8月13日、上野から長野まで、各駅停車の旅は続いている。
線路のなくなった碓氷峠は連絡バス。
横川駅発 8:10、軽井沢駅着 8:44
昔の列車でも17分かかったから、あまり変わらない。
軽井沢は通過するところなので駅に下りたことはほとんどない。
木内文之氏(1987)、由井克之氏(1988)の結婚披露宴(プリンスホテル)以来か。
当時は橋上駅ではなく、北口しかなかった。
不動産屋など店舗がぽつぽつ、冴えない駅前だった。
駅の南はゴルフ場だっただろうか、なにもなく、南に行くには西の踏切までぐるっと回らねばならなかった。
軽井沢駅からしなの鉄道に乗る。
かつての信越本線。
1997年10月長野新幹線が開業でこの路線は第3セクターとなった。線路も完全にここで切れ、上野・長野を行き来する旅行者とは縁が切れた。
地元のためだけの鉄道となる。
しかし、東北信の人々にとってこの路線と各駅は、明治以来特別だった。
そもそも「信濃の国」の結びとなる6番の歌詞は、まさに碓氷峠と信越本線を詠んでいる。
吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山
穿つトンネル 二十六 夢にもこゆる汽車のみち
みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い
歌詞の作られたのが、軽井沢・横川間の鉄道開通のすぐ後ということもあるが、26の隧道の出口、明かりの先に東京があるという事実に、立身出世主義というか、若者への激励を読み込んだ。
「みち一筋」をかけ言葉のように使う浅井烈の歌詞は好きだ。
正反対の自堕落な人生を送ってしまったが。
物心ついて碓氷峠、26のトンネルを越えたのは1974年夏の大学下見が初めて。
たぶん長野発 10:04 の急行信州3号。
年が明けて75年3月の大学入試でもこの列車に乗った。
驚いたのは、それまでどんよりとした曇り空に枯れた樹木、残雪、白と黒だった景色が、いくつかトンネルを越えて群馬県に出たとたんに、乾いた土に降り注ぐ日差し、ところどころに緑の見える畑に変わったことである。
教科書どおり、屏風のような山脈が太平洋側と日本海側を区切っていることを実感するとともに、これからの不安と期待を思ったものだった。
そんな記憶と関係なく、44年後のこの日は、軽井沢というのに東京のような暑さ。
しかも軽井沢発長野行きという多くの思い出とは逆方向の、朝 8:52発。
これでは情緒が半減するが仕方ない。
地元高校生やら別荘滞在らしい老夫婦やら、乗客はいろいろ。ワンマン運転。
1 軽井沢 8:52
2 中軽井沢(父は沓掛といった)
3 信濃追分4 御代田 (旧小田井宿)
5 平原
6 小諸着 9:14
平原(1952開業)以外の駅は中山道、北国街道の宿場に一致する。
上州の日差し・乾いた土とともに信越線で覚えているのは胡桃林。
北側の窓は浅間、南側に座ればクルミの林。
いまもクルミの樹は民家の脇など所々にあるのだが、林(畑)になっていない。
思えば40年も前のことだ。人と同じ。
老木で伐採され、蔬菜畑になったか宅地になったか。
小諸駅9:18
駅のロビーが野菜売り場
懐かしの懐古園、小諸城による。
駅は北東向き。
大きなビルもなく、かといって古い建物もない。
9:21
小諸城址は別ブログ
城内ぐるっとまわって、駅に戻り切符を買うと長野行き発車まで数分あった。
急いで大手門を見に行く。
9:56
地方小都市の駅前はどこもさびれている。
こうしてみると三の丸と二の丸の間を鉄道がとおっている。
そこから北が市街地になったようだ。
9:58 大手門
急いで戻り、長野行きに乗る。6 小諸発 10:03
7 滋野駅
8 田中駅
9 大屋駅
10 信濃国分寺駅
11 上田駅
滋野、田中あたりはかつて東部町と言った。
2004年に東御市ができたと聞いたとき、東部町と御代田町が合併したと思ったが、間に小諸があった。「御」は北御牧村だった。
信州を離れて44年、各駅停車に乗ったのも35年以上前。
この間に頭の中の御代田の場所を訂正する機会がなかった。
信濃国分寺なんていう駅は初めて聞く。2002年開業。
鉄道も地元密着企業になったから、自治体が資金さえ出せば新駅は造りやすいようだ。
上田を出ると河岸段丘の上に見えた上田城のやぐらは健在だが、新幹線のコンクリートが景観を損ねている。新幹線からはよりよく見えるということか。
12 西上田駅
13 テクノさかき駅
西上田を過ぎると北側から岩山が迫り、国道18号も信越本線も千曲川に落ちそうな狭い間を通る。
新幹線も高速道路もトンネルで通過するから、この急峻な岩盤、すっかり忘れていた。
テクノさかき?カタカナとひらがなの駅は1999年開業。
新幹線に乗っていると気づかないことばかり。
10:37
中央の三角の山は中野から車で上京するとき千曲川に向かって切り立っている。
父は武田信玄ののろしの山だといったが史実は知らない。
10:38
西上田の崖と坂城のあいだ、川の向こうに寿製薬。
昔と同じように社屋に看板。
右(北)が「コトブキ製薬」、南が「研究所」と見えた。
1980年夏、薬学の修士2年、まだ長野での就職を考えていた。
当然帰省するたびに車窓から見ていたこの会社が第一候補だった。
研究室の海老塚先生の同級生富山格氏が社長。
長野高校の先輩で千葉大薬学をでた本堂まなみさんがここに就職されていることを知り、長野駅でお会いして話を聞いたことがあった。
会社の募集パンフレットを見ると研究所のところに備品一覧があって、
「・・・、凍結乾燥器、合成用具一式、・・・」とあった。
写真ではNMRなどもありそうな感じだったが、この書き方はない。
社屋の写真で看板が「コトブキセイヤク」「ケンキウジヨ」とあるのをみた友人は、止めた方がいいと言った。ケンキュウジョなら良かったのだろうか。
夏休み中、実験の合間に短パンのまま就職担当だった広部雅昭先生の教授室を訪ねた。
「信州なら寿製薬よりキッセイ薬品のほうがいい。小林通洋(ツウヨウ)は僕の友人だ」とおっしゃった。
そうこうするうちに研究室の先輩、田辺製薬の中野さんがリクルートに来て、そのまま決めてしまった。のどかな時代である。
15 戸倉駅
16 千曲駅
坂城駅のあたり、国道18号は堤防のようなところを走った。
そこにドライブインがあり、すぐ裏が千曲川だった。水たまりで大きなハヤを二回くらいつかまえたことがある。
いま高速道路のサービスエリアはどこも同じで便利、安心だが、昔は特徴あるドライブインがけっこうあった。東部町の「ルート18」とか懐かしい。
千曲駅も聞いたことがない。2009年開業という。
簡易委託駅で、千曲市が窓口業務を行っているらしい。
千曲市は2003年 更埴市、更級郡上山田町、埴科郡戸倉町が合併してできた。すべて更級郡と埴科郡なのだから郡名・歴史を残すためにも更埴市のままでも良かったのに。
17 屋代駅
18 屋代高校前駅 2001年開業
新駅、屋代高校前駅をすぎ、千曲川を渡ると右から新幹線の高架がきて、そのまま長野駅まで並走する。
新幹線で何回通っても、下に在来線が通っているとは知らなかった。
一方、在来線の人は毎日鬱陶しいものが上にあることを感じている。
19 篠ノ井駅
20 今井駅 1997 開業
21 川中島駅
22 安茂里駅 1985無人駅として開業
23 長野駅
今井、安茂里と昔はなかった駅をすぎ、裾花川をわたるとマルコメ味噌、
長野駅は 11:07着
上野を 5:13に出たから6時間。
途中横川、小諸で散策しなければ昔のように5時間くらいかもしれないが、碓氷峠バスが1日4便しかなく、移動には使いづらい。
運賃は4420円、1時間40分の新幹線より3000円ほど安いが。
長野も猛暑。
長野電鉄の発車時刻までうろうろする。
11:24
お寺のような、大きな屋根の駅舎もよかったけどな。今は機能重視の真四角。
隈研吾のデザインは、近くで見ないと木材を使ったことが分からない。
長野電鉄の改札前、野菜販売所。
切符改札の駅員さんにお金を払うと袋に入れてくれる。
11:37 長野電鉄地下ホーム
地下になったのは上京して6年経った1981年3月。
地上駅だったころの景色をなんとか思い出そうとするが出てこない。
高校の最寄り駅は本郷か飯山線北長野駅だったから、あまり降りなかった。
しかし記憶は脳のどこかにあるはずだ。
信州中野、岩船の実家到着は12:45
猛暑。
老母のかわりに、弟夫婦がおやきをふるまってくれた。
別ブログ
20190817 横川からバスで碓井越え20190819 懐古園の地形
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