東京の景色はどんどん変わる。
2010年、約30年ぶりに谷中千駄木を歩いたとき、その変わりぶりに驚いたものだが、2013年に引っ越してからも、しばしば、とくに散歩すれば必ず、いい建物が消えたことに気が付く。ああ、せめて写真を撮っておくべきだったと後悔する。
昨日(2/5)は、珍しく学校の用事もダンスもなかったので散歩に出かけた。
団子坂上の世尊院に入り、狭い路地を南に回って東の藪下道に出た。
正面の崖の下は区立八中と汐見小学校。
東側の歩道が広げられていたが、30年前は崖のそばは土で木が繁っていた気がする。永井荷風が東京で一番の道と書いた藪下道も何の変哲もない道路になってしまった。
もともと車がほとんど通らないのだから、税金をかけてこんな殺風景な工事をしなくても良かったのではないか?
正面の崖の下は区立八中と汐見小学校。
東側の歩道が広げられていたが、30年前は崖のそばは土で木が繁っていた気がする。永井荷風が東京で一番の道と書いた藪下道も何の変哲もない道路になってしまった。
もともと車がほとんど通らないのだから、税金をかけてこんな殺風景な工事をしなくても良かったのではないか?
右(南)に曲がると汐見坂の下りとなる。
下って右(西)側の石垣は残っていた。
しかし、左(東側)はブルーシートをかけて住宅の新築工事をしていた。
ここは煉瓦の塀だったのだが、なくなっていた。
下の写真は、坂を下りて振り返ったところ。
ここは煉瓦の塀だったのだが、なくなっていた。
下の写真は、坂を下りて振り返ったところ。
ちょうど2012年12月、引っ越す前、家のリフォームを見に来たとき、足を延ばして撮影した写真を下に示す。
4年前は、右がわに煉瓦塀がある。
しかし私の記憶と比べれば、最も大きな変化は左側である。
石垣、石段と大きな門がある屋敷があった。
「東京23区の坂」http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/から借用
今は辛うじてコンクリートの裾に石垣の名残が見えるが(一番上の写真)、もはや藪下通りの景色ではない。荷風も司馬遼太郎も、この家を左に見ながら、うっそうとした森と煉瓦塀の間を上った。すると(汐見小学校の上あたりで)ぱっと視界が開け、荷風の時代ならば谷中と上野の五重塔が二つ、見えただろう。
東京紅団さんhttp://www.tokyo-kurenaidan.com/shiba01.htmから許可を得て借用(2001年撮影)
「東京23区の坂」http://www.tokyosaka.sakura.ne.jp/から借用
今は辛うじてコンクリートの裾に石垣の名残が見えるが(一番上の写真)、もはや藪下通りの景色ではない。荷風も司馬遼太郎も、この家を左に見ながら、うっそうとした森と煉瓦塀の間を上った。すると(汐見小学校の上あたりで)ぱっと視界が開け、荷風の時代ならば谷中と上野の五重塔が二つ、見えただろう。
私は、1977年、毎日のようにここを通った。
上の写真よりもっと木が生い茂っていた。
上の写真よりもっと木が生い茂っていた。
学生実習が同じ班であった國枝卓氏は団子坂上に下宿していて、その先の本駒込にいた私は自転車を押して二人で歩いた。
左手に石垣、すなわち汐見坂に差し掛かると彼はいつも
「君はその手に花をかかえて 急な坂をのぼる ~」(さだまさし)
と歌いだした。
坂道に関係なくイルカの「22歳の別れ」「海岸通」もよく歌って登った。
左手に石垣、すなわち汐見坂に差し掛かると彼はいつも
「君はその手に花をかかえて 急な坂をのぼる ~」(さだまさし)
と歌いだした。
坂道に関係なくイルカの「22歳の別れ」「海岸通」もよく歌って登った。
ここに永井荷風『日和下駄』(1915)を引用しておく。
実は原文を読んだのは今回が初めてだった。
根津の低地から弥生ヶ岡と千駄木の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。
片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危ぶまれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透かして谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。されば向うは一面に遮ぎるものなき大空かぎりもなく広々として、自由に浮雲の定めなき行衛をも見極められる。左手には上野谷中に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され、
(略)
当代の碩学森鴎外先生の居邸はこの道のほとり、団子坂の頂に出ようとする処にある。二階の欄干に佇むと市中の屋根を越して遥に海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだと私は聞伝えている。(団子坂をば汐見坂という由後に人より聞きたり。)度々私はこの観潮楼に親しく先生に見ゆるの光栄に接しているが多くは夜になってからの事なので、惜しいかな一度もまだ潮を観る機会がないのである。その代り、私は忘れられぬほど音色の深い上野の鐘を聴いた事があった。”
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