2018年6月10日日曜日

総持寺、鶴見大学、鶴見事故

住んだのは東京から埼玉方面ばかりで、南のほうは用事がないと行かない。
梅雨に入ったというのに、都心で初の真夏日、
鶴見駅に初めて降りた。
2018-06-09
駅からすぐ。
ずいぶん立派な参道。

参道入り口の看板を見れば、三門、仏殿、太祖堂などより、体育館、2号館・歯学部、4号館、図書館などのほうが目立つ。
境内案内図というより、大学キャンパス案内図である。

鶴見大学歯学部を持つ学校法人は鶴見学園だと思っていたら、総持学園であった。
曹洞宗大本山である。

最初の門、三松関
総持寺は能登において永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山であったが、1898(明治31年)火災で焼失。1911(明治44年)現在地に移転した。
門の名は、能登時代、龍の形をした三本の松があったことに由来。
横を見れば体育館

下校の高校生が上から歩いてくる。

こちらは学園部分を除いた境内図

明治時代に建てられたのだから、もともと古いものはないのだが、この山門(三門)は1969年落成の鉄筋コンクリート製。

平成救世観音。東日本大震災後に建てられた。

仏殿正面にまっすぐ続く参道だが、門(向唐門)は閉まっている。
菊の御紋があるのはなぜか?

総持寺は後醍醐天皇のとき勅願寺となったことから、勅使を迎える門をもっていたらしい。その名残か?

また仏殿の裏に御霊殿というものがあり、そこに後醍醐天皇の尊像、尊儀をはじめ、後村上天皇、後奈良天皇、後陽成天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各ご尊儀が奉安されている。

この門が開くのは、どういう時か?
仁和寺とか、智積院は、朝のお勤めに僧たちが下から上がってくるとき、管長、貫主など偉い人は真ん中を歩き、一般僧は端を歩くようだが、ここは僧たちは横の侍局に寝泊まりし、太祖堂を通って仏殿に入るようだから、この門を通らない。

脇から回って向唐門をみる。
向かい唐門というのは、唐破風が正面と裏に見えるものをいうのであって、普通名詞のはずなのに、ここでは固有名詞のようになっている。

中雀門(向唐門の突き当り)の西、玉兎門から入る。

百間廊下
鶴見事故の時、ここに死者を仮安置した。
今でも土間部分に水で二本の線を引き、犠牲者を供養するという。

鶴見事故というのは、1963年(昭和38年)11月9日21時40分頃に鶴見駅付近で発生した列車脱線多重衝突事故。
貨物列車が貨物線で脱線、架線柱に衝突し、となりの東海道線上り線に入った。そこに上り列車が衝突、その車両がはじき出されて下り線にはいり、下り列車も突っ込んだ。死者161人の大惨事。

総持寺には、鶴見事故のほかに桜木町事故(1951年、焼死者106人・重軽傷者92人の列車火災事故)の慰霊碑もある。
仏殿前で上半身裸で日光浴をしている人がいる。
ずいぶん開かれたお寺だ。

仏殿。
木造なら鎌倉時代も明治時代も同じような古さに見える。


裏の墓は大きなものが多い。

石原裕次郎の墓。
表札が裕次郎というのはサービスしすぎだ。

良い子供の遊び場になっている。
約50万m2あり、横浜市鶴見区の広域避難場所の1つ。

6月9日、なんで総持寺に来たか?
叔父の意識不明が長引き、その状態に慣れてしまった我々が、叔父の子供のころ暮らした大森に行ってみようと思い立った。
大森というのは、彼の叔父、すなわち私の祖父の弟・友次郎が、シナノ薬品という会社を興した場所。
彼は子供がいなかったので、昭和7年生まれの叔父を養子として取った。
小学校途中で長野から上京した叔父は、戦時中、将来医者になるべく大森から雑司ケ谷の獨協中学に入ったが、既に戦争末期、勉強せず毎日墜落飛行機からボルトとナットを外して集めていたという。
大森の会社は大学病院に卸すほど大きかったが倒産。
叔父は上級学校に行かず時計、宝石の卸売り商になった。
大森は私の父が戦前、長野からきて小学生一人で毎日東京見物したとき拠点としたし、叔母たちもしばしば訪ねた場所である。

この日、長野の歴史散歩好きの私の弟と、横浜の叔母と3人で来たのだが、予想通り、当時のものは何もなく、番地通りの現地についた途端、(これも予想通りに)さてこれからどうしようかという状態になった。
大森は見るものが何もない。
79歳の叔母をつれて都心に行くのも大変。
行ったことのない名所をいろいろ考え、その中で彼女の帰る途中の鶴見・総持寺に来たのである。

田舎者の弟、一度も仕事をしたことのない叔母。
無計画で、まったく時間を気にしない二人と一緒に、久しぶりに仕事も叔父もダンスも家族も、すべてを忘れた一日であった。


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