妊を禁止したため以前見られた洗浄器が薬局から姿を消したとか。


 旅順陥落、露國内乱、奉天の日軍全勝等の感想は伯林から送っている。
露国びいきだった独逸の新聞は最近変わってきたとある。


 薬誌(1905644頁の長崎縣通信によると、日本海海戦の16日前、すなわち511日独逸郵船ダルムスタット号にて出発、バルチック艦隊同様、印度洋を経て614日長崎入港、大歓迎会のあと翌日汽車にて帰京の途につく。山陽本線が1901年に開通したばかりだった。神戸に寄って東京着20日。神戸では実業に進んだ兄たちに会ったのだろうか。

 薬誌翌月号の東京通信には6月29日上野精養軒での歓迎会の様子がある。


第105話 駒込、丹波新邸での園遊会


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