2017年7月12日水曜日

吉井町:養蚕の痕跡、鏑川、馬庭念流道場


7月12日、この日は35度。
炎天下を吉井駅から西北西に1㎞歩き、用事を済ませて東へ1㎞歩くと、行くとき渡った大沢川の下流に出た。崖が深いから山奥に見えるが、すぐ両側は畑や民家である。

今は高崎市に合併したが、吉井は不思議なところで、
1.町の中心であるはずの吉井駅の前には商店も何もない。
2.完全な平坦地なのに、川底が異常に深く渓谷になっている。

1については駅の南口方面に松平(鷹司)家一万石の吉井藩陣屋があったから、昔は中心地であったはずだが、今はほんとに何もない。

2については、鏑川に河岸段丘が発達していることから、この辺りの岩は浸食されやすいのかもしれない。このあと訪ねた多胡碑は花崗岩質砂岩というが。

歩いていて目についたのは、総二階で欄干のある農家である。養蚕のなごりであろう。信州中野では昭和30年代に桑畑はりんごになり、40年代になると農家も建て替えたが、吉井あたりは最近まで養蚕をしていたのだろうか。
確かに桑の木も所々で見た。

ヒャクニチソウとかヒマワリとか、懐かしい花をそこここで見た。

トトロに出てくるような風景。

下仁田ネギとトウモロコシ

銀杏の畑を初めて見た。
まあ、売っている銀杏がすべて神社の境内で拾われたものとは思わないけど。

足ふきマットでも大量に捨てられているのかと思ったら、田植え機で残った稲の苗。
余ったまま室内で放置されていたのか、根っこがびっしり張ってスポンジのようになっている。
遠く、下仁田、富岡から水を集める鏑川。
興味深いのは、泥や石がほとんどないことである。底は岩盤で、上の写真の水のないところは長瀞のように地層が川底に見える。

化石などもありそうで、川に降りてみたかったが、午後は会議もあるから職場に戻らねばならず、なにより暑さと疲労で、寄り道はしなかった。
やっとのことで馬庭駅に着いたら1時間に1本しかない電車は出たあと。
駅舎は昔懐かしい、小さな木造。
無人で、もちろんエアコンなどない。
乗客は朝晩の高校生しかいないのではなかろうか。
しばらくぼんやりていたが、せっかくなので歩いてみた。
歩いて5分、馬庭念流道場

馬庭の兵法家、樋口定次(1554‐1600)が家伝の新刀流を修めた後、たまたま念流の第7代継承者・友松偽庵が村に訪れた。定次の剣術仲間が偽庵に試合に負け、彼と定次は共に念流に弟子入りした。
定次は17年の修行の末、天正19年(1591)印可を授かり、慶長3年(1598)に伝書を受けて念流8世となる。こののち馬庭村で道場を開き、馬庭念流の開祖となった。

群馬県指定史跡・馬庭念流道場及び関係文書
とあるが、関係文書とは免許皆伝の巻物もあるのかな。

現当主は樋口定仁氏。平成10年1月18日、念流25世を襲名。
「見学される方は母屋の方に声をかけてください」とあった。
暑い盛り、人の気配がしない。
この分野の研究者でもなく、中まで見せていただく気はなかったし、声をかけて玄関まで出てきてもらうのも気が引けたから黙って帰ろうと思った。
しかし、昔懐かしい燕の巣があったので長屋門の中まで入って見て、ここまできて黙って帰られたら、覗かれたようで家人も気分が悪かろう。
そこで母屋にいってピンポンを鳴らした。普通の農家の家だった。中に人の気配はしたが、出てこられなかったので、ほっとして辞去した。
それにしてもスポーツとしての剣道があるなかで、念流を学ぶものはどれくらいいるのだろうか、と思った。門のある長屋が道場になっているようだが、盛んに使われている気配はなかった。

馬庭駅に戻る途中にも養蚕をしていたらしい農家があった。

上信電鉄で高崎に戻る。
佐野の渡しで烏川を渡る。
高崎城のすぐ西を流れてくるわけか。

謡曲『鉢の木』で、大雪の晩、旅の僧のために大切にしていた盆栽を火にくべて暖を作った佐野源左衛門尉常世は、下野、佐野荘(栃木佐野市)あたりにいたとされるが、ここ高崎市の南、佐野の渡しのという説もあるそうだ。

群馬県というのは国道沿いに食堂が並び、車が多い埃っぽいところと思っていたが、だいぶイメージが変わった。
1.東京埼玉と比べて、人々は非常に親切である。
2.信州と比べて、自然が豊かで農村が昔の姿をとどめている。


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